理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

140 日下宮王家・髪長媛伝承と日下部連氏


 <行田古代蓮の里>

 今回は、第111回・第136回ブログで言及したものの、詳しい論考を先延ばししてきた件について言及します。

 「日向諸県君が娘を仁徳の大王妃にする物語」と、「その後、河内日下を基盤とした日向の勢力(日下宮王家とも)が王権内で一定の勢力を確保する」件です。
 あちらこちらと話が飛びますが、深掘りしてみます。

 筆者は、5世紀後半に雄略が存在し葛城氏と覇を争っていたこと、河内日下には朝鮮外交で葛城氏と意を同じくする豪族(仮に河内日下氏と呼んでおこうか)がいたことまでは認めたいと思います。

 しかし、仁徳妃の髪長姫が遠路日向からやって来て河内日下で暮らし、そこに父の日向諸県君氏をバックに日下宮王家ともいうべき一大勢力を形成し、さらに大勢の隼人族が移住して馬飼の一大拠点となったというストーリーには大きな違和感があります。何とも言えない胡散臭さを感じてしまいます。
 真実はどこにあるのか、この謎解きに挑戦してみます。

日下宮王家と髪長媛伝承
 まずは髪長媛伝承の復習から。

 日向諸県君牛諸井の娘、髪長姫は美人の誉れ高く、それを聞いた応神は使者を派遣して髪長媛を召し上げ桑津邑に滞在させた。やがて髪長媛の容貌の美しさに惹かれた仁徳(オオサザキ)は、応神から髪長媛を賜り妃とする。かくして、日向と河内はつながることになる。
 一説では、日向諸県君牛諸井は朝廷に仕えていたが、年老いて本土(もとつくに)に退去する際、娘の髪長媛を献上したとも……。

 髪長姫は、仁徳の妃として大草香皇子(大日下王とも)と草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ、若日下王とも)を生み、磐之媛(いわのひめ)のいる難波の高津宮ではなく、日下の地で子の養育をした

 やがて允恭の子の安康が、弟の雄略(まだオオハツセ)に草香幡梭皇女を娶らせようとし、兄の大草香皇子は喜んで宝物の押木珠縵(おしきのたまかづら)を差し出した。しかし、あいだに入った根使主(ねのおみ)は宝物を横取りしたうえ、「大草香皇子が勅命に従わず妹を差し出せないと言っている」と安康に讒言したため縁談話がこじれ、安康は大草香皇子を無礼討ちにした。
 この時、大草香皇子に仕えてきた難波吉士日香香(なにわのきしひかか)が殉死した。

 安康は大草香皇子の妻だった中帯姫(なかしひめ)を皇后とした。その後、安康は酒宴の席で、中帯姫に「大草香皇子を殺してしまったので、眉輪王(まよわのおおきみ)が怖い」と話しかけた。床下でその話を耳にし、真実を知ってしまった眉輪王(大草香皇子の子)が、熟睡している安康を殺害してしまう。

 安康殺害を知った弟の雄略(オオハツセ)は、敵討ちに向かう。恐れた眉輪王は円大臣(つぶらのおおおみ)の屋敷に逃げ込む。雄略は彼らを匿った咎で、円大臣の屋敷を囲み、眉輪王らを焼殺した。

 これにより日下宮王家は断絶するが、大黒柱の円大臣を失った葛城氏も、決定的なダメージを受け、少なくとも直系の一族は滅亡したと思われます。
 以上、日下宮王家の興亡は、数奇ではあるが、大変ロマンに満ちた物語です。

 

日向地域の考古学と髪長媛伝承の素朴な疑問
 まず、第111回ブログで言及した内容「日向の遺跡・遺物」を振り返ってみます。

 宮崎平野を流れる小丸川、一ツ瀬川、大淀川の流域には極めて多くの古墳群があった。前方後円墳は140基近くにものぼり、西都原古代文化圏とも呼ばれている。
 これらの古墳群にも独自の栄枯盛衰の歴史があり、大規模な前方後円墳の築造は、まず4世紀始め頃に大淀川流域の生目古墳群(いきめ)で始まり、次いで5世紀を中心に西都原古墳群(さいとばる)、5世紀末頃からは新田原古墳群(にゅうたばる)に移行している。

 生目古墳群の中の3基の前方後円墳は全長が100メートルを超える規模を誇り、4世紀の九州では最大の古墳群。ここに埋葬された人物は不明だが、かなりの有力者であったと考えられる。
 九州南部の独特の墓である地下式横穴墓も多く発見されているが、それらが前方後円墳の下から見つかったことは注目に値する。南九州独特の地下式横穴墓が存在した地域に、近畿地方からの影響による前方後円墳が築かれたということ。

