理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

150 住吉大社・住吉4社


   <住吉大社第二本宮・第三本宮> 

 今回は、三韓征伐で活躍したと伝わる神功皇后ゆかりの住吉大社と各地の住吉神社について言及します。

上町台地と住吉大社境内
 「住吉大社」は、大阪市南西部に南北に長い舌状の上町台地の南のつけ根部分にあります。そこから北側に向かうと「生国魂神社」、「四天王寺」、そして上町台地の最北端には大阪城や難波宮跡があります。
 古代は、上町台地の東側は河内湖、西側はすぐ大阪湾でした。
 今の当社は海岸から7キロほど離れ市街地に囲まれているが、古代は境内のすぐ西側まで海が広がっていたということになります。

 「住吉大社」は全国に数多ある住吉神社の総本宮です。
 境内の正面には路面電車の阪堺電軌が走る紀州街道があり、そこに巨大な石燈籠群が林立する様は壮観の一語です。紀州街道の反対側150メートルほどのところには南海電鉄の住吉大社駅があります。

 


  <紀州街道沿いに林立する灯籠群>

 西側にある広大な住吉公園は、かつては住吉大社の境内でした。参道はその住吉公園を起点に東に向けて続いています。
 巨大な石灯籠が林立する表参道に入ると、すぐに大きな正面鳥居と急勾配の反橋が見えてきます。反橋の上からは四角柱の住吉鳥居と幸壽門の眺めが素晴らしい。

<四角柱の住吉鳥居と幸壽門、右は住吉造の第三本宮>

 幸壽門をくぐれば本宮のある神域ですが、そこは多くの神社と違い明るく開放的です。密閉性の高い瑞垣や廻廊がなく、四つの本殿の周囲は戸板のような細長い朱色の木で囲われているだけで、ほとんどむき出しの本宮を間近に見ることが出来ます。

 明治政府の『近代神道祭式』で本殿の前に拝殿を構えるよう指示があり、多くの神社では本殿がほとんど見えない状態になってしまいました。御神体の鎮まる本殿を直接拝めず、前に立ちふさがる拝殿を通してお参りするのはいかにも残念なことです。当社では本宮がよく見えて有難い……。

 現在の本殿は近年再建されたものですが、建築様式の住吉造に古式を残しているので、4本殿とも国宝に指定されています。神社建築を分類すると、最古のものは神明造大社造ですが、流造は神明造から派生し、住吉造春日造と共に大社造から派生したものです。
 その住吉造ですが、本殿内部は手前と奥の2室に区切られています。
 本殿の柱、垂木、破風板は朱塗り、壁は白の胡粉塗りで、社殿に廻り縁を設けずに、朱色の細長い木で作られた低い瑞垣が囲んでいます。直線構成のシンプルなデザインだが、朱と白の対比が鮮やかで美的にすぐれた建築といえるでしょう。

 <社殿は朱と白の対比が鮮やか、右は神池と反橋>

 本殿は大阪湾に向けて、第三本宮、第二本宮、第一本宮と、三神の一柱ごとに社殿を縦列に並べた異色のレイアウトで、神功を祀る第四本宮だけは、いかにも後から付け足したように第三本宮の横に配置されています。
 西向きは大阪湾方向であり、当然海との繋がりの強さを表したものと言えるでしょう。

 境内奥の右寄りにある石舞台は、「厳島神社」、「四天王寺」とともに「日本三舞台」の一つとされ重文に指定されています。五所御前という面白いものもあるし、御神木の千年楠も立派な枝を広げています。「住吉大社」は美術・芸能面でも多大な影響を与えてきました。謡曲「高砂」の住之江然り、その他にも和歌の神として住吉三神が取り上げられたことは数多い……。

筒之男という名のワンセットの神
 住吉大社の祭神は住吉三神と神功皇后で、1柱ごとに社殿があります。
 事実上の1セットの神に対して社殿が夫々建てられているのは大変に珍しいことです。
 長門や筑前などの住吉神社の祭神が三神であることからも、元々の住吉大神は三神であったに違いありません。『記・紀』にも「三柱の神は、墨江の三前の大神なり。是すなはち住吉大神なり」とあります。

