理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

83 古代国家成立プロセスと万世一系の捉え方

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 当ブログは、この先、「ヤマト王権の発祥と成長」について筆を進めていくことになりますが、その前に明確にしておきたい点を2つばかり述べておきます。

古代国家成立プロセスに関する2つの捉え方
 3世紀から6世紀末にかけての古代国家成立プロセスに関しては、版図の拡大スピードについて、大きく2つの捉え方がありますね(第70回ブログの追記でも言及した)。

 ひとつは、前方後円墳・三角縁神獣鏡・布留式土器の分布圏がほぼ一致することから、ヤマト王権がこれら広範囲の分布圏に比較的短期間に支配権を確立したとする見解。

 もうひとつは、地域国家の実態に光を当て、前方後円墳などの分布は経済交流や文化伝播による結果であるとし、ヤマト王権は5世紀頃までかけて徐々に版図を拡大していったとする見解。しかも6世紀になってもなお、盤石な政権基盤は確立されていなかった……と。

 日本列島のクニは山、海、河川などの自然の障壁によって細かく細分化された空間に展開しているため、人・モノ・情報のネットワーク(第25回ブログ)が充実・進化するまで各クニの合従連衡は進みにくかった。ヤマト王権においても同様です。

 騎馬隊が活躍できる大平原があり、緩やかな大河が走る欧州やシナの古代征服戦争とは違います。これと同じようなことを日本の古代に当てはめてしまうと、大きな過誤を犯します。

 今まで、古代の自然障壁(第40回~46回)について、さらに古代の交通インフラ(第51回~57回)について多言を弄してきましたが、人・モノ・情報のネットワークという観点から古代を俯瞰するのは、理系的視点で古代史を紐解く筆者のスタンスでもあります。


 ヤマト王権による版図拡大のプロセスについても2つの見方があります。
 ヤマト王権の勢力拡大に関する通説は、婚姻政策や地方豪族に対する前方後円墳築造の許可などによって、平和的に版図を拡大していったというものです。
 これに対し筆者は、ヤマト王権はかなり好戦的な勢力だったと考えています。

 ヤマト国が大和盆地内に留まっている「纒向のクニ」の時期は、弥生時代までのクニ・ムラが互いに比較的平和共存できていました。しかし3世紀後半以降のヤマト国(ヤマト王権)は政治力・経済力の強化は勿論ですが、とりわけ軍事力を急速に充実強化して版図を拡大していったものと考えます。
 『記・紀』の記述を見ても、政権内部の争い、各地の豪族との戦闘の場面が頻出します。


 好戦的というのは、もちろん実戦のみでなく戦力的優位で周囲を威圧して服従させていくことも含みます。
 
 筆者は、後に大和政権となる権力集団は、発祥から大和政権に至るまでに次のような段階を経たと考えています。

第1段階:2世紀~3世紀初め 大和盆地東南部のごく狭いムラの時代
第2段階:3世紀前半~3世紀末 纒向のクニからヤマト国へ
第3段階:3世紀末~4世紀前半 大和盆地内から南山城・丹後へ影響力行使
第4段階:4世紀 ヤマト国からヤマト王権へ(畿内から周辺へ)
第5段階:5世紀~6世紀 ヤマト王権の版図が列島の広域に拡大
第6段階:7世紀以降 大和政権へ

 今後、この段階に沿って順次言及していきますが、大和盆地や河内平野だけでなく、丹後・吉備・出雲・筑紫・日向などの地域国家の実態についても極力言及していくよう努めます。
 問題は、『記・紀』における記述があまり信用できないことと、歴代天皇についても系譜に不明な部分が多く見られることが、今後の作業を困難なものにすると覚悟しています。次項で確認します。


不確かな古代天皇の系譜
 ヤマト国の歴史に言及するにあたり、第19回ブログで言及したことを再掲します。
 古代史に関心のある方には常識ですが、そもそも「天皇」という称号にしてからが6世紀以前には存在せず、『記・紀』においても多くの場合大王」おおきみ)と記載されていますよね。

