理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

145 古代出雲の実像と出雲神話


   <青蓮院門跡跡>

 古代出雲については、第65回・第98回ブログで少しばかり言及しました。
 今回、5世紀の状況を中心に、1世紀頃から7世紀頃までを通史的に深掘りしてみます。
 過去のブログで言及した出雲関連記事の一部について、その後の検討の結果、不具合部分が判明したので、あわせて訂正したい。

 『記・紀』の出雲神話は、ヤマト王権の手で構想された出雲国の服属の経緯を記した物語ですが、『出雲国風土記』の神話は、出雲の視点で描かれた出雲の国づくりの物語といえます。

 双方を見比べ、古代史として汲み取れる部分がないか、また史実は如何様であったのか、考古学の知見を参考にしながら纏めてみたいと思います。

八束水臣津野命による国づくり
 まずは『出雲国風土記』から。

 『出雲国風土記』を読み込めば、野城(のぎ)・佐太(さだ)・熊野・所造天下大神大穴持(あめのしたつくらししおおなむち)の四大神の存在が浮かび上り、それを地図上に落とし込めば宍道湖周りに四大神が分布していることが分かります。
 しかし、出雲の原初の神といえば、八束水臣津野命(やつかみずおみづぬ)を外すわけにはいきません。

 ヤツカミズオミヅヌは、他の文献ではほとんど触れられていませんが、『出雲国風土記』の中では、出雲の国を造った主神として登場します。
 有名なのが国引き神話ですね。

 これは、古代の出雲国は土地が小さかったため、新羅や北陸地方などから余った土地を4ヶ所引っ張ってきてつなぎ合わせ、現在の島根半島をつくったという内容です。
 引き寄せた土地をつなぎ止める綱が、「薗(その)の長浜」(稲佐の浜から南に続く海岸)と弓ヶ浜、綱をつなぎ止める杭が、三瓶山と大山とされています。
 実にスケールの大きな神話です。

 国引きは出雲郷から始まって、東の方へ移動していき、最後の地を伯耆大山に留めて国引きを終え、その地に杖を立てて「おえ」と言ったので、そこが「意宇」という地名になった、というものです。

 ヤツカオミヅヌは国づくりの神として、その後に登場するオオナムチは天下(あめのした)を造った神として、対になっています。

 島根半島の地形図をじっくり眺めていると、「国引き神話」が太古の昔の真実であったかのように思えてしまいます。


  <国土地理院のデジタル標高地図を改変>

 日本一長い半島は佐多岬半島といわれますが、島根半島は東西65キロもあるので実は隠れた日本一なのでは。そこには高さ200~500メートルの丘陵が連なっていますが、その丘陵は最低でも3つないし4つの塊に分かれて見えます。したがって、縄文海進の頃の島根半島は中国山地側から切り離されて3~4分割された島だったのではないかと……。
 しかし、地形や地質学の面からは、島根半島が3~4分割された島々であったことは、どうもないらしい(第65回ブログ参照)。


<須藤定久氏の著作を一部加工して転載>

 では、この国引き神話はいつ頃から語られ作られたものでしょうか。諸説ありますが、可能性が高いのは、6世紀頃、出雲東部を基盤としていた意宇氏が出雲西部に進出して出雲全域を支配下に治めた頃と考えられます。

 『出雲国風土記』の記述は、各郡の内容が一定の順序に従って記されているが、「国引き神話」だけは、各論である意宇郡の条に織り込まれています。
 出雲国全体の国土創世神話であれば、「意宇」の地名が含まれていたとしても、『出雲国風土記』の冒頭の総記の項目に置かれるのが順当。
 しかし、意宇部の条に国引き神話が置かれていることは、当時国府が置かれていた意宇郡にあって筆頭の地位にあり、『出雲国風土記』の最終的な編纂責任者であった出雲国造の権威づけ的な面が強い。

 ヤツカオミヅヌは国づくりの神として、その後に登場するオオナムチは天下(あめのした)を造った神として、対になっています。

 しかし『記・紀』に頻出するオオクニヌシという名は、たったの一度も出てきません。おそらく出雲にはオオクニヌシなどという神は存在しなかったのではないか。
 オオナムチの次に多く登場するのはスサノヲですが、スサノヲとオオナムチの系譜関係を示す記事もないため、二人の系譜関係は出雲の神話世界にはもともとなかったとみるべきでしょう。『記・紀』の神話とは全く異なっています。

 ちなみに『出雲風土記』の出雲神話には有名な国譲りの話は載っていません
 したがってタケミカヅチやフツヌシ、タケミナカタやコトシロヌシといった神々も登場しません。

 オオナムチは自ら、自分が造った国を皇御孫命(すめみま)が治めるところとして統治権を譲り、出雲国は自分が鎮座して守ると宣言していて、国譲りの条件として高層神殿を要求したことが読み取れません。
 スサノオとヤマタノオロチの神話もなければ、因幡の素兎の記事も載っていません。

