理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

143 古代国家は専制君主制が継続したのだろうか?


 <近江八幡堀>

 第135回・136回・138回ブログを振り返ると、ヤマト王権は雄略の時代に専制化したかのように思えます。しかし前回のブログでは、雄略以後の王権内は大混迷であったと綴りました。混迷の後、7、8世紀にかけてヤマト王権(大和政権)の政治体制はどのように推移していったのでしょうか。

 

マルキシズムに毒された古代史?
 大東亜戦争後、一世を風靡したマルクス主義史学では、資本制生産に先行する土地所有形態として、アジアでは共同体的土地所有を基礎にした専制君主制が必然的に成立するとされていました。東洋的専制君主制と呼ぶらしい。そのため、専制的な古代国家をイメージする傾向はマルキシズムに毒された学者に多く見られます。

 もっとも極端な説では、4世紀までに形成されていた統一政権は、5、6世紀の雄略・継体・欽明の時期に軍事的専制政権へと向かい、さらに専制の度合いを高めながら律令国家へと繋がっていくというものです。

 この見方は、古代の政治体制を科学的に紐解く際の大きな障害となりました。
 理系の視点で古代を眺めればそんなことはありえないと容易に判断できるのですが……。

 戦後古代史をレビューしてみると、シナの史書優先着眼活用、邪馬台国至上主義、王朝交替説などとにぎやかで、さらに『記・紀』の徹底的な排斥もありました。そこに全く異なる視点からではあるが、マルクス主義の唯物史観が大きな影響を及ぼしてきたわけです。
 当ブログでは、科学的な視点を大切にして、古代史を綴ってきました。ここで古代の祭祀と権威・権力の関係、ならびに古代の日本においては専制化が容易ではなかったことの2点について、今までのブログの中から抜き出してレビューしてみます。

 

今までのブログのレビュー
《第14回ブログ》
 4世紀末から5世紀にかけての対高句麗戦争の際、ヤマト王権は北方ユーラシアの騎馬民族に伝わる王権思想に接触し、天から降臨する建国の神をタカミムスヒとする王権神話を作り上げたとみられます。天に由来する王権思想は、高句麗経由で、百済・新羅・加羅など半島諸国が軒並み取り入れた当時流行の普遍的思想でした。

 溝口睦子氏によれば、5世紀の日本はそれまでなかった馬の文化や新しい武器・武具を取り入れ、金属加工・土器・織物・建築などの先進技術や文字文化の導入を行なったが、国家体制の変革という面で何よりも必要とされたのは、新しい政治思想であって、それは王の出自を天に求める降臨神話の導入でした。

 おそらく、4世紀頃までのヤマト国(ヤマト王権の前身)は、地域豪族が祭る神(国魂)と同格の神を祀っていたので、突出するシンボルを必要としていたのでしょう。
 ヤマト王権は、列島内で勢力を拡大するも、いまだ権力基盤は盤石ではなく、専制的な統一政権へと突き進むためには、唯一絶対の権威を持つ至高神の存在が必要でした。

 雄略の頃にタカミムスヒを王権の最高神に位置づけ、継体から欽明の時代にかけてオオヒルメムチ(ないしはアマテラス)が登場し、欽明の時代に王権神話の原形が完成したと考えられます。そして天武の時代以降、王権神話に磨きがかけられて、「記紀神話」に集約されていったわけです。

 門脇禎二氏は、「いくら強大な国家や民族の王室であっても、膨大な土地をもち、強力な軍隊をもっても、世俗的権勢を主にした王室はみんな滅んでいる」と言います。ヤマト王権はアマテラスを頂点とする皇祖神信仰を整備し、権力というよりは宗教的権威をもって、以降もずっと存続し続けていくのです。

《第26回ブログ》
 古代史を俯瞰するには、「人・モノ・情報のネットワーク」という視点が極めて重要。
 ネットワークが形成されるためには、自然障壁を突破する交通インフラの整備・充実が必須で、それを下支えする技術の進歩が絶対的な必要条件です。