 それでは何故、そこに神功皇后が祀られているのであろうか。
 『記・紀』はその由緒を次のように記しています。

 神功皇后は新羅出兵の際、住吉三神の神威をいただき航海の安寧を得たことから、墨江の地に住吉三神の祭地を定め、皇后自身が「われ住吉の大神とともに相住まむ」として第四本宮に祀られた、と。
 勿論これは伝承であり、元々の第四本宮は、巫女を神格化した「ヒメ神」を祀っていたという説があります。

 実際、住吉大社の当初の祭神は住吉三神であって、7世紀後半になってから神功皇后が合祀されています。
 古代史を考えるときに神功はまことにややこしい存在で、豊前にある宇佐神宮も、当初は八幡大神と比売神の2座だけだったのが、平安時代の823年になって神功を合祀して3座にしたものです。

 『記・紀』では住吉三神の名は底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命であるとしています。底、中、上はそれぞれが海底、海中、海面で誕生したことを意味しますが、「ツツノオ」が何を意味するのかについて定説はありません。
 「筒之男」の「ツツ」はツツで一つの語とみるべきではなく、上のツは助辞と見て、下のツは港津の津と解釈して、つまり「難波の津之男」すなわち「住吉の港湾の守護神」という説が妥当に思えます。

 住吉三神については、塩土老爺とする異説もあり、住吉三神と神功皇后が夫婦の密事をしたという伝承が「住吉大社」には残されているようです。ここら辺は伝承なので、何分謎の領域になります。

伴造としての津守氏と住吉大社
 安曇氏や宗像氏は、先進地域であった朝鮮半島から鉄器をはじめとする文物の輸入に深くかかわることでヤマト王権の権力基盤の強化に貢献してきました。
 しかし6世紀になると、鉄の国産化が本格化して朝鮮半島との交易の重要性が薄れ、さらに562年、交易拠点だった伽耶が滅亡することで、海部を独占していた安曇氏の凋落が始まります。
 これに乗じて海部であった諸氏が台頭します。
 名古屋辺りを拠点に尾張氏、丹後には海部氏(あまべ)が、さらに膳氏(かしわで、後の高橋氏)が若狭や志摩を支配して王権への水産物供給者の地位を確立、安曇氏から派生した凡海氏(おおしあま)が丹後や周防を拠点に活動するなど、海の民を出自とした諸氏が豪族となっていきます。

 5世紀、葛城氏は、瀬戸内海を東進し大阪湾に構えた安曇氏と連携して水運・海運網の掌握に力を入れていた。ところが5世紀末になると葛城氏が雄略大王から狙い撃ちされて急速に没落。やがて中央での海人族の統率権は安曇氏から派生した凡海氏(大海氏)に移行します。

 天武天皇が大海人皇子(おおあまのみこ)と呼ばれていたのは、幼少期に凡海(おおしあま)氏に養育されたからと言われています。大海人皇子は尾張氏のもとで養育されたことから、当時の海部一族の伴造(とものみやつこ)であった凡海を名乗ったらしい。大海人は凡海のことです。
 壬申の乱では尾張の豪族たちが主力となって近江朝廷軍を破ったことは有名。この一事をもっても、凡海氏が天皇家といかに深いかかわりがあったかを物語っています。

 6世紀初頭には継体が中央に進出します。
 継体の盤石な政治基盤は、越前での実績を力の源泉として尾張氏・息長氏らの豪族と幅広く関係を結んだことによってもたらされた。そこで継体の中央進出にあわせて尾張氏系の豪族もこぞって中央に進出した。尾張氏系と近かった津守氏も当然のごとく大阪湾の住吉付近に進出します。
 そこで、安曇氏の後を引き継ぐように、津守氏は住之江津に拠点を構え、ここが後に住吉大社となるわけです。

 これをまとめてみると、住吉では当初、安曇族が海人族の神(底・中・表のワタツミ三神)を祀り、葛城氏のサポートを受けていた。その後、海人の神は津守氏による海神信仰に引き継がれていったということになります。神功皇后が合祀されるのはその後の7世紀になってからのことです。

