理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

137 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文解釈


<クレマチスの丘(静岡)>

 第135回ブログで言及した隅田八幡神社(すだはちまん、859年創建)所蔵の人物画像鏡について深掘りしてみます。
 隅田八幡神社の人物画像鏡は、青銅製で径19.9センチ。正確な出土年代や出土地は定かでないが、古代史を検討する際の貴重な同時代資料とされています。しかし、周縁部に鋳出しされた漢字48字の銘文は、読み方と解釈が難しく、研究者から多くの異説が出されています。

隅田八幡神社人物画像鏡の銘文
 神人歌舞画像鏡の同型鏡は、八尾市の郡川西塚古墳、藤井寺市の長持山古墳などで出土しており、朝貢に対する宋からの下賜品であると考えられています。これらの鏡をモデルにして、製作年や制作目的などを記した銘文を追加して新たに製作されたのが隅田八幡神社の人物画鏡とされているようです。
 また、文様を反転させその一部を脱落させてしまった隅田八幡神社の人物画鏡と全く同じミスを犯して製作された鏡が、葛城市の平林古墳で出土しており、平林古墳の鏡と隅田八幡神社の鏡は、同じ工房で作られたものと考えられます。

 これらの古墳の築造時期は5世紀中頃から6世紀後半とされますが、副葬品である鏡については、古墳築造時期よりも前から製作されていた可能性があることを無視できません。このため、干支の「癸未年」については503年説の他にも443年の可能性があり、どちらを採るかで古代史の組み立てに大きな違いが出てしまいます


 <隅田八幡神社の人物画像鏡(山川『詳説 日本史図録』から転載)>

 

 48字からなる銘文は下記の通りですが、実際は上図のように字句の切れ目はなく、連続しています。
 『癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加宮 時 斯麻 念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』

 大意は、通常、以下のような内容であると考えられています。
 「癸未(きび)の年八月 日十大王の年に、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮にいる時、斯麻が長寿を念じて、開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る」

 銘文の解釈については実に異説が多く、「日十大王」の「日十」や「男弟王」の「男」などは読み方が定まっていません。「癸未年」については、443年説、503年説が有力となっています。「斯麻」、「開中費直」、「今州利」は、それぞれ人名ということで一致しているようです。

 『詳説 日本史図録』の写真には次のような説明がついています。
 <銘文の癸未年には443年、503年の2説がある。503年とすれば男弟王は『日本書紀』に男大王と記される継体天皇と考えられる。意柴沙加宮は大和の忍坂宮で、オシサカを漢字の音を当てて表記した古い例である>。

 このあと、443年説と503年説の論点を比較しますが、ほとんどの古代史本に掲載され、いまや考古学者の間で定説のようになっている503年説の方から確認してみます。503年説を採る研究者の間にもさまざまな異なった論考がありますが、いずれも百済の武寧王と継体の間には親密な関係があったことに拘る点では一致しています。

 「」は筆者の見解です。

503年説
 郡川西塚古墳、長持山古墳、平林古墳などの築造時期が5世紀後半から6世紀後半なので、「癸未年」は503年とするのが妥当である(坂靖氏)。

  副葬品である鏡については、古墳築造時期よりも前から製作されていた可能性があることを無視できず、443年でも503年でもよいはず。古墳築造時期だけでは443年説は排除できない。

〇 『日本書紀』ではオケ・ヲケ兄弟は、市辺忍歯別皇子と葛城荑媛(はえひめ)の子で、兄のオケが仁賢大王、弟のヲケが顕宗大王であると記している。
 そこで503年説では、「日十大王」を、このオケ・ヲケ兄弟を指す「をし大王」と解釈する。
 「日十」の「日」は「日」ではなく、横に長い「曰十」とした場合は「をそ」と読む。そこで仁賢の諱(いみな)が「おおし」「おおす」なので、弟の顕宗の名を「をし」と推定し、「をし大王」を顕宗大王にあてるという理屈。
 「日十」とした場合は、「ヒソ」と読み、「ヒソ大王」を仁賢大王にあてることになる。

  いずれも音韻一致だけを頼りにするだけの心もとない根拠と言えるでしょう。

 『記・紀』のオケ・ヲケ兄弟の説話は、あまりにも劇的な内容で、大王家の血縁系譜には含めない方が良い。実際は、吉備・播磨の豪族出身の「をし大王」という実名の大王が存在し、後にオケ・ヲケ兄弟の説話として分化した。