 載っていないのは、出雲の人々がその土地で、この話を語っていなかったからで、話そのものはむしろ大和で成立したことが想定できます。その舞台が出雲とされていることは、なにがしかの政治的歴史的理由によるのでしょう。以下に順次検証していきます。

 次に『記・紀』の国譲りの実態について検証してみます。正確には、『記・紀』の記述にも国譲りという字句は存在しません。

 

国譲り神話
 第98回ブログで言及しましたが、「記・紀神話」では、オオクニヌシがアマテラスに屈し「国譲り」する様が描かれ、歴史時代に入っても出雲振根(いずもふるね)と飯入根(いいいりね)の確執などがありますが、そこに登場する地域はすべて出雲西部です。

 『日本書紀』崇神60年7月には次のような記事が見られます。

 崇神が「天から持ってきて出雲大社に納めた神宝を見たい」として献上を命じたところ、神宝を管理していたイズモフルネが筑紫に行っていて不在だった。そこで弟のイイイリネが、イズモフルネに無断で神宝を献上してしまう。筑紫から戻ったイズモフルネはイイイリネを責めて謀殺するが、崇神はキビツヒコとタケヌナカワワケを派遣してイズモフルネを誅殺した。

 そこで4世紀に、ヤマト国が、統制が弱くまとまりに欠けた西部に、軍隊を派遣してくさびを打ち込んだというシナリオが浮かび上がります。大和から丹後経由で日本海に進み、海路で日御碕(ひのみさき)に達し、また同じ頃、大和と交流のあった吉備の勢力が南方から山越えで斐伊川流域に進出したとも考えられます。これを「国譲り神話」のキビツヒコ派遣伝承とみる向きもあるようです。

 また、もう少し下ると、『古事記』の景行の時代にイズモタケル伝承があり、簡単に纏めると次のような物語です。
 ヤマトタケルは景行の命で筑紫のクマソタケルを討伐したのち、帰途に出雲に立ち寄り、そこにいるイズモタケルをだまし討ちで成敗した。そして倭建命は次の歌を詠んだという。
 <やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 黒つづら さわまき さ身無しにあはれ>。

 『日本書紀』には出雲建に関する記述はないが、同工異曲の説話として『古事記』のイズモフルネとイイイリネの物語に似た話があります。
 その中では、<八雲立つ 出雲武(イイイリネを指す)が 佩ける太刀 黒つづら さわまき さ身なしにあはれ>という歌が詠まれています。
 まったく同じ!

 これらを出雲の国譲りの第一幕・第二幕とする見解もあります。しかし、3世紀後半以降5世紀頃までの出雲西部は衰退し、イズモフルネやイズモタケルが統率していたことは考えられません。

 イズモフルネを、筑紫と通交していた出雲西部の王と見なし、イイイリネを出雲東部に勢力を張った意宇の王とする説は人気がありますが、とても同意できるものではありません。
 これらの物語は、おそらく5世紀後半以降に整えられたものと思われます。

 8世紀以降に編纂された『記・紀』や『出雲国風土記』とは500年ほども隔たりがあるため、出雲の史実がそのまま反映されているとはとても考えられず、出雲古代史の実像はかなり異なると理解すべきです。

 以下、考古学から得られた知見も踏まえて、古代出雲の実像に迫ってみます。

 

3世紀頃までの出雲西部
 西部地域の斐伊川下流域では、紀元前1世紀から3世紀前半までは 潟湖に面した山持遺跡、3世紀後半からは、神戸川に面した古志本郷が栄えます(第64回・65回ブログ)。
 これらの地に形成されたクニグニは、朝鮮半島を含む九州北部や東方の山陰・北陸の諸地域とも通交し、日本海交易ルートの要として隆盛し、さらには必要に応じて南方の吉備とも接触していました。
 古代出雲の西部の勢力は広い交流圏を持っていたと思われます。

 一方、荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡などが残され、紀元前からの青銅器文化の繁栄をしのばせます。
 荒神谷遺跡からは、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が同じ場所から出土しました。全国で出土した銅剣の数をはるかに上回る大量の銅剣が整然と4列に並べられた状態で出現しました。
 加茂岩倉遺跡からは銅鐸39個が出土しました(1984~1985年)。
 358本の銅剣は形式が単一なので同一地域で作られたことは確かで、しかも出雲で作られた可能性が高いとされています。

 これらの遺跡の発見により、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭されました。
 これら青銅器の製作時期は紀元前2世紀頃かとも推定されていますが、埋納時期は紀元前後から後1世紀頃までとされているようです。

