理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

97 朝鮮半島の古代史と倭系遺物

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 ここまでヤマト国の伸長について言及してきましたが、当時、通交面でもっとも関係の深かった朝鮮半島の状況を確認しておく必要を感じたので、今回は紀元前から4世紀頃までの半島の古代史を概括します。

古代朝鮮半島の民族は、北部が騎馬民族系、南部が韓民族系!
 紀元前1000年頃までの朝鮮半島南部には、縄文人やシナ江南地域と同じ原アジア人の韓族が住んでいました。彼らはツングース系(騎馬民族系)の朝鮮族(濊族・わいぞく)とは異なる文化をもっていました(第37回ブログ)。

 紀元前300年過ぎには、騎馬民族系の朝鮮族が半島北部をまとめ、古朝鮮が出現します。箕氏朝鮮と呼ばれています。

 紀元前190年頃にはシナの息のかかった衛氏朝鮮に置き換わり、韓族は半島最南部に追いやられてしまいます。

 紀元前108年、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪郡など四郡をおき、半島の大半を直轄します。シナによる植民ですね。

 日本列島では、紀元前後に相次いでムラが成長してクニが出現します。前漢の終わり頃から、九州北部のクニグニは楽浪郡にしばしば使者を送ります。

 313年に、ツングース系騎馬民族を主体とする高句麗によって楽浪郡が滅ぼされるまで、シナによる半島の統治が続きました。


4世紀まで混沌としていた朝鮮半島
 当時、朝鮮半島には統一国家と呼べるものは存在せず、南部には雑多な小国(クニ)が並び建っていました。
 シナが直轄した楽浪郡、帯方郡のほかには、そして弁韓・辰韓・馬韓の三韓がありました。韓族である馬韓は54の小国から成り、辰韓と弁韓は12の小国から成っていました。

 『魏志東夷伝』によれば、「弁辰は鉄を出す。韓、濊、倭みな従いてこれを取る。諸々の市買みな鉄を用い、あたかも中国が銭を用いるが如し。またもって二郡に供給す」とあります。

 弁辰(弁韓)は、紀元前2世紀末から3世紀にかけて、朝鮮半島南部における有力な鉄の産地でした。弁辰の鉄が貨幣的役割を果たしていたともとれるし、楽浪・帯方の二郡にも供給されていたことがわかります(第29回ブログ)。

 この記事からは、紀元前後の半島南部には、濊人、韓人、倭人が住んでいたとも読み取れます。当時の半島最南端部には倭人と呼ばれた人たちも住んでいたのではないでしょうか(第37回ブログ)。

 対する日本列島も同様の体で、いうなれば対馬海峡をはさんで、無数のクニが対峙していた構図が読みとれます。シナは韓の小国群の内政には干渉せず、朝貢を受けていたようです。

 半島南部と九州北部のクニグニは、末盧国~壱岐~対馬~狗邪韓国の「倭人伝ルート」で交易していました(第64回ブログ)。
 よく言われるような、先進的な朝鮮半島から後進的な日本列島への一方向という構図ではなく、双方向に文化・技術の伝播やモノの移動があった思われます。交易であるから必ず何らかの反対給付があり、言うなればツーペイの関係(第88回ブログ)であったはずです。
 実際、加耶では4世紀より前のものとされる九州北部の遺物がたくさん出土しています(後述)。
 しかし、この時代、造船技術や航海技術が未熟で、日本と朝鮮半島の間の往来は危険を伴いました。したがって物流・商流はそれほど太くなかったことも確かです。

 4世紀までの朝鮮半島には国家と呼べるものはなかったので、古代朝鮮優位説は成り立ちません。
 日本列島もクニや地域国家が割拠していたのだから、あいこです。
 半島には、シナによって楽浪郡など4郡が置かれていたので、半島南部の小国群は先進国家シナの影響を受けました。加えて漢人技術者の移住も多かったとされています。最盛期の楽浪郡には数十万人の人口があり、シナの最新技術や文化が持ち込まれていたといいます。

 日本は、半島南部を介して、シナの高度な技術や文物に直接触れることができました。
 しかし、鉄の産地は半島南部であったが、それを鍛造して精密な鉄製品に加工する技術は、半島南端部の小国群よりも、むしろ日本の方が進んでいたという事実もあるのです。

 

百済・新羅の建国
 313年に、韓族とは無縁の高句麗が、楽浪郡と帯方郡を滅ぼして半島北部を確保します。
 これに対抗し、346年には伯済国から興った百済が馬韓52の小国を統一し、356年には斯盧国から興った新羅が辰韓を統一します。

 これについては、騎馬民族系の支配者が、それまで韓族が主体だった地域に、それぞれ百済と新羅を建国したとする見方もあります。
 この時、新羅に滅ぼされた辰韓からは約2万人が渡来し、これを4世紀の応神が助けたとも言われるようですが、大勢の渡来は単なる伝承に過ぎません。

 この間、弁韓(弁辰)は統一されないまま、加耶諸国として小国が分立し、比較的平和に推移しました。この地域は鉄資源に恵まれていたので、それぞれが小盆地に囲まれていた地形も幸いし、小国でありながらも独立を維持できたのです。

 4世紀頃から、加耶諸国の列島系遺物に大和産が多く見られるので、ヤマト国との交易が始まったようです。
 これは、ヤマト国が九州北部に至るルートを掌握したことの証と思われます。ヤマト王権は4世紀後半から宗像に楔を打ち込み、それまでの「倭人伝ルート」とは別の「海北道中ルート」で加耶諸国と直接取引するようになります。