  住吉三神は津守氏の氏神ではなく、津守氏は王権の伴造(とものみやつこ)として住吉の港湾管理にあたる一方で、神主として住吉三神の祭祀に奉仕しました。津守氏の氏神社は大海神社(だいかいじんじゃ・住吉大社の摂社)で、『延喜式』にも「元の名は津守氏人神」との記載がある古社です。

 津守氏の氏神と、字面が同じ凡海(大海)氏との間につながりがあるのかどうかはよくわかりません。

 安曇系が没落する中で、住吉三神の信仰は全国に広がり、津守氏も勢力を増し、外交・交易に手を染める有力な豪族として、摂津・住吉の他にも和泉、讃岐、豊前などにも分布していた模様。

 ところで津守氏は、尾張氏や丹後の海部氏と同じアメノホアカリを祖としています。こうした伝承から、安曇氏の海部独占から抜け出して台頭した海洋交易者たちは元来同根だった可能性があります。

 『日本書紀』神功皇后紀の伝説的記事を別とすると、確かな史料による「住吉」の文献上初見は『日本書紀』686年で、紀伊国国懸神・飛鳥四社・住吉大神に弊が奉られたという記事になります。
 特定氏族の氏神でない点では、住吉大社は伊勢神宮・石上神宮・鹿島神宮とともに、ヤマト王権に密着した神社として国家的機関の位置づけにあったと考える説もあります。
 国家神へと昇格した住吉の神は、遣唐使や遣渤海使の守護神としても信奉されます。神職である津守氏は、遣唐使や遣渤海使の主神をも兼帯しました。

 その後、ヤマト王権の重心が摂津から再度、大和地方へ回帰するにつれて、王権に占める「住吉大社」の地位も徐々に低下し、その後は一般庶民の神社として栄えて現在に至っています。

 摂津国には、この有名な住吉大社の向こうを張るかのように摂津国一宮を名乗ってきた坐摩神社があります。この際、「坐摩神社」にも触れておきたい。

 

坐摩神社(いかすり)
 「坐摩神社」は御堂筋本町のビル街の真ん中に鎮座しています。そこは、阪神高速一号環状線と13号東大阪線の交点近くで、境内の周囲には高いビル群が林立し、高速道路からも遮蔽され、まさに谷間にある窮屈な場所になります。

 道路に面した入口には三鳥居(みつとりい)が建っています。境内は狭く、いきなり拝殿が見えてしまい、ちょっとがっかりします。それでも境内右側には摂社群と拝殿を結ぶ廻廊があり、古色を残した佇まいに由緒を感じます。

 <左、三鳥居、右はビル群に埋もれる拝殿>

 入母屋平入唐破風をあげた拝殿の後ろには流造本殿が建っています。戦災で社殿は焼失し、現社殿は鉄筋コンクリート造り。本殿左側奥にはこれも珍しい「火防陶器神社」があります。その手前に立派な有田焼の燈籠が立っています。改めて拝殿の前に立って周りを見ると、まさにビルの谷間という感。押しつぶされそうな社殿が精一杯自己主張して懸命に耐えているかのような不思議な感覚を覚えます。

 鎮座地の住所は「大阪市中央区久太郎四丁目渡辺」という。丁目のうしろに渡辺がくる妙な表示です。当社は元々、淀川南岸の渡辺津、現在の天満橋付近で創始されています。国府も置かれていた摂津国の中心地でした。

 平安時代後期には源融の流れを汲む嵯峨源氏の源綱が渡辺津(渡辺の庄)に住み、渡辺氏を興しています。全国の渡辺・渡部等の姓の発祥地といわれる。その後、渡辺綱の子孫は摂津渡辺党と呼ばれる水軍として瀬戸内海で大活躍しています。

 16世紀末になって秀吉の大阪城築城のため現在地に遷座した。渡辺党の関係者も転居し以後渡辺町と呼ばれてきた。しかし昭和の行政区統合で町名の渡辺は消滅することに。これに「全国渡辺会」が強硬に反対、丁目の次の街区番号に「渡辺」の名を残すという苦肉の解決をし、これが妙な地名が生まれた経緯ということになります。旧社地には現在も行宮が残されています。