 出雲地方で「式内社」とされた神社の総数と、出土した銅剣の本数との奇妙な一致に関連して、荒神谷遺跡に関与した王が出雲全域の祭祀を統括していたかのような珍説もありますが、この時期の出雲地域には、九州北部と同様に様々なクニ・ムラが散在していて、統合の流れはこれから始まるというタイミングです。

 確かに、紀元前後の出雲地域が九州北部と肩を並べる青銅器文化の先進地域であることが認められますが、これをもって「出雲王国があった!」と、いわゆる「王国」という言葉を使って、2世紀頃までの出雲に、全域を支配するような単一の権力があったかのように考えるのは完全な誤りです(第65回ブログ)。

 それはともかく、銅鐸や銅剣が大量埋納されたことをもって青銅器祭祀が終了したのは事実のようです。1世紀末までのことです。

 この大量埋納を隠匿とみるのか、地母神に対する祭器埋納とみるか、配布を前提とした土中での一時保管とみるか、はたまた墓地への埋葬とみるのか様々な説が存在しますが、おそらく隠匿のために埋納したとみるべきでしょう。
 斐伊川下流域や神戸川に面したクニを構成する諸集落の衰退が隠匿に走らせたと思います。

 この要因として諸集落の内部崩壊ないし外的な影響のない自然衰退を挙げるのは適切ではなく、吉備勢力の進出による古墳文化の影響を指摘すべきでしょう。

 

5世紀頃まで吉備の影響下にあった出雲西部
 青銅器祭祀の終了後には王墓祭祀が始まったようです。

 2世紀には四隅突出型墳丘墓が出現し、以後、陸続と築造されますが、3世紀半ばの西谷9号墓を最後に突然途絶えます。その後、斐伊川下流域では4世紀後半まで古墳が築造されません。
 四隅突出型墳丘墓とは、弥生時代中期から吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態を言います。

 この頃から、吉備の勢力は直接的な影響力をもつほどに出雲西部に進出し活発に通交していたと想定できます。
 何故ならば、西谷墳墓群にある四隅突出型墳丘墓の木槨木棺構造は、吉備の楯築遺跡などとも共通し、吉備の特殊壺・特殊器台が搬入されたものが出土しています。これは2、3世紀頃の出雲西部と吉備の首長間に密接な通交が存在したことをまさに物語っています。

 吉備の勢力だけでなく、4世紀半ば頃、統制が弱くまとまりに欠けた西部に、ヤマト王権(「さき」の王権)が物部や和珥(の先祖筋)の勢力を派遣して日御碕(ひのみさき)辺りに交易拠点を設けます(第65回・99回ブログ)。山城から丹後に抜け、日本海を西進して出雲西部に取りつきました。出雲西部のクニグニの協力を得て、九州北部や朝鮮からの文物の入手に努めたわけです。

 まとまりに欠けていたとは言え、4世紀の時点でも、ヤマト王権が日本海交易路を優先的に利用できるほど出雲が弱体化していたわけではなく、なお日本海文化交流圏の雄として、ヤマト王権と対峙し得る勢力を有していました。
 ヤマト王権が本格的に出雲に圧力をかけるのは、もう2世紀ほど後の欽明の治世になってからのことになります。

 4世紀後半になると、松本1号墳や神原神社古墳(大型の前方後円墳)が築造されます。
 両古墳とも出雲東部の古墳とは異質で、粘土槨や床による葬法が当時の近畿や吉備の古墳の特徴を有している。吉備とヤマト王権が決定的な対立に入るのは5世紀末であり、当時の出雲西部の現実においては、それらの葬法の特徴は吉備からもたらされたと理解すべきでしょう。

 5世紀になると吉備勢力の出雲西部への進出・定着は本格化したと想定されます。
 いやむしろ、一時的とはいえ、吉備勢力に制圧されていたと捉えても良いのではないか。
 それが証拠に、部民制の本格施行は6世紀後半ですが、「吉備部」が神門郡朝山郷、日置郷、古志郷、多伎郷、神戸などの地で確認でき、古志郷の地には吉備部君氏の存在が認められ、それぞれ吉備の影響下にあった名残とみられます。

 下図で黄緑に着色した地域は、6世紀頃から急速に成長する神門氏の本拠となったところです。


<出雲西部の諸郷(門脇禎二氏の著作から転載)>

 しかし、5世紀末までのヤマト王権による攻勢で、吉備の勢力は弱体化(第133回ブログ)し、出雲西部から撤退してしまいますが、この空白を埋めるように、出雲西部には出雲東部を本拠とする勢力が及び、やがて出雲王国とも言うべき状況が作り出されます。

 しかし出雲西部では、東部の意宇氏による出雲王国化に反発する機運が継続し、6世紀の欽明の時代になると、西部の神戸川下流域において急成長した神門氏は、出雲平野に進出した物部系の勢力や南方から山越えして進軍してきた蘇我系の日置伴部らの勢力と積極的に連携するようになります。
 その前に、東部の状況を確認してみます。

