第98回ブログで少し触れましたが、改めて4世紀頃に全国制覇したとされる「ヤマトタケル伝承」について掘り下げてみたいと思います。
ヤマトタケルの全国制覇物語
まず、ヤマトタケルが各地の蛮族を征討するのにどれくらいの期間を要したのか、『日本書紀』の記述から確認してみます。
西征では景行27年10月13日に大和を出発、12月に熊襲の国に到着、川上梟師を討ち、帰途、吉備の穴海あたりで悪神を殺し、難波のあたりでも柏渡の悪神を殺し、28年2月1日に大和に帰還しています。
東征では、景行40年10月2日(29歳の時)に大和を発ち、伊勢神宮に参拝、草薙剣を受け取り、焼津や走水を経て蝦夷を服属させ、さらに甲斐から武蔵、上野、信濃と進軍し、尾張に帰還します。そこでミヤズヒメに剣を渡し、伊吹山の荒ぶる神と対峙した後、体調を崩し30歳の時に能褒野で死んでいます。
西征も東征も、どちらも1年くらいの短期間で成し遂げているわけです。
これが事実ならスーパーヒーローの働きと言えますが、残念ながら史実ではありません。当時の交通インフラを考えればこのようにスムーズな行軍はあり得ません。
4世紀前半の陸路を軍隊が進めるのは平地で1日に20キロ以下、山中であれば1日平均5キロくらい、海路は準構造船がない時代なので、手漕ぎの丸木舟で時速3キロくらいがせいぜいのところです(第46回、57回ブログ)。
しかも従者は数人だけとみられるので、未踏の地を啓開しながら進むことはほとんど不可能です。
ヤマトタケルの全国制覇物語は、6、7世紀頃のヤマト王権によって、日本全土の平定という政治課題を先取りする形で編み出され、しかも7世紀頃の交通事情をベースとして『記・紀』に描かれたものと考えられます。
深読みすれば、後世(5世紀後半から6世紀)、複数の征討軍がヤマトタケルの名のもとに征討を行なった名残なのかもしれませんね。
ヤマト王権の悲願である「日本全土平定の物語」を時系列に並べると、
① 神武東征物語
② 四道将軍派遣の物語
③ 景行天皇の西征物語
④ ヤマトタケルの物語
となり、4つでセットをなしていると言えそうです。
平林章仁氏は、征討物語のすべてを虚構で創作であると説く向きもあるが、5世紀の雄略の名とされるワカタケルが稲荷山古墳出土の鉄剣銘で確認できることから、オオタケルたるヤマトタケルに関する何らかの物語が5世紀後半には存在したのではないか、と言います。さて真実や如何に?
筆者は、稲荷山鉄剣銘に刻まれた「辛亥年」を531年ではなく、471年とみなす考古学界の姿勢に疑問を持っていますが、そうするとワカタケルは5世紀の雄略を指すとも限りません。この件はいずれの機会に詳述したいと思います。
タケル群像
ヤマトタケルは『記・紀』の中で徹底して英雄化されたために、後世、西征・東征のルート上にあたる各地にゆかりの神社や縁故地がつくられました。ルートから外れた場所でも、ヤマトタケルにあやかろうという願望から生まれた伝承地が各地にたくさん存在します。
全国にはヤマトタケルを主祭神としている神社が1624社、配神ないしは境内社としている神社が299社もあるらしい。
まさに神武東征の伝承地誕生(第76回ブログ)と似た現象です。
第30回ブログで記した埼玉県児玉郡に鎮座する「金鑚神社」(かなさな)もその好例です。当社はヤマトタケルが創建したと伝わりますが、果たして真実は?