 西都原古墳群は300基を超える国内最大級の古墳群で、4世紀前半から5世紀半ば頃までの31基の前方後円墳が集中しており、伝承の諸県君一族が関係する墓もこの中にある模様。
 前方後円墳が約5年にひとつ築造されるペースは謎であり、最近の研究では、西都原は8つほどの異なる系列をもつ集団の共同墓地だったという説が有力。

 こうしたことから、この地域には2、3世紀頃から大きな集住があったことが想定できる。3世紀の宮崎平野は伊予・吉備・讃岐など瀬戸内系の搬入土器が豊富で、低湿地開発用の吉備系の農具もみられる。
 ただし、諸県君牛諸井が登場する前の4世紀の九州南部は、大和地域(ヤマト王権)や吉備地域、九州北部の筑紫地域と肩を並べるほど日本各地への影響力があったとは考えられず、一地方における繁栄に終始していたはず。

 古代史を語る上で状況が一変するのは5世紀になってから。
 5世紀前半には、九州最大の前方後円墳である女狭穂塚古墳と日本列島最大の帆立貝形古墳である男狭穂塚古墳が築造され、当地域の最盛期を迎えたと考えられるが、古代史では、九州南部のほぼ全域(?)に勢力を拡大した諸県君が娘をヤマト王権の大王妃にする物語とセットになって語られる。

 前述したように、『記・紀』には仁徳が日向の髪長媛を娶る物語があり、その後、日向の勢力が王権内で一定の影響力を確保する様が描かれている。

 女狭穂塚古墳(墳長176メートル)の規格は上石津ミサンザイ古墳、仲津山古墳と、男狭穂塚古墳(墳長154メートル)の規格は誉田御廟山古墳と、それぞれ近似しており、ヤマト王権と深い関りがあるという指摘がある。
 出土した形象埴輪や準構造船の舟形埴輪にしても、土師氏などの工人が近畿から日向の地に出向いていたと考えられている。

 陸路が極めて不便だった古代、このような考古学的なエビデンスは、日向と近畿の間に通交があったとしても、陸路では説明がつかず海路によって双方が結びついたと考えられる。

 

 塚口義信氏は次のように述べています。
 『記・紀』には、仁徳と髪長比売との間に生まれた皇子女たちは、5世紀前半のヤマト王権内で、かなりの勢力を有していたように記されている。してみると、女狭穂塚・男狭穂塚両古墳の在り方は『記・紀』の伝承と符合し、5世紀前半における日向の政治集団が畿内の大王家の姻族として極めて強大な勢力を有していたことは、ほぼ確実と見られるのである。

 しかし、筆者は判然としないのです。
 もっとも不可解なのは「日向に国中の美人と言われる髪長媛がいる」という話を聞いて、応神が召しあげる経緯です。
 美人ならこんな遠隔地でなくても、むしろ畿内で大勢見つかるだろうに、なぜわざわざ応神は、息子である仁徳の王妃に、蛮族の住む僻地であった日向の髪長媛をあてたのでしょうか(『記・紀』が編纂された時代、日向は隼人の住む異境の地の扱い)。

 古墳や遺物の状況から、日向の地は瀬戸内海地域と通交していたと考えられるので、日向地域と大和地域が関係していた可能性は否定できません。5世紀に、日向の勢力がヤマト王権中枢と一定の関係を築いていた可能性を全否定することは困難ですが、それでも大いに疑問があります。この時期、途中にはヤマト王権と対峙していた吉備や筑紫の勢力が存在しています。

 日向とヤマト王権の関係構築の発端が応神・仁徳による髪長媛の獲得にあって、そこから日下宮王家が展開するというのはいかにも物語が出来過ぎます。髪長媛は本当に実在したのでしょうか。

 さらに言えば、諸県君一族は『記・紀』以外には伝承がない謎の一族でもあります。「諸県」は現在の東諸県郡国富町に存在した地名で、古代律令期から明治初期まで日向国南西部一帯に存在し、諸県君の本拠地でもあったとされるが、当時はヤマト王権の影響力が及んでいなかった地域も多く、諸県地方が、諸県君の主たる領域と一致したかは不明です。

 『記・紀』は、仁徳の女好き、磐之媛の嫉妬、地名の由来譚に加え、多くの歌謡を差し挟んで、歌物語的に語られた伝説(伝承ではない)が多いのが特色で、描かれた事象のすべてを信用することはできません。神功の物語が怪しげなら、その一代後の応神の物語が怪しくても不思議ではないでしょう。
 つまり、髪長媛と仁徳の間に生まれた大草香皇子・草香幡梭皇女が御名代として日下部を賜り、日下を住まいとしたことにはさしたるエビデンスもなく、それらを前提とした「日下宮王家」も史実なのかどうか

 第136回ブログで述べたように眉輪王の物語は虚構のにおいが強いですが、そのうえ安康と中帯姫(なかしひめ、長田大郎女とも)、雄略と草香幡梭皇女の夫婦関係は、安康・雄略がそれぞれ一世代上の女性を娶ったことになっていて、極めて不自然です。