 さて、住所表示の次は社名の謎です。「坐摩」と書いて「いかすり」と読ませるのも不思議ですが、そもそも「いかすり」の語源は何であろうか。神社由緒略記によれば、土地又は居住地を守る意味の「居所知」が転じた名称とのことだ。

  祭神は坐摩神と呼ばれる五神です。
 生井神、福井神、綱長井神、波比岐神、阿須波神で、このうち前の三神は井泉の神で、ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神を意味します。

 坐摩神は神武天皇即位の時に宮中に奉斎されたのが起源とされます。
 また、宮中で行われる大嘗祭の「宮中八神」は、御歳神、高産霊神、庭高津日神、御食饌神、大宮売神、事代主神、阿須波神、波比岐神の八柱で、このうちの二柱が坐摩神と同じなので、当社の祭神は由緒ある神であることは間違いありません。

 由緒書によれば当社は、神功皇后が三韓征伐から帰還した際に、宮中に奉斎されていた坐摩神を旧社地(現在の行宮)に祀ったことに始まるとしています。神功皇后の実在性は置くとしても、宮中に祀られていた神が当社旧社地に遷されたのは事実でしょう。

 「住吉大社」に伍して、当社が摂津国「一宮」を名乗ることが出来たのは、先に言及した摂津渡辺党の水軍力によります。13世紀頃の当社は五連の本殿を擁する威容を誇っていたので、ハード面からも摂津一宮の体裁を保持していたことは間違いないでしょう。
 渡辺党は摂津国住之江で行われていた「八十島祭」に従事しています。
 昔、難波津の辺りには大小多数の島があり、これらの島々を八十島と呼び大八洲に見立てた。「八十島祭」は即位した天皇の御魂を振り、「天下の八十島は天皇の支配する国である」ことを再確認する皇位継承の儀式であり、鎌倉時代中期まで続きました。それは渡辺党の水軍力を象徴するイベントでもあった。
 渡辺党は海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に多くの渡辺氏の支族を残したとされます。

社殿の造形が見事な住吉神社(長門国一宮)
 長門国の一宮とされる「住吉神社」は周防灘からは山を一つ越えた山陽新幹線新下関駅のほど近くに鎮座しています。地名は下関市一の宮住吉。
 豊かな樹叢に囲まれた境内には、白い大鳥居がでんと構え、著名な「一宮」であることを感じさせてくれます。

 大鳥居の左側に変わった立札が立っていた……。
 茶色の三角形が五つ横に並び、その下に赤い三角形が一つ、上に赤い水巴が一つ描かれています。これは本殿(水巴)が国宝、拝殿(赤い三角形)が重文であることを示すと同時に、五連の本殿(茶色の三角形)の祭神を説明したもので、案内板の傑作中の傑作といえるのでは。

 大鳥居をくぐり参道を奥へ進むと、太鼓橋の先の階上に楼門が見えてきます。朱色の絢爛豪華な楼門は天井にも細工が施され、左右の随身像も見事。
 楼門をくぐれば、「住吉神社」の真骨頂である素晴らしい社殿を目の当たりにし感動も最高潮になります。

 縦長拝殿は切妻妻入だが屋根にはやや反りがあります。舞殿風で下部は吹き抜けとなっている。朱色の梁から鈴紐が五本下がり、これが良いアクセントになっています。
 拝殿には「住吉荒魂本宮」と朱書された扁額がかかっています。
 本殿は、九間社流造の一棟建て横長本殿が千鳥破風を五つあげているということになります。この特異な形だけで国宝の資格は十分でしょう。縦長拝殿と横長本殿の組み合わせは得も言われぬ美的なハーモニーを感じてしまいます。至上の美学で貫かれた社殿群といえるだろう。

<縦長拝殿、 右は九間社流造の一棟建て横長本殿>

 祭神は向かって左端から、住吉大神荒魂、応神天皇、武内宿祢命、神功皇后、建御名方命。
 神話では、神功皇后が三韓征伐の時に住吉大神が現われ、その神助で勝つことが出来た。その神恩に感謝して住吉大神の荒魂を祀ったのが当社の創始とされています。

