理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

142 雄略後のヤマト王権は大混迷


  <母と子の森(京都御所)>

 今でこそ私たちは「ヤマト王権」という言葉を当たり前に使い、王権の順調な成長隆盛を思い描きますが、これは後世の歴史を知っているからそう呼ぶのであって、5世紀後半から末にかけての古代史の理解には慎重さが必要と思います。実際、この時期のヤマト王権は成長するのか衰退するのか、どう転ぶか分からなかったというのが正しい理解では。
 雄略の時代はヤマト王権が権限を一手に掌握し専制化を完成した画期とみる説が有力ですが、筆者は賛成しません。

 一見、専制国家を成立させたかに見える雄略の、そのすぐ後にヤマト王権は大混乱に陥ってしまうからです。
 5世紀の後半、允恭・安康・雄略が大王位を継承する間に、一方の権力の中心にあった葛城の勢力は実質的に衰退し、瀬戸内の雄だった吉備氏も衰亡しますが、同時に王権内でも大王位をめぐる争いが激化し、大王家は雄略以外に有力者が存在しない事態を招いてしまいます。
 そして、肝心要の雄略が没した後に、この異常事態が顕在化することになります。

 

雄略没後のヤマト王権
 『日本書紀』によれば、6世紀初めの継体即位までの四半世紀の間にヤマト王権の大王位は以下のように推移した。

 雄略の子、清寧は星川皇子の乱を大伴室屋などの活躍により見事に平定した。その後、かつて雄略によって殺害された市辺押盤皇子(いちのべのおしわのみこ)の遺児で、都から落ち延びていたオケ王(仁賢)、ヲケ王(顕宗)が播磨で発見された。清寧は彼らを都に迎える際に、「自分は子がなくて困っていたが、良い後継ぎができた」と言って喜んだという。話が出来過ぎているし、彼ら兄弟は憎むべき葛城系の後継ぎに当たるのに……。

 清寧は即位後わずか5年で崩じた。

 その後は、オケ王(仁賢)、ヲケ王(顕宗)が相次いで即位するが、互いに即位を譲り合って空位となった1年足らずの間、イチノベノオシワノミコの妹(または娘)の飯豊皇女が大王位を中継ぎした(仮に政を行なった)ともされる。

〇 顕宗は3年、仁賢は11年で亡くなり、短命が続く。

 仁賢が亡くなると、平群真鳥(へぐりのまとり)は国政をほしいままにして日本の王にならんと欲した。

 498年頃と思われるが、表向きはまだ太子だった武烈のための宮を造営することにして、完成すると自ら住みこんだ。

 武烈(まだ太子)は物部麁鹿火(もののべのあらかい)の娘の影媛を娶ろうとして、海石榴市の辻で会った。しかし影媛が以前、真鳥の子の鮪(しび)と通じていたことを知り、無礼な平群父子の態度に烈火のごとく怒る。
 武烈は大伴金村に命じて数千の兵で鮪を討ち、その後、平群真鳥の屋敷を焼き払い、真鳥は殺されてしまう。
 もともと、平群真鳥は456年、雄略の即位時に、大伴室屋と物部目を大連とした時に、同時に大臣に任じられており(第136回ブログ)、これが平群父子の驕りの始まりでもあった。

 仁賢の子、武烈が即位するが、彼は暴虐の限りを尽くしたともされる。この暴虐の描写は大王の品位を過度に貶めているようで真実味に欠ける。シナの易姓革命を思わせる。
 武烈の乱行は殷王朝の紂王の酒池肉林の記事と類似する。『日本書紀』によれば、武烈は18歳で生涯を閉じているので、その若さと酒池肉林らしき所業から考えても武烈の記事の多くは捏造の可能性が高い。一方、「長りて刑理を好み......」という記事もあり賞嘆する評価も載せている。次の大王、継体の即位は異常なもので、それを正当化するための捏造だったということだろうか。
 506年、武烈崩御。

 6世紀初頭に継体が即位するまでの四半世紀余りの記述は、武烈に限らず絵空事の連続のようで、まるで伝奇物語を読んでいるような気がします。

 

雄略後、継体即位までの王権は大混迷か?
 雄略と継体については実在を疑う余地はなさそうです。しかし、その間の4代については実在そのものが定かではありません。

 在位期間は清寧が5年、顕宗が3年、仁賢が11年、武烈が8年で、4代合計しても27年にしかなりません。

 しかも、4代の宮の所在地は、大和盆地の磐余、飛鳥、石上、泊瀬となっていて、清寧の前の允恭、安康、雄略の3代がそれぞれ飛鳥、石上、泊瀬と、同じ順序でその所在地を巡回しているのです。この後の継体が大和盆地に入って磐余玉穂宮に居を構えたことまで合わせると、允恭から継体までの8代が、この4ヶ所の宮を順序正しく巡回していることになりますが、こんなうますぎる話があるでしょうか。宮自体の実在性も怪しくなってきます。

 考古学の面からは5世紀のヤマト王権の拠点が磐余、飛鳥、石上、泊瀬の4ヶ所に存在したことは、遺物の出土状況からみて史実と見て良さそうです。
 ということは、政治拠点の存在が『日本書紀』の記述に反映されたものと考えられそうです。

 以上のような『日本書紀』の記述からは、継体が即位するまでの間、国内政治が相当混乱していたことは間違いないでしょう。大王として実権を握っていた人物が存在したのかどうかも不明確で、大王系譜も不確かです。

 

大王位後継者候補の欠乏
 武烈が亡くなると、王位を継承すべき男子がいなくなってしまいます。以下、『日本書紀』の記事からの抜粋です。

 雄略の子には、清寧以外に吉備氏系の磐城皇子と星川皇子がいたが、雄略の没後に反乱を起こして滅んでいる。

 清寧は若くして亡くなり、妃の記事もなく子の存在も認められない。

 顕宗は、允恭の曽孫の難波小野王という女性を妃にしたが、子はなかった。

 仁賢は子が7人いたが、武烈以外はすべて女性だった。

 以上のように、直系では男子の王が極端に欠乏する事態となってしまった。

 5世紀後半には、王族同士による激しい王位継承争いで、直系以外でも多くの王族が殺害されている。雄略は即位に際して、兄2人、いとこ3人を殺害している。

 こうして5世紀末から6世紀初めには女の王族はいても男の王族がいなくなってしまった。正確に言えば、一世王(父を大王に持つ男子)が皆無になってしまったということになります。

 結論として、雄略の時代に王権の専制化が完成したとする評価には再考が必要なことを物語っていると思わざるを得ません。

 

参考文献
『倭国の古代学』坂靖
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