 繰り返しになりますが、諸県君氏は『記・紀』に登場する以外に確認できない謎の氏族であり、髪長媛の実在も疑われます。諸県君に限らず九州南部の隼人などの豪族は娘を大王家に入内させているが、『続日本紀』710年には日向国が采女を貢進した記事があり、こうしたことを5世紀頃に繰り上げての潤色なのかもしれません。

4世紀末から5世紀前半の瀬戸内海交通
 第57回ブログで言及した内容を再確認します。
 5、6世紀より前は、以下の2つの理由で、海況や海中地形を熟知した海の民が主導しても、瀬戸内海の大船団航行は不可能でした。

 1つ目の理由は瀬戸内海の複雑な地形です。数艘の小舟を操るのも困難ですが、ましてや大船団ではとてもとても。
 2つ目は、古代の瀬戸内沿岸には、船体を補修し、人が休み、水・食物の補給ができる場所や、潮待ちのために停泊する場所が極めて少なかった。

 邪魔な岩礁を除いて浅い海底を掘り下げる、いわゆる啓開をして瀬戸内海航路がつくられたのは、ヤマト王権が吉備を攻略した雄略の時代からと言われています。
 喫水の深い大型船が停泊可能となる難波津の工事を始めたのは5世紀からで、6世紀になって完成しています。難波津がなければ、瀬戸内海は物流ハイウエイになり得なかったでしょう。

 以上のような瀬戸内海交通から想定できることは、5世紀以前に、畿内の王権と日向の勢力が直接的に、しかも親密に交渉できるほどの状況にあったとは考えられません。
 でも前述したように、日向の遺跡からは、2、3世紀頃からの伊予・吉備・讃岐など瀬戸内系の土器や低湿地開発用の吉備系の農具が出土しており、5世紀には大和地域と類似の大型前方後円墳が築造され、また畿内の工人が関与した舟形埴輪などが日向地域で出土している事実があります。
 このことをどう考えたら良いのだろうか……。

 

人・モノの移動と技術・文化の伝播
 政治勢力が侵略したり、支配・被支配の関係になることや、点在する地域国家同士が連合したり連携することは、大勢が移動可能で、かつ遅滞なく情報を伝えられる交通路や手段がなければ、困難だったと考えるべきでしょう。
 しかし、政治勢力の直接的な接触がなくても、技術と文化は伝播したのです。

 瀬戸内海航行は紀元3世紀頃までは丸木舟が主体だったため、一度に運べる人やモノは限られた。しかし丸木舟による航海は頻繁に行われたので、長い時間経過のなかで文化・宗教・技術は伝播しました(第34回ブログ)。

 統治や征服などの政治的手段によらなくても、たとえ人が移住しなくても、細々とした交通路や粗末な交通手段さえあれば、海の民によって文化・宗教・技術は伝播し、モノは移動したということです。

 

日下宮王家の本貫の地は日向諸県か?
 それでも解けない謎が残ります。
 5世紀の河内に日下宮の一族が存在し、安康・雄略と関係したことは『記・紀』から読み取れます。
 塚口義信氏や平林章仁氏は、母方に日向出身者を持つこれらの王族を「日下宮王家」などと呼び、これがキャッチーな言葉として一般的に使われているわけですが、この日下宮王家の本貫の地は本当に日向の諸県郡だったのでしょうか。

 塚口氏や神話学者の松前健氏は、日向諸県君はかなり有力な王権のパートナーであった可能性が高く、天孫降臨が日向を舞台とし、神武がここから東征を開始するのも、そのことと関りがあるし、日向という国名と同様に、河内の日下という地名表記も、王権が大切にした太陽信仰に由来する、とまで言います(筆者は、第77回、78回ブログで、王権が意図した天孫降臨の地は九州北部の可能性もあるのではないかと言及しています)。

 しかし、神武東征は7世紀以降につくられたストーリー(第76回~81回ブログ)で、その時点で日下宮王家は滅んでしまっています。日向諸県君一族の勢威があった時期は古墳のあり方から考えて、おそらく5世紀前半でしょう。

 繰り返しになりますが、現在の東諸県郡国富町あたりに存在したとされる「諸県」が、諸県君一族が支配した領域と一致するかどうかは全く不明です。郡名が明確に確認できるのは『続日本紀』からであり、『延喜式』において、ほぼその後の領域が確定されたのです。
 諸県地名が残るのは、奈良時代に設定された広大な範囲ですが、5世紀頃のおそらく狭かったであろう「諸県」と西都原古墳群との関わりも確認できません。