 当社社殿の右方から後方には豊かな樹叢が広がっており、常緑広葉樹が主体だが、特に本殿の東にある大楠の古株は見事。タケノウチノスクネお手植えとの伝承があるのが面白い。

 「一宮」としての住吉神社は三社ありますが、創始は、伝承では筑前、長門、摂津の順となります。
 『古事記』によれば、神功皇后は、住吉大神の和魂を体に、荒魂を水軍の先鋒とし、朝鮮半島に渡航した。その荒魂を新羅に鎮め、壱岐国に「住吉神社」を創建した。そして筑紫に凱旋した時に筑前国に(筑前の住吉神社創建)、また長門の豊浦宮を拠点にした時には穴門(長門)の山田の地に住吉三神の荒魂を祀り(長門の住吉神社を創建)、さらに難波に進攻した時には、目的達成の御礼に摂津に創建(住吉大社)したという。尚、「住吉四社」というときは、「一宮」の三社に壱岐の「住吉神社」を加えるようです。

 

住吉系神社の源流とされる住吉神社(筑前国)
 今の社地はビルが立ち並ぶ市街地の中にあって、すっかり町中の神社の趣です。しかし古代の博多は海が深く湾入していて、当社はその入江に突き出た岬の上にありました。この辺りを「儺ノ津」といい、朝鮮半島や大陸への海の表玄関でした。
 こうした立地からも、当社が古代より海の守護神であり航海の神であったことが読み取れます。

 緑濃い参道の奥に、ニノ鳥居、その奥に朱色の神門が見える。「あおによし」の色彩をまとった神門の先には、朱色の拝殿が左右を緑の杜に埋もれさせて美しい。
 本殿は住吉造で、内陣は前後二室に分かれ摂津一宮の「住吉大社」と酷似しているようです。瑞垣の外には、摂津一宮には無かった玉垣がしっかりと囲んでいて、参拝者は近づけず、解放感に欠けるのがまことに残念。


       <住吉神社拝殿>

 祭神は底筒男、中筒男、表筒男から成る住吉三神で、相殿にアマテラスと神功皇后が祀られ、あわせて住吉五所大神と呼ばれています。

 当社は住吉系神社の源流とされています。住吉系神社の総本宮とされる摂津一宮よりも創建時期は古い。主要な住吉神社を創建順に並べれば、筑前、長門、摂津の順になる。神社由緒書にも誇らしげに「住吉本社」や「日本第一住吉宮」と表記してあります。

 当然、筑前国一宮として朝野の篤い崇敬を受けてきた。鎌倉時代以降、権力が貴族から武士に移ったことで、神社の格も変化した。天皇や貴族が崇敬した「住吉神社」から、武神「筥崎宮」へと重心は移行してしまいます。そして「一宮」としても「筥崎宮」と「住吉神社」が並立するようになってしまった。

 境内南側には相撲場がある。大相撲九州場所の前に、奉納土俵入りが行われる場所だ。テレビにもよく登場する。相撲場からさらに南奥にある能楽殿は昭和になって建てられたものだが、戦火をくぐり抜け、「大阪以西なら住吉」と称賛されるほどの日本有数の名舞台らしい。

 

九州最大の激戦地を制した住吉神社
 筑前国には歴史ある有名神社が揃っている。「一宮」としては「住吉神社」と「筥崎宮」があり、他にも「太宰府天満宮」、「宗像大社」、「香椎宮」、「志賀海神社」、「筑紫神社」、「宮地嶽神社」と粒ぞろい。

 「宗像大社」は南方系の海人族である宗像氏が宗像三女神を祀った社です。また、北方系の海人族である安曇族の奉ずる「志賀海神社」は、綿津見三神を祀った社であり、当社の住吉三神とも関係が深いとされます。宗像氏も安曇氏も海洋展開能力を生かし全国に雄飛した古代の有力氏族でした。

 「宇美八幡宮」は神功皇后が応神天皇を生んだ地とされ、「香椎宮」も神功皇后の神託があり、仲哀天皇が死去した地とされています。いずれも仲哀・応神・神功皇后の伝承が色濃く残る有力社ということになります。