  『記・紀』の説話は、播磨の志染川(しじみ)流域の「しじみ」の地の豪族に仕え牛馬の世話をしていた兄弟が、後に市辺押磐皇子の子として発見され、仁賢・顕宗として即位するという筋書で、現実にあったとは考えられない。したがってこれを史実としないのは同意。しかし、「をし大王」を吉備・播磨出身の大王と決めつけるのも飛躍が過ぎる。『記・紀』のオケ・ヲケ兄弟の説話はおそらく後づけされたものでしょう。

 「をし大王」の次の「男弟王」を「ヲホド王」と読み継体のこととする。

  一般的に継体の諱は男大迹や袁本杼(ヲホド)、継体の曾祖父は意富富杼(オホホド)と読まれている。しかし、厳密には継体を指すヲホドは当時「ヲフォド」という発音だったと推定されるのに対し、「男弟」の読みは「ヲオト、ヲオド」と推定されるので、これを「ヲフォド」に擬するのは音韻上、いささか無理があります。

 「をし大王」は、あくまで葛城の忍海の出身と考える。オケ・ヲケ兄弟の姉、あるいは市辺押磐皇子の姉もしくは妹とされる飯豊皇女は忍海に深くかかわっている。また、オケ・ヲケ兄弟の母は、葛城蟻臣の子の荑媛(はえひめ)とされているので、父母の双方が「かづらき」地域と関係が深い。
 また、「曰十(をし)大王」の次の「男弟王」を「孚第(ふと)王」と読み、継体のことと解釈する。『日本書紀』にはヲホド王の別名として彦太尊(ひこふとのみこと)とある。「意柴沙加宮」は桜井市忍阪(おっさか)の地にあったであろう「忍坂宮」と解釈する。以上から、「かづらき」の忍海を出身地とし、その後、忍阪遺跡周辺に進出したのが「をし大王」で、その王位を引き継いだのが「ふと王」すなわち継体である。つまり、男弟王を即位前の継体とみなす(坂靖氏)。

  「磐余玉穂宮」(526年遷宮)の前に、継体が「忍坂宮」のある桜井市に入っていたこととなり『日本書紀』の記述と矛盾する。

〇 「ふと(オオド)王」は、「をし大王」とは血縁関係にないが、大王位につく前に大和に入って、大王家の外交集団の助けを得て百済の武寧王と交渉をおこなった。オオド王は父母の代から、各地に支援のネットワークを有していて、ヤマト王権の王や「かづらき」の王とも強く繋がっていた(坂靖氏)。

  継体を擁立したのは、葛城氏の権勢を快く思わない反葛城連合(物部氏・大伴氏など)とされています。大和盆地西側を拠点とする葛城系の勢力(平群氏・巨勢氏・忍海氏など)は、継体との接点が少ないか敵対していたために即位後19年間大和に入れなかったとする説は成り立たなくなる。これは503年説の致命的な欠陥だと筆者は考えますが、坂靖氏をはじめとして503年説に立つ研究者はここには触れず知らん顔で済ましているようです。

 503年説では、「斯麻」は百済の武寧王(在位:502~ 523年)であり、即位前の継体が忍坂宮にいた時に、即位直後の武寧王が、カウンターパートの日本の大王ではなく即位前の継体に「長く奉る」ことを誓ってこの銅鏡を贈ったことになりますが、これは全くもって不可解な解釈と言えませんか。継体の在位期間は507~531年です。
 水谷千秋氏は、この鏡は、「意柴沙加宮」という大和国の具体的な地名を挙げていることから、銘文は日本で書かれたに違いない、つまり百済王から贈られたものではないのではないかと疑問を呈しています。

 503年説については、この先のブログで、継体大王を取りあげる時に、再度検討することにします(来年になりそう?)。

443年説
〇 通説では「日十大王年」と読まれている5字については、「日下大王年(くさかおおきみのとし)」と読むことも充分に考えられる。なぜなら皇子や皇女を「大王」と読んだ例は多い。また「下」を「十」と減筆することもあり得る。そこで、日下大王は大草香皇子(454年没)のことと解釈する(今井啓一、森浩一)。