 『記・紀』が編纂された7、8世紀には日向諸県君一族は衰亡しており、編纂者は、謎の一族を応神・仁徳の物語に織り込んだとしか考えられません。

 一方、「日下」と言えば、のちに河内日下の地を勢力基盤とした日下部氏がいるので、日下部氏と日下宮王家との関連を確認してみます。

 

日下部氏とは?
 元来、日下部(草香部)は、仁徳と髪長媛との間に生まれた大草香皇子と草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)の御名代部として設定された料地の管理等に携わる部制の一つとする見方があり、この御名代をもとに日下部氏と称されるようになったとも考えられます。

 しかし日下部(草壁)氏について調べていくと、実は日下部氏は驚くほど日本各地に存在し、実態のつかめない謎の氏族であることが分かります。今回のブログ執筆に当たって知りました。
 「日下」は各地に存在した一般名詞的な土地の名だったのかもしれません。

 開化の皇子とされる日子坐王(ひこいますのきみ)の子

 狭穂彦命の後裔(日下部連)

 吉備氏の大吉備津彦命の子の大屋田根子命の後裔

 仁徳の皇子、大草香皇子・草香幡梭皇女の御名代部

 沙穂彦・沙穂姫の異母弟、山代之筒木真若王の子孫が但馬国造の日下部君。

 その他にもいろいろあって、真偽のほどは何とも……。

 日下部氏と言えば、筆者が但馬国の一宮「粟鹿神社」(あわが)を参拝した折のことを思い起こします。以下、少々脱線して筆者の得意分野である「一宮めぐり」の時の思い出から!

 但馬国の一宮といえば、小京都と呼ばれる出石の町並みに寄り添う「出石神社」の方が有名でしょう。しかし、筆者は、人気(ひとけ)の少ない昔ながらの山村で、朽ち果てそうになりながらも豊かな杜に囲まれて歴史を刻んできた「粟鹿神社」の方に「一宮」としての存在感を見出します。

 鎮座地は兵庫県朝来郡山東町で、今や交通はすこぶる不便です。祭神はヒコホホデミですが、日子坐王とする説も根強く、その子孫が日下部氏とされています。

 粟鹿神社は神社史や古代史を語る上でも極めて重要です。

 昔は出石神社よりもはるかに大きな勢力を誇っており、但馬国の一宮は当社とされていた。

 『古事記』よりも4年古い時期に記された系図『粟鹿大神元記(もとのふみ)』が伝わり、丹後国一宮の籠神社とともに古代史における重要な史料とされている。

 当社鎮座地の近傍には日下部氏一族が関係する古墳群が広がっている。

 筆者は興味が湧き、2011年6月と2013年4月の2度も参拝してしまった。2度目は古事記勉強会の仲間と一緒の勉強旅行でした。

 下記は、参拝後に記した備忘録です。

「日子坐王を祖とする日下部氏が、但馬国造家として和田山一帯に居を構えた。付近の山東町や和田山町には大小の古墳群が多く残っている。中でも和田山町の茶すり山古墳は5世紀前半の近畿地方最大規模の円墳として有名である。古代より交通の要衝である当地を支配下日下部氏などの豪族が関係したものであろう。品の良い女性の宮司が親切に応対してくれ、すっかり粟鹿神社のファンになってしまった」。


 <茶すり山古墳から和田山方面の眺望>

 


 <粟鹿神社>


 今回のブログでいろいろ調べるまで、日下部氏と言えば兵庫県朝来を拠点とする豪族とばかり思っていました。こんなに日本各地に存在するとは……。
 もとに戻します。

 さて、河内日下の日下部氏であるが、筆者は大草香皇子に忠実に仕え、王の死に際して殉死した難波吉士日香香(なにわのきしひかか、第136回ブログで言及済)に注目してみたいと思います。

 安康の時代に、根使主(ねのおみ)は大草香皇子から押木珠縵(おしきのたまかづら)を横取りしました。その後、雄略は、その宝物を身につけている根使主を見つけて殺害したうえ、子孫の半分を草香部の部民とし残りを茅渟県主に与えた。そして、殉死した難波吉士日香香の子孫を探し出し、草香部吉士の姓を与えています(雄略14年)。
 吉士氏は渡来人で、雄略やそれ以降の大王は、(大草香皇子とは切り離して)彼らを重用したのでしょう。
 さらにその後、天武は草香部吉士大形に「難波連」という氏の名を与え、難波連大形は『日本書紀』編纂者12名のうちのひとりとなっています。

 天武10年の記事には、「帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ」とあり、日下部系氏族(草香部)が『日本書紀』のライターであったことが読み取れます。
 難波連大形は難波にあって日下部を管掌し、海上交通にも従事したようです。日下宮王家と河内日下部氏を繋ぐエピソードかもしれません。

 

日向とヤマト王権の関係を物語る故事・伝承
 髪長媛を娶り日向とヤマト王権に深い繋がりが生まれるずっと前から、日向とは関係があったという説があります。
 『日本書紀』には以下のような記事が載っています。