 また、崇神や応神という名称も『記・紀』編纂の時期には存在せず、たとえば『古事記』では、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと)や品陀和気命(ほむだわけのみこと)という和風諡号で記載されています。
 崇神や応神という名称は、奈良時代の後期に淡海三船が一括撰進した漢風諡号によるものです。
 和風諡号についても、6世紀前半の安閑期以降に、殯宮儀礼の挙行の際、捧呈されるようになったという説もあり、そうだとすると安閑以前の天皇の和風諡号も存在しなかった可能性がある、ということになります。

 天皇の名そのものが後世の創作であれば、その実在にクエスチョンマークがつきそうですが、実際にも、実在が不確かとされる多くの事例があります。

 出土した考古遺物や遺跡を、『記・紀』に記された3~5世紀における特定の大王や特定の氏族や特定の歴史的な出来事に結びつけるのは無意味なことが多いように思われます。
 特定の大王の存在と事績は慎重に扱うべきですが、物部や大伴のような豪族についても、先祖筋?ともいえる地域集団(むしろ血のつながりが定かでない先住者と言った方が良いかな?)は存在しても、6世紀より前の氏の実在は証拠がありません。


 『記・紀』に記された初代天皇の神武や、闕史八代の綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化の八代の天皇は後世の創作と考えます(第81回ブログ)。
 初代の神武は、和風諡号で「神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこ)」と呼ばれていました。「イハレ」は磐余で、王権発祥の地と思われる纒向には関わりがありません。
 諡号や人物像からみて、大和朝廷が飛鳥に存在した6世紀的性格があります。

 6世紀初頭頃までの人びとは、崇神を初代と見ていて、神武はあとからそこに架上されたのと考えられます。2人の間には事跡のない8人の王が置かれたというわけです。

 また、第10代の崇神は実在の可能性が高いものの、その実像は『記・紀』に描かれたほど明確でなく、記述内容は物語的ですらあり、呼び名は後世の創作と言えます。
 ただ3世紀末までの時期に纒向の地で権力を掌握したリーダーがいたことは確実で、その人物を仮に崇神と名づけておくというくらいの構えで良いのではないでしょうか。

 3~4世紀にかけての崇神・垂仁・景行、そして応神・仁徳の頃の王権は、『記・紀』に記されるように、真の意味で万世一系だったのかどうか、複列の流れがあったのではないかという考古学からの提起もあります。
 大和盆地内や河内・和泉の巨大古墳の出現について、そのいくつかが同時並行的であった可能性があり、複数の異なる勢力から出ていた可能性があるからです。

 初期の高句麗王が5つの部族から交互に出ていたり、新羅では二人の王が役割を分担して併存していたりします(この先のブログ「4世紀のヤマト国」の中で詳述する予定)。
 日本においても、万世一系の王朝の有無だけを問題にする状況ではないようです。

 どう考えても、仁徳以前の系譜は、実際はごちゃごちゃしていて、『記・紀』に記される天皇が古代の真実を表しているとは言えそうにありません。

 つまり日本の古文献からは、5世紀より前の大王の実在を、『記・紀』に登場する名称と一致させることは難しいということになります。
 シナの史書に記された「倭の五王」が4~5世紀の日本に存在したことは認めても良いが、これが『記・紀』の誰に該当するのかについても決定的なことは言えません。
 『記・紀』に書かれたような応神・仁徳が実際に存在したのかどうか、実は誰にもわかっていません。

 雄略だけは「倭の五王」の「武」に一致するとする識者は多いし、筆者もそう考えていたのですが、冷静に考えてみれば、たまたま一致しただけなのかもしれず、他には何も証拠がないのです。
 河内春人氏の『倭の五王は五世紀の「天皇」に特定できない』という論考は、傾聴に値する素晴らしいものです。

 

