4世紀は、『記・紀』の歴代天皇に当てはめると、崇神の後の垂仁、景行、仲哀、応神の時期に対応します。
そこには大王家が華々しく遠征して、版図を拡大していく様が描かれていますが、伝承的で真実味に欠けるような内容が多いのが特徴です。
崇神による四道将軍の派遣に続いて、垂仁時代は丹波まで(第96回ブログ)、景行の時代には九州中南部まで、またヤマトタケルの征西・東征、神功皇后・応神時代の朝鮮出兵から難波帰還まで、さらには多くの内紛なども含め、大王家が日本列島の大半を支配下に置いたかのような記事が満載です。
これに対応するかのように、考古学の方でも、前方後円墳の広がりなどから、この時期にヤマト王権が東北南部から九州中部まで版図を拡大したとする研究者も多いようです。
筆者は以上のような見方に大きな疑問を持っています。
4世紀、豊前から南はアプローチすら叶わない化外の地!
『日本書紀』の景行12年には、
<十二年秋七月に、熊襲反きて朝貢(みつきたてまつ)らず。八月の己未の朔己酉に、筑紫に幸(いでま)す。九月の甲子の朔戊辰に、周芳(すわのくに)の娑麼(さば)に到りたまふ>
と記されています。
この場面は、熊襲征伐のため大和から遠征した景行が、瀬戸内海西部の佐波(今の防府市)に着いた時のものです。
さらにこの後、景行は佐波の地から南方の国東半島を眺め、みずから豊前に渡り、今の行橋市を起点に九州中南部まで遠征し賊を平定したと記されています。
果たして4世紀のヤマト王権は、瀬戸内海西部はもとより、豊前ならびに九州中南部まで遠征できたのでしょうか。
3、4世紀まで、九州へ渡る主要でかつ最短のルートは、関門海峡を経由せずに安芸から豊前へ向かうルートでした。
安芸と豊前の間には、古代から陸地や島を目視しながら航行する「祝島(伊波比島)~姫島~国東半島ルート」が存在(第78回ブログ)し、4世紀頃の瀬戸内西部の海人族にとって国東半島は身近な存在だったと思われます。
しかし、『日本書紀』に記されたような、4世紀前半に景行の遠征軍が周防の佐婆から九州豊前へアプローチした可能性はまったく考えられません。
ヤマト王権が多少とも豊前に関与し始めるのは6世紀以降のことです。
豊前が大和政権にとって緊密な地域となるのは、隼人対策で八幡大神が重要な役割を果たす時期、すなわち8世紀初頭からです。
『記・紀』の神武東征物語においても、宇佐が重要な経由地でしたが、これも7、8世紀の政権中央が豊前宇佐を重要視した結果に過ぎません。
確かに宇佐には、大和地域と近似した前方後円墳(赤塚古墳を含む川部・高森古墳群)が存在しますが、これはヤマト王権の支配権が豊前に及んだのではなく、交易などに付随した単なる伝播の結果に過ぎません(第92回ブログ)。
同じような形状の古墳の存在を、ヤマト王権の支配の証拠とするなら、東北地方の前方後円墳はどう考えるのか?まさか、その時期にヤマト王権の支配が東北まで及んでいたとは考えられませんよね。
瀬戸内海西部の佐波津(今の防府市)は、瀬戸内海東部の飾磨津(今の姫路市)とともに瀬戸内交通・交易の重要な結節点でした。
国東半島と佐波・柳井の間には、古くから海人族による通交・交易があったでしょうが、4世紀の時点で、大和盆地の王権と国東半島の直接的な通交はなかったと考えます。
むしろ、4世紀後半から5世紀にかけて、瀬戸内海西部に食指を伸ばしていたのは、吉備の勢力に加え、大和盆地の勢力では葛城が挙げられます。
吉備という関所の存在に加え、第57回ブログで言及したように、5、6世紀より前に瀬戸内海を横断する大船団航行は技術的にも不可能であったことから、ヤマト王権本体(「さき」の王権)が瀬戸内海を西進して佐波の地に至ったとは思えません。
とすれば、4世紀のヤマト王権は瀬戸内ルートではなく山陰ルートで、九州北部(豊前ではなく筑紫)に至ったとしか考えようがありません。
多少想像をたくましくすれば、王権みずからの親衛隊ではなく、物部氏や和珥氏(の先祖筋)を先兵として重用し、4世紀後半には山城から丹後経由で出雲に至り、やがて九州北部に足がかりを設けたということでしょうか。
物部氏の影響は播磨・丹波・石見などに見受けられ、西進した痕跡がありますが、和珥氏についても古文献から読みとれる限り、ヤマト王権の外征に参軍し軍事面で顕著な業績を上げた模様(第94回ブログ)ですから、和珥氏もこの西進戦略には参加したことが想定できます。
4世紀後半からの瀬戸内海交通の利権は、ヤマト王権本体ではなく吉備の勢力が押さえていて、吉備と連携していた葛城や紀の勢力も海人族を使いながら、影響力を確保していたのです。
宇佐の重要性が高まったのは隼人の反乱以後!