 古代の日本列島は、山は険しく越えるに難あり、平野部も多くの場所が沼地や湿地、あるいは原生林や藪の繁茂する状態で、人が行き交うにはあまりにも過酷でした。これらはすべて伝播・交易・交通・進攻の邪魔をする自然の障壁です。

 このような自然障壁で区切られた閉鎖空間の中で、人々はムラやクニを形成していました。外に出るには自然障壁を突破する必要があります。古代の政治・経済・文化は、自然障壁を突破するための交通インフラの整備に比例して進展したと考えられます。

 ヤマト王権にしても、地方豪族にしても、統治を確実なものにするためには、域内の交通を至便にすることと、軍の派遣が迅速にできること、情報の授受が間断なく出来ることがとりわけ重要でした。交通路が貧弱では盤石な支配は不可能だったのです。

 古代の交通路や交通手段は、次のような8つの固有技術があって、はじめて大きく進歩・進化したと考えられます。

1 船・舟の製作技術
2 航海技術
3 交通路の啓開・開削技術
4 木材の加工・組立技術
5 工具・道具の進化
6 鉄の鍛冶技術
7 製鉄技術
8 文字の使用による情報伝達技術

 

《第38回ブログ》
 次の2項は筆者が特に重要と考えている仮説です。

〇 大和政権が4世紀以前から畿内地域を統一・支配していたとする『記・紀』の記事は正しくない。

〇 それどころか、5世紀初めにかけては大和地域でさえも統一された状態ではなく、幾つかの勢力の均衡によって統治されていた。

 

《第42回ブログ》
 古代史学界では、神聖化された天皇を頂点として官僚や貴族が地方や一般民衆を支配するという、専制的な古代国家をイメージする傾向が支配的です。
 しかしこれは、日本の古代国家の姿が、7、8世紀頃の律令国家のイメージに引きずられて類推されたもので、事実とは異なると言えそうです。

 日本列島に広く点在する長さが200メートル超の巨大前方後円墳の存在は、畿内にひときわ強い王権があったとしても、各地域国家にもそれなりの勢力をはった王たちがいたと考えざるを得ないでしょう。

 実際、6世紀より前の古墳時代は、おしなべて分権的な政治構造が継続しました。

 畿内では勢力を拡大できたヤマト国も、交通インフラの整わない遠隔地を容易には征服できず、中央集権化に長い年月を要しました(無論、この間、局地的には政治連合や連携はあり得たでしょうが……)。

 このことと、ヤマト国の前方後円墳祭祀に共感した地域国家が多数存在することとは何の関係もありません。
 古代ギリシャでは都市国家間の抗争が、政治的な征服や統合にはつながらなかった。一時的な軍事同盟はあったが、ギリシャ全体での統一的な軍事組織ができることはなかった。
 この経緯は5世紀頃までの日本列島の状況に酷似しています。

 

 さて、ここからは一見して専制体制を築いたかに見える雄略以後、律令政府が始まる8世紀に向けて大王専制はどのように変遷したのか確認していきます。

 

大王専制は7世紀半ば頃まで続いたのだろうか
 石母田正は、マルクス主義に基づく唯物史観的観点から古代史を追究した歴史学者で、8世紀の律令国家を東洋的専制国家であると位置づけています。

 それはひとまず置くとして、日本の古代の実態は、君主的形態をとった貴族制的支配であって、専制君主が存在したという見解からは程遠いものだった。シナの皇帝と同じような専制的絶対君主としての天皇の姿は建前に過ぎなかった。天皇は、制度上は君主として存在したが、実際はそれほどの力はなく、むしろ豪族による合議制によって政治が運営されていたとみるべきでしょう。
 当ブログでは、この先、継体・欽明の時代を綴ることになりますが、まさにその政治体制の様子を描き出すことになるでしょう。

 さて、これら大王権力の浮沈についての推移ですが、以下に概括してみます。

 雄略以前の5世紀前半頃は、大王(ヤマト王権)は葛城氏との連合政権を維持していたと考えられる。

 5世紀後半の雄略が、大伴氏・物部氏といった軍事氏族を使って、葛城氏・吉備氏などの有力豪族を制圧し、専制的な権力を獲得したことまでは間違いない。

 しかし、雄略の没後については、次のような2つの見解がある

 井上光貞・佐藤長門・川尻秋生説
 少々乱暴に括ってしまえば、大伴・物部の軍事氏族を手足として使いこなした大王家の専制権力が、雄略の没後、継体・欽明にも継続し、その延長線上に推古の政治があり、大化改新がある、という説です。