実際の当社の発祥は『記・紀』編纂時よりも古く、もともとは丹生の神を祀っていたが、ある時に砂鉄を意味する「金鑚」と名乗ったというのが史実のようです。
その後、砂鉄集団によって崇められていた丹生の神が、『記・紀』で英雄視されたヤマトタケルに取って代わられたのです。
このようなヤマトタケルの勧請や配祀は、古代のみならず、近世でさえ盛んに行なわれ、さらには大東亜戦争前の数十年間をピークに、愛国心の高揚によって大きなブームになりました。
しかし、古代日本を語る時、このような「ヤマトタケル」を特殊・例外的な英雄像と理解してはならない、と警鐘を鳴らすのは門脇禎二氏です。
ヤマトタケルの「ヤマト」は大和国か大和朝廷の「ヤマト」で、そこのタケルなのであって、この人物だけを抜き出して孤立的に理解すべきではないと言うわけです。
そしてタケル群像を次のように分類しています。
〇 クマソ(熊襲)タケル、熊襲のヤソ(八十)タケル
〇 イズモ(出雲)タケル
〇 キビ(吉備)タケル
〇 ヤマト(大和)タケル、磯城のヤソ(八十)タケル、赤銅のヤソタケル
これらはいずれも地域名にタケルという普通名詞的な名がついているのであって、地域最強の勇猛な人物というイメージを持っています。
〇 ワカタケルはタケルの子であって、大和朝廷でも地域の王族であってもワカタケルという普通名詞的な呼び方に過ぎない。
ヤマトタケルという名前をつけたのは7世紀頃のヤマト王権の歴史編纂者でしょうが、もとになったのは地方の語り部から上げられてくる地方のタケル原像であって、それらと対比、関連させつつ特に際立った違いを付与し、整え上げたものといえるようです。ヤマトタケル像を解明することは、各地の特性を持つ古代史を再吟味することにも繋がるのでしょう。
ヤマトタケルの人物像
『記・紀』に記されるそれぞれのヤマトタケルの征討物語は、かなり内容を異にしています。
『古事記』では、ヤマトタケルは父の景行に疎まれ、放逐される形で西征に向かい、帰還後に東征を命じられた時は「私に早く死んでほしいのか」と嘆くというように、父子が修復不能な関係に描かれています。律令国家が理想とする親子関係ではないのです(第6回ブログ)。
一方の『日本書紀』は、父子が深い信頼関係で結ばれていて、西征の主役はあくまで景行で、ヤマトタケルの西征はその仕上げであって放逐ではありません。東征も自ら志願したもので、天皇の忠臣という人物像が強調されています。
『日本書紀』が物語のおもしろさを極力排し、すべての記事を天皇に収斂し、揺るぎない国家と天皇の絶対的な立場を確認しようとしたのに対し、『古事記』の本文は古層を宿す「語り」をもとにしたもので、ギリシャ神話的な父子の相克が描かれ悲劇に彩られた英雄のイメージが強調されていて、律令国家の理想とはなじみません。
こうしたことから、『古事記』の方が、律令国家が出来あがる前の政治状況をよく表しているとも言えそうです(第6回ブログ)。
他にも、ヤマトタケルの人物像を伝える文献には『常陸国風土記』があり、そこでは倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)と記され、井戸を掘ったり、里の名前をつけたり、比較的穏健な為政者として描かれています。時には逆賊を征伐する場面もあるが、英雄的な活躍はありません。
関東地方にはヤマトタケルにからむ神社や縁故地が非常に多く存在し、こうしたことから吉田龍司氏は、『常陸国風土記』の倭武天皇の伝承が先にあり、架空のスーパーヒーローであるヤマトタケル物語へ結実した可能性を指摘しています。
また、「治天下大王」という絶対的な君主号を名乗って全国平定を成し遂げたとされる雄略との関連性もあるのではと......。
いずれにしても、この辺の論考は想像の域を出ません。
計略やだまし討ちに頼るヤマトタケル
全国制覇を成し遂げたヤマトタケルは軍神・武神として崇敬されているはずですが、意外にも西征においては、およそ英雄に似つかわしくない方法でターゲットの賊を成敗しています。
クマソタケル征伐する時に、女装して宴会に紛れ込み、酒に酔ったターゲットを懐剣で刺し殺し、イズモタケルを成敗する時は、友人のふりをしてターゲットの佩刀を自ら持参した木刀と交換したうえで太刀を合わせて切り殺しています。
計略やだまし討ちが英雄の条件になっているようで、現代の日本人の感覚からすれば違和感を抱きますよね。
これは、正々堂々と正面から渡り合うことをよしとし、だまし討ちを卑怯とする「武士道」がまだなかった時代の価値観なのでしょう。武士道的美学などというのは、競争原理が支配する長い歴史の中では、江戸時代に特徴的な、むしろ特異な観念なのかも……。
大東亜戦争において、特攻精神や「一億火の玉」などという真っ正直すぎる行動に追い込まれた当時の日本には、知略縦横の欠片もないですね。
話は飛躍しますが、厳しい国際情勢の中で、今の日本政府も「日本国と国民が生き抜く」ために必要なずる賢さが完全に欠如していると思います。実に嘆かわしい......。