宇佐が大和政権にとっての重要地域として認識されるのは、7世紀後半の隼人との抗争においてです。
第77回ブログで述べたように、『記・紀』編纂当時、九州南部は大和政権の影響力が最も及びにくい地域で、薩摩半島の大部分は阿多隼人族が支配し反乱を重ねていました。
当時の大和政権にとって隼人を服属させることは重要な政治課題で、8世紀初めには隼人の大規模な反乱があり、既に九州の中北部まで影響下に置いていた大和政権は対抗策を講じる必要に迫られていたわけです。
そこで、713年に日向国を分割して大隅国を創設、国分に国府を置きます。
翌714年には宇佐のある豊前から開拓団を送り込みました。これが隼人との対立を激化させ、719年には戦闘は激化します。
この間、大和政権は豊前の宇佐から八幡神を持ち込み、神威をもって反乱軍を鎮圧することを試みます。
大和政権は、隼人征伐に動員した人々の戦意高揚を図るために、シンボルとなる八幡神の神威に頼ったわけです。
720年になって、大和政権が派遣した大伴旅人軍によってやっと完全に平定されました。まさに『日本書紀』が完成したときです。
隼人の祖が永遠の服従を誓うという由緒が織り込まれた『記・紀』の日向神話は、当地が昔から王権の支配すべき土地であったことを高らかに宣言するためのものでした(第77回ブログ)。
しかし、隼人に先立って九州南部に熊襲が存在したという史実も実際にはないようだし、隼人が具体的に登場するのも7世紀後期以降で、それ以前に登場する隼人は後世の潤色と考えられるようです。
要するに、4世紀頃の景行による熊襲征討物語や、この後、述べるヤマトタケルの遠征物語も、ヤマト王権によって征服された過去の歴史として創作されたものといえるでしょう。
八幡信仰の歴史
宇佐に言及したついでに、宇佐神宮と八幡信仰の歴史について確認しておきます。
「宇佐神宮」は、日本全国に数多ある八幡系神社の総本宮です。当社は国東半島の北側の付け根に鎮座しますが、創建は奈良時代のことです。
数の多い神社のビッグ3は八幡系、稲荷系、天神系ですが、八幡系が群を抜いています。「石清水八幡宮」は860年に平安京鎮護のため「宇佐神宮」から、「鶴岡八幡宮」は源氏が鎌倉幕府の鎮守として「石清水八幡宮」から勧請したものです。今は有名神社となった両社も元は宇佐が起源というわけです。
<宇佐神宮の上宮本殿>
当社の由緒書によると祭神は八幡大神、比売大神、神功皇后の三柱です。
しかし、中央の二之御殿に主祭神の八幡大神(応神天皇)が祀られておらず、代わりに比売大神が祀られていることは大いなる謎とされています。
「元々は比売大神が宇佐の地(御許山)に天降った」とする神社由緒書が俄然真実味を帯びてきます。由緒書では比売大神は宗像三女神となっています。
八幡大神は応神のことですが、実は応神は宇佐の地に地縁も血縁もありません。何故、応神が「宇佐神宮」と結びついたのでしょうか。この謎に挑んでみましょう。
八幡神はもともと土着の神で、御許山の巨石信仰に大陸・朝鮮半島系のシャーマニズムが習合して生まれた信仰で、九州一帯に広まったようです。
比売大神を宗像三女神とするのは無理筋と思われます。
八幡神は『記・紀』にもその名は出てきません。『続日本紀』737年に初めて「八幡社」の名が見えるが、この頃から八幡神と朝廷との結びつきが顕著になってきます。
要するに八幡信仰が盛んになるのは、8世紀の奈良時代以降、平安時代になってからのことです。