 「太宰府天満宮」は歴史こそ新しいが終始朝野の崇敬を集め、今日の参拝客の人気でみても「宗像大社」とならび九州きっての有力社といえます。この他にも、『延喜式』の名神大社で筑紫国の名の由来となった「筑紫神社」や大注連縄で有名な「宮地嶽神社」もあります。

 こうしてみると、筑前国は他のどこが「一宮」であってもおかしくない激戦地です。何故、当社が他社に先んじて「一宮」の地位を確保できたのか。恐らく、「志賀海神社」や「筑紫神社」は平安時代には没落し、「宗像大社」や「香椎宮」、「宇美八幡宮」は、国家的崇敬の対象として「一宮」を超越していたのでしょう。ともかくも「住吉神社」は全国最大の激戦地を勝ち抜いた「一宮」といえそうです。

 

壱岐国総鎮守と伝わる住吉神社(壱岐国)
 壱岐の「住吉神社」は、壱岐国の総鎮守とされ実に立派な神社です。
 神社由緒略記によれば「当神社は神功皇后御帰陣の際御親祭の由緒深き古社にして即ち住吉神社の草分けとも奉るべき日本最初の住吉神社総本宮なり次いで御鎮斉あらせられたる長門摂津、筑前の住吉神社と共に日本四住吉の一にして古来式内名神大社長崎県下筆頭の古社として知られたり」とある。

 現況から見れば「住吉神社」こそ壱岐国の「一宮」としたいところです。

 


       <住吉神社拝殿>

 壱岐には古代史に何かと登場する「月読神社」があります。神社由緒書には「日本神道発祥の地」とあります。
 月読神は元々、潮の干満と関係する月齢を数えることが不可欠だった海人集団に育まれた神で、壱岐の海人集団の奉ずる月読神には原初の姿がただようと主張する識者もいます。
 『日本書紀』の顕宗天皇紀に、阿閉臣事代が壱岐で月神が憑りついて託宣したので、天皇に奏上し、壱岐から月神を勧請して葛野の「月読神社」を創建したとあります。したがって当社は「松尾大社」摂社の「月読神社」の元宮とされるわけですが、異論もあるよう……。

 せっかく壱岐国を取り上げたので、一宮にも触れておきたい。

天手長男神社(壱岐国一宮)
 郷ノ浦から北上するとほどなく鉢形嶺に鎮座する「天手長男神社」に着く。鉢形嶺の向かいにも小高い丘があって、妻神の「天手長比売神社」の跡がある。両社の間は田園地帯が広がるが人ひとり見かけることはありません。

 一ノ鳥居から鉢形嶺の頂上付近まで急登の石段が続く。石段は合計137段あり、途中のニノ鳥居の扁額だけは「寶萬神社」となっています。寶満神社とはいったい何であろうか。

 

  <鉢形嶺をぐんぐん登る! 右は拝殿の覆い屋>

 頂上付近に本殿があるが、「一宮」にしては異様に粗末な建造物と思いきや、良く見るとそれは新建材の覆い屋だった。本殿はその中に隠されており、かなり小さい。

 かつて『延喜式』の名神大社にランクされ、壱岐国一宮として権勢を誇った「天手長男神社」だが、今の実態は余りにも寂しい。それもそのはず、400年前の元寇の時、人・物ともに一片も遺さず破壊し尽されたせいか、当社は江戸時代には所在すら分からなくなっていたのです。

 そこで登場したのが信念の神道家・橘三喜です。
 1675年、彼は平戸藩主に呼び出され「天手長男神社」の所在を調査するよう言い渡される。彼は壱岐に渡り、島のあちこちを発掘し続けた。この時「天手長男神社は壱岐国宗廟たりといえども跡形もなく、剰へいひ伝ふる事もたしかならず」という言葉を残している。
 ともあれ半年後、「天手長男神社」の宝鏡の見つかった場所を当社の地と定め、再建に取り掛かりました。
 仮宮建設の途中から、彼は全国の一宮巡詣の手始めとして九州の一宮巡詣の旅に出た。そして再建なった「天手長男神社」に参拝した橘三喜は、スケッチを残しています。それによれば、楼門と拝殿を廻廊がつなぎ、後方に本殿を配置した立派な社殿と見て取れる。現況とは大変なギャップがあります。