 景行紀4年 「次の妃日向髪長太田根は、日向襲津彦皇子を生んだ。これは阿牟君の先祖である」。

 景行紀18年「諸県君泉媛が帝に召しあがりものを奉ろうとして、その仲間が集まっている」。

 応神紀2年「次の妃、日向泉長媛は大葉枝皇子・小葉枝皇子を生んだ」。

 このように『日本書紀』では、景行・応神の頃からヤマト王権と日向との繋がりがあったかのように記されていますが、前述したように、3~5世紀頃までの大和地域と九州南部は、文化や技術の伝播はあったとしても政治的に結びつくのは困難だったという事実を無視するわけにはいきません。筆者は、髪長媛以前の記事も史実とは考えにくいと判断します。

 津田左右吉は、これらの物語を構成する種々の説話は、主として地名説明のためのもので、事実とみなすことは困難で、この種の説話を除けば物語の大部分は空疎なものとなる、と言っています。
 そのうえ、肝腎の景行や応神の事績や存在そのものが信憑性に欠けるという致命的な問題は残ったままです。

〇 日向諸県君氏と大和政権の密接な関係を物語る証拠に、宮中で舞われた諸県舞の存在があると言われます。
 『続日本紀』731年7月、宮廷儀礼で、筑紫舞とともに諸県舞が舞われる記事があり、戦闘と、それを抑止する仕草が演じられたと推測されるので、これらの舞は服属儀礼の意味を担っていたと考えられています。

 この諸県舞は、701年の大宝律令で雅楽寮(うたまいのつかさ)が創設され、そこで整備・統一されて、祭祀楽(式楽)として代々継承されてきた風俗歌舞を指しており、諸県舞の他にも隼人舞・国楢舞・吉志舞・楯伏舞・久米舞・筑紫舞などが知られています。
 諸県舞は、奈良時代から続く歌舞であることは確かですが、この諸県舞が日向諸県君氏そのものに繋がるものかどうかは定かではありません。

 

隼人は日向と日下宮王家の関係を物語るか?
 平林章仁氏は、河内日下に隼人が集住していたという説を唱えています。
 東大阪市の日下遺跡からは5世紀後半のほぼ完全な馬骨が出土していることから、5世紀半ばから後半には河内日下でも馬飼集団が居住していたに違いない。日向南部地域や隼人らの間に馬匹文化が濃密であったことを思えば、日下の馬と日下宮王家や隼人、さらには「日向の駒」が無縁であったとは考えられないと……。
 そこで馬飼集団と九州南部の隼人を結びつけ、河内日下の地域は、日向諸県君氏を核とする日向・隼人系集団の一大移住地であり、髪長媛と仁徳の間に生まれた大草香皇子・草香幡梭皇女ら日下宮王家の居住地になったと言うのです。

 しかし、この説は日下の馬飼集団と九州南部の隼人を強引に結びつけており、無理筋です。考古学上も史学上も日下の地に隼人が集住した根拠は認められません。

 河内の馬飼集団は、5世紀頃になって馬の飼育という新しい文化が朝鮮半島から持ち込まれて馬の活用が広がった時に、馬と一緒にやって来た渡来人です(第48回ブログ)。

 この契機となったのは、400年と404年の対高句麗戦で、日本は軍事における馬の重要性を痛感、以後、国策として馬産地を各地に展開するなど軍事国家の色彩を強めていったわけです。この間、百済や加耶諸国は日本に専門家を派遣するなどして、大規模な馬産地づくりに協力し、馬具の生産技術などを教えます。このような経緯から、5世紀には北河内を中心とする淀川流域に牧が展開します(第130回ブログ)。

 確かに、河内湖北岸の蔀屋北遺跡(しとみやきた)では、埋葬された馬や、馬の飼育に必要な塩の入手に使われた製塩土器が多量に出土しています。
 当地域には文献から讃良馬飼(さららうまかい)・菟野馬飼(うのうまかい)などの馬飼集団が存在したとされており、考古資料との一致が見られます。

 5、6世紀以降、品部の制が整っていく中で、渡来人が主導する専門集団(後の馬飼部のような組織)が置かれていきました。彼らによって馬は飼育・調教され、労力の代替、飾馬として儀式化、そして乗用馬としても利用されていきます。

 これらの牧は、大和川が何本もの川筋になって河内湖に流れ込み、さらに瀬戸内海に流れ出るそれらの川の両側、湖のほとりのような低湿地に集中していました(第48回ブログ)。

 彼ら馬飼には、平群氏額田部氏が関係していました。平群氏と馬匹文化の結びつきについて触れておきたいと思いますが、その前に河内日下と隼人が繋がるのかどうか、もう少し言及します。

