理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

144 大仙古墳の築造

<大仙陵の完成時の姿(『よみがえる古代 大建設時代』から転載)>

 以前のブログで、大仙古墳(仁徳天皇陵)については「5世紀のヤマト王権」に言及する時に詳しく触れると予告しました。また、第107回ブログでも築造技術については少々触れました。
 今回は、5世紀における大規模土木工事の象徴とされる大仙古墳の築造について、大成建設のプロジェクトチームが想定したスタディをベースに、一部他の情報を加えながら纏めてみました。

 大仙古墳は実見したことがありますが、ただ木々の生い茂る広大な丘のようで、撮影した写真には何の面白みもなかった。そこでアイキャッチ画像には完成時の姿を掲げてみました。

大仙古墳の基礎データ
 大成建設チームのスタディによると基礎データは下記の通り。
〇 陵から1600メートルほど西側には当時の海岸線が迫り、大仙古墳は海近くの小高い丘の上に築造されていた。大阪湾を一望できると同時に、海上からも葺石で輝くその特徴的な形が認められたはず。

〇 大仙古墳は最大高さが30メートルもある。平面規模では世界最大と言える。使われた盛土は140万立方メートルと圧倒的な土量。10トンダンプカー換算で25万台分に相当する。

〇 これだけの高さの盛土から地盤が受ける耐荷重は1平方メートル当たり50~60トンにもなる。地盤の地耐力が弱ければ、「円弧すべり」が起こるので、築造地はどこでも良いというものではない。この場所は洪積段丘上で、現在の土木工学からみても十分な地耐力をもった地盤が選定されており、当時の人びとの土木に対する知識が半端でないことが分かる。
 地質的に堅固な場所を選定したのは当然だが、巨大な重量を支えるために、三段盛りとなっており、各段の角度は、土の安息角以内に収まっている。

〇 築造地から6キロほど南に石津川があり、ここから膨大な量の葺石(径20センチくらいのもの)を1万4000トン分採取した模様(第120回ブログでも石津川での採取に言及した)。

〇 大規模土木工事につきものの湧水についても、緩やかな傾斜地のため自然排水が可能だった。

 

築造工事の進行
〇 最初は敷地全体の伐開除根を行ない、木の根や石を取り除き、地面の凹凸をならす。

〇 敷地を区画割りするための地割りと測量を実施。そのための設計図は、1/100ほどの模型を作り、その平面を細かいメッシュで区切り、該当地に杭打ちし、綱などで100倍に拡大したメッシュの上に拡大して引き写す(書き割り)要領で地割りした。
 各地点の高さと勾配を設定するためには、シナからもたらされた勾股弦(くこうげん)の細引紐や水平を測るための水舟(水準器)なども採用されたらしい。

〇 古代の土木工事は、牛馬は貴重な時代なので、もっぱら人力に頼った。使用する道具は、掘削用としてスキとクワ、土木運搬のためのモッコ、地均しのためのエブリくらい。工事は古墳時代の土木工事の工法で行なう。(5世紀前半には、馬が輸入されていた可能性があるが、使役に堪えるほどの頭数はなかったので、牛馬不使用の前提でよい。)

 まず周囲の濠から掘削を開始するが、掘りあげた土は多量に水を含んでいるので、いったん仮置きをして水を抜いた後に土盛りに用いる。

〇 盛土の締め固めについては、木ベラやエブリで均一に均し、その上を足で踏み固めていった。きわめて原始的な作業に思えるが、きめ細かい作業が可能で、現代工法に劣らない効果が期待できる。
 振動ローラやタイヤローラ、ブルドーザなど転圧による土の締め固めは、通常は30~40センチの厚さに広く土を撒き出し、1回の転圧で盛土の厚みは10~20センチになる。 

 人の足で締め固めをすれば、1平方センチあたり300グラムの重量がかかり、総重量3トンの小型ブルドーザに匹敵する。

 古墳の多くが、千数百年を経て現在もなお往時の姿を留めている理由の一つとして、この人力による綿密な締め固めを指摘できる


 <築造工事が進む大仙陵(『よみがえる古代 大建設時代』から転載)>

 

