理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

84 箸墓古墳の築造は4世紀?

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3世紀の大和盆地に邪馬台国の存在を思わせるものは皆無
 第82回ブログで言及した通り、近畿の主要な遺跡を確認してみると、やはり邪馬台国近畿説は否定せざるを得ません。中でも大和盆地の唐古鍵や纒向には邪馬台国につながるような証拠(3世紀半ば頃までの、シナや朝鮮半島、九州北部地域との積極的なつながり)がほとんどないので、大和説はあり得ないと断言できます。

 今月、考古学者でありながら、邪馬台国大和説に疑問符をつけた関川尚功氏の著作『考古学から見た邪馬台国大和説』(2020年9月発行)を読みました。筆者の拙い論理を補強してくれる素晴らしい論考です。

 氏はもともと橿原考古学研究所で纒向遺跡の発掘調査に深く関与した考古学者です。
 日本の考古学界の人たちは自らの専門領域に閉じこもり、また今までの蓄積に縛られがちで、自由な論考ができない傾向が見られます。
 学界自体がピラミッド構造なので仕方ないのかもしれませんが、新たな視点で見直すとか、異論をたたかわすということが出来にくいのです。
 氏は2011年に退職後、研究の集大成という視点で、(邪馬台国大和説に固執する学界にとって)驚きの論考を発表したことになります。

 同書では、九州説の内容を肯定するというよりも、大和説は成り立たないという、いわば消去法による邪馬台国位置論を展開しています。そして、3世紀の大和からみれば、やはり楽浪・帯方郡は遠いと感じないわけにはいかなかった、と述懐しています。
 関川氏の論考の中で、筆者が注目した部分(要旨)を抜き出してみます。

 中国王朝と頻繁に通交を行い、また狗奴国との抗争もあるという外に開かれた活発な動きのある邪馬台国のような古代国家が、この大和盆地の中に存在するという説については、どうにも実感がないものであった。特にそれを証明できるような遺物も見当たらないからである。

 これまでの邪馬台国大和説というものは、実際の大和の遺跡や古墳が示す実態とはかなり離れたところで論議が行われているような印象を受ける。

 魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国は、地理的に邪馬台国とかなり離れた遠隔地にあるとは考え難い。国の外交にかかわる重要な品々の移動を考えれば、伊都国は邪馬台国と絶えず往還できるような、比較的遠くない位置にあったとみるべきであろう。

 邪馬台国時代の九州北部において、戸数2万余戸の奴国あるいは伊都国をはるかに超える遺跡は認めがたく、戸数7万余戸の邪馬台国のような大規模遺跡はないと大和説論者は言うが、大和説の場合でも、大和の弥生時代の大型遺跡の多くはすでに知られていて、これらの遺跡は内容をみても奴国の遺跡に遠く及ぶものではない

 狗奴国東海説は、あくまで邪馬台国大和説が前提となっている。唐古鍵と纒向のいずれの遺跡においても、他地域より搬入される土器の首位を占めるのは、伊勢湾岸地域など東海地方の土器である。伝統的に大和は東海圏の地域とは深い交流関係にある。そこに対立的な抗争関係が生ずるということは、まず考え難い。

 箸墓古墳が3世紀半ばまで遡上する根拠の一つは、土器付着物の炭素14年代法による結果にあるが、さほど古くはない古墳の年代を扱うのに、このような理化学的年代決定法に大きく依存するのは問題である。測定資料としては保存の良い単年性陸産植物が最適で、箸墓古墳周濠の桃核や、ホケノ山古墳石槨内の小枝の分析では、新しい年代の数値が示されている。

 邪馬台国と箸墓古墳などの大和の大型古墳が連続する邪馬台国大和説では、箸墓古墳の出現時期が遡らないと成立しないが、今や古墳の時期が遡るほど、さらに多くの矛盾が生じることになる。

 大和地域では、未だに、大型前方後円墳に連続するような弥生時代以来の首長墓の存在は見られず、九州北部とは大きな違いがある。考古学的にみると庄内期の大和においては古墳を出現させ得るような勢力基盤が認めがたい

