理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

131 ヤマト王権の祭祀


<大神神社拝殿>

 前々回から2回にわたって、河内平野を主体とした技術革新について言及したので、5世紀のヤマト王権の本拠地は河内の難波であったかのようにも思えてしまいます。
 ヤマト王権は河内平野へ進出したことによって、産業基盤を強化し、瀬戸内海東部を含む広範囲への影響力を増大したことは間違いありません(第100回ブログ)。

 しかし、この河内への進出は重心を移しただけであって、決して大和盆地からの決別を意味しないことに留意すべきです。政治を執り行なった「宮」が依然として大和盆地に存在しているからです(第123回ブログ)。

 それが証拠に、三輪山祭祀はむしろ4世紀半ば頃から本格化しているので、ヤマト王権は大和盆地内の本拠を放棄したわけではないと言えそうです。

 そこで今回は、5世紀頃のヤマト王権の祭祀を、その前後の変化も含めて確認してみます。

 ちょうど3年半前のブログ(第14回ブログ)で、「崇神がオオタタネコにオオモノヌシを祀らせた説話、およびヤマト国と三輪山の神との関わり」についていずれ詳述すると予告していました。その回答でもあります。

三輪山伝説
 古代史を検討する場合、必ずといっていいくらい、大物主大神(おおものぬし)に関する奇妙な三輪山伝説が立ちはだかり、その謎解きに汗をかくことになります。

 オオモノヌシとはいったい何ものなのか、百家争鳴と相成ります。ヤマト王権の神なのか、出雲の神なのか……等々と。

 例えば、村井康彦氏による『出雲と大和』は、ロングセラーのヒット作となりましたが、読み進むにつれ、あまりの「神話かぶせ」に筆者は辟易となってしまいます。

 <大物主神が三輪山に祭られた時期はむろん明確ではないが、弥生時代の早い時期にまで遡らせることができるのではなかろうか>。

 <大神神社が注目されるのは、祭祀のあり方もさることながら、祭神の大物主神が出雲の神であり、その由緒に出雲神話の核心がこめられているからである>。

 <大国主神やその分身により、出雲の勢力が大和や北陸に及んだこと、それが国作りの実体と意味である。出雲神話の核心もまさにそこにあり、大己貴神の霊が三輪山に奉斎されたことで国作りが終わり、その神話も完了するのである>。

 <三輪山の磐座信仰は、そのまま出雲系統の祭祀=信仰を表徴するものといってよいであろう。磐座信仰の連鎖が出雲と大和の間にあったにちがいない>。

 このようにオオモノヌシを出雲系の神とし、出雲勢力が大和に進出して葦原中国(あしはらのなかつくに)の支配を完了したとする論調は、村井氏に限らずかなり多く見受けられます。
 これは、門脇禎二氏の言を借りれば、「あまりにひど過ぎる神話かぶせ」です(第16回ブログ)。

 もともと、文献として初めてオオモノヌシが語られたのは『記・紀』においてです。まずはこの説話を紐解いてみましょう。

 この説話は『古事記』では次のような筋立てになっています。

 崇神の御代に、疫病が大流行して民が絶滅しそうになった。崇神は神意を請うため神床についた夜、オオモノヌシが夢に現れて、「疫病の流行は私の意志によるのだ。だから意富多々泥古(おおたたねこ)に自分を祀らせれば、神の祟りは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう」と仰せになった。

 そこで崇神は急使を四方に派遣して、オオタタネコを探したところ、河内国の美努村(みののむら)で見つかった。

〇 崇神が、「そなたは誰の子か」と尋ねると、オオタタネコが「私はオオモノヌシが、陶津耳命(すえつみみ)の娘の活玉依毘売(いくたまよりびめ)を妻として生んだ、オオモノヌシから数えて4代目にあたる子孫だ」と答えた。

 崇神は喜んでオオタタネコを神主として、御諸山に意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を祀った。