〇 古墳の葺石は一種の化粧石とされるが、法面の保護のためにも有効。
 6キロほど南の石津川を採石地と考えると、効率よく運ぶために、約6キロの水路を開削し筏を浮かべて多くの葺石を運んだのではないか。
 多くの葺石をモッコで運んだと仮定すれば延べ30万人を要するが、筏一艘を両岸から4人で曳くと仮定すれば延べ17万人で済む。

 


 <『よみがえる古代 大建設時代』から転載>

 

〇 埴輪工事については、大きく重い円筒埴輪の数量が圧倒的に多い。遠くから運搬していたのでは非効率なので、築造地の近くで、登り窯で焼いていたと想定されるが、その候補地は見つかっていない。試算においては近くで調達できたものとする。
 現代のシステムでは全数量を作るのに16億円を要するが、古代の製作方法だと60億円にのぼる。

 

管理システムと工期・総工費の試算
〇 これほどの規模の大工事にどれだけの人員と日数がかかったのか、その試算の前提として労働条件を次のように仮定した。

 1週間に1回の休日、夜は休み、1日8時間労働。
 大規模工事なので、技術者などを指導者とした労務集団が構成されていた。

 施工管理の大半は、1日数千人にものぼる大集団を広大な現場で把握、統率し、いかに効率よく作業させるかがポイント。このために作業員10人に1人の世話役を配したグループを最小単位と仮定した。

〇 試算結果は、総作業員数681万人、総工期15年8ヶ月であった。総工費は1985年当時の貨幣価値で796億円である。
 尚、現代工法では総作業員数は2.9万人2年6か月の総工期、費用は20億円となる。

 工事のピーク時には2000人もの労働者が作業した。しかし、それにとどまらない。埴輪を製作する人、薪を採取し運搬する人、作業工具をつくり、修復し、補給する人が必要なので全体の直接労働力は1日に3000人近くになる。

 さらにこの巨大集団に食住を提供する「後備え(あとぞなえ)」としてほぼ同数が必要とされる。結局、この場所に一時に5千~6千人もが16年間にわたって居住することで、大仙古墳が完成した。

〇 この夥しいエネルギーの投入は、古代人の無知が生みだした膨大な浪費とみたり、ごく少数の支配者のために無辜の奴婢たちが多数鞭打たれながら、過酷な労働を強いられたというイメージが浮かびそう。しかし、後述するようにもう少し違った状況があったと考えられる。

〇 無秩序に無計画にこれだけの人びとを働かせるのは不可能。よって、すでにシステム化された組織工学の芽が生まれていたと想定できる。

 

国家の統一がもたらす余剰 
 この項、筆者の見立ては異なるが、まずは大成建設チームの見解を以下に記そう。

〇 古代に統一国家が形成される前は、どこの社会でもいくつかの部族集団あるいはクニに分かれ、それぞれのテリトリーを守って、あるいは拡張しようと、互いに戦っていた。それがいったん統一されると、突然に平和がやってくる

 もともと戦争ができたということは、それに消費するだけの剰余価値が、人的にも生産的にもあったということ。その余剰が、平和になると途端に、労働力や生産物としてあまってくる。その余剰が巨大古墳の築造に向けられた

 ところで、この時の大王は自分がこの国を統一したことをどうやって全版図の人びとに知らせたのであろうか。
 恒常的かつ平面的にひろく全国に分散する人びとに、新しい体制が到来したことを周知させ、戦うことをやめさせ、税の類を定期的に自分のもとへ集めさせるためには、税の一端として各地から労働力を供出させたと考えられる。

 北は関東から、南は壱岐・対馬などの島嶼を含む九州や四国にいたるまで、大王の力の及んだ限りの村々から人を集めれば、3000人から5000人に達するのはけっして不可能なことではない

 このようにして、この地には築造に携わる人々に倍する人間が集まったと想定できる。当時にあっては他所にない大集落となり、都市が生成する。
  本来なら出会うことのない人間同士が出会い、知り得ない情報と出会う。相まみえるはずのなかった思想や価値観、習俗や行動様式が出会い、さらに新しい思想や価値観を醸成したと考えられる。
 このようにして、人と物と知識が大潮流のように集中し、交じりあい、拡散し続けた15年余であった。