 

出雲東部の状況
 西部地域は、今の出雲市を中心とする斐伊川下流域や神戸川付近を指すのに対し、東部地域は、意宇川周辺を中心として、安来市、米子市、大山町や、勾玉づくりの玉造のあたりまでも含みます。

 3世紀頃までの出雲東部にはいくつものクニ・ムラに相当する集落があり、これは西部の状況と同様です。九州北部で奴国・伊都国・早良国と呼ぶが、筑前と呼ばないのと同じです。

 伯耆地域では、紀元後1世紀から2世紀後半、米子からほど近い大山山麓の晩田山丘陵全域に、妻木晩田(むきばんだ)が防御性の高い大規模な高地性集落を展開します。妻木晩田のクニは伯耆から米子にまたがり、吉野ケ里の3倍(~5倍とも)の大きさがあったようです(第66回ブログ)。

 その後、意宇(おう)を中心とする出雲東部でも、2、3世紀から四隅突出型墳丘墓が出現します。中仙寺墳墓群、宮山墳墓群、塩津山墳墓群などです。

 また、古墳については、出雲西部で神原神社古墳が出現した4世紀後半頃には、出雲東部でも造山1号墳が築造され、以降、大型古墳が順次築造されていきます。

 5世紀頃までの東部では、熊野大神や神魂神(かもすのかみ)が崇拝されるなど、独自の文化が醸成され、同じ出雲でも東部と西部ではかなり歴史的様相は異なっていたと想定できます。

 その後、東部の勢力は意宇氏として成長し、吉備勢力の後退に伴なって5世紀末頃から西部に進出し、斐伊川下流域の出雲平野に形成されていた杵築大神の祭祀権も掌握し、(早ければ6世紀後半以降だが、おそらく)7世紀になって出雲氏として国造の地位につくことになります。

 以上を総括してみれば、3世紀頃までの古代出雲のうち、西部では西谷(にしだに)墳墓群を核とするクニ、東部では塩津山(しおづやま)墳墓群を中心としたクニが、近隣の中小勢力(小規模なクニやムラなど)を傘下においていたと思われます。
 しかしグリップは強くなく、様々なクニ・ムラが並立し、互いに交易していたと考えられます。西部ではその隙をつくように吉備が介入していった。これが古代出雲の実像です。

 

意宇の王が統治した出雲王国(?)の時代は5世紀末以降
 ヤマト王権に敗退した吉備の勢力が出雲西部から撤退すると、この空白を埋めるように、出雲西部には出雲東部を本拠とする意宇氏の勢力が及び、5世紀末から6世紀半ば頃までほぼ出雲全域をカバーする出雲王国の時代を招来します。
 国引き神話が作られたのはこの頃と考えられます。

 ところで、出雲王国の王とも目される意宇氏をどのように捉えるべきでしょうか。
 アメノホヒから始まる『出雲国造世系譜』は近世初期に作成された可能性が高いようですが、古代出雲を論じる場合にしばしば使われます。

 しかし、初世アメノホヒから14世までは『記・紀』の神話に基づいて作成された可能性が高く、確度の高い系譜は15世や16世の意宇足奴命(おうのそこぬ)以降とされるようです、オウノソコヌは『日本書紀』仁徳即位前紀に登場する淤宇宿禰(おうのすくね)と同一人物とみられますが、実際は5世紀後半から6世紀初め頃の初期の王と考えた方が良さそうです。

 当然、これらの始祖の王は、イズモフルネやイイイリネの説話とは全く異質の存在ということになります。

 5世紀後半以降、出雲西部からの吉備勢力の影響力が弱まった時期に、意宇の王が出雲西部へと領域を広げ、出雲全域の王となります。

 『出雲国造世系譜』からは、26世・27世に国造果安・国造広嶋の名が確認でき、果安の時に意宇から杵築の地に移転したという注記も読み取れます。

 

ヤマト王権の本格介入となった6世紀半ば以降
 5世紀~6世紀初めには、東部の意宇の王が西部を含む出雲全域を支配することもあったが、欽明の時代になると蘇我氏主導でヤマト王権が本格的に介入したようです。そして6世紀半ば以降の国造制導入によって出雲全域がヤマト王権の影響下に入ってしまうわけですね。

 『出雲国風土記』の神門郡日置郷には、
 <志紀嶋(しきしま)の宮に御宇(あめのしたしらしめ)しし天皇の御世、日置(へき)の伴部(ともべ)等、遺はさえて来り宿停(とど)まりて、政為し所なり。故(か)れ、日置と云ふ>
とあり、欽明の時に大和から役人が乗り込んできたことが読み取れます。