〇 このオオタタネコを、神の子孫と知ったわけは次のとおりである。
 イクタマヨリビメのもとに夜ごと男が訪ねてきてヒメは身ごもった。男の素性を怪しんだ両親は、ヒメに、糸を通した針を男の衣の裾につけさせると、翌朝その糸は鍵穴から抜け出ていた。その糸をたどると美和山の社に着き、男の正体が三輪のオオモノヌシ大神だったと分かった。糸巻に糸が3勾(みわ、3巻)残っていたことから、その地を美和(三輪)と名づけた。

 このオオタタネコは神君(みわのきみ)、鴨君(かものきみ)の祖先である。

 つまりオオタタネコは三輪氏の祖ということになっています。

 

 これに対し、『日本書紀』の記述も『古事記』と類似するが、次のように異なる部分もあります。

 崇神は国の災厄の原因を究めようとしたところ、神が倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)に神憑りして、「自分を祀れば国は安らかになる」と言った。

〇 崇神が「どちらの神か」と聞くと、大物主大神だと答えた。その夜、崇神の夢の中で、我が子オオタタネコに自分を祀らせれば国は平らぐと告げられた。

 茅淳県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)でオオタタネコが見つかったので、崇神が「お前は誰の子か」と問うと、「父はオオモノヌシ、母はイクタマヨリビメで陶津耳の娘」と答えた。そしてオオタタネコを、オオモノヌシを祀る祭主とした。

 この後、オオモノヌシの妻となったヤマトトトヒモモソヒメが、夜だけ通ってくる夫に「顔、姿を見たい」と言うと、「明朝、あなたの櫛函に入っているが、私の姿に驚かないように」と答えた。翌朝、姫が櫛函を開けると、そこには麗しい小さな蛇が入っていた。ヒメが驚いて叫んでしまったので、大神は恥じてたちまち人の形となり、三諸山に登ってしまった。残されたヒメは仰ぎ見て悔い、どすんと座り込み、箸で陰部を突いて亡くなってしまった。このヒメの墓を箸墓と言うが、その墓は、昼は人が造り夜は神が造ったものである。

 

 『日本書紀』では、イクタマヨリビメの代わりにヤマトトトヒモモソヒメとなり、ヤマトトトヒモモソヒメのところに通う神が蛇体となっているわけです。

 これら『記・紀』の説話をどう捉えれば良いのでしょうか。『記・紀』では崇神の頃、つまり3世紀終わり頃に当たるわけですが……。

  3、4世紀のヤマト国(初期ヤマト王権)の王が崇めた神は、果たしてオオモノヌシだったと言えるのでしょうか。

 実は、これら『記・紀』の伝承に登場するオオタタネコは、3世紀後半の実在する人物ではありません

 

三輪山伝説は6世紀につくられた!
 『記・紀』に記された古い神話のほとんどは、列島各地で信じられていた神話や民間伝承を基に6世紀以降のヤマト王権(大和政権)によって意図的に作られたものです(第11回ブログ)。

 三輪君(大三輪氏)による三輪山の祭祀も古くは遡らず、「三輪高宮(こうのみや)家系図」によれば、おおむね欽明の時代に創始されたものと考えられます。

 また、三輪山の山中および山麓の祭祀遺跡において発見される土器の分析から、同遺跡の大きなピークは6世紀後半にあるとされています。

 この伝承は三輪山の祭祀を執り行なった三輪君によって維持されてきたものでしょう。はっきり言ってしまえば、オオモノヌシに関する奇妙な物語は三輪君一族の神話で、これを崇神の時代に遡らせて天皇の歴史に結びつけたものなのです。と同時に、三輪君が管掌する神部(みわべ)が須恵器生産に従事することの由来譚にもなったと考えられます。

 オオタタネコが見つかった陶邑の近くには陶荒田神社(すえあらた)が鎮座しています。祭主は荒田氏ですが、おそらく三輪君氏が関係した社なのでしょう。

 さて、三輪君氏による三輪山祭祀の創始が6世紀頃とすれば、それ以前の三輪山祭祀をどう考えれば良いのだろうか。

 筆者は、次のような考古学的知見を基にした歴史的変遷を想定することが合理的と考えます。

 

