理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

106 ブログの連載を始めてから3年経過!

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はや3年!
 当ブログが「開設にあたって」と題して連載を始めたのが2019年3月28日なので、間もなく3年になります。
 この間、105回の連載をし、拙い文章の羅列にもかかわらず、毎回、少なからざる読者がアクセスして下さっていることに感謝しております。これまでの経過を少々振り返ってみます。

 当ブログの趣旨や進め方については
第1回ブログ「開設にあたって」
第7回ブログ「ブログを始めた動機」
第59回ブログ「当ブログのこれから」
に記しました。

 今までの連載はおおよそ次の通りで、第1回から24回までは古代史の総論です。また第25~58回については当ブログで特に力点を置いた部分です。

〇 第1~10回(古代史に向き合うスタンス)
〇 第11~24回(神話や考古学に向き合うスタンス)
〇 第25~58回(人・モノ・情報のネットワークと古代の技術・交通インフラ)
〇 第60回~第89回(古代史本論・3世紀まで)
〇 第90回~(古代史本論・4世紀まで)

 「古代史本論・4世紀まで」のパートはもう少し続きそうです。そして今後も6世紀の欽明大王の頃まで綴っていく予定です。
 浅学非才の身なので勉強しながらです。特に資料・史料が多く、研究者の間でも多様な説が存在する5世紀以降を書き進めるのは、相当大変なことと覚悟しています。

 

コロナ禍での研究・執筆
 2020年初め頃からのコロナ禍で、世の中では緊張を強いられる日々が続いています。

 筆者は思いもかけず2020年の夏過ぎから面倒な病に罹り、免疫抑制剤を服用する羽目になりました。したがって普通の人たちよりも余計に、感染症にはセンシティブにならざるを得ません。コロナ禍において免疫力を下げるとは......何と言う皮肉!
 人と会う機会を極端に減らし、それまで盛んに出かけていた講演会・勉強会・情報交換会にも参加せず、大好きな居酒屋めぐりも止めざるを得なくなりストレスは溜まりました。
 しかし、「災い転じて福となす」でもないですが、その分をかえって古代史の研究に充てることができたのは幸いでした。充電です。

 4、5年前、古代史の本をまとめるに際し、多くの資料を収集して臨みましたが、企画・執筆・デザインレイアウト・校正の一連の流れをすべて自分ひとりでこなしたために、本の形にまとめることに一生懸命で、肝腎の内容については追究不足……。
 結果には大きな不満が残りました。

 でもその後、コロナ禍の2年間にかなりの貯金ができました。多くのネタを検証し縦横に組み合わせて自らの論考としてまとめていく作業の積み重ね……。
 そのせいでコロナ禍であっても時間を持て余すことはなし。
 大好きな旅行も、車を運転しながら宿泊(極力部屋食)する形で続けています。気分転換と充電の組み合わせです。

 このブログは人に読まれることを想定してはいますが、一義的には自らの勉強のためのものです(第59回ブログ)。論考した内容を推敲も不十分のままアップしてしまうことも多々ありますが、ご容赦願いたく。

 筆者のような在野の研究者の強みは、先人の研究成果のうち、理系の視点からみて賛成できる部分だけを借用して自由に組み合わせ、あるべき古代史を構築できることです。全体的には賛成しかねる研究者の論考であっても、賛成できる部分については取り込むことにしています。もちろんその逆もあります(第7回ブログ)。

 これからのパートを書き進めるのは大変なことと覚悟していますが、それでも続けるのは、「理系の視点から古代史を見つめなおす」ことに意義を見出しているからです。
 第1回ブログで表明した通り、今後も何とか毎月2回以上の連載を続けていきたいと思っています。

 

建国記念の日(2月11日)に思う
 神武東征・四道将軍の遠征・ヤマトタケルの遠征・神功皇后の三韓征伐を史実ではないと断じる古代史を綴っているせいか、先日、知人から「ところで建国記念の日はどう考えるの?」というメールが飛んできました。
 ついでなので、「古代史と建国の物語・遠征物語」に関する筆者の考え方を改めて明確にしておきます。

 筆者のスタンスは明確です。
 歴史は、古代から連綿と伝わる神話や物語とは明確に区別してかかるべきと思います。
 また、歴史小説や歴史物語は筆者も大好きで楽しんでいます。史実が書かれているとは限らないと割り切ってフィクションを楽しんでいます。
 『記・紀』には神話も物語もたくさん含まれているので、古代史を論じる時は、両者の峻別が必要です。

 建国の由来は『日本書紀』に神武即位が辛酉の年の春1月1日と記されており、これが現在の暦で紀元前660年の2月11日にあたるので、その日が明治時代初めに紀元節と定められたというものです。紀元節は、大東亜戦争後の昭和23年にGHQによって廃止されましたが、昭和42年に「建国記念の日」と名を変えて復活したわけです。