 確実性に欠けるが箸墓古墳より古いとされる石塚・矢塚・勝山・東田大塚・ホケノ山の6基の古墳と箸墓古墳とでは、その規模や葺石などの外表部に見られる格差には、圧倒的な違いがあり、連続性よりも、さらに大きな断絶がある。

 箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期は、4世紀に入ってからのことであろう。

 邪馬台国大和説の主要な根拠を考古学的にみていくと、それは3世紀代の大和の墳墓や遺物などではなく、4世紀の大型古墳とその副葬品ということになる。


箸墓古墳の築造は4世紀!
 関川尚功氏の著作を読んで、筆者が大収穫と感じたのは、箸墓古墳の築造時期は3世紀半ばに遡ることはなく、4世紀半ば頃までの可能性があるという部分です。

 第18回ブログの結びで、筆者は次のように記しました。
 「纒向の地はすでに3世紀前半から開かれ、纒向石塚、ホケノ山、東田大塚、勝山などの80~110メートル級の古墳が陸続と造られてきた実績があり、その技術的蓄積の延長線上に、280メートルの巨大な箸墓古墳が築造されたとしても、何ら不思議なことではありません。不連続的な革新や規模拡大は技術の世界ではよくあることです」と、威勢よく述べたのですが......。

 でも正直言うと、箸墓古墳築造に要したマンパワーは一体どのようなものだったのか、また3世紀初めに開かれた纒向の地で、3世紀半ば(260~280年頃)までに巨大古墳が築造されるのでは時間の経過が短すぎる……と感じていたのです。

 九州北部地域よりもはるかに見劣りする(3世紀前半までの)貧弱な集落規模や鉄器の少なさからみて、せめて4世紀にならないと、巨大古墳築造のための技術の蓄積・マンパワーの厚み、財力の蓄積に要する時間経過があまりにも短いと正直思っていたからです。

 箸墓古墳が4世紀以降にずれ込めば、最も早い巨大古墳は4世紀初めの西殿塚古墳になります(それとも、連動して繰り下がる?)。
 読後、大いに腑に落ちました。


 寺沢薫氏は次のように述べています。
 <3世紀の初め頃、奈良盆地の三輪山の麓に纏向遺跡という巨大な遺跡が突然誕生するのです。遺跡のどこからも三輪山を仰ぎ見ることができ、遺跡の南部には箸墓古墳があります。最大を取れば2キロメートル四方くらいの範囲に3世紀の遺構や遺物が集中するのです>。

 考古学者のメジャーな説は、多かれ少なかれこのような「突然誕生」という言葉を添えて語られるものでしょう。
 しかし筆者は、3世紀の初めに巨大な遺跡が突然誕生するのはあり得ないし、遺跡の全体に3世紀の遺物が集中するというのも無理があると考えていました。3世紀半ばに巨大古墳が現れるのも理屈が通らないと……。

 もともと筆者は、「人・モノ・情報のネットワーク」(第25回ブログ参照)が未整備の3世紀に、遠隔地の勢力が談合して連合政権を樹立することはあり得ないという立場です。また、3世紀前半までの纒向の地は、先進的な九州北部地域や出雲・吉備地域に比べてはるかに見劣りするという考古学からの事実も存在します。

 長いこと、3世紀半ばの箸墓古墳築造説に言いようのない矛盾を感じていたのです。

  今回の関川尚功氏の著書により、筆者の中でわだかまっていたものが氷解した感があります。

 箸墓古墳築造が3世紀半ばから4世紀になっても、筆者はまったく不都合を感じないのです。もともと箸墓古墳の有無にかかわらず邪馬台国は大和盆地には存在しないと思っていますから。

 今の古代史があまりにも古墳のあり様にこだわり過ぎるのではないでしょうか。
 3、4世紀の古代史は、ほとんど古墳だけを資料とし、その分析に終始していますよね。古墳の所在地が、本当にこれを造った勢力の本拠地と言えるのか、単なる埋葬地ではないのか、本拠地は別にあったのではないのか、という疑問が拭えません。