原初の三輪山祭祀
 三輪山の祭祀遺跡としては、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座などの巨石群、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、山ノ神遺跡、奥垣内遺跡などが確認されています。
 山そのものが神体山として信仰される三輪山では多数の磐座群が存在しますが、山ノ神遺跡はそのなかの代表的な遺跡で、年代は5世紀後半から6世紀とされています。

 山ノ神遺跡は、三輪山西麓の傾斜地に位置し、南には大神神社、南西には摂社の狭井神社が鎮座しています。この遺跡は巨石群を磐座とし、一帯からは銅鏡、碧玉性勾玉、水晶製勾玉、剣形鉄製品、土製模造品、滑石製品など多数の遺物が出土しています。

 また、馬場にある奥垣内遺跡からは4世紀後半から5世紀初めの土師器や新羅系陶質土器が出土しています。

 三輪山の祭祀遺跡は、こうした考古学的な見地から4世紀後半から5世紀初めと、5世紀後半から6世紀2つのピークが認められるようです。

 6世紀頃から大神氏のもとで始まる三輪山祭祀の前には、原初の三輪山祭祀があったことになります。

 古代の信仰は、第16回ブログで言及したように、巨石や山川に対する素朴な信仰、つまりアニミズムだったと思われます。アニミズムは世界中の民族に普遍的に見られた原初的な信仰です。

 三輪山伝説で、『記・紀』が鍵穴を通る神、蛇神を語っているのは、三輪山の神が、もともと水の神、田の神として信仰されていたことを暗示します。水の神を蛇神とし、蛇神が田の神と信じられる神事や民俗は、三輪だけでなく各地にあるといいます。
 三輪山の神まつりがオオタタネコを祭主とすることで目的を果たしたという伝承は、もともと三輪山の祭祀が、それ以前の昔から、当地に土着した人びとによって素朴な神まつりとして行われてきたことも暗示します。

 5世紀以前の神まつりは、社殿(神社)に御神体を祀っていたわけではありません。山や木、あるいは太陽、動物といった自然そのものを神聖なものとして崇拝し、必要に応じて儀式などを行なっていたもので、神を招き憑依させるための巨石や大木をそれぞれ磐座、神籬と呼んで神聖視し、そこに銅鏡や勾玉などの祭具を捧げて神を祭ったのです。
 岩や木を「依りしろ」として、神霊を一時的に呼び寄せて祭り、終われば神霊を送り戻すという考えに基づいた磐座祭祀あるいは神籬祭祀が行われていたのです。

 なお、古墳時代の遺跡とされる山ノ神遺跡や馬場にある奥垣内遺跡からは、弥生土器の系統の祭祀用模造品も出土しており、三輪山祭祀遺跡の開始時期は4世紀後半以降ではなく、古墳時代以前に起源があるとも見られます。

 これと酷似した特徴を持つ土器が、丹後にある大宮売神社の弥生後期遺跡から出土しています(以前、第96回ブログで言及した)。
 このことは、ヤマト国が纒向で発祥する以前の弥生後期に、三輪地域と丹後地域の間に活発な通交があったことを想起させます。

 弥生時代の末期、三輪山の裾野を通る「山の辺の道」は、古奈良湖が縮小して生まれた湿地の縁を縫うように走っていたと考えられます(第45回・86回ブログ)。その「山の辺の道」を北上して高さ100メートル前後の奈良山を越えることで、山城から丹後までは繋がっていたということです。

 それはさておき、元に戻します。

 3世紀後半以降に纒向で発祥したヤマト国の王も、次のようなエビデンスから、三輪山に昇る太陽を自然神として崇めていたのではないでしょうか。

 三輪山頂上の奥津磐座のあたりには高宮神社(こうのみや)が鎮座していますが、同社は『延喜式神名帳』では神坐日向神社(みわにいますひむか・奥津磐座)と記されています。
 明治より前は「日向」の語が含まれる神坐日向神社であったことから、古代の三輪山では、太陽崇拝をベースにした原始的な祭祀が行われていたと考えられます(第16回・90回ブログ)。
 神坐日向神社の存在は、古墳時代以前の磐座祭祀の名残を現在に伝えるものと言えるでしょう。