 また、意宇郡舎人郷の記事には、欽明の時に、地場の日置氏が都で大舎人として仕えたという記事があり、これは後に神門氏となる勢力が、吉備の方から山越えして神門川沿いに下ってきたヤマト王権の日置伴部と結んで、神門水海一帯をおさえたことを意味していると思われます。日置伴部氏は当時、ヤマト王権を主導していた蘇我氏の勢力を背景にした出雲進駐軍です。

 物部氏・和珥氏の祖先筋は、かつて4世紀半ば頃に、山城・丹波ルートや加古川・氷上を経由する円山川ルートで日本海に出て日御碕に取りつき、九州北部や朝鮮からの先進的な文物を大和の地につなげる役割を果たしていました(第99回ブログ)。
 彼らは6世紀になってもなお出雲に関与し続けました。あるいは姫路から佐用、立野、津山、勝山を経て出雲に至る「出雲街道ルート」が使われたのかもしれません(第45回ブログ)。

 5世紀末までの葛城氏が日本海から朝鮮半島に雄飛するために利用したルートでもあります(第125回ブログ)。


 <大和盆地から出雲までの諸ルート(門脇禎二氏の著作から転載)>

 おそらく欽明の時に、ヤマト王権傘下の豪族が進軍し、また王権の役人を派遣して、出雲国の東部(意宇郡)・西部(神門郡)をおさえ、新たな関係を築いたのでしょう。

 

6世紀以降の出雲
 6世紀後半になると、西部では今市大念寺古墳(前方後円墳)、上塩冶築山古墳(円墳)などが築造されます。
 大念寺古墳は、神戸川北岸で、出雲平野に突き出た台地の先端に築造された全長92メートルの出雲最大の前方後円墳です。
 同じ頃、東部では前方後円墳ではなく、山代二子塚古墳などの前方後方墳が集中します。この不思議!

 西部の神戸川下流域に大念寺古墳などの古墳群を築造したのは急成長した神門氏で、それらは蘇我氏が執政した大和や河内の古墳文化の色彩を帯びています。

 神門氏は、物部系の勢力や蘇我系の日置伴部らの勢力と連携し、その均衡の上に隆盛しますが、587年の丁未(ていび)の乱で、物部が蘇我の軍門に下ると、出雲全域は完全にヤマト王権の影響下に入ってしまいます。

 出雲地域は徐々に弱体化が進みますが、7世紀まで出雲として独立して繁栄し、完全に大和政権の支配下に入るのは、結果的に最も遅かった地域ということになります(第98回ブログ)。
 出雲の国譲りは神話上の話です。

 

 以上からトピックとなるような事象を西部、東部の別に纏めてみると……、

1世紀 
 西部 1世紀末まで 荒神谷・加茂岩倉遺跡 青銅器の大量埋納
 東部 2世紀前半まで 妻木晩田(高地性集落・四隅突出型墳丘墓)

2世紀 
 西部 2世紀後半から王墓誕生
 東部 2世紀後半から方形墳

3世紀 
 西部 3世紀初頭 西谷墳墓群(2~3世紀は吉備と密接な通交あり)
    3世紀半ば 9号墓で王墓は途絶 以後4世紀後半まで空白

 東部 3世紀 塩津山墳墓群 
    3世紀後半 中仙寺古墳群 宮山古墳群

4世紀 
 西部 4世紀後半 杵築にヤマト王権(物部氏)が足掛かり
          吉備勢力の進出本格化
          松本1号墳、神原神社古墳(前方後円墳)
 東部 4世紀後半 造山1号墳

5世紀 
 西部 5世紀後半 吉備勢力の衰退
 東部 意宇地域で熊野神・神魂神の創始

6世紀 意宇の勢力が西部に進出して出雲全域を勢力下に。国引き神話が作られる。
 西部 6世紀後半 今市大念寺古墳(前方後円)
          神戸氏と蘇我系の日置伴部との連携進む
 東部 6世紀後半 山代二子塚古墳(前方後方)

587年 丁未の乱(蘇我氏に物部氏が敗北)
7世紀前半 蘇我氏を派遣した大和が出雲全域を掌握

 筆者が古代史を考察する場合、バイブルのようにしているのは、門脇禎二氏による次の言葉です。

 <神話に出雲のことがよく出てくるので、出雲の古代史を考える場合に、とかく神話を通して出雲を見るという見方が強くなるが、それだけでは困ります。神話以外の文献史料や遺跡、遺物も重視しなければなりません>。
 <考察の視角も大切です。たとえば日本国家の形成史を考えるときに、大和を中心にだけ見ていくのではなくて、各地方には地域独特の発展がある、そこから国家形成の動きを見たらどうかという考え方が重要。地方から中央を見る、あるいは地域独自の発展を見るという視角で見ると、今まで見すごされていたことにあらたに気づくということがある>。
 <これまでの出雲の古代史関係の論著に対する不満は「神話かぶせ」がひどすぎるということ>。
 以上、心したいですね。