 向かい合う丘の上にあった「天手長比売神社」であるが、今は鳥居などの跡だけが残されていて、昭和40年、夫神の当社に合祀されました。
 祭神は天忍穂耳尊、天手力男命、天鈿女命の三柱です。しかしこれらの神と壱岐との接点は全く考えられない。元々は壱岐に先住の手長族の神を祀ったのではないかとも伝わる。神話では神武天皇と戦った長髄彦は脛が長かったとされるし、諏訪には足長神社と手長神社がある。これらを繋ぐのは日本列島の縄文系先住民族だったのではないだろうか。

 さて橘三喜のお蔭で再建がなった「天手長男神社」ですが、実は「興神社」こそが「天手長男神社」であり「一宮」である、という説も地元では有力らしい。「興神社」が原の辻遺跡にも、国府跡にも近いことが根拠となっているようです。

 対馬国、壱岐国には、『延喜式』に記載される式内社が夫々29座、24座と多い。国の大きさに比べて非常に多い。これは、神祇官と深いつながりをもった対馬卜部、壱岐卜部の存在が大きいらしい。ただ、元寇などで徹底的に破壊されたために、今は存在自体が不明になってしまった神社や、小詞になって細々と存続している神社など、当地の現況は寂しいものがあります。

四住吉とシーレーン
 前述したように、「一宮」としての住吉神社は住吉大社(摂津)のほかにも筑前と長門にあります。壱岐の住吉を含めた住吉4社の創建順は、『古事記』の記載から、壱岐、筑前、長門、摂津の順と考えられますが……。

 『古事記』によれば、神功皇后は、住吉大神の和魂を体に、荒魂を水軍の先鋒とし、朝鮮半島に渡航した。その荒魂を新羅に鎮め、壱岐国に「住吉神社」を創建した。そして筑紫に凱旋した時に筑前国に(筑前の住吉神社創建)、また長門の豊浦宮を拠点にした時には穴門(長門)の山田の地に住吉三神の荒魂を祀り(長門の住吉神社を創建)、さらに難波に進攻した時には、目的達成の御礼に摂津に創建(住吉大社)したとあります。

 現に、壱岐の「住吉神社」の神社由緒略記には、

 <当神社は神功皇后御帰陣の際御親祭の由緒深き古社にして即ち住吉神社の草分けとも奉るべき日本最初の住吉神社総本宮なり、次いで御鎮斉あらせられたる長門摂津、筑前の住吉神社と共に日本四住吉の一にして古来式内名神大社長崎県下筆頭の古社として知られたり>
と記載されています。

 こうした通説とは異なって実は、それら四住吉は互いに関連性がなく、独立的に創建されていたと思われます。
 摂津にある住吉大社歴代宮司の津守氏は、安曇氏と血縁関係はなく、住吉三神を祖神と仰ぐ一族の末裔でもありません。
 また筑前の住吉神社は佐伯氏、長門の住吉神社は穴門氏で、社家は津守氏と別系統です。
 各地の港(津)を守る男神(筒之男神)を祀るため、地域ごとに朝廷により氏族が配置されたが、その中で摂津の津守氏が国家祭祀を行う住吉大社宮司として力を持つようになったと考えられます。
 住吉三神のもともとの祭祀氏族は不明です。

 つまり住吉は、特定の海民集団の祀る氏族神をその起源とするのではなく、外征や海事海運政策を進める際の国家守護の神としてヤマト王権が祀り育んだものと考えられます。住吉の社に課せられた役割は、海民一族の繁栄や安全ではなく、公的な船舶の航海の無事を祈ることにあったということになります。

 また『延喜式神名帳』に記載がある住吉7社のうち、陸奥を除いた6社は、摂津、播磨(加古川)、長門、筑前、壱岐、対馬と点在し、住吉神が難波から朝鮮半島に至る重要な港湾の管理や海運統制、そしてシーレーンの安全確保を担う役割であったことが窺えます。