 したがってヤマト国の王は、太陽神を磐座に招き憑かせる祭祀を執り行っていたと考えられます。
 この磐座祭祀は、墳丘墓や古墳で死者となった指導者を祀る祖霊祭祀と両輪となって変遷していきます。

 

古代の神まつり
 古代の神まつりについては研究者の間でもいろいろな見解があるようです。日本における精霊信仰という神まつりは、岡田精司氏によれば次のようなものだったとされます。

 物体でも生物でもあらゆる「もの」に神霊が宿っていると考えられ、多様な神格が存在した。

 神は、平常は人里に住まず、遠方の清浄な山奥や海の彼方から、神まつりの日だけやって来るものとされた。

 神は目に見えないものなので、偶像崇拝はなかった(現在残されている神像彫刻はすべて平安時代以降のもの)。

 神と死者の霊はまったく別物で、死者の個人の霊が神として祀られることはなかった。言いかえれば死者は神にならないので、神まつりの祭場死者を祀る墓(墳丘墓や古墳)とは全く異なります。

 このような神の観念の背景には、稲作の信仰が深く根を下ろしていたようです。
 弥生時代の人々の最大関心事は、米づくりに代表される「生産基盤の安定とムラの存続・維持発展」にあったと考えられます。

 そのためには人々が心をひとつにする必要があり、「共同体の祭祀」として「銅鐸のまつり」がありました。シャーマン(司祭者)が銅鐸を用いて豊穣を祈念し、祖霊を崇め、ムラの発展を祈願していたのでしょう(第75回ブログ)。

 ところが、近畿の銅鐸祭祀は3世紀前半に急に消滅します。畿内中枢では銅鐸祭祀から、いち早く銅鏡などを用いた新たな祭祀への移行が始まったようです(第75回ブログ)。人の集積が大きくなり権力の集中がおこり、墓の形態は、弥生墳丘墓で一族を祀る祭祀から、権力者(王)を崇める古墳の祭祀へと移行します。

 銅鏡を用いた祭祀もこれと軌を一にするものです。

 磐座祭祀がいつから存在したのか、縄文の昔には巨石信仰があったし、それとの類似もあり、どのように考えたら良いのでしょうか。
 磐座祭祀か否かは別にしても、3、4世紀のヤマト国の王が秀麗な形の三輪山とそこから昇る太陽を崇めたことは間違いないでしょう。三輪山祭祀の原初のかたちは太陽信仰だった!

 4世紀頃までのヤマト国は、この太陽神を、地域豪族が祀る神(国魂)と同格の神として自ら祀っていたと思われます。
 日本列島の原初の文化はアニミズムやシャーマニズムなどをベースとし、天の観念はなく天の至高神もありませんでした。列島中に八百万の神が祭られていたわけです。後世の分類でみれば国つ神(?)しかいなかったということ。
 ヤマト国も当初は一つの地方神を祀っていたのですが、その実態がどういうものだったのか、その詳細について現在では窺い知ることはできません。

 ただ、纒向の王が三輪山に昇る太陽を神として崇めたことだけは間違いないでしょう。そして太陽神を招き迎える時は磐座に憑り移らせ、そこに銅鏡や勾玉などの祭具を捧げて神まつりを挙行したことでしょう。

 4世紀頃までのヤマト国の王が挙行した神まつりは、祭場の一角に神霊を迎えるための磐座や神籬があるだけの簡素なものだったと思われます。
 やがて、4世紀後半頃からヤマト国がヤマト王権へと勢力を拡大するにつれ、三輪山を崇める神まつりは次第に磐座信仰という明確な形に変化していきました。

 