 この反対説
 5世紀末頃からヤマト王権を構成する諸豪族の力が増していくのと対照的に、大王の力は衰えていった。6世紀以降、中央では大伴氏、次いで物部氏が権勢を誇り、6世紀中頃には蘇我氏が現われ、物部氏を滅ぼして大化改新まで権力を独占して王権の政治を運営した。

 2つの見解のうち、筆者は、ヤマト王権の政治機構は充実し複雑化していった一方で大王の地位は埋没し疎外されていったと考えます。

 継体の即位をめぐって長く対立していた中央の豪族たちが、磐井戦争を経て、九州勢力の中央からの自立化という危機に直面して、継体のもとで結束を取り戻した。

 大王の権威は低落していったが、一方で大王の権力よりも畿内の中央豪族による合議を重視していく。

 以上から、政治体制は次のような3つのフェーズを辿りながら変遷したと考えられる。

1.雄略以前は、大王と各地の首長による個人的な同盟関係をもとにした政治体制。

2.雄略の時代は、(不十分ながらも)初期の「人制」または「トモ制」という機構を利用した専制君主制。

3.継体・欽明以降は、大王と中央豪族をメンバーとした合議制。

 

畿内の中央豪族合議制の特色
 雄略以後、しばらくの間、雄略の時のような専制君主は途絶える。
 中央豪族合議制は大王専制ではない。『日本書紀』の記述からは、豪族合議制は大王の専制を保障するための機関にすぎないとは思われない。

 多くの場合、合議の結論が大王によって承認されている。

 この合議からは地方豪族は排除されている。吉備氏や筑紫氏はもちろんのこと、毛野氏、尾張氏などもこのメンバーではない。
 畿内の中央豪族がメンバーであって、ここに中央と地方に決定的な格差が生じた。

 大臣・大連・大夫(まえつぎみ)の地位にあってこの合議に参加する者のみが重要な決定に参画できた。

 

では、大化の改新後は?
 大化前夜・大化改新・天智・天武の時代を経て、大王の権力は絶大なものとなり、一方、最大最強の勢力を誇った蘇我氏の本宗家は滅亡した。

 石母田正は、6世紀から7世紀半ばまでの大化前代の支配体制を「王民制」と呼び、部民制や屯倉制を土台とする秩序と、国造制を土台とする秩序という2つの秩序から成り立っていたとする。そして蘇我氏主導の時代の「王民制」が「それ自身の矛盾によって解体」していく中で、新たな体制、すなわち大化改新が起きたとしています。

 従来の氏ごとの「タテ割り」的体制から、「人民を居住地において地域的、包括的に把握し、編戸し、それに対応して権力を重層的に構築する領域国家」への転換であったといいます。いかにもマルクス主義的発想です。

 史実としては、蘇我氏は豪族合議制の基盤である氏族制度の下にあっても、中央集権的な唐の官僚制度を導入することを進めていた。大化改新以降、天智とその側近は、その蘇我氏の開明性・進歩的文化性を横取りして、古代の氏族制度を近代的な官僚制度に脱皮させた。これに天智・天武による律令制度が継ぎ足されて国家体制が完成したと考えられる。蘇我氏が権力を行使することへの危惧だけから、大化改新が起きたわけではありません。

 天武の時代は皇親政治と言われるが、正しくは天皇専制であって、天武から持統、持統から文武へといった皇位継承には、もはや豪族たちが口をはさむ余地は残されていなかった。大化改新から天智、天武を経て、天皇の権力は高まり、専制化し、王権の質は変化した。

 こうして、6世紀から7世紀半ばまで確かに存在していた中央豪族による合議制は、8世紀には形骸化していったと思われます。

 当ブログは、6世紀の欽明の頃までを対象としてスタートしたので、今後、大化改新前後の政治状況に言及することはないかも。

 

参考文献
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
他多数