理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

73 『魏志倭人伝』と『記・紀』から読み解く邪馬台国

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 第71回ブログで言及した「古代シナ人の世界観」からすれば、『魏志倭人伝』に記された邪馬台国までの距離や方角にとらわれることは、全く意味のないことになってしまうのですが……。
 そうは言っても、(距離や方角の記事以外で)所在地の推定に有効と思われる部分だけを切り取ってみたらどういうことが言えるのか、今回は違う角度から所在地についてもう少し掘り下げてみます。

 『魏志倭人伝』の記事を素直に解釈した邪馬台国の位置
 数字を冠した細部の記事にこだわってみても、不合理ばかりが目立ってしまいます。
 「水行十日、陸行一月」の記事から大和説を主張する向きもあるが、その場合、帯方郡から伊都国までの距離は示されていても、そこで実際どのくらいの日数を要したのかは書かれていません。したがって距離と日数との関係が不明である以上、日数だけから場所を詮索するのは全く意味がないと言えるでしょう。

 ここでは、距離・大きさ・方角などには目をつぶり、文意そのものから邪馬台国の位置を探ってみます。

 『魏志倭人伝』には、
 <此れ女王の境界の尽くる所なり。其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。其の官には、狗古智卑狗有り。女王に属さず>とあります。
 女王国の南に位置して抗争していた国を狗奴国と記し、狗古智卑狗(くこちひこ)という官の名を記しているわけです。
 熊本県菊池市の「菊池」の語源は鞠智(くくち)、久々智、久々知ともされていて、狗古智卑狗はククチヒコとも読み取れます。古代に「ククチ」と呼ばれた地域は、現在の菊池市以外に存在しません。
 この一点をもってしても、狗奴国とその北に接していた邪馬台国が九州にあったことはもはや明白。
 邪馬台国大和説では、狗奴国について明瞭な説明がなされたことはありません。無理やり尾張などに比定していますね。
 前方後方墳の存在、銅鐸の違い、甕棺墓の違いから、大和から西の世界と尾張から東の世界を分けて、邪馬台国連合と狗奴国連合という図式を描こうとしています。


 また、次のような記事も載っています。
 <女王国の東、海を渡ること千余里にして、また、国あり。皆、倭の種なり>。
 この文言は、本州ないしは四国の存在を示したものと考えられますね。この描写は大和説では成立しないが、九州説なら成立です(第70回のブログでも言及した)。

 さらに次のような文言も載っています。
 <女王国より以北には、特に一大卒を置き、諸国を検察せしむ、諸国、これを畏れ憚る。常に伊都国に治(ち)し、国中において刺史の如きあり>。
 この文言は、邪馬台国の境界を示していると言えないだろうか。邪馬台国は伊都国に接したすぐ南の筑後地方と考えられますね。すると自動的に、女王国と争った狗奴国は九州中部の菊池地方という解が導き出されます。

 また、『魏志倭人伝』には様々な習俗や自然の姿が描かれています。
 『魏志倭人伝』に記された国々(対馬・壱岐・松浦・伊都・奴)がいずれも九州北部にあって具体的に描かれているにもかかわらず、ここから遠く離れた畿内に邪馬台国があるのはいかにも不自然。
 海に囲まれた九州としか思えない情報(黥面文身など)が書かれているのに、そこから大きく離れ、ましてや内陸の盆地にある大和が登場する余地は全くない……。


 『魏志倭人伝』の記事を素直に読み取れば、邪馬台国は九州にあったと考えるしかなく、大和説は成立しないと思うわけです。

 何よりも肝心なことは、『記・紀』の記述と大和説は両立しないということです。
 ヤマト国の誕生から大和政権の7世紀までの歴史を綴った『記・紀』に、邪馬台国と卑弥呼に関する言及がないことは、大和説にとって致命的でしょう。

 正確に言えば、『日本書紀』の編者は『魏志倭人伝』の内容を知っていて、倭の女王と魏との交流を記しながら、それを暗に神功皇后の行なったことにしています。箸墓古墳の被葬者が卑弥呼であるならば、ヤマト王権初代とされる卑弥呼の功績は代々伝えられ、正史に誇らしく記されてしかるべきでしょう。
 それが無理やり神功の活動の一部に変形させられているということは、ヤマト王権の系譜にもともと卑弥呼は存在しなかったと考えざるを得ないと思います。

 