 仁徳紀に見える隼人が大王や皇子の近習であったという記事や、雄略が亡くなり墓の前で泣いたなどの記事は、仮に存在したとしても私的な家来であり、帰化したのは7世紀末頃とされます。文献上の確実な史実として初めて「隼人」が登場するのは、682年7月の朝貢記事です。

 隼人は、7世紀末頃、大和政権(天武の時代)によって創り出された概念であって、古代南九州の人びとの自称ではありません。800年12月に、薩摩国・大隅国に班田を実施し、翌年以降に隼人の朝貢が停止されると、南九州の人びとを隼人と呼ぶ制度はなくなります。南九州に隼人が存在したのは天武の時代から9世紀にかけての120年間ほどでしかありません。
 このような顛末な内容が後世の歴史認識においてもさまざまな捉え方となって伝わり、真実を分かりにくくしていると思われます。

 

平群氏と馬匹(ばひつ)文化の結びつき
 平群氏は、大和盆地西北部の平群郡を本貫の地とした軍事氏族で、文献では5世紀から奈良時代にかけて幾つかの事績があり、伝承は豊富です。
 木菟宿禰(つくのすくね)は、5世紀前半、葛城襲津彦の帰国を妨害していた新羅を討つため加羅に派遣され、弓月の民を率い、襲津彦を連れ帰ったとされています(第124回ブログ)。
 この木菟宿禰が平群臣氏の先祖とされているようです。

 仁徳が亡くなった後、履中(イザホワケ)と住吉仲皇子の間で紛争が起こるが、この時、平群木菟宿禰、物部大前宿禰、阿知使主らが履中サイドに加担し、王権を支えています(第122回ブログ)。

 5世紀半ば前、履中は磐余宮稚桜宮で即位し、平群木菟宿禰・蘇賀満智宿禰(そがのまち)・物部伊莒弗大連(もののべのいこふ)・円大使主(つぶらのおおみ)らと共に国事を執ったとされています。

 456年、雄略は泊瀬朝倉で即位し、木菟宿禰の子の平群臣真鳥(まとり)を大臣とし、大伴連室屋と物部連目を大連とした。葛城氏没落後は、その穴を埋めるように、真鳥が大臣を歴任して一族は興隆を極めています。

 498年、真鳥大臣は専横を極めて国政をほしいままにしたため、王権の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたとされる。この時、海柘榴市で行われた歌垣において、鮪が父の真鳥に「官馬」を求めており、平群氏が海柘榴市の官馬の管理に従事していた根拠とされています。
 真鳥・鮪の誅殺後、平群氏は没落するが、奈良時代には復権し、高位の官人を輩出しています。

 また、6世紀から7世紀の豪族に、大和国平群郡額田郷、河内国河内郡額田郷を本貫の地とする額田部連氏があります。
 額田駒宿禰は平群県の馬牧で飼育した駿馬を天皇に献上したことで、馬工連(うまみくい)の姓を賜り、馬飼の事業を任され、以後この地を「生駒」と呼ぶようになったという伝承があります。
 平群氏と馬工連は、木兎宿禰を祖とする同族で、ともに馬飼集団・馬匹文化に関係が深く、大和国平群郡額田郷と河内国河内都額田郷には、同じ平群氏系の馬匹集団・額田首氏も集住していたとされます。

 平群谷古墳群(平群町に所在)を平群氏の墓域とする説がありますが、木莵・真鳥・鮪らが優勢だった5世紀とは合致せず、平群氏を6世紀後半の平群臣神手(かむて)以降の新興在地豪族と見る説もあります。
 この説に従えば、真鳥が大臣に就任して専権を振るったという『日本書紀』の記事は史実ではなくなります。自氏と同じく武内宿禰の後裔氏族である蘇我氏への対抗意識から平群氏が故意に作り上げたということでしょうか。

 平群氏は、天武10年(681年)「帝紀及び上古の諸事」の記定に平群臣子首が参画し、奈良時代には『日本書紀』の編纂に平群宇志が参加していることから、5世紀代の記述はこの時に書き加えられたとする説もあります。
 あるいは木菟や真鳥は平群谷古墳群とは別の地域を本拠としていた可能性もありますが、真偽のほどは如何ともし難い……。

 平林章仁氏は、平群氏の本貫である大和国平群郡に額田部連氏の本貫である額田郷があるだけでなく、日向国児湯郡平群郷や筑前国早良郡にも平群郷・額田郷・早良郷が分布することを考えれば、平群氏や同族の早良氏・額田首氏、額田部連氏らは、王権内の馬飼集団として連携して行動していたと解される。そして、平群氏や額田都連氏ら王権膝下の馬飼集団が、日向諸県君氏や隼人らと馬匹文化を介して緊密な関係にあったことも間違いないと言うのですが、筆者は時間軸が合わないような気がしています。