大神神社(おおみわじんじゃ)
 せっかくなので、オオモノヌシを主祭神として祀る大神神社について確認してみます。
 大神神社は大和国の一宮とされている有名古社ですが、まずは不思議な読み方をする名前の由来から確認してみましょう。「大神」と書いて「おおみわ」と呼ぶのは何故なのか。
 三輪山は古くは御諸山(みもろやま)と呼ばれ、この段階では三輪氏やオオモノヌシとのかかわりはなく、太陽神を崇める大王家が直接管理していました。
 ちなみに御諸山のモロは、神籬のモロと同語であるという説があります。
 その祭祀が、6世紀、オオモノヌシ大神を「氏の神」として信奉していた大三輪君にゆだねられ、山の名前も三輪山と変わり、そのやしろが「おおみわ」と呼ばれ、これが慣習になったとも言われます。

 主祭神オオモノヌシを、配神の大己貴神(おおなむち)と同一と見る向きがあるが、これは正しくありません。何となれば、既にオオモノヌシが祀られていた三輪山に、あとからオオナムチを祀ったという事実があります。これは両者がもともと別々の神であることを自ら証明しているようなものです。

 「大神神社」は西向きに建っています。

 今の神社は多くが南面しているが、これは後世、中国から「天子南面の原則」が持ち込まれた影響によるものです。日本の原初の神社は東西軸レイアウトでした。

 天理市の「大和神社」も東面しています。「春日大社」も、現在の本殿は明治時代に創建されたものだが、昔の神地は西面していたことが分かっています。
 5世紀以前の有力氏族の居館も東西軸であったと考えられます。現に纒向遺跡では東西軸線上に並ぶ居館群が発掘されましたね。
 東西軸は、その神社が古い時代の形を守っているかどうかのリトマス試験紙とも言えます。


 <西向きに建つ大神神社の大鳥居>

 オオモノヌシは「三輪地方に特化した祟る神」として位置づけられていました。『記・紀』の中でも崇神の治世を初めとして、何度か祟る様が描かれているわけですから。しかし、有名古社の祭神としては極めて珍しく、あくまで大和地方の地主神なんですね。

 蛇と石の信仰を残していることが特徴で、古い信仰の形を今にとどめています。

 まず石ですが、前述した三輪山だけでなく、神社境内にもたくさんの磐座が散在しています。この磐座信仰は、必ずしも巨大な自然石でなければならないというものでもなく、岡田精司氏によれば、小さなものでもそれに神秘を感じればよいということらしい。

 筆者は2009年11月に大神神社に参拝していますが、その時は、二ノ鳥居と拝殿の〆柱の間の参道左側に、玉垣で囲った「夫婦岩」と呼ばれる磐座がありました。いったいいつからのものなのか、そこに最初からあったものなのか、人工的に並べたものなのか不明ですが……。


 <夫婦岩>

 三輪山には杉が一面に生い繁っていて、神社の御神木とされています。

 境内には、蛇を精霊とみなす原始信仰を今に伝える巳の神杉が屹立しています。この御神木の前には蛇の好物とされる生卵が供えられていました。他にも、衣掛杉・苧環杉など7つの杉がありますが、苧環杉(おだまきすぎ)については、次のような説話が伝わっています。

 前述したように、『古事記』には「糸巻に糸が3勾(みわ、3巻)残っていたことから、その地を美和(三輪)と名づけた」と記されています。苧環はその糸巻のことで、この神婚にまつわるお話が、苧環伝説として今に伝えられているのです。苧環とはつむいだ麻糸を、中が空洞になるように円く巻いたものをいいます。

 神婚説話によって、三輪の神と大王家との緊密な関係を説き、三輪の神が大王家の崇敬を受けるに至った由来を明らかにしたものと理解すれば良いでしょう。

 6世紀、大三輪氏が祭祀を行なうようになってからは、祟り神としての神格が強くなる。これが『記・紀』の記述に影響を与えます。
 前述したように、崇神の御代に疫病が大流行して民が絶滅しそうになったが、オオモノヌシを祀ることで神の祟りがおさまり国内も安らかになった……など。