 

飛鳥の地で大王を護る出雲の神々の不思議
 『記・紀』には「葛城の神々」が頻出し、これらの神々は出雲系だとも言われます。 さらには、「かづらき」地域には古くからアジスキタカヒコネ神を奉斎する出雲系の人びとが居住していたことは疑う余地がないなどとも言われます。
 しかし、古代に「かづらき」の地に出雲の勢力が進出していたとか、ヤマト国が発祥する以前、近畿地方には出雲王国があったなどという説は虚構です。
 出雲の文化が伝播した可能性はあるでしょうが、出雲勢力が大和盆地に進出していた事実は考古学的にもまったく認められません(第65回・80回ブログ他)。


 第126回ブログで「葛城の神は出雲系か?」と銘うって言及しましたが、今回、出雲の古代史を取り上げたので再度、確認してみます。

 このような論考が生じる原因は、『記・紀』の出雲神話にこれらの神が登場し、またオオナムチ(オオクニヌシ)の神裔の記事や平安時代の『出雲国造神賀詞』の文言にあると見られます。

 アヂスキタカヒコネはオオクニヌシと多紀理毘売命(たぎりひめ、宗像三女神)の間の子神なので出雲系の神とされているが、『古事記』では「迦毛大御神」、『出雲国風土記』では「坐葛城賀茂社」、『出雲国造神賀詞』では「葛木乃鴨乃神奈備尓坐」とあり、どう見てもこの神は葛城地方を本拠とする鴨氏の祭神と思われる。

 事代主神については、『古事記』においてはオオクニヌシの子神とされるが、コトシロヌシを祀る鴨都波神社の由緒には、「事代主神は元来、鴨族が信仰していた神であり、当社が事代主神の信仰の本源である」とあります。

 『延喜式』第8巻に記載されている『出雲国造神賀詞』は、7、8世紀における出雲と大和政権の関係を知る上で貴重な資料です。
 律令政治の中で大和政権が出雲国造に対して行った手厚い処遇が、出雲国造新任の儀式と「神賀詞」の奏上で、これは出雲国造以外では例の無い儀式です。

 賀詞(よごと、寿詞)は人が神に対して献上する言葉で、そこには次のような文言が書かれています。

 <大穴持命の申し給わく、皇御孫命の静まり坐さむを大倭國と申して、己の和魂を八咫鏡に取つけて、倭大物主櫛甕魂命と御名を称えて、大御和の社(おおみわ、大神神社)に、己の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築宮に静まり坐しき>。

 オオナムチが、自分の和魂(にぎみたま)を倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたま)の名で大御和の社(おおみわ、大神神社)に、自分の子のアヂスキタカヒコネを葛木の鴨の社(高鴨神社)に、コトシロヌシを宇奈提(うなて、河俣神社または鴨事代主神社)に、賀夜奈流美命(かやなるみ)を飛鳥の社(飛鳥坐神社または賀夜奈流美命)に祀って皇孫命の守護神とし、自分は八百丹杵築宮に鎮座した、と言うわけです。

 これを素直に解釈すれば、出雲の大神とその子神たちが、ヤマト王権の王の守り神の役を負っているということになります。それにしても何でこのような奏上が行われたのでしょうか。

 よく言われるのが、飛鳥宮ないしは藤原京の時代に、出雲の4神を、皇孫の「近き守り神」として都を囲むように鎮座させたというものです。

 しかし、現在に伝わる『出雲国造神賀詞』の初見の記事は、『続日本紀』が記す716年のものではなく、8、9世紀のものである可能性が高い。したがって、そこに書かれた内容は、出雲と大和政権の綱引きの中で、様々な思惑が入り込んだ結果の記述と判断すべきです。

 出雲全体にわたる政治体制がもっとも大きく変化したのは、8世紀初頭の10年間

702年 出雲国造(おそらく国造果安)が藤原京へ上京
706年 出雲国造の郡領(郡司)兼務
708年 国司忌部子首の着任

 『日本書紀』編纂者の一人に、出雲に最初に官人としてやって来た忌部首子首(いんべのおびとこびと)がいます。
 彼は、出雲に8年間在任し、国造の果安との間で幾多の応酬が繰り返されたが、結局、「天皇のみこともち」として着任した子首の出雲観が『日本書紀』編纂の際に出雲関係記事に大きく影響したとも考えられます。

 『出雲国風土記』に国づくりの神として登場するヤツカミズオミヅヌは取り上げられず、スサノヲは暴力の神として描き直され、しかしながら随所に出雲らしさも忍ばせながら国譲り神話が作られたのでしょう。