 4世紀初め、シナ大陸は激しい動乱の時期に入り「五胡十六国」の時代が幕を開けます。北方遊牧民が大量に侵入して引き起こされた動乱は、5世紀半ばまで続きますが、遊牧民フン族が引き金となったヨーロッパの民族大移動と連動しているようです。この動乱の余波は、すでに当時の先進国だった高句麗にも大きな影響を与えました。

 

高句麗の伸張・百済との連携
 高句麗は、高度な文字文明をもつシナの王朝と交流するだけでなく、勢力を拡大した遊牧騎馬民族ともつながりがありました。
 彼らは文字を持たないものの、豊富な神話や伝承をもっていたので、高句麗もそれらを取り込み、王権神話・建国神話を作り国家形成の基盤とし、飛躍的に勢力を拡大しました(第14回ブログ)。

 その後、最も貧しかった新羅は高句麗に従属したが、百済は反発し、敵の敵は味方の論理でヤマト王権に近づきました。

 奈良県の石上神宮に伝わる七支刀は、百済からもたらされたとされ、泰和四年(369年)の銘が刻まれています。百済からヤマト王権に貢上したものか、それとも下賜したものかという議論がありますが、それよりも重要なのは、この遺物が日本と百済との王権同士の通交開始を物語っていることです。
 それまで通交のなかった百済が、高句麗との対立を乗り切るために、ヤマト王権に軍事援助を求めてきたと推測できるわけです(第91回ブログ)。

 こうしてヤマト王権は半島の争いに巻き込まれていくわけですが、反面、百済との交流で大和の文化・技術の水準は飛躍的に向上します。すなわち、半島での争いを通じて、半島から列島へ技術者たちが渡来し、日本に先進技術・文化が流れ込み、未曽有の技術革新の5世紀を迎えることになるのです。


 4世紀末、ヤマト王権は百済の要請に応じて半島に出兵しますが、5世紀初めに好太王に撃退されたとされています。
 騎馬民族との戦いはとても勝負にならなかった……。
 日本は兵力・装備・兵站・戦法すべてにおいて劣っていました(第14回ブログ)。
 高句麗の好太王との交戦では、一般に、大挙日本から渡海したように受け取られていますが、当時の海上航行能力・渡海技術からみて、派兵の規模は大きくなかったに違いありません。 むしろ百済の援護射撃程度の参戦で、 数百人レベルの小競り合いだったのではないでしょうか。


倭系遺物
 第95回ブログで言及した倭系遺物について確認します。

 朝鮮半島南端の地域では、3世紀頃までの遺跡から、多くの楽浪系土器をはじめとするシナの遺物に混じって、弥生土器をはじめとする日本列島産の遺物が出土しています。その多くは北九州産のものです。
 
 しかし、4世紀になると、朝鮮半島南端の金海(きめ)などの各地から、巴形銅器、鏃形石製品、筒型銅器と呼ばれる特徴的な遺物が出土します。

 それまでは、鉄を調達するための対価として、コメ・布・塩などが用いられたと考えられますが、ヤマト王権(「さき」の王権)が交易の前面に登場するようになると、高度な技術で作られたこれらの貴重な工芸品が交易の一翼を担うようになります。

 韓国の考古学者たちはこれらを倭系遺物と呼んでいて、大和産のものと考える研究者が多いようですが、必ずしも大和地域で生産されて朝鮮半島に渡ったものばかりとも言えないようです。

 

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 筒型銅器は、槍や鉾などの先端や、儀仗に取りつけられた青銅製品で、円筒の一方の端をふさぎ、振ると音が鳴るように筒の中に小石や玉などが入れられたようです。

 巴形銅器は、盾や矢筒を装飾するために取りつけられた青銅製の飾りとされているようです。

 巴形銅器と鏃形石製品は日本列島産とされていますが、筒型銅器については、製作地や流通に関して、岩本崇氏や田中晋作氏の細部にわたる研究・分析があります。
 筒型銅器は朝鮮半島の方で多く出土しているため、朝鮮半島産とする説と、日本列島産とする説があり、田中氏は朝鮮半島説を主張しています。

 筒形銅器が一貫してヤマト王権によって管理・製作されたものであったとは考えにくいこと、朝鮮半島と日本列島で出土した筒形銅器がおおむね同一の生産体制下にあったとみなしうること、朝鮮半島南部地域では筒形銅器が常に供給されるような状況を想定できること、最も濃密な分布が同地域にあること、さらには朝鮮半島の方が数量に格差をつけて配布された可能性が高いことなどから、筒形銅器が朝鮮半島南部地域で製作され、同地域を経由して日本列島にもたらされたという見解です。

 少々迷いながらも高田貫太氏も、筒形銅器は金官伽耶の威信財で、重要なパートナーの証として日本に贈られたものと推測しています。

 田中氏は、さらに以下のように述べています。
 日本列島における流通については、畿内およびその周辺の新興中小勢力など幅広い階層で受容されたと想定できること、古墳への副葬・保有形態についても単数が圧倒的に多く、小規模墳と大規模墳のあいだで、質・量ともに格差が存在しないこと、などです。
 したがって、すべての筒形銅器がヤマト王権を介した配布活動によってもたらされたとは考えにくく、むしろ、近畿地方から瀬戸内沿岸地方を中心とした西日本における交流のなかで広く流通し、各地の古墳の被葬者が個々に入手するといった状況も含めた多様な流通形態を想定することも十分に可能ということになりますね。

 筒形銅器が広く副葬された背景としては、4世紀以降、列島内各地で自立性を確保した首長たちそれぞれが朝鮮半島南岸地域との通交を行なったためと考えます。
 4世紀の古代史では大切なポイントだと思います。


参考文献
『海の向こうから見た倭国』高田貫太
『筒型銅器と政権交代』田中晋作
『筒型銅器の生産と流通』岩本崇
『倭王の軍団』西川寿勝・田中晋作