 

大三輪氏などの氏族伝承が反映された『記・紀』の説話
 三輪氏の姓(かばね)は初め「君」だったが、684年11月に三輪高市麻呂ら一族が「大三輪姓」を賜り、改賜姓52氏の筆頭となっています。飛鳥時代後半期の政権内では、氏族として最高位にあったと考えられます。
 このように、7世紀末の段階では大三輪氏の権勢は非常に高く、『記・紀』の編纂にあたって、崇神の頃の神話じみた筋書に大きな影響を与えたと判断できそうです。

 第94回ブログで和珥氏・春日氏に言及した時にも、「684年の八色の姓制定では52氏が朝臣姓を賜与されたが、大三輪氏に次いで春日氏嫡流の大春日氏が推挙されている」と記しました。

 ここで、神武東征物語の作られ方を再確認してみましょう。

 飛鳥時代に、ヤマト王権確立の立役者として活躍した大伴氏・物部氏が、自らの祖先を顕彰する形の説話を、『記・紀』の神武東征物語の筋書に織り込ませたと考えられるわけです(第76回・79回・80回・81回ブログ)。
 つまり神武東征物語は、大和政権の先祖と大伴氏・物部氏の先祖が協力して大和朝廷を開いたとする物語が原形であって、これにさまざまな伝承が加わったものと言えそうです。

 これを一般化してみれば、次のように言えるでしょう。

 記紀神話は、新たな律令国家を実現するため、天皇の国土統治の正当性を語った物語だ。しかも、それまで民衆の間で一般化していた神話ではなく、政権中枢によって意図的に作られた神話だ。しかし、その内容のすべてが政権中枢によって作りあげられたものではなく、列島各地で信じられていた神話や民間伝承と思われるものが色濃く反映されている(第11回ブログ)。

 これは何も神話に限らず、歴史時代の事象についても、各豪族たちの伝承や系譜が『記・紀』の氏族伝承の元になっているのです。

 691年8月、『日本書紀』編纂の中で、18の氏(うぢ)に対して、彼らの系譜や伝承を上進するよう詔が出されています。この時の伝承が、完成した『記・紀』にかなり盛り込まれたはずです。『記・紀』は、欽明の頃には存在したと伝わる『帝紀』『旧辞』が下敷きになっているとも言われますが、さらに、このような氏族伝承や寺社縁起・百済などの外国史料も加味して編纂されたものと思われます。

 

直禰子神社
 大直禰子神社(おおたたねこ)は、奈良時代には大神寺、鎌倉時代には大御輪寺、明治の神仏分離以後は、大直禰子神社と名を変え、現在に至っています。


<大神神社の摂社、大直禰子神社(若宮社、8世紀後半頃創建)>

 


 <苧環(おだまき)杉>

 大直禰子神社の鳥居の右横には、大きな杉の切り株があります。三輪の七本杉のひとつ「苧環杉」の古株で、三輪山神話と大三輪氏の祖先とされる大直禰子を祀る大直禰子神社を繋ぐ、まさにうってつけの場所にあります。後世の観光政策の何と見事なことか。

 ちなみに、オオタタネコは大田田根子とも表記され、「オオ」は「大きい」、「タタ」は「祟り」を意味し、「ネコ」は尊称なので、オオタタネコは「祟りを鎮める能力をもった偉大な人物」というような意味合いであるという説があります。

 

ヤマト王権がアマテラスを祀るのは8世紀初頭前後から
 第14回ブログで「アマテラスの来歴」に言及しました。その骨子となる部分を再掲してみます。

 4世紀半ば頃から勢力を拡大し始めたヤマト王権は、400年と404年における高句麗との戦争で完敗し、対戦相手だった高句麗の政治思想や文化・技術・軍事力を強く意識するようになります。