 出雲は、ヤマト王権の建国神話・国譲り神話をギリギリのところで受け入れながら、そこに出雲の神がヤマト王権の大王を守護することや、杵築の大社を高天原の神に建造させるなどの独自の主張を盛り込んで、出雲の神話世界の再構築を狙ったのではないでしょうか。
 国譲りの交換条件として出雲が所望した杵築大社は、高天原側のタカミムスヒが建造を指令するが、『出雲国風土記』では、オオナムチが天下を造ったのち、カミムスヒが国の皇神たちを参集してオオナムチの宮を築いたことになっています。
 現実の世界でも、杵築の大社はおそらく7世紀後半には完成していたのではないでしょうか。

 大和側が高層神殿を建造すると言っても、当時の大和にはそのような高層建築の技術があったどうか定かではなく、逆に出雲には日本海側に広がる巨木の文化を背景にした高層建築技術が存在した可能性さえあります。

 出雲国造が政治を離れて神事を担当するという祭政の分掌は既に8世紀初頭には行われていて、オオナムチが現実世界の政治を譲り、神事を担当するという祭政の分掌は出雲側にとっても決して不利な形での「国譲り神話」ではなかったのでは……

 ヤマト王権の勢力が拡大し、天の至高神をベースとする王権神話がつくられる中で、ヤマト王権がつくった神々の体系に、各地の八百万の神々が国つ神として括られていったのではないでしょうか(第16回ブログ)。
 神々の世界では、国つ神の頂点にオオクニヌシが置かれ、他の神はそのヒエラルキーに組み入れられてしまった。こうなれば、あとはどのような神話をつくることも可能です。
 こうして「かづらき」地域の神々も、オオクニヌシの和魂(にぎみたま)とともに、ヤマト王権の王を守護するという神話がつくられたに違いない。それはおそらく7、8世紀のことでしょう。
 これは7、8世紀の豪族の力関係が作用した結果と言えるのではないでしょうか。

 

結局、「出雲の国譲り」とは?
 以上の検討を踏まえたうえで、「出雲の国譲り」とはいったい何を意味するのか、纏めてみたいと思います。

 諸説あり難しい問題ですが、強いて言えば、7世紀になってヤマト王権に取り込まれた意宇地方の出雲氏が、西部へと重心を移動させ祭司者に特化していくプロセスが「出雲地域の国譲り」と言えるのではないでしょうか。
 出雲氏自身も奈良時代半ばには意宇を引き払い、出雲大社のある杵築に居所を移してしまいます。
 こうして、出雲氏が西進移住して祭司者に特化し、出雲全域がヤマト王権の支配下に入ってしまったわけです。

 「国譲り」は、ヤマト王権による日本各地への勢力拡大を、出雲を舞台にして象徴的にまとめ上げたものでしょう。ずばり神話です。
 そこに、多くの地方豪族のヤマト王権への服属が習合し、これらの豪族がそれまで祀っていた祭神が出雲系の神(国つ神)に位置づけられてしまいます。コトシロヌシ、タケミナカタなどです。
 オオクニヌシを「国魂」の象徴として祭り上げ、天つ神による各地の「国魂」の支配を正当化したのが「国譲り」の実体と言えそうです。

 

出雲の魅力
 しかし、国譲り神話の舞台とされた古代出雲は、ヤマト王権と戦って敗北した暗く閉鎖的な場所というよりも、日本海沿岸、東アジア諸国に向かって開かれた開放的な空間であって、実際はヤマト王権の成長を積極的に支える存在であったのではないでしょうか。
 だからこそ、ヤマト王権は出雲の掌握に長い時間をかけながらも全力を挙げたということになります。

 4世紀半ば以降、ヤマト王権は、日本海交易の最重要拠点で先進文化・先進技術の獲得に容易な出雲の地を重要視したが、一方で、常に出雲は日本海西方の制海権を持つだけでなく、新羅とも常に往来する勢力として意識し、実勢以上に強大な勢力として警戒し続けた。 

 ヤマト王権は新羅を仮想敵とする外交政策を展開していて、新羅の背後にある百済と結んでいたわけです。日本海西部に出るには出雲を避けて通ることはできない。 
 このため、一挙に出雲を直接の配下におくには長い時間を要し、6世紀の欽明の時代になって慎重な戦略をもって出雲攻略作戦は進められたということでしょう。

 ひと口に「国譲り」というが、出雲氏はしたたかに出雲王国をマネージしたし、4世紀のヤマト王権も、出雲東部まで影響力を行使できるほどの力を保有していませんでした。
 ヤマト王権が出雲全体を完全に支配下におくのは、九州北部への進出を企図してから実に3世紀以上もの長い年月を要したのです。出雲は4世紀半ば以降、徐々に弱体化が進んだが、完全に大和政権の支配下に入るのは、結果的に最も遅かった地域ということになります。