 男狭穂塚と女狭穂塚の両古墳は5世紀前半の築造です。『記・紀』によれば、日向諸県君氏の最盛期は5世紀前半で、両古墳の時期とほぼ一致しますが、日向で馬匹文化が盛んになるのは6、7世紀以降なので、両者には時期的な開きがあります。九州南部における馬飼や牧の記事は大半が7世紀以降のものです。

 

馬飼・馬牧の歴史
 日本における馬の利用については、第48回ブログ「馬の利用」の最後の節で、以下のように確認済です。
 日本では、縄文時代や弥生時代の遺跡から馬骨や歯の化石が出土したことから、馬の渡来はこの頃からと推定されていましたが、最近の年代測定法などの研究結果から、後代の骨が混入したものとされ、日本在来馬は4、5世紀に朝鮮半島から渡来して各地に広がったと考えるのが妥当とされ、今ではこれが定説になっています。
 最新の研究では、日本在来馬の起源は、5世紀に国の方針として軍馬・家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由し国内へ導入された蒙古系家畜馬とされています。
 日本在来馬8品種と世界の32品種のDNAを比較した研究があり、日本在来馬は、モンゴル在来馬の祖先が対馬を経由して輸入され、全国に広がったとされています。まず対州馬と野間馬が分岐し、さらに木曽馬や北海道和種馬の北上するグループと、御﨑馬(みさきうま)やトカラ馬など南下するグループに分かれたようです。

 朝鮮半島からの馬の移送は対馬海峡を渡って対馬へ船(第48回ブログ、準構造船?)で運び、そこから玄界灘を渡って九州本土へ船で運んだ。対馬は重要な中継拠点だったが、馬の移送は難度が高かったので、おそらく5世紀代は河内の馬牧が中心で、各地の牧にはそれほど広がらなかったのではないだろうか。

 応神紀15年には、次のようにある。
 百済王、阿直岐(あちき)を遣して、良馬二匹をを貢る。即ち軽の坂上の厩に養(か)しむ。因りて阿直岐を以って掌り飼わしむ。故、其の馬養いし処を号(なづ)けて、厩坂(うまやさか)と曰う。阿直岐、亦能く経典を読めり。

 河内馬飼が史料にはじめてみえるのは、履中紀5年の、大王が淡路島での狩猟にお供したという「河内飼部」ですが、これは史実かどうか。
 確実なのは、継体紀元年の、即位前から継体と親交があったという河内馬飼首荒籠です。5世紀代には、この地域に馬飼集団の定着があったということでしょう。
 6世紀、継体が本格的に馬飼集団を重用してから、急速に地方展開が始まります。
 日向は畿内からみればとんでもない遠隔地であって、ヤマト王権による国策としての馬の飼育は上野(かみつけの)や信濃などよりもかなり遅れてスタートしたと思います。

 日向国は、古来、名馬の産地とされてきましたが、612年の推古の歌には「蘇我の子らは、馬ならばあの有名な日向の駒、太刀ならばあの呉の真太刀」とあるので、この頃には名実ともに名馬の産地となっていたと思われます。
 日向の馬として有名な「御崎馬」は、宮崎県の都井岬に生息する日本在来馬の一種で、相当古くから存在したようにも思いますが、江戸時代前期の1697年、高鍋藩の秋月家が軍事に欠かせない馬の放牧を都井村御崎牧(現在の御崎牧場)の藩営牧場で始めたのが始まりとされています。

〇 930年編纂の『和名類聚抄』には、日向国児湯郡に平群郷の名が見え、現在の西都市平郡(へごおり)に相当するようです。
 藤原京から出土した木簡にも、「日向久湯評人」「平群部美支」という文言が確認できることから、日向国児湯郡に平群氏の存在が推定できます。

 平林章仁氏によれば、日向国に平群郷という名が存在するので、諸県君氏が河内日下に進出していただけでなく、葛城氏に近い平群臣氏が日向に進出していたと推測でき、日向と河内日下の繋がりを示していると言います。
 平群臣氏の一族が馬の飼育や牧の経営で日向に赴いた可能性は十分に考え得ることですが、その時期は7世紀以降ではなかったか。つまり日下宮王家が滅んだ後のことになります。

 天武が崩御した686年、殯の(しのびごと)で、大隅・阿多の隼人および倭・河内の馬飼部造がそれぞれに誄した、とあります。

 927年に成立した延書式によると、朝廷に必要な馬牛を飼育・調教するには、馬寮管轄の「御牧(みまき)」と兵部省管轄の「諸国馬牛牧」などがあった。前者は甲斐・武蔵・信濃・上野など東国に多く、後者は東西の18ヶ国に39牧が散在していた。日向国の牧数は「諸国馬牛牧」所在国のなかで肥前と並んでもっとも多く、かつその半数は牛牧である。