 すなわち、このような巨大工事をともなう事業は、一方的な収奪ではなく、かつてない範囲から人を集め、かつてない長い時間をかけざるを得なかったからこそ、それまでの部族連合体としての意識を、一挙に確固たる統一国家としての民衆の意識へ展回させる役割を果たしたと考えられる。

 

前項への反論(筆者の見立て)
 大成建設チームの大仙古墳築造シミュレーションは土木専門家の知見が結集された素晴らしい内容と考えます。技術的検討については首肯できますが、古代史に関係する内容に関しては筆者の見解は大きく異なります。今までのブログで言及した繰り返しになりますが、反論の内容は以下の通り……。

〇 今までのブログで何度も繰り返してきましたが、ヤマト王権の統一はゆっくりと進んだのであって、5世紀初めにかけては大和地域でさえも統一された状態ではなく、幾つかの勢力の均衡によって統治されていたと考えます。ましてや、九州や関東北部にまで徴税権を確保し、それと引き換えに労働力を徴発することなどあり得なかったでしょう。

 第一、各地域ではほとんど同じような時期に、自らの大規模集落を建設し、大規模古墳を築造することに、自らの勢力を割かねばなりませんでした。とてもヤマト王権に労働の民を派遣するなどの余裕はなかったはずです(第18回ブログ)。

 

膨大な労働力動員の謎
 最大の謎は、この一大土木工事が、全国の総人口がわずか100万~150万人程度の古墳時代に施工されたことです。想像を絶する動員力だったわけです。

 鬼頭宏氏によれば、日本の総人口は弥生末期が59万人、奈良時代初めで450万人と見積もられています(第20回ブログ)。
 ここから内挿法で4、5世紀を推定すると、ちょうど100~150万人くらいになります。このうち生駒・金剛より西側の河内・和泉・摂津だけをとれば10万人弱となるでしょうか。その中から重労働が可能な人数を見積もれば1万人くらいとなりそうです。

 したがって1万人の母数から最大3000人の直接労働力を動員したことになります。

 しかも、大仙古墳だけで16年間にわたり3000人が使役されるわけですが、この河内地域では陸続として古市や百舌鳥にある大規模古墳の築造が続きます。同時期に2~3の築造工事がラップしたものと思われます。河内・和泉・摂津地域だけでは足りず、その頃には大規模古墳の築造が山を越えつつあった大和盆地や近江・伊勢・東海地域からも人員を徴発したとしか考えられません。

 この夥しい労働者をどこに住まわせどのように使役したのか、その実態は謎としか言いようがありません。「平地建物」のようなものが夥しく林立し、古墳造営キャンプのような状態だった(第87回ブログ)とも言われますが、住まいを含め一般民衆の生活実態はほとんどわかっていないというのが現実です。

 いずれにしても、この時代にはすでに、システム化された組織工学的な発想があったとしか考えられません。また、王権が安定することによって、それまでのたび重なる戦争で消費されていた人的・生産的な価値が、余剰分として巨大古墳の築造に振り向けられたとも考えられます。この点、大成建設チームの見立て通りと思います。

 常軌を逸したとしか思えない一大工事ですが、動員された夥しい数の民衆は、果たして奴隷的な扱いで酷使されたのでしょうか。

 

巨大古墳の築造は圧政の象徴か?
 巨大前方後円墳の築造は、高度な土木技術が大前提ですが、それに加えて多くの民衆を動員できるだけの政治的安定と経済力の蓄積が絶対的な条件です。4世紀以降のヤマト王権は大和・河内に加えて近江・伊勢・東海などの近隣地域を影響下に置き、多くの動員を要請できるだけの力を蓄え、民衆からも一定の信頼を得ていたと思われます。
 各地域国家においても同様な図式のもとで古墳が築造されたことでしょう。

 もしもこれが民衆を奴隷のように扱い、搾取するだけであったならば、数百年もの間、熱病に取りつかれたかのように、日本中で数多の古墳を造り続けることなどあり得ません
 首長から民衆まで、運命共同体としての一体感がベースにあったに違いありません。