 6世紀頃までに意宇氏は建国神話としての「国引き神話」を創り、6世紀末から7世紀初めにかけて出雲国造の地位につくと、西日本海域の主神としてのオオナムチ神の体裁を整えていったと思われます。
 このオオナムチ神が、7世紀後半から末にかけての『記・紀』編纂の中で、出雲神話の国譲りとして、杵築の片隅に隠れたという物語になるわけです。

  現実に存在した古代出雲と、早くても6世紀中頃に原形ができ、7~8世紀以降に『記・紀』に収められた神話における「葦原中国」とを、同一次元で理解するわけにはいかないということですね。

 

  「5世紀までの古代史」については、今回までで一通りカバーしたので、いよいよ継体大王の登場する6世紀ということになります。
 しかしその前に、次回からしばらくの間、有名古社の創始と歴史について言及することにします。第16回ブログの結びで、「一宮」をはじめ個々の有名古社の創建・由緒・祭神・古代史との接点については、「状況の許す限り言及していくつもり」と宣言したので、その実行ということになります。

 

「有名古社の祭神や創始の状況とその変遷」を詳らかにする意義
 数多ある古代史の各論の中には、しばしば神社や祭神が弥生時代の頃から存在し、そのことを軸とした古代史が語られたりします。大きな違和感があり、筆者はこれを「トンデモ古代史」と呼んでいます。
 「違和感」を演出する主体は、古代史に関連するアカデミズム、ジャーナリズム、出版業界、利益誘導に懸命な町おこし……など多方面にわたります(第2回ブログ)。

 今の神社の姿を丹念に調べ、そこから古代や中世・近世の景色を描くと大きな罠にはまってしまいます。
 神社のスポンサーである豪族の興隆や衰微、また国府などの移動によって、神社は栄枯盛衰の波にさらされ、社殿は幾多の焼失・再建を繰り返し、多くの古文書は地震や戦火によって失われました。

 由緒書や伝承についても、長いあいだに何度も改変された可能性が高く、今に残るものから神社の創始の姿や古代史を解明することは本当に困難なことです。古代史を語る場合、今の神社の姿、由緒書きや伝承などの現代に伝わる表面的事象だけに頼ってはならないわけですね。

 神社は常に政治と不可分の関係にあったので、今の神社建築や鎮座地だけからは、中世以前の姿を知ることすらなかなか難しいといえます(第16回ブログ)。


 また、神社名と祭神名にこだわり過ぎると歴史の真実を見誤ります。
 神社・祭神が同名であることをもって、同一の政治や文化の勢力圏があったと即断してしまうのは無茶苦茶です。
 熊野神社が日本中にあるからといって、 熊野の勢力圏が、 つまりスサノオの勢力が日本中に及んだということにはならないでしょう。

 『日本古代正史』を著した原田常治氏は、丹念に全国1631の神社の祭神と伝承を調べ上げて、その結果から日本建国のプロセスを描き出し、『記・紀』では謎の神であったニギハヤヒを偉大な大王として祭り上げました。
 また小椋一葉氏も同様の検証を行い、『消された覇王』などの中で、スサノオをオオヤマツミ、タカオカミ、オオワタツミなどと同一神とし、ニギハヤヒもオオモノヌシなどと同一神であったとしています。 両氏のアプローチは「神社伝承学」と呼ばれ、 古代史ファンのあいだで人気があります。しかしこれらはトンデモ古代史であって、これに類した古代史は枚挙にいとまがありません。

 冷静に考えればわかることですが、神社の歴史は7世紀から遡ることはなく、しかも神社の祭神と伝承は古代から現代まで何度も変化しているのです。昭和や平成、令和の世に伝わっている今の神社の姿をいくら紐解いてみても、古代の姿、ましてや崇神以前の弥生の姿は再現できません。

 『記・紀』編纂の頃、今の有名古社のほとんどの祭神は、土地の名を冠した八百万神でした。「記紀神話」の成立後、 有名古社のスポンサーとなった豪族たちが、地場の神でなく「記紀神話」に登場する神々を祭神として祀っていったのです。
 祭神の書き換えです。

 当ブログは今回まで、古代史の奇説・珍説の類(いわゆるトンデモ古代史)を糾弾するため、神話や神社伝承に過度に依存することの弊害と誤りについて述べてきましたが、その補強の意味で、次回からしばらくの間、有名古社の創始と歴史について言及することにします。

 

参考文献
『古代日本の地域王国とヤマト王国』門脇禎二
「邪馬台国から古墳の時代へ」『古代史講義』
『出雲と日本海交流』池淵俊一
『海の向こうから見た倭国』高田貫太
『神話・伝承と古代文化』肥後和男
『古代出雲』前田晴人
『古代出雲』門脇禎二
『血脈の日本古代史』足立倫行
『古代出雲を歩く』平野芳英
『大和と出雲』森田喜久男
『新版 日本神話』上田正昭
『神話で読みとく古代日本』松本直樹
他多数