 馬を埋葬した遺構が、5世紀後半から7世紀半ばの遺跡から出土していることから、5世紀から日向地域に馬匹文化存在したことを物語っている。  
 朝鮮半島に近い九州に馬・牛の文化が定着したのは当然であるが、512年には「筑紫国の馬40匹」を百済に賜るとある。
 欽明7年(546年)年の百済に供与した「良馬70匹」、さらに欽明15年の「馬100匹」なども、九州産の馬であった可能性が高く、6世紀の九州地域は馬匹文化の先進地であった
 朝鮮半島への逆輸出(第48回ブログ)なので、畿内からというよりは九州からの輸出と考えられるが、これらが日向産だったという確証はありません。

 

5世紀前半の日向と日下宮王家は無縁だったのでは?
 ここまであれこれと食い散らかしてきましたが、結局、なぜ仁徳の妃が往来もままならない遠隔地から迎えられたのかという謎に対する答えは見つかりませんでした。
 髪長姫が実在したかどうかもまったく不明です。謎だらけの日向諸県君氏と日下宮王家(河内日下部氏?)との関係も見つかりません。ただ、河内日下に大勢の隼人族が移住した証拠はありません。
 ここからは、かなり無理筋であることを承知で、筆者の大胆な仮説を述べて、今回のブログを閉じたいと思います

 7、8世紀になって、馬飼部であった平群氏の一部が日向に進出し、日向の故事・伝承に触れることになります。

 天武10年の「帝紀及び上古の諸事」の編纂者は、川嶋皇子以下、忍壁皇子(おさかべ)・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・上毛野君三千(みちぢ)・忌部連首(いんべのむらじおびと)・安曇連稲敷(いなしき)・難波連大形・中臣連大嶋・平群臣子首(へぐりのおみこびと)の12人であり、なかでも中臣と平群は自ら筆をとって記録したとあります。

 ここで興味深いのは、日下部系氏族で河内日下の流れを汲む難波連大形と、河内と日向の双方に繋がりを持つ平群臣子首が『日本書紀』の編纂者・執筆者として名を連ねていることです。
 祖先が忠実に仕えた日下宮王家の断絶を無念に思い、聖帝である仁徳に認められた栄光とその後の非情な結末を記録に残したいと考えた難波連大形が、今や勢力が衰えどこにも痕跡を残していない日向諸県君氏のかつての隆盛を伝え聞いた平群氏と共に日向と河内を連結し、日下宮王家と日向諸県君氏の壮大でロマンに満ちた物語を創出したのでは……。双方を繋いだのが架空の髪長媛ということになります。

 平群氏はみずからの氏族伝承を創作する機会がいろいろとありました。前述したように、「帝紀及び上古の諸事」の編纂には平群臣子首が参画し、『日本書紀』の編纂には平群宇志が参加し、そのような機会に、蘇我氏への対抗意識から5世紀代の平群氏の事績を故意に作り上げることは容易だったと思われます。

 以上、トンデモ古代史の存在を忌み嫌う筆者が、自ら新たなトンデモ古代史かもしれないストーリーを創作してしまったということかも。

 でも、このような6、7世紀の豪族たちの意向は、『記・紀』の物語にはたくさん入り込んでいます。以前言及した神武東征が、その代表例です。

 神武東征は、『記・紀』編纂に際し、大伴氏・石上氏(物部氏の後裔)の意向が色濃く反映された物語です。
 6世紀の継体の時期に、大連(おおむらじ)の地位にあった大伴金村と物部麁鹿火(もののべのあらかい)の意向が、この神武東征物語の構想に大きく影響しました。
 ヤマト王権としても自らの王権神話の中に、物部氏・大伴氏を王権確立の立役者として顕彰する形で取り込んだと言えそうです(第80回ブログ)。
 物部氏の本家筋は、587年の丁未(ていび)の乱で蘇我氏に敗北しますが、後裔の石上麻呂が、『記・紀』編纂の真最中の708年に左大臣にまで進んでいます(第80回ブログ)。

 なお筆者は、天武10年の記事を『日本書紀』編纂の直接的起点することに疑問を持ち、天武10年の記事は『古事記』編纂の指示であった可能性に言及しました(第83回ブログ)が、近年では、『日本書紀』の編纂開始は持統天皇の崩御後であるとか、編纂の具体化は701年の大宝律令完成と704年の国名表記の改定からであり、これによって初めて、編纂の基本理念と歴史叙述に不可欠な地理的表現が確定したとする説も出されています。
 筆者としては何とも嬉しいことです!

 それはともかく天武10年に、河内日下と日向に縁を持つ2人のライターが古代史編纂にあたって諸資料・伝承の収集に当たったことだけは間違いないでしょう。

 

参考文献
『倭王の軍団』西川寿勝 
『蘇我氏と馬飼集団の謎』平林章仁
『馬・船・常民』網野善彦・森浩一
『隼人の古代史』中村明蔵
他多数