 当ブログで縷々述べてきたように、神武は架空の人物だし、5世紀より前の王の存在は確認されておらず、その実在は怪しいと考えられます。ましてや日本国土を創生し多くの神々を作り出す「建国の物語」は科学というフィルターで眺めれば荒唐無稽ともいえるわけです。

 しからば、「建国の歴史」はまったく意味がないかと言えば、さにあらず。
 これまでの人びとが「建国の物語」を信じて、長きにわたり語り継いできたことは歴史そのものだと思います。この事実を全否定するのではなく、肯定したうえでさらにより良い国柄を目指して改革していくのが「保守」というものでしょう。

 第11回、76回ブログでも、古代史と建国神話に関する筆者のスタンスを記したので、再掲します。

〇 神話は、物事の始まりを神がつくり出した、或いは神が決めたと語る物語です。実際にあったかどうかを問うものではなく、それを信じる人が真実として語るもので、心のよりどころにもなります。人さまざまです。神話は史実か否かを論じる対象ではありません

〇 建国神話は悠久の歴史、薫り高い文化を紡いできた貴重な遺産です。実際、「記紀神話」は、さまざまな形で現代の私たちの生活や心の中に溶けこんでいます。各地で連綿として続いている神祭りや神事、また文学や美術、音楽などにも……。実際は、幕末や明治以降からの新たな慣習・作法・解釈が多く伝わっているのは事実ですが、そのことも含めて先人たちの歴史です。

 歴史教科書の最初に、邪馬台国というクニを取り上げ、古墳の説明が続き、その後すぐに蘇我氏、聖徳太子、推古天皇という流れになっているのはとても理解できるものではありません。邪馬台国はこれまでの日本人の記憶に一切の痕跡を留めず、どこにあったのかすら分からなくなっているわけです。今日までの歴史に何らの影響も与えていないものを日本の始まりとして教えても……。

 学校教育でも、石器・土器・鉄器・稲作・古墳などの無機的な事象を教えるのと同程度かそれ以上の比重で、先人が語り継いできたという形で、建国神話やヤマトタケルの物語を教えるべきではないでしょうか。

 

ウクライナ侵攻の捉え方
 連日、ロシアによるウクライナ侵攻がニュースに取り上げられています。
 コロナ禍で経済が疲弊し打ちひしがれているところへ、ウクライナ侵攻が勃発し、大規模経済封鎖も始まり、今後の日本経済に大きな悪影響が及ぶのは必至です。
 コロナ禍、ウクライナ侵攻のどちらもグローバル化の必然の結果として日本経済に重くのしかかります。

 そこで、古代史から離れますが、筆者もひと言述べておきたい衝動にかられました。 

 ニュース番組では、ほぼすべてのマスコミやコメンテーターがプーチンの責任を一方的に糾弾し、そのことに終始していますね。
 暴挙であるからしてプーチンが非難されるのは当然!
 しかし一方の当事者、ゼレンスキー大統領の失策を責める論評は皆無です。むしろ勇気あるヒーローとして讃えられているのは異常ではないでしょうか。

 パワーゲームが渦を巻く国際社会ですよ。拡張志向のロシアが、侵攻する機会を虎視眈々と狙っていたことは数年前から分かっていたはずです。実際に侵攻を許す事態を招いてしまい、国土と無辜の民を守れなければ、国際社会から同情を集めどんなに支援を受けようとも、一国のリーダーとしては失格です。

 ゼレンスキーは芸能人上りでシビアな政治経験がありません。この期に及んで政治的演出でしょうか、芝居じみた演説をし、国民総動員令まで発出して、流さなくて済むはずの血を流すことに相成りました。

 彼は、侵攻される前までは低支持率が続き、政権担当能力も疑問視されていたようです。国民を鼓舞し、世界に訴える巧みな演説が評価されていますが、攻撃を受けてからジタバタしても後の祭りと言うしかありません。
 一体全体、ウクライナの行く末はどうなるのでしょうか……。

 翻って日本は大丈夫なのかとつくづく思います。
 日本の政治家の危機意識の薄さには寒気がします。野党や、左向きのマスコミ・学者は安全保障の現実から目を背けているので問題外。政府ならびに与党の国防に対する緩慢な動きこそが問題だと考えます。

 ウクライナ侵攻は、単にロシアの非道をなじるだけでなく、日本の国防(軍事・経済ともに)を真剣に考える他山の石とすべきでしょう。なかでも喫緊の課題はエネルギー安保でしょうね。

 軍事面では、内向きで信用出来ないアメリカに頼り切るのは考えものです。自前の防衛力増強は待ったなし! 専守防衛と言う空虚なスローガンは論外という他ありません。

 さらに、良かれと思って進めてきた「経済のグローバル化」については、根本的な見直しが必要でしょう。筆者も現役の頃は、民間会社に籍を置いてグローバル化の最前線で仕事をしてきましたが、行き過ぎた振り子を戻すには産業基盤の再構築が必要で、そのためには財政均衡政策を封印して積極的な投資を国家主導で断行するしかないと思います。「失われた25年」から脱することにもなるはずです。