 443年は済が宋に使いを遣わして「安東将軍倭国王」の称号を得た年であるから、大王は允恭を指すものと解釈する。また、意柴沙加宮は允恭の皇后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかひめ、雄略の母)の宮処となる。ちなみに『古事記』『上宮記』によれば忍坂大中姫には意富富杼王(おほほどのおおきみ)という兄弟がいるとされるので、「男弟王」を「大王の弟の王族」と解釈し、意富富杼王をあてる。

 銘文の後半の「斯麻王」は、同時代史料からみて百済の武寧王であろう。つまり、この鏡は、日下大王の年に、百済の武寧王が河内に来ていた百済の工人に命じて作らせたと解釈できる。

  443年説では、鏡を作らせた「斯麻」を武寧王とすることはできない。武寧王の在位(502~523年)と時代が全く合わず、これこそが443年説の致命的な矛盾です。

 

  以上を大雑把に纏めてみると、
 鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」を、当時ヤマト王権と同盟関係にあった百済の武寧王(別名斯麻王)に比定すると、継体は、大和磐余玉穂宮(526年遷宮)で大王位につく前に大和盆地に入り(『日本書紀』の記述と矛盾)、百済の武寧王と交渉を行なっていたことになります。父母の代から、各地に持っていた支援のネットワークに加え、ヤマト王権の王や「かづらき」の王とも強く繋がっていたことになり、大和盆地西側を拠点とする勢力の抵抗に遭って継体が長期に渡って大和盆地へ入れなかったとする古代史の通説が崩れてしまいます。

 継体自身が大和入りを拒否し、樟葉・筒城・弟国あたりに、「簡易な宮」ではなく「本格的な王都」を定めようとする構想を持ち続けていた可能性もありますが、その場合、なぜ19年も経た人生の晩年において、急に大和入りしたのでしょうか。

 これでは、銘文の癸未年を443年とする説、503年とする説のどちらも大きな矛盾を抱えているということになります。
 現時点、筆者は、継体は葛城系勢力の抵抗を受けて即位後19年間大和に入れなかったという立場に立っているので、443年説を採りたいのですが、「斯麻」を武寧王に当てることができないとすると、それはいったい誰なのか……。

国語学から紐解く第三の説
 以上の論考に対して、「男弟王」を継体と見る503年説や、「意柴沙加宮」を「忍坂大中姫」と関連づける443年説とは異なり、純粋に国語学の立場から銘文を紐解くのは石和田秀幸氏です。

 銘文には、地名や人名を表記したとされる「日十大王」「男弟王」「意柴沙加宮」「斯麻」「開中費直」などがあるが、「斯麻」を「しま」と読む以外は、どれをとっても用字法に難しい問題を抱えており、確定した読みはないと言ってよい。それを以下のように紐解いてみる。

 比較的異説が少ない「開中」を「河内(かふち)」と読むことについても、次のように無理がある。
 「カイ又はカフ(開の音)」+「うち(中の訓)」として「かふち」と読ませる音訓交用は時代的には遅れて、6世紀中期以降に現れる表記法である。
 今まで 「開」と読まれてきた字は「歸」の減画略字であり、「中」は 一音節地名を二字化するための添詞の用法で不読となり、上字の 「歸」の音だけ「き(乙類)」で読み、「歸中費直」(きのあたひ)とするべきである。
 鏡を大王に献上する使者に任命されたこの紀直が、鏡の銘文作成にも参画していたと考えたい。

 「大王年」は「大王の年(御代)」で良い。「癸未年」 と「大王年」と「年」が二つ重なるが、年号が二つ併記される例があり、「大王年」で問題はない。

 「日十大王年」 の十の直前の字がいったい「日(ひ)」なのか、横に長い「曰」なのかで論が分かれる。
 「日十」は大王名であり、しかも音で書かれているはずである。
 「日」を「ひ」や「か」のような訓の表記とする説は排除される。
 銘文の「曰」は右上が切れた字体で、これは「日(ひ)」と区別する ために意図的に使われた「曰」の異体字と考えられる。

 
 「曰十」の写真     「曰」の他例

 「曰」は百済や古文献の用法から「を」と音で読むことは自然。「曰佐氏」(をさ)という同族を持つ紀氏にとって、「を」の表記は「乎」ではなく、「曰」がふさわしかったと言えよう。