 民衆は労務提供だけでなく、墳丘上で行われたであろう神祀りを眺めることで、首長一族らを中心とする心理的な共通基盤がつくられたのでしょう。もちろん農作業を放り出して土木工事を行なうわけですから、 何らかの経済的な給付(稲束・稲藁など?)はあったでしょう。

 ヤマト国は、そういう全体的な仕組みまで含めた前方後円墳祭祀を開発し、それが日本各地に伝播したと思われます。そうでなければ数百年もの間、続くわけはありません。
 実際、古代の日本にも奴婢や奴隷らしき存在が認められるようですが、それは単に特定の人に所有され保護下にあることを意味するだけであって、ピラミッド築造で酷使された奴隷とはまったく質が異なるという見解があります。

 〇 古墳の築造には大勢の民衆が動員されたが、一方的な労務提供だけでなく、墳丘上で行われたであろう「神祀り」を眺めることで、首長一族らを中心とする心理的な共通基盤がつくられたと思われます。公共工事ともいうべき古墳築造に民衆を駆り出しても、大王や王(首長)は感謝されたのではないでしょうか。運命共同体の一員として一体感が培われるわけですから。
 各地の首長たちは神まつりをすることで、素晴らしい統治手段としても利用したと思います。

〇 古墳での一連の儀礼が終了すると、その古墳から人の気配が一切なくなってしまうことが、古代シナの皇帝陵とは大きく異なります。

 大変な労力をかけて造ったモニュメント(記念的建造物)ですから、当面は、亡き首長の威光を伝える場として機能したものの、定期的な祭祀の対象とはならず、祖霊の依代(よりしろ)とはならなかったようです。
 被葬者の名は伝承されず、古墳は荒れ放題になってしまった。
 それに輪をかけたのは、当時は墓碑の建立や墓誌を副葬するという葬送儀礼がなかったことです(第105回ブログ)。

 

クフ王型ピラミッド建設のスタディ
 既に第107回ブログで言及したが、同じく大林組が1978年に試みた「クフ王型ピラミッド建設計画」は何度読んでも興味深い。
 大林組のプロジェクトチームが3か月間にわたってスタディした。

 クフ王の大ピラミッド建設には当時毎日20万人が働き30年を要したというが、 筆者がより強い関心を持ったのは、 次のようなレポートです。

 現代工法で施工したとしても、5年間にわたり3500人もの労働者の動員が必要とされたが、それにとどまらず、家族も考慮すれば、およそ1万人は築造現場に居住することになる。つまり現代でも、1万人が5年間にわたって居住する新しい街づくりから始めなければならないことがわかったという。

 ニュー・クフタウンを準備工事として着手することになるわけだ。 実際、古代エジプトではピラミッド建設のための巨大なニュータウンがつくられた。むしろこちらの準備工事の方が、本体工事をスムーズに進めるための最重要課題で、エジプト国王の腕の見せ所であったのかもしれない。

 近年の調査で、大ピラミッドを作った際、建設に携わった人たちの住居跡や彼らの墓地、通称「ピラミッドタウン」が発見されました。この遺跡を子細に調査した結果、約2~3万人が従事したと推定されています。現代人の想像を超える大ピラミッドの建設は、古代人の知恵と工夫に加えて、膨大なマンパワーで建設されたことが裏づけられたのです。

 こうしてみると、日本においても大仙古墳などの巨大古墳の他にも運河・灌漑池・道路建設などの大規模土木工事には、労働者の住まいの確保が必須の前提条件となるはずですが、このことは、4、5世紀の古代史のなかで意外にも盲点になっていますね。この方面の研究が遅れているように思えます。学界はこうしたことに無関心などでしょうか。

 大仙古墳のような巨大な墳墓を作り上げた理由として、海外から来る使節団にヤマト王権の権勢を誇示するためとも言われますが、あまりにも大きくてそばに近づいても全体の様子は皆目見当がつかない。この点については、第104回ブログで言及しましたので、巨大古墳築造という膨大なエネルギー消費の謎も含めて、そちらも参照ください。

 

参考文献
『よみがえる古代 大建設時代』大林組プロジェクトチーム編著