念のため距離・方角を正しく追ってみたら?
 第69回ブログで、「大和説」「九州説」の両説とも、対馬国・壱岐国はもちろん、末蘆国・伊都国・奴国の3ケ国までの位置はほぼ確定していると述べました。
 この先の投馬国・狗奴国・邪馬台国について諸説が存在するが、いずれも、みずからに有利になるように距離・方角をいじり、原文を脚色し、牽強付会の解釈をして自説に誘引しています。しかし距離・方角について、いくら精緻な検討をしてみても真実は見えてこないと思うのですが……。

 ここでは、距離・方角を正しく追えば、真実がみえてくるという仮説にチャレンジした幾つかの論考について検討を加えてみます。
 いずれの論考も、「南へ向かう」を「東へ向かう」と読み替えてしまうような乱暴な操作はなく、あまりストレスを感じることはありません。

 まずは中田勉氏の『日本古代史を科学する』です。
 氏は、『魏志倭人伝』に記述された道程と実測値から、1里を60メートルと仮定して行程を追っています。学界の通説となっている1里400メートル強ではなく、第70回ブログで言及した「西晋朝短里」に近い数値です。

 邪馬台国への道を辿る通説は、実際の地図の上では末蘆国から東北東へ進んで伊都国、そこからほぼ東に進んで奴国、そこから東南に進めば不弥国となるので、『魏志倭人伝』が記す方角とはかなり異なります。
 これに対し中田氏は『魏志倭人伝』の記述通り、末蘆国から東南に進んで伊都国、そこから東南で奴国、そこから東に進んだ場所不弥国としています。

 具体的には、伊都国は唐津街道沿いの多久付近、奴国は小城付近、不弥国は佐賀市付近ということになり、いずれも佐賀平野にあったというのです。
 金印の出土に引きずられてか、博多の奴国が『魏志倭人伝』の奴国であるとの結論が先にあっての理論展開は、全く意味を持たないとしています。

 そこから先は、南方向に有明海を地乗航法で進めば熊本あたりが投馬国、さらに八代あたりで上陸して人吉、西都原方面へと陸行すれば邪馬台国に到るというものです。なるほど!
 
 最近読んだ本では、酒井正士氏の『邪馬台国は別府温泉だった!』という著作が、タイトルが刺激的で、まぁよくある珍説の類、トンデモ本かな?と思いましたが、念のためと思い読み進めてみました。
 従来の学説では、「地名の類似」を重視するあまり、「距離や方向」に関する情報をないがしろにし、大和説、九州説を問わず「末盧国」を肥前国松浦郡、そして「伊都国」を筑前国怡土郡に比定している。
 しかし「地名」にはこだわらず、「距離と方向」に関する記述との整合性を最優先にして、各国の位置比定作業を進めた結果、魏の使節の上陸地である「末盧国」は肥前国松浦郡ではなく、北九州市・洞海湾沿岸になり、この後を魏志倭人伝の記述通りの方角でなぞっていくと、伊都国は築上町湊、奴国は豊前市、不弥国は中津城付近、そして邪馬台国は宇佐神宮のあたりに存在することになる……というものです。
 最初の一歩を間違えてしまったというわけで、確かに興味深い論考ではあります。

 

 他にも、いささか古くなるが茂在寅男氏のチャレンジもあります。
 氏は近距離の方角については厳密に考えず、「南へ水行1月」のような遠距離については大きく誤ることがないので、水行1日分を20~23キロ、陸行1日分は6~7キロとして試算した。
 末盧国から出発して九州西岸を大きく反時計方向に水行20日分航行すれば、投馬国は宮崎付近、同じく末盧国から出発して反時計方向に水行10日・陸行1月で菊池川上流・阿蘇付近に邪馬台国が想定できるとしています。面白い。

  

 ただし、これらのチャレンジはいずれも、そもそもが『魏志倭人伝』に書かれた距離・方角をベースとし、帯方郡から不弥国までを10700里、残りを1300里とするか、最初から水行・陸行を重視するかの違いです。
 しかし、帯方郡から邪馬台国までの12000余里が四海のはずれを示す観念的な距離であって、不弥国から邪馬台国までを里程ではなく水行・陸行という時間でぼかしているのであれば、これらのチャレンジはあまり意味のない作業になってしまいます。
 実際の距離を表していない記述をいくらいじくり回してみても意味がありませんね(第71回ブログ)。

 そして何よりも、どの論考も、玄界灘沿岸地域(いわゆる伊都国・奴国)に集中する同時期の膨大な考古遺跡・遺物に目をつぶってしまうのには、やはり疑問を感じます。

 

東遷説は文献から裏づけられるだろうか?
 第70回ブログでは、主として考古学的観点から邪馬台国東遷説の無理さ加減を確認しましたが、それでは、古文献から東遷説を裏づけることは可能なのでしょうか。
 次のような説は、はたして邪馬台国の東遷を証明できるものだろうか?
 