 「男弟王」の「男」字が異体字であり、「男」以外に「乎」「孚」などの異説が存在する。 しかし、「男」「乎」「孚」のどれを取っても、「弟」の訓「おと」 と結びつけて、継体を指すとする読み方には、国語学的に問題があり認められない
 継体の諱は「男大迹」、「乎富杼」、「乎富等」などすべて共通して「をほど」を表記したものであり、「男弟」や「乎弟」は「をおと」としか読めない以上、違う名前と言わなければならない。
 「男弟」は訓による表記、「乎弟」は音訓交用表記であり、訓を使っている点にも無理があって、この時代の表記として相容れない。「孚弟」もまた音訓交用表記である。 

 結局、「男弟王」は大王名を表記したものではなく、定説のように普通名詞と見て解釈するのが良いのであろうか。しかし「男」字の上の「田」の第一画の左縦画はつながっていないから、「田」の形を成していない。ここで「男」字を白紙にもどし「□弟王」として以下の検討を加えてみる。


 「男弟」の写真

 「□弟王」が「在意柴沙加宮時」という表現の意味は、「意柴沙加宮」は大王の住む宮であり、その宮にいたその「時」こそが大王の治世の時代であると言挙げしたものといえよう。
 そうであれば、「大王」「□弟王」を二人の王と分けて考える必要はなく、「曰十大王」と「□弟王」は同一人物であり、王統に連なる弟王が「曰十」という名の大王となって「意柴沙加宮」で政治を執ったものと見ればよい。

 「□弟王」の「□」字に隠されている 真の意味であるが、今まで「男」と思われて来た字について、他の古文献の使用例から「予」とすることができる。すると「□弟王」は「予弟王」となり、これは音仮名では読めず、正字で読むしかなく「吾が弟の王」の意となる。そのことにより、銘文は次のように解釈される。

 「癸未年(503年)8月、曰十大王の御代、予(私)の弟王が 意柴沙加宮で天下を治めています時、(私)斯麻が(王に逆心な く)長く奉えまつることを約束し、歸中費直と朝鮮穢族の人、名は 今州利の二人を遣わし(この鏡を奉呈します。)

 これで「斯麻」が誰かが明らかになったことになる。「曰十大王」の「曰」は「を」と読むが、5世紀から6世紀初頭にかけて、「を」を名前の一部に持った大王は複数見える。しかし、「斯麻」という兄がいる大王は一人しかおらず、それは「島郎」「島稚子」と呼ばれた兄を持ち、「弘計」「袁祁」の王名で呼ばれた顕宗である。

 「十」は「弘計」の「計」の省文である。「銅」が「同」へ「鏡」が「竟」になったように「計」も「言」を除いて「十」に減筆されたものであろう。

 「斯麻」という人物(億計王)は顕宗に続いて大王となり、 仁賢となるのだが、鏡銘の「癸未」が503年であれば、この時まで顕宗の時代が続いていたことになる。

  ここまでは目から鱗が落ちる思いですが、最後の「503年が顕宗の時代」というのはちょっと問題かなぁ。
 ただ、国語学の立場から「男弟王」を継体に比定することは困難としているので、継体が即位前に大和に入り武寧王と誼を通じていたという不自然さは排除され、即位後19年間は大和に入れなかったという可能性は残ります

 以上のような石和田秀幸説は、専門の国語学からの紐解きであり、論理的で明解です。しかし「オケ・ヲケ」兄弟王の説話を造作であると考えている筆者としては何とも苦しい胸の内……ということに尽きます。

 さて、今後のブログで言及する予定だが、5世紀後半から6世紀初頭にかけて、清寧の在位期間は5年間、顕宗の在位期間は3年間、仁賢は11年間、武烈は8年間と記述されていて、4代を単純に合算すると僅かに27年に過ぎない。雄略の没後、継体が即位する507年までの間は、国内政治が相当混乱していたことは確かで、大王として実権を握っていた人物が存在していたか不明確という根本的な問題が残ります。

 

参考文献
『倭国の古代学』坂靖
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『倭国 古代国家への道』古市晃
『継体天皇と朝鮮半島の謎』水谷千秋
『古代史おさらい帖』森浩一
『日本語の発音はどう変わってきたか』釘貫亨
『日本書紀3』坂本太郎他3名による校注 岩波書店
『男弟王と斯麻は誰か』石和田秀幸
他多数