 明治時代、西洋列強に伍していくため、国力増強・国威発揚の精神的な拠りどころとして、神武を初代とする万世一系の思想に磨きがかけられ、平泉澄らによって強力に「皇国史観」が主導されてきた歴史があります。
 しかし、古代史をきちんと紐解けば、かろうじて万世一系が成立するのは継体以降と言うしかありません。それでも第26代の継体から126代まで、連綿として代々をつないできた皇室は世界の奇跡と言えるでしょう。

 

 最近、義江明子氏や武澤秀一氏の著作を読みました。
 筆者は、継体より前の万世一系(男系)は根拠に乏しいと思っていますが、まさに両氏は次のように記しています。

 義江氏は、
 <5世紀当時に複数の王系が存在しており、『記』『紀』の王統譜はそれをあとから万世一系的につなげたもの>、

 <ただしこれは王朝対立とか王朝断絶ということではない>、

 <史実としては、5世紀の倭王は豪族連合の盟主であって血縁による世襲ではなく、政治的実力のあるものが王に立てられた>、
と記しています。

 また、武澤氏は以下のように記しています。
 <7世紀前半の頃まで盛んに行なわれた歴代遷宮は我が国特有のもので、強権的な政権を望まない心性が感じられる。もちろんこれは、強大な中央集権政府がなかなか出来なかったことの裏返しでもある>。

 <王宮の場所は、それぞれ根拠地をもつ豪族たちの権益に関わる>。

 <歴代遷宮がおこなわれていた時代でも、「万世一系」「男系男子」がつらぬかれていたのだろうか。それは不確かであり、かなり危ういのではないか>。

 <5世紀より前の家系は男系に限られず、むしろ双系であったといえる。その後の軍事的緊張が男系化を促す側面があり、支配層にあっては5世紀初頭前後から男系化の傾向が出てきた>。

 <8世紀になっても、男系ではあるが、双系の名残ともいえる実力派女帝が輩出した。女帝中継ぎ説は明治時代に生まれたもの>。

 

藤原氏陰謀説
 『記・紀』には、神々が登場する場面などに藤原氏と近い関係がみられるので、藤原不比等が口を出して史実を曲げてしまったと語られることが良く見られます。
 この懸念が膨らみ、『記・紀』の記述には、藤原不比等が無理やり仕込んだストーリーが入り込んでいるという「藤原氏陰謀説」が唱えられたりします。よく分からないことがあると、そこに逃げ込んで片付けてしまうんですね。
 しかし、不比等ならずとも、為政者は過去の歴史をみずからに優位な方向に脚色するものです。

 記紀神話のクライマックスは天孫降臨の場面ですね。
 天孫降臨の司令は当初はタカミムスヒとアマテラスだったようです。7世紀後半にアマテラスが最高神の位置にすわるまではタカミムスヒが最高神でしたから(第14回ブログ)。

 『古事記』は天孫降臨の場面を次のように描いています。
 タカミムスヒとアマテラスが命じた降臨する神は、はじめはアマテラスの子であるオシホミミのはずだったが、オシホミミが躊躇しているうちに生まれたアマテラスの孫のニニギを降臨させることになった。
 この神話は、アマテラスを持統天皇にみたて、天武天皇の次に即位するはずだったが若くして病死した子の草壁皇子をオシホミミとし、孫の軽太子が即位して文武天皇になるという現実の歴史につなげて理解する研究者が多いようです。

 こうしてこの編纂を陰でリードしたと思われる不比等と持統の蜜月が語られるわけです。
 上山春平氏がこの論の代表的存在ですが、西條勉氏は、「この解釈はご都合主義」だとして、都合のいいところばかり対応させてはいけない、対応が恣意的ではいけない、としています。
 つまり、持統の夫は天武なので、持統がアマテラスなら、天武はタカミムスヒになるが、タカミムスヒはアマテラスの夫ではない、と……。