 <古墳は、あくまでも権力者を葬った墓であって、権力を行使した場でもなく、生産活動をおこなった場でもない。古墳で時代を語るには、生産活動をおこなった遺跡と古墳との関係を究明していくことこそ重要である。これまでの考古学研究において、もっとも欠けていた視点である。
 大型前方後円墳の出現と統一国家の成立はイコールではない。考古学者の中には、大型前方後円墳の成立と国家の成立を結びつける見解をもつ人もあるが、そのことはまったく証明されていない。前方後円墳の分布と版図を結びつける見解についても同様である>。
 以上は、坂靖氏の論ですが、心打たれる思いです。快哉!

 水谷千秋氏も、古墳に偏ることなく、古墳と集落遺跡の両面から豪族の活動の跡を分析するような試みを始めています。

 以上、箸墓古墳の築造時期が4世紀になる可能性に触れましたが、弥生末期における大和盆地の通交について、次節でまとめてみます。


3世紀までの大和盆地の通交は東方シフト
 3世紀までの近畿各地の通交の状況は、おおむね以下のような状況であったと想定できます(第82回ブログ)。
 近江は、琵琶湖を介して北陸との交易、陸路での伊勢湾沿岸地域との交易、さらには山城盆地を経由して丹後との交易が可能だった。
 近江経由で伝わった尾張の文化は、海路、太平洋を東へ向かい、また陸路では東海道・東山道を経由して東日本へ、さらには北陸道に伝わり北陸地方との結びつきも強い。
 淡路・播磨や河内・和泉は、瀬戸内海経由、あるいは中国山地を経由する山陰との通交を通じて西日本との交易が可能だった。

 以上のように弥生末期の近畿地方の集落は、交通インフラの比較優位を活かして、西日本の影響を多く受けています。

 これに対し、地域間交流で各地からもたらされた土器の内訳をみると、大和盆地弥生集落の交流は、西日本地域よりむしろ近江・尾張などの東海地域がメインであったことが確認できます。

 弥生時代において、大和盆地内と河内平野は、同じ近畿の隣接地域でありながら、生駒山地を挟んで、河内は西方に、大和は東方に志向するという対照的なあり方を示しています。

 この3世紀までのあり方は、4、5世紀の古墳時代になって大和と河内が一体化する現象とはかなり様相を異にします。

 大和盆地は、周囲を山で囲まれ、陸上交通の経路も限られ、河内に比べれば標高もやや高い。盆地内の小河川はすべて大和川に集まるが、3世紀の前半までは隘路となる亀の瀬がネックとなり、大和川を利用する交易もそれほど活発ではなかった。
 本来なら近畿の中でも地域交流が盛んな大阪湾沿岸地帯に隣接しているにもかかわらず、生駒山地が立ちはだかる大和盆地は、基本的には閉鎖性の高い完結型地域でした。
 こうした地勢が、大和盆地の(特に3世紀半ば頃までの)遺跡には金属製品や大陸系遺物の移入が少なく、墳墓においては墳丘墓の未発達、墳墓内の副葬品の少なさなどが、西日本地域との際立った違いとなってあらわれています。

 通説では、3世紀の半ば頃、纒向に巨大な集落が出現し、そこに最初の巨大な前方後円墳である箸墓古墳が築造され、これをもって初代の大王墓とするようです。
 しかし、今回確認できたことは、その通説では無理ということです。

 弥生末期の大和が、九州北部を凌駕するほど強力だったとはとても考えられず、ましてやそこに吉備・播磨・讃岐・大和の連合政権があったとも思えず、3世紀半ばまでの「纒向のクニ」の集落構造は、ムラが点在するような空疎なものだったと考えられます。

 これらの視点を大切にしつつ、3世紀後半から4世紀にかけて、大和盆地、とりわけ纒向がなぜトップランナーになれたのか、その要因について次回から確認していきます。


参考文献
『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功
『ヤマト王権の古代学』坂靖