 溝口睦子氏によれば、5世紀の日本はそれまでなかった馬の文化や新しい武器・武具を取り入れ、金属加工・土器・織物・建築などの先進技術や文字文化の導入を行なったが、国家体制の変革という面で何よりも必要とされたのは、新しい政治思想であって、それは王の出自を天に求める降臨神話の導入でした。

 おそらく、4世紀頃までのヤマト国は、地域豪族が祭る神(国魂)と同格の神を祀っていたので、突出するシンボルを必要としたのでしょう。ヤマト王権は、専制的な統一政権へと突き進むためには、唯一絶対の権威を持つ至高神の存在が必要でした。

 一方、『記・紀』の神話を紐解くと、どう考えても5世紀以降アマテラスが終始一貫、文句なしの最高神であり続けたと言うのは無理がありそうです。最高神の候補はアマテラスとタカミムスヒに絞られますが、実は、アマテラスの出現は6世紀後半以降であって、最高神としてきちんと位置づけられたのは7世紀後半から8世紀初めのことなのです。それまではタカミムスヒを皇祖すなわち最高神に位置づけていたと読みとれます。

 最高神が替えられた時期はというと、5世紀後半の雄略の頃にタカミムスヒを王権の最高神に位置づけ、継体から欽明の時代にかけてオオヒルメムチ(ないしはアマテラス)が登場し、欽明の時代に王権神話の原形が完成したと考えられます。そして天武の時代以降、王権神話に磨きがかけられて、『記・紀』の神話に集約されたということになりそうです。

 ヤマト王権は三輪山祭祀から離れて、タカミムスヒという最高神を崇める祭祀に注力し、やがて律令国家成立(8世紀)以降に最高神がアマテラスに置きかわったということになります。

 壬申の乱(672年)の際、大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)は伊勢北部を流れる朝開川のあたりで、南方の伊勢の神を遥拝して戦勝祈願をしました。壬申の乱に勝利した大海人皇子はこれに感謝して斎宮を伊勢に送り、それまで大和の地で祀っていた大神(タカミムスヒ、ないしはオオヒルメムチ)を伊勢の地に遷します(第15回ブログ)。

 6世紀頃から祟り神をまつる三輪山祭祀は大神氏によって引き継がれ全盛期を迎えますが、7世紀になると数々の失策から大神氏の勢力は衰退しヤマト王権内での政治的地位が著しく低下してしまいます。7世紀という時期はちょうど、宮廷祭祀を掌る中臣氏・忌部氏が台頭した時期にもあたります。

 大神氏が歴史の舞台に再登場するのは、壬申の乱において三輪高市麻呂が活躍して以降になります。

 おそらく古墳時代の前半、つまり4世紀頃までは各地のさまざまな神が横並びで共存する八百万神の祭祀が続き、ヤマト王権の覇権確立が進む6世紀以降に、全国の八百万神が「ヤマト王権の神々」の世界の中に包摂されていったのではないでしょうか(第105回ブログ)。

 通説では、ヤマト王権による三輪山祭祀(アマテラスを祀る信仰)は笠縫邑で行われていたとされています。しかし、アマテラスを祀る現在の檜原神社(大和笠縫邑に鎮座)は相当古くから鎮座していたと思いがちですが、実は江戸時代初めになって、伊勢神宮の神官、荒木田氏が「崇神が笠縫邑で初めてアマテラスを祀った」という『日本書紀』の記述にちなんで創始したものです(第90回ブログ)。

 5、6世紀頃、ヤマト王権によるアマテラス(タカミムスヒ?)信仰の聖地とされた笠縫邑は今の檜原神社の地だったのでしょうか。

 

その後の神まつり
 磐座祭祀あるいは神籬祭祀が基本であった神まつりに大きな転換が訪れたのは、古墳時代の終末期にあたる6世紀中頃あたりです。

 538年(一説には552年)に仏教が公伝したあたりから、寺院に仏像を安置する形が広まったことで、神祭りの考え方も祭祀の方法も大きく変わりました。 

 一時的に神を迎えるのではなく、建物を建て、その建物(神社)の中で神(ご神体)が鎮座するというものになり、祭礼の時期にはその社で祭を執り行うという形が広まります。従来の磐座祭祀や神籬祭祀は無くならないまでも次第に影を潜めていきました。そして、律令時代が始まる8世紀には、当時、数多く建立されていた仏寺に対して、神社を建ててその中に神を祀る社殿神道が主流になったのです。
 飛鳥時代になると、ヤマト王権や各首長にとっての、古代シナの廟のような場は他に求めることになります。急速に広まった仏教が祖先供養の有力なツールとして機能し始めます。