研究者の間では、次のような歴史上の出来事が連続したことで八幡神の神威が高まったと考えられています。
前述したように、8世紀初め、数度にわたり八幡神の神威によって隼人を制圧しています。
その後、新羅との緊張が高まったことから対新羅神として宗像三神を祀り、「八幡社」は国家鎮護の軍神としての性格を明確にしていきます。
さらに740年の藤原広嗣の乱にあたっては、「八幡社」に祈願したことが戦勝をもたらしたとされています。
東大寺大仏鋳造の神託を出して聖武天皇を喜ばせた八幡神は、749年に入京して日本の神々の頂点に立ちます。
わずか12年前に歴史の舞台に現われた九州の地方神が中央に進出したということになります。
769年、弓削道鏡による皇位簒奪未遂事件では、「宇佐八幡宮」に遣わされた和気清麻呂に対し、道鏡を排除する神託を託宣しています。
この頃から神仏習合の先陣を切り「八幡大菩薩」として伊勢神宮をも凌ぐほどになっていきます。
平安時代に入った823年、八幡神と比売大神の二座に加えて、対新羅の軍神として神功皇后を祀る三之御殿を造営します。そして神功皇后繋がりで八幡神を応神天皇と同一視するようになっていったということです。
八幡神に託宣神としての性格を付加することを主導したのは、応神天皇信仰を持ち込んだ大神氏(おおがし。大和の大神氏と同族か?)とされる他、渡来系の辛島氏という説もあるようです。
かくして八幡大神は皇祖神に準ずる地位を得たのです。古来、「神宮」号は伊勢、鹿島、香取の3社だけでしたが、宇佐の八幡社は筥崎と共に「神宮」号を得、5つの大社の仲間に入ることになります。
ところで応神は、史上何本指かに入る立派な天皇とされていますが、『記・紀』の中では特別な扱いを受けてはいません。母親の神功(実在に疑問符がつくが)に大きな政治的・軍事的業績があったのと比較すると如何にも物足りません。
したがって、応神が当初から高い格を持っていたとは考えにくいですね。
前述のような出来事の積み重ねで「宇佐神宮」の神威が高まり、5世紀初めの応神が、5~6世紀も後の平安時代になってから、八幡信仰がらみで人気が高まったものと考えるべきでしょう。
ついでながら後付けで名声が高まるのは、仁徳についてもあてはまります。
仁徳在位のかなりあとになってシナから儒教思想が持ち込まれ、「仁政思想」の象徴としてその事績が誇張して語られたというのが真相のようです。
「応神」や「仁徳」という高い格を意味する漢風諡号も、「記・紀」の編纂よりもずっと後の760年代になって、淡海三船によってつけられたものですよね。
実は神仏習合の先進地域だった国東半島!
平安時代の『延喜式』には、「宇佐神宮」は「八幡大菩薩宇佐宮、比売神社、大帯姫廟神社」と表記され、八幡神はかなり早くから神仏習合が進んでいたことがうかがえます。
公式資料で仏教伝来は大和が先となっていても、民間レベルでは豊前の方が早かったと思われます。おそらく5~6世紀前半には国東半島で仏教が根を下ろしていたのではないでしょうか。
宇佐の地は仏教の先進地域で、このことが神仏習合を促したに違いありません。昔の「宇佐宮絵図」では、表参道から呉橋にかけた広域に寺院建築が立ち並んでいて、神仏習合の黄金時代の姿が想起されます。
<8世紀頃の宇佐神宮境内(神宮寺)>
版図拡大を匂わせる景行・ヤマトタケルの遠征は虚構!
