「記・紀」
<阿蘇海と天橋立> 前回は日向諸県君氏について詳述しましたが、今回は、これまでも繰り返し触れてきた「丹波・丹後の豪族」を取り上げます(第69回・82回・95回・96回・110回ブログで言及した)。 ただし過去の内容は、ヤマト王権の歴史に付随して言及した…
<行田古代蓮の里> 今回は、第111回・第136回ブログで言及したものの、詳しい論考を先延ばししてきた件について言及します。 「日向諸県君が娘を仁徳の大王妃にする物語」と、「その後、河内日下を基盤とした日向の勢力(日下宮王家とも)が王権内で一定の…
第124回~127回ブログで「葛城氏の盛衰」について確認しましたが、ヤマト王権との確執については中途半端のままでした。しかも「吉備勢力の弱体化(第133回ブログ)」と相前後してしまったので、改めて「ヤマト王権の内部対立と葛城勢力の衰退」について言及…
<上田城の桜> 雄略大王のイメージ 雄略のイメージは、ひと言で言えば、カリスマ性と暴虐さを併せ持つ気性の激しい大王だったということでしょう。 権力を握るまでの血塗られた蛮行(か?)には、常人には推し量りがたい残忍、冷酷な面が見られます。 でも…
<大神神社拝殿> 前々回から2回にわたって、河内平野を主体とした技術革新について言及したので、5世紀のヤマト王権の本拠地は河内の難波であったかのようにも思えてしまいます。 ヤマト王権は河内平野へ進出したことによって、産業基盤を強化し、瀬戸内…
<高鴨神社の正面鳥居 一言主神社の乳銀杏> 前回・前々回のブログで確認したように、葛城氏の権力基盤は、交通インフラを掌握してヤマト王権の対外交渉を担ったことにあるわけですが、今ひとつはヤマト王権の王の外戚となったことにあります。 今回は外戚と…
第91回~95回のブログでは、「おおやまと」と「さき」の王権や、有力集団である「ふる」地域集団(物部氏の祖か)と「わに」地域集団(和珥氏の祖か)に言及しましたが、大和盆地南西部の勢力(「かづらき」地域集団)には触れずじまいでした。 今回は、南西…
前回の続きです。5世紀の大王の政治拠点と陵墓について確認してみます。 5世紀の大王の政治拠点 筆者は、応神・仁徳の頃までの『記・紀』の記述に疑義を呈してきましたが、仁徳の3人の息子と孫の記事にはある程度の信憑性があると考えられる(前回ブログ…
<薬香草園> 神武の伝承は、全体としては後世に造作されたものです。大伴氏や物部氏、倭氏らがみずからの祖先の功績を顕彰するために、神武東征の物語が整えられ、『記・紀』編纂の際に採録されたということは、今までのブログで述べました(第81回ブログな…
神功皇后伝説が生まれたバックグラウンド 第98回ブログでは、神功皇后の三韓征伐を虚構であると断じました。4世紀半ばという時期に着目すれば、まだメジャーになっていない敦賀から出発する不自然さや、準構造船(第54・55回ブログ)が存在しないのに三韓征…
第98回ブログで少し触れましたが、改めて4世紀頃に全国制覇したとされる「ヤマトタケル伝承」について掘り下げてみたいと思います。
大和の先住者は出雲の勢力? 奈良盆地の東南部に位置する纏向地域では、高度な建物群遺跡が発掘されています。崇神・垂仁・景行という三代の天皇(三輪山三代)の拠点と考えるのが常識的ですが、大型建物の造りは出雲系の特色を残しており、古代出雲と政治的…
邪馬台国については、九州北部から東遷してきて大和の地に定着したとか、最初から大和の地にあったとも言われています。いずれの場合も大和の旧勢力を倒した後は、新たな祭祀を軸に大和政権につながったと。 その根拠としてよく取り上げられるのが、3世紀前…
第71回ブログで言及した「古代シナ人の世界観」からすれば、『魏志倭人伝』に記された邪馬台国までの距離や方角にとらわれることは、全く意味のないことになってしまうのですが……。 そうは言っても、(距離や方角の記事以外で)所在地の推定に有効と思われる…
<磐船神社・社殿に覆い被さる巨岩> 「山は隔て、海は結ぶ」という言葉がある。古代日本にとって海は重要な交通路だった。海に囲まれた日本は、外国との往来は船に頼るしかない。日本列島を取り囲む海や、強い流れの海流・潮流は自然の障壁でもあったが、古…
<朝焼け> 今回は、第11回ブログで予告した「建国神話における最高神の創作」について述べます。 「2世紀後半頃に存在したとされる卑弥呼は、アマテラスそのものである」と公言する研究者が結構多いのですが、いくら強弁しても、そこにはとんでもない勘違い…
江戸時代末期から大東亜戦争までは、特異な眼差しで古代史に向きあった時代でした。 周知のように、天孫降臨や神武東征はもちろんのこと、『記・紀』に記載された多くの神話や伝説も、歴史的事実として政治利用されたからです。 昭和の初期には、神武東征ル…
前回のブログで、政権中央によって新しく創作された建国神話は、地方の神話、民衆の神話が持つ「神話力」を利用しながら作られたと述べました。 誰も知らない神々ばかりが活躍する神話ではなく、民衆が伝承してきたよく知られた神話や、各氏族に伝わる神話を…
天武天皇が、『古事記』と『日本書紀』の編纂をほぼ同時に命じたことについて、次のように説明されることが多いですね。 「古事記は国内向けで天皇家の私的な歴史書であるのに対して、日本書記は国外を意識して編纂された公式の歴史書である」。 筆者は、こ…
『古事記伝』について 『古事記』の注釈書である『古事記伝』を著した本居宣長は、それまで埋没して顧みられなかった『古事記』を江戸時代末期・近現代に蘇らせた功労者です。 『古事記伝』がなければ、現在の古事記研究は存在しなかったでしょう。
『古事記』の編纂には謎が多いし偽書だとする説もあります。『古事記』が、江戸時代後期まで、表舞台にほとんど登場せず埋没していたのに対し、『日本書紀』の方は、編纂の翌年から平安期まで、官僚の教科書として機能してきました。 それはともかく、今回は…
当ブログは、筆者の関心事の備忘録でもあります。したがって、その都度思いついたことを徒然なるままに綴っていきます。 まずは、最も古い歴史書と言われる『古事記』『日本書紀』に向き合う、筆者のスタンスを述べることにします。 『古事記』は712年、『日…