 そして、天武の時代になると、祭祀の場は神社へと置き換わります。寺院をまねる形で、神々の祭祀の場とされた神聖な地に神社が建てられていきます(第16回ブログ)。

 なお、6世紀ごろに姿を現して8世紀までに神道の主流になった社殿神道は、さらに100年後の800年代には今度は仏教と結びつきます(神仏習合)。その後、千年の長きにわたって神道(神社)と仏教(寺院)は一体化した状態がつづき、明治維新後の神仏分離令によって、両者は再び区別されて現代に至る経緯は諸兄ご存じの通りです。

 社殿建造の歴史につては、当ブログの第16回に詳しく記しました。参考まで。

 

三輪山祭祀の変遷についての結論
 考古学の知見から三輪山祭祀は4世紀後半から盛んになり、5世紀に停滞(?)するが、再び6世紀から隆盛になっているようです。この経緯をどう紐解くか、科学的であるかどうか、いささか疑問を残しますが、今回のまとめとして、以下に記します。

 4世紀以前は弥生から続く八百万神が横並びで共存する状態で、ヤマト国の王は三輪山の太陽神を崇めていました。

 4世紀後半からは、ヤマト国が勢力を拡大しヤマト王権へと変貌するにつれ、それまで執り行ってきた太陽祭祀を磐座祭祀の形で具体化し始め、三輪山祭祀は隆盛することになります。

 5世紀後半には最高神が作られ、ヤマト王権の時代(5世紀~7世紀)はタカミムスヒを祀ることになり、ヤマト王権は東西軸の神よりも天から降臨する至高の神を崇めるようになり、三輪山祭祀(東西軸)は一時途絶えます。これはちょうど雄略の頃でしょう。
 但し、最高神タカミムスヒの存在は、あくまで文献史学の検討から導き出された仮説であって、実証科学の面からの証拠があるわけではないのは勿論です。筆者は、おさまりの良いその仮説を支持していますが......。

  6世紀前半、欽明の時代になると、一転して地場の守護神は祟り神としての神格が濃くなり、停滞していた三輪山祭祀を復活するため、オオタタネコを祖とする三輪君氏にそれを託すわけです。そして三輪山の磐座祭祀が再度始まり最盛期を迎えます。この時にオオモノヌシという全国的に見ても大和にしか存在しない国つ神が生まれたというわけです。

 4世紀の河内進出後も、ヤマト王権は大和盆地内に本拠に構え、地場の太陽神を粗末に扱わず、三輪氏に託して三輪山祭祀は隆盛の時期を迎えたわけです。

 ついでながら、形が整った神道が見られるのは相当新しい時期なので、弥生時代から古墳時代にかけて発見されている神殿や建物の機能を、その後の神祇信仰と関連づけるのは好ましくありません。

 そもそも纒向遺跡の主祭殿、吉野ケ里や唐古鍵の主祭殿、そして登呂遺跡の祭殿は、今の神社からの類推で復元されているのですが、本当はどういう形のものだったのか、実は不明なのです。復元された姿はミスリードの最たるものかもしれず、そうだとすれば考古学の犯罪とも言えます。

 

参考文献
『神社の起源と古代朝鮮』岡谷公二
『新編 神社の古代史』岡田精司
『大神神社』中山和敬 学生社
『出雲と大和』村井康彦
『地域王国とヤマト王国』門脇禎二
『古社巡拝』上田正昭
『私の一宮巡詣記』大林太良
『ウヂとはなにか』加藤謙吉
その他多数