 『記・紀』に共通する神武東征伝承は、邪馬台国の東遷を下敷きにした物語で、後に卑弥呼が神格化されてアマテラスになった。
 ⇒ 神武東征物語はあくまでも天孫降臨神話の一環として描かれたもので、天孫降臨に関係しない邪馬台国東遷とは共通性がない。
 確かに、7、8世紀の王権は2~3世紀の卑弥呼の存在を知っていた可能性があるが、アマテラスの来歴(第14回ブログ)は卑弥呼の存在とはまったくの別物。

〇 『魏志倭人伝』には倭人は鉄を用いたとある。弥生時代後期において、鉄製品は九州北部で多く発見され、畿内からは僅かしか出土していない。次の古墳時代に入ると、畿内を中心とする多くの古墳から莫大な量の鉄器が出土する。鉄器の使用において、弥生時代の九州北部と古墳時代の畿内とで連続している。東遷があった証拠ではないか。
 ⇒ 3世紀になって、鉄の文化・技術が大和地域まで伝播したことを意味するだけです。

〇 『魏志倭人伝』には倭人が養蚕をしていたことをうかがわせる記述がある。また、邪馬台国女王から魏帝へ献上した絹製品のことも記されている。弥生時代中期の絹織物は九州北部でしか出土していない。古墳時代以後には畿内から絹が出土するので、弥生時代の九州北部と古墳時代の畿内とが連続している。これも東遷の証拠では。
 ⇒ 西から東への技術・文化の伝播の結果です。

〇 『記・紀』神話に記されたアマテラスは卑弥呼と共通点が多い。卑弥呼の名は、アマテラスの属性を表す「日の御子」「日の巫女」などと関係する。卑弥呼もアマテラスも、ともに女性で、シャーマンで、宗教的な権威を持ち、夫がなく男弟がある。このような類似から、卑弥呼はアマテラスと同一人物だとする研究者も多い。九州北部を治めた卑弥呼が東遷してアマテラスとして大和朝廷の礎を築いた。
 ⇒ アマテラスは後世のヤマト王権が6世紀頃になってつくりだしたもので、ヤマト王権の草創期には存在しない神である(第14回ブログ)。

 「邪馬台国」の「邪馬台」を「ヤマト」と発音すれば、後の「大和政権」の「大和」につながる。ヤマト王権が邪馬台国を継承した証拠と言えないか。
⇒「ヤマト」は、山の地形にちなむ地名と考えた方が合理的で、日本列島の各地に分布している。

〇 女王国も大和朝廷も、その国号は「倭国」で一貫している。このことも、女王国と大和朝廷との連続性を示している。
⇒ 倭国は後のヤマト王権が単に古代シナの呼び名を流用したに過ぎない。


 東遷説は瀬戸内海ルートによるのか日本海ルートによるのか明らかにしていませんが、吉備や出雲に、邪馬台国や卑弥呼と関係した伝承は一切存在しません。

 

『記・紀』を素直に解釈するのがもっとも自然
 『記・紀』を素直に読めば、大和盆地に邪馬台国の入り込む余地はありません。

 2009年、纒向遺跡で4棟の建物群遺構が方位と軸線を揃えた形で発掘されました。時期がピタリ一致するので卑弥呼の宮殿かと騒がれました(本当に宮殿なのか疑問がありますが)。
 しかし、まともな研究者なら、纒向の地で最初期の宮殿が見つかったのであれば、まず考えるのは『記・紀』に記された初期の天皇の名(崇神・垂仁・景行の三輪山三代)であり、彼らや彼らの祖先たちの宮殿のはずです。
 崇神は磯城瑞籬宮、垂仁は纒向珠城宮、景行は纒向日代宮と『記・紀』に明確に書かれているわけですから(宮の表記に差異あり)。
 『記・紀』の記述がすべて歴史的事実とは言えませんが、重要な事実は、そもそも『記・紀』に「卑弥呼」という言葉が一切登場しないということです。
 そこをいとも簡単にはずしてしまう考古学の恐ろしさを感じないわけにはいきません。


参考文献
『天皇の歴史1神話から歴史へ』 大津透
「古代都市」『社会集団と政治組織』小沢毅
『卑弥呼の「共立」と魏王朝・公孫氏政権』仁藤敦史
『誤りと偽りの考古学・纒向』安本美典
『倭国のありさまと王権の成り立ち』鈴木靖民
『日本古代史を科学する』中田勉
『現代語訳 魏志倭人伝』松尾光
『倭人伝、古事記の正体』足立倫行
他多数