第18回ブログで述べたことを再掲します。
4世紀までの四道将軍の遠征や、景行の九州征討、ヤマトタケルによる九州の熊襲征伐・奥州の蝦夷征討、神功の三韓征伐などは、5~7世紀における王権の勢力拡大や軍事進攻の歴史を遡らせ、また各地に伝わる民間伝承なども加味し、天皇家の権威を高める意図で7~8世紀頃に創作されたものです。フィクションだから、似たような繰り返しがあり、珍妙な描写も見られますよね。
このことを、ヤマト王権と地方勢力との戦いの結果と結びつけたり、『記・紀』の伝える古代天皇と結びつけたりするのは意味のないことです。
6世紀以前に万世一系の天皇系譜はまったく形成されていなかったし、大王家においては、血縁内での抗争が連続していたからです(第83回ブログ)。
『記・紀』が、7、8世紀になってから政治的意図のもとに作られた歴史書である以上、3、4世紀頃のヤマト王権の様子を直接的に示す史料は存在しません。『記・紀』の記事にとらわれ過ぎてしまうと、4世紀頃までの古代史の真の姿を見誤ります。
『記・紀』が記すような軍隊の長征や広域の支配は、交通路の貧弱さや兵站の観点から、また情報伝達スピードの面からも、4世紀以前の日本列島では不可能でした(第26回ブログ)。
交通路もかなり整い、王権の基盤も安定した7~8世紀のセンスで、数世紀も遡る王権支配の物語が作られたというのが事実です。
しつこいようですが、古代の日本列島には「日本」と称した国はありませんでした。にもかかわらず万世一系の思想のように、古墳時代の早期から、否、紀元前から今のような天皇統治の枠組みがあったかのような古代史も存在します。しかしそれは意図的に設定された枠組みに過ぎません。
景行・ヤマトタケルの遠征にみられる矛盾
神代の時代を終えてからの景行・ヤマトタケルの遠征物語は『記・紀』の中でも大きなウエイトを占めていますが、4世紀の実態にそぐわない幾つかの事例を挙げてみます。
『日本書紀』によるとヤマトタケルは、景行27年10月13日(16歳の時)に大和発、同年12月には熊襲国に到着して熊襲を征伐、そして景行28年2月1日には大和に帰還しています。
続いて、景行40年10月2日(29歳の時)に大和を発ちますが、30歳の時に能褒野で死んでいるので、1年くらいで、東北南部までを征討したことになるのでしょう。
東征からの帰途で、ヤマトタケルが新治から酒折までの日数を聞くと、火焚の者が「夜は九日、昼は十日」と答えているので、茨城の石岡から甲府までの200キロを9泊10日で進軍したことになります。年月日が明示されているのでもっともらしいのですが、この行程を見ただけで4世紀の行軍でないことは明白です。
4世紀前半の陸路を軍隊が進めるのは平地で1日に20キロ以下、山中であれば1日平均5キロくらいしか進めないはずです(第46回ブログ)。
遠征物語の行程は、『記・紀』が編纂された頃の交通事情をもとに編み出されたもので、とても史実とは思えません。
また『日本書紀』は、ヤマトタケルが東北の蝦夷を征討した帰路に、信濃から越を平定したと伝えています。
しかし蝦夷の本格征討は7世紀半ばから始まるのです。
越後がヤマト王権の影響下におかれるのも7、8世紀からです。したがって、ヤマトタケルの東征は、編纂当時の政治課題を先取りする形で作られたものと考えられます。
一方、これらの行程からは7、8世紀当時の東山道のルートを推定すること、例えば碓氷峠や神坂峠が陸路の要衝地であったことも推定できるので、そういう意味ではこの東征物語を決して無下に扱うべきではありません。
景行も、大和から山口県佐波まで20日間で移動しています。とても無理です。しかも熊襲征伐のために7年間も都をあけていますね。大和の地には、葛城をはじめ多くの豪族が存在し、国の基盤は必ずしも盤石ではなかったはず。大王の長期に及ぶ不在はヤマト国自体の存亡にかかわるので、とても考えられません。
神功皇后の三韓征伐