ロシアのウクライナ進攻にからめて、第106回ブログでは日本の政治姿勢に対する懸念を記しました。日本はウクライナ戦争を他山の石とすべきですが、一向に終結に向かわず泥沼化している中で、ニュースや論説の焦点がロシアの非道とウクライナの惨状を伝えることに終始しているので、今一度、筆者の思いを記してみます。
ウクライナ戦争のもう一つの捉え方
プーチンロシアの暴虐ぶりは言語道断ですが、これは各国の政治家や多くのマスコミが非難しているので、ひとまず横に置き、筆者は侵略を許してしまった為政者の責任というものに焦点を当ててみたいと思います。他山の石とすべきことです。
拡張志向のロシアがウクライナ侵攻の機会を虎視眈々と狙っていたことは数年前から分かっていたはずです。
そのような状況下で、ゼレンスキーは周到な準備もないまま、「ミンスク合意」を反故にしようと企み、親ロシア派勢力との内戦状態にある東部ドンバス地方にも軍事攻勢を仕掛け、さらにEU・NATO加盟を指向して、虎の尾を踏んでしまったというのが全ての始まり......。
いずれも大統領選挙の公約だったと言われますが、慎重さに欠け、ロシアの面子を大きく損なうような挑戦です。正当ではあるものの、この無謀とも思える挑発に対してロシアは当然のように圧力をかけてきました。しかし、彼はそのシグナルを無視してしまった。
しかも国境付近にロシア軍が大集結してもなお、「専守防衛」の名のもとに自らの軍隊に即応態勢をとらせず、ロシアと交渉もせずに、のんびりと強気に構えていたのです。
しかし、早々にバイデン大統領が軍事介入しないと宣言したことは大きな誤算だったに違いない。
ロシアの侵攻が現実となってから、あわてて軍に出動命令を下し、さらに国民総動員令を発出し、各国には恫喝まがいの支援要請をして回っています。まるで侵略されたのは欧米のせいだと言わんばかり……。
この戦争の帰趨はまだ分かりませんが、戦時のリーダーとして獅子奮迅の働きをしているゼレンスキーに称賛の声が沸き上がるのは無理もありません。彼は、戦前からは想像できないくらい大きく変貌したのですから。
しかし、敢えて言います。これだけ国土を荒らされ多くの命を失ってしまっては、いくら勇敢な大統領だと持ち上げられても、一国のリーダーとしては失格でしょう。どんなに派手に立ち回っても結局、抑止に失敗してしまったわけです。
筆者は、「戦時における勇敢なリーダー」よりも、「侵攻されないように手を尽くす計略に長けたリーダー」の方を好みますね。ゼレンスキーの一連の言行は直球一本槍で、ヤマトタケル物語の計略の欠片も見られません。
ロシアが悪いのは決定的事実だし、国家の独立を維持しようと命がけで戦うリーダーと国民の姿には共感するものがあります。
とは言え、はからずも侵攻される原因を作ってしまったのは、国際政治の非情なパワーゲームに無頓着で、彼我の軍事力差に目もくれず、ただただ崇高な思いに向かって突っ走ってしまったゼレンスキー自身にあることもまた事実。
ロシアの極悪さが目に余るので、彼の責任はほとんど問われていませんが、いい加減な台本の一人芝居を演じているような胡散臭さを感じてしまいます。
アメリカがウクライナを支援するのは、ひとえにロシアを弱体化させて葬り去りたいからであり、だからこそ自らが返り血を浴びないように遠巻きに支援し、長引けば長引くほどロシアが弱体化すると踏んでいるからです。
建前では、「自由・民主主義・法の支配」という価値観に照らしてウクライナの惨状を放置できないと言うのですが、本音は、ウクライナの犠牲の上に自らのパワーゲームを勝利に導こうとしているだけです。
すべて国益の観点から行動するアメリカは、「いつでも、どこでも」今のロシアになり得ます。したがって、ロシアが信用できないことは当然ですが、アメリカについても、全面的に信用するのは危険極まりありません。
ここから日本が学ぶことは多々ありますが、このような観点で報じるマスコミは皆無に近いですね。
国際社会は「ヤマトタケルの世界」です。だましだまされ、不意打ち、寝返りは常識です。お行儀良くおとなしくしていれば、生き抜ける世界ではありません。
今の日本は、西欧的価値観の中でなんとなく安住しているだけのような。
またもや、古代史から大きく外れてしまいました。
現代の感覚からすと若干の違和感がある「ヤマトタケルのだまし討ち」ですが、門脇禎二氏は、「ヤマトタケル物語には多くの妻問い物語や恋物語があり、終局には困難な自然神との戦いとの敗北譚もあり、特に白鳥伝説によって、その形姿は整え上げられています。ヤマトタケル像を整え上げた古代貴族の文学的精神の昂揚と教養のレベルは、日本列島の大部分を統一し、新しい国家体制を整え上げていった飛鳥宮廷の活気と離れてはあり得ない」と述べています。筆者同意!
第85回ブログ以降、ヤマト王権に光を当てて綴ってきましたが、次回からは4世紀頃の列島各地の姿を確認してみたいと思います。
参考文献
『ヤマトタケル』産経新聞取材班
『ヤマト統一戦線』平林章仁
『英雄・日本武尊は天皇だった』吉田龍司
他多数