 しかし実際のところ、不比等と持統が天孫降臨神話にどれほど肩入れしたのでしょうか。
 

 持統が亡くなった(703年)後に『日本書紀』が編纂されたという新説があります(次の節で言及します)。
 『日本書紀』は、後の王朝が前の王朝の歴史を書くというシナの歴史書をモデルにしています。
 『日本書紀』は持統のところで終わっています。次の文武から『続日本紀』が始まります。
 つまり藤原氏は、持統までは天武朝の時代で、文武朝から藤原氏の影響のある藤原的王朝が始まるという認識を持っていたのではないかというわけです。

 通説では、不比等と持統は蜜月関係にあったとされてきましたが、不比等にとって持統は自分の王朝とは違う存在だったという見方も成り立ち得るわけです。

 

『古事記』は天武時代の産物、『日本書紀』は文武以降に編纂開始された!
 第6回ブログで、『古事記』の「序」の真贋についてこれ以上、深掘りする気はないと宣言しましたが、藤原氏陰謀説に関連するので、若井敏明氏の興味深い見立てをベースに記・紀』の作られ方についてまとめてみます。

 従来、『記・紀』というふたつの書物はともに天武の事業が出発点と考えられてきた。
〇 『続日本紀』720年に、『日本書紀』が完成したとあるので、これを出発点とする。そこには「是より先、一品舎人親王、勅を奉じて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上す」とあり、舎人親王に命じて編纂した事業であることは明らか。

 舎人親王は695年に20歳で初めて叙位されて官界デビューしているので、編纂を命じられたのは、それよりも後の700年前後とみるのが妥当。つまり『日本書紀』の編纂事業は8世紀初頭から考えられる。

 これに対し、『古事記』の編纂は天武の時代の事業であることが確実。
 『古事記』序文には「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流えん」という天武の詔があり、『日本書紀』天武10年(681年)には、「帝紀及び上古の諸事を記し定めしむ」という類似の記述がある。

〇 よって、ふつう『日本書紀』編纂の出発点とされている天武10年の記事は、『古事記』編纂に関するものと考えられる。

 すなわち、『古事記』の編纂開始は天武10年(681年)、完成は712年、編纂者は太安万侶・稗田阿礼、これに対し『日本書紀』の編纂開始は700年頃、完成は720年、編纂者は舎人親王と想定できる。

 以上から、『古事記』は天武の時代の産物、かたや『日本書紀』は舎人親王に命じられた新しい事業で、両者は編纂時期もその意図も異にする書物である。


 これで、第6回ブログで記した「諸家の伝える帝紀と旧辞の誤りを正して一本に纏めようとした天武天皇自身が、同時に性格の異なる2つの歴史書の編纂を命じたという不思議な謎」が氷解します。

 

 当ブログでのヤマト王権指導者の称号は、文脈によっては「天皇」としますが、基本は「大王(おおきみ)」とし、ヤマト王権の初期である地域国家(ヤマト国)の時代は「王」とします。
 これに関連して、地域国家の支配者や古代豪族は「王」または「首長」としました。

 今まで述べたように、継体より前の大王やヤマト国の王については、必ずしも出自、来歴、系譜が明確ではありません。
 でもブログの文脈によっては、分かり易い崇神・垂仁・応神・仁徳などの名称も使います。
 例えば「垂仁は……」と書いても、「垂仁がいたと思われる時代のヤマト国の指導者は……」という代名詞の意味で使用するのであって、固有名詞の王の実在について必ずしも確証があるわけではありません。

 

参考文献
『新説の日本史』SB新書
『倭の大王と地方豪族』須原祥二
『倭の五王は五世紀の「天皇」に特定できない』河内春人
『埋葬からみた古墳時代』清家章
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『陰謀の日本中世史』呉座勇一
『古事記神話の謎を解く』西條勉
『神話から読み直す古代天皇史』若井敏明
『天孫降臨の夢 藤原不比等の夢』大山誠一
『持統天皇と男系継承の起源』武澤秀一
『女帝の古代王権史』義江明子