『記・紀』に見る三韓征伐の記事は、新羅にとどまらず、百済・高句麗をも屈服させたというものですが、お伽話のようで現実感がありません。およそ史実とは程遠いので、物語の本筋には頭を突っ込まず、理系の視点から行軍などの周辺部分を押さえておくことにします。
まず、九州へ向かう仲哀と神功の動きを検討してみます。仲哀は紀伊の徳勒津(ところつ)から、神功皇后は越前の敦賀から山口県の穴門へ向かったといいますが、果たしてこれは当時の実態を踏まえているのでしょうか。
確かにヤマト王権は、紀ノ川流域へ勢力を拡大していました。
ただし、その時期は5世紀後半から6世紀前半で、その後、河口の「紀の水門」が瀬戸内交易の外港として機能するのです。したがって、徳勒津から瀬戸内海経由で九州に向かうことは理にかないますが、仲哀の4世紀半ばには、まだこのルートは存在しなかったのです。
また、敦賀の地が隆盛するのも、5世紀から6世紀以降であって、神功の4世紀半ば頃はまだ丹後王国の時代で、敦賀は表舞台に登場していません。
したがって、九州遠征は、紀の水門と敦賀が、海上交通の要衝地として認識される6世紀以降に作られた物語と言えます。
次は渡海能力から見た疑問です。
当時の軍船建造技術から見て、誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)に所蔵の『神功皇后縁起』に描かれたような軍船はあり得ず、三韓を征討できるような大軍は派兵できません。
5世紀初頭にかけて行われた高句麗の好太王との交戦ですら、せいぜい数百人規模の派兵でした(前回のブログ)。
三韓征伐は、7世紀半ば過ぎの白村江の攻防(第58回ブログ)などを、年代を繰り上げて4世紀半ば頃に置いたものでしょう。
7世紀半ばの斉明天皇は、百済救済のため軍船を仕立てて瀬戸内海を航行し新羅討伐に向かうも、途中の九州朝倉宮で亡くなりました。このあと日本は古代最大規模の遠征軍を向かわせたが、白村江で大敗を喫します。
偉大な神功皇后の物語は、斉明の劇的な事績を賛美して偶像化して作られたものと考えられます。
夫の死後に征討軍を指揮することも共通です。
神功が実在した可能性は低いですが、斉明(和風諡号は天豊財重日足姫天皇・あめとよたからいかしひたらしひめ)と同じタラシヒメという名を持っています。
神功皇后伝説は、7世紀後半のヤマト王権内で大きな影響力を持った息長氏の主導で作られたのでしょう(第96回ブログ)。7世紀における半島への出兵を正当化するため、その前例としての役割を担ったのではないでしょうか。
『記・紀』に記された神功皇后の三韓征伐はお伽噺のようなタッチで記されているので、神功の実在や業績に疑問符をつけざるを得ないわけですが、『日本書紀』神功皇后紀の後半(摂政紀)には、4世紀における日本列島と朝鮮半島の間の交渉や衝突に関して史実と思われるような記事もあります。これについては稿を改めて言及したいと思います。
「出雲の国譲り」とは何だったのか?
『記・紀』の記述では、神代の巻に「出雲の国譲り」の物語があり、崇神紀60年には、出雲振根と飯入根による内紛(事実であれば、4世紀半ば頃か?)に乗じて、ヤマト王権が出雲に介入したかのような記事が見られます。
一方、『出雲風土記』の出雲神話には「国譲り」の話は載っていません。出雲を象徴するスサノオとヤマタノオロチの神話すら載っていません。
肥後和男氏は、
<載っていないのは、出雲の人々がその土地で、この話を語っていなかったからで、話そのものはむしろ大和で成立したと思われる。その舞台が出雲に求められていることは、何かの歴史的理由による>
と言っています。筆者もそのように思います。
大和政権の前に、西日本全域を支配した出雲政権があったという説は、明確に否定しましょう(第65回ブログ)。これは『記・紀』の記述がもとになってつくり出されたトンデモ古代史です。
したがって、「出雲の国譲り」も何かを象徴して作られた物語と考えるべきでしょう。「何か」とはいったい何でしょうか?
