理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

14 アマテラスの来歴

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  今回は、第11回ブログで予告した「建国神話における最高神の創作」について述べます。
 「2世紀後半頃に存在したとされる卑弥呼は、アマテラスそのものである」と公言する研究者が結構多いのですが、いくら強弁しても、そこにはとんでもない勘違いがあります。
 アマテラスと記された弥生式土器や鉄器などの遺物が発見されれば良いのですが、それは無理というものです。考古学の発見に期待できないので、こういう時は文献史学の出番となります。

 長い間、日本の最高神は古代から一貫してアマテラスであると信じられてきました。しかし、そう単純ではないということを、松前健、上田正昭、溝口睦子各氏の論考から、抜粋・引用しながら確認していきます。

 

アマテラスの来歴は新しい
 建国神話としてシンボリックな「葦原中国平定」と「天孫降臨」について、最高神が主導した部分を『記・紀』から抜き出してみましょう。

 

『古事記』
 〇水穂国はアメノオシホミミの知らす国だとして、アマテラスが天降りを命令。
 〇水穂国の騒がしさに躊躇したアメノオシホミミが、高天原に戻ってアマテラスに指示を仰ぐと、タカミムスヒ・アマテラスが八百万神を招集。
 〇八百万神の協議で、遣わされたアメノホヒが3年間、復奏しなかったので、タカミムスヒ・アマテラスが再び神々を招集して、天降す神を推薦するよう指示。
 〇選ばれたアメノワカヒコが8年間、復奏しなかったので、アマテラス・タカミムスヒが神々にその理由を問う。
 〇キザシを射抜いた矢が天安河原のアマテラス・タカギ(タカミムスヒの別称)のもとに達した。
 〇タカギがその矢を取りあげ、投げ降ろすと、アメノワカヒコを射抜いた。
 〇アマテラスが次にどの神を遣わすか神々に問う。
 〇伊耶佐の浜に降ったタケミカヅチとアメノトリフネが、アマテラス・タカギの命令だとしてオオクニヌシに国譲りを迫る。
 〇アマテラス・タカギがアメノオシホミミに降臨を命令。
 〇ニニギが降臨する時、アマテラス・タカギが天八街でアメノウズメに対しサルタヒコに毅然と向き合うよう指示。

 

 その後、神武東征の場面で、
 〇神武が熊野で難渋した時、アマテラス・タカギの命で、タカクラジが横刀を奉呈。
 〇タカギがヤタガラスを道案内に遣わす。

 このように見てくると、葦原中国平定の最初だけはアマテラスが最高神として命令しますが、以後はタカミムスヒ(タカギ)をアマテラスと並べて二神が命令する形で記されています。『古事記』ではアマテラスを最高神、ないしはアマテラスとタカミムスヒを同列の最高神として扱っているように見えます。


 

『日本書紀』本文
 〇皇祖のタカミムスヒはニニギを可愛がり、葦原中国の主としたいと願う。
 〇葦原中国が騒がしいので、タカミムスヒが神々を招集して誰を遣わすべきか問う。
 〇その後、タカミムスヒが主導して、アメノホヒ、オオソビノミクマノウシ、アメノワカヒコ、キザシを順次遣わした。
 〇タカミムスヒは神々の意見を聞き、フツヌシとタケミカヅチを遣わし、国譲りを実現。
 〇タカミムスヒはニニギを降臨させた。

 

 その後、神武東征の場面で、
〇日向にあった神武が兄弟や子たちに向かって「昔、タカミムスヒ・オオヒルメが瑞穂国をニニギに授けた」と言う。
〇熊野で難渋する神武に、アマテラスが剣を授け、ヤタガラスを遣わす。

 『日本書紀』本文では、神武東征までアマテラスの名前はまったく登場せず、タカミムスヒを皇祖すなわち最高神に位置づけているようです


 このように見てくると、どう考えてもアマテラスが終始一貫、文句なしの最高神であり続けたと言うのは無理がありそうです。

 実は、アマテラスの出現は意外にも新しく、結論を言ってしまえば6世紀後半以降であって、最高神としてきちんと位置づけられたのは7世紀後半から8世紀初めのことなのです


当初の最高神はタカミムスヒ
 4世紀末から5世紀にかけての対高句麗戦争の際、ヤマト王権は北方ユーラシアの騎馬民族に伝わる王権思想に接触し、天から降臨する建国の神をタカミムスヒとする王権神話を作り上げたとみられます。

 もう少し詳しく、経緯を眺めてみましょう。
 4世紀初めから5世紀半ばまで続いたシナ大陸の動乱は、騎馬民族系の高句麗にも大きな影響を与えました。
 高句麗は、高度な文字文明をもつシナと交流して先進文化を吸収する一方で、北方ユーラシアの遊牧騎馬民族とも強いつながりを維持していました。彼らは、天に由来する王権思想をもっていたので、高句麗もそれらを取り込んだ王権神話・建国神話を国家形成の基盤としてかかげ、戦時には全権を掌握する王のもと、勢力を飛躍的に拡大、半島南部を圧迫します。

 一方、4世紀半ば頃から勢力を拡大し始めたヤマト王権は、半島南部での鉄の確保、先進技術の導入、文字文化の導入に強い危機感を抱きます。
 ちょうどそこに、南下する高句麗に危機感を抱いた百済が、ヤマト王権に軍事的支援を求め、これが、400年と404年における日本と高句麗の戦争に発展するわけです。

 日本はこれに完敗します。騎馬民族との戦いはまったく勝負になりませんでした。日本は兵力・装備・兵站・戦法すべてにおいて劣っていたのです。完膚なきまでに叩かれました。

 

 5世紀初頭の敗戦で、ヤマト王権は対戦相手だった高句麗の政治思