紀元後の出雲地方を確認してみます。
古代出雲は2世紀頃が最盛期でした。
同じ出雲でも東部と西部ではかなり歴史的様相は異なっています(第65回ブログ)。
西部の斐伊川(ひいかわ)下流域や神戸川(かんどがわ)が流れる神門郡(かんどぐん)一帯は、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などの弥生遺跡が残され、古代の繁栄をしのばせています。
2世紀以降、四隅突出型墳丘墓が造られ、3世紀には西谷(にしだに)墳墓群を中心としたクニが、近隣の中小勢力(小規模なクニやムラなど)を傘下においていたと思われます。
しかしグリップは強くなく、様々なクニ・ムラが並立していたと思われます。3世紀半ばの西谷9号墓を最後に墳墓の築造が途絶え、4世紀後半以降は前方後方墳・円墳の築造に置き換わっていきます(第65回ブログ)。
3世紀末から4世紀前半の出雲西部は、権力の空白が続いたと考えられます。
一方の東部は、意宇(おう)を中心とする一帯で、2、3世紀から四隅突出型墳丘墓が出現し、6世紀にかけては前方後方墳などが集中します。
東部では「国引き神話」が生まれ、熊野大神・神魂神(かもすのかみ)が崇拝されるなど、西部とは異なる独自の文化がありました。
神魂神社(かもす)は現存する日本最古の大社造りの本殿で知られています。中世以降の祭神はイザナキ・イザナミですが、かつては出雲国造家の大庭における祖神の斎場として機能していました。
熊野大社は、出雲国造家本来の奉斎社で、祭神は伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(スサノオの別名)とされています。
これら神社の創建はおそらく7、8世紀の頃と思われますが、この二つの神社は出雲東部における古代の文化を色濃く残しているように感じます。
<現存する日本最古の大社造りの本殿で有名な神魂神社(島根県松江市大庭町)>
<出雲国一宮 熊野大社(島根県松江市八雲町)>
『記・紀』の神話では、オオクニヌシがアマテラスに屈して「国譲り」する様が描かれ、歴史時代に入っても出雲振根と飯入根の確執などがありますが、そこに登場する地域はすべて出雲西部です。したがって、『記・紀』を編纂したヤマト王権の眼差しは出雲西部に向いていたと思われます。
そこで、4世紀半ば頃、統制が弱くまとまりに欠けた西部に、ヤマト王権(「さき」の王権)が物部や和珥の先祖筋の勢力を派遣してくさびを打ち込んだ可能性が考えられます。
大和から丹後経由で日本海に進み、海路で日御碕(ひのみさき)に達したのではないでしょうか。
6世紀になると、雲伯系埴輪が東部から西部にかけて広域に見られるようになることから、文化的・歴史的様相が異なっていた東西の交流が進み、東西の連合関係が成立する素地が生まれます。
587年の丁未の乱で西部の後ろ盾だった物部氏が滅びると、西部に地殻変動がおき、蘇我氏に主導された東部の意宇の王(出雲氏)が西部を含む出雲全域を支配し、連合出雲の枠組みが出来たと思われます。
欽明の時代になるとその連合出雲に、蘇我氏主導でヤマト王権が本格的に介入したのでしょう。
そして、その後の国造制や国司・軍司制の導入によって出雲全域がヤマト王権の影響下に入ることになります。
出雲は4世紀半ば以降、徐々に弱体化が進んでいたわけですが、完全に大和政権の支配下に入るのは、結果的に最も遅かった地域ということになります。
ということは、「出雲の国譲り」とはいったい何を意味するのでしょうか。
諸説あり難しい問題ですが、強いて言えば、7世紀になってヤマト王権に取り込まれた意宇地方の出雲氏が、西部へと重心を移動させ祭司者に特化していくプロセスが「出雲地域の国譲り」と言えるのではないでしょうか。
出雲氏自身も奈良時代半ばには意宇を引き払い、出雲大社のある杵築に居所を移してしまいます。
こうして、出雲氏が西進移住して祭司者に特化し、出雲全域がヤマト王権の支配下に入ってしまったわけです。
「国譲り」は、ヤマト王権による日本各地への勢力拡大を、出雲を舞台にして象徴的にまとめ上げたものでしょう。ずばり神話です。
そこに、多くの地方豪族のヤマト王権への服属が習合し、これらの豪族がそれまで祀っていた祭神が出雲系の神(国つ神)に位置づけられてしまいます。コトシロヌシ、タケミナカタなどです。
オオクニヌシを「国魂」の象徴として祭り上げ、天つ神による日本各地の「国魂支配」を正当化したのが「国譲り」の実体と言えそうです。
参考文献
『古墳解読』武光誠
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『古代豪族』洋泉社編集部
『古代日本の地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『神話から読み直す古代天皇史』若井敏明
『古代日本誕生の謎』武光誠
『八幡神とはなにか』飯沼賢司
『八幡神と神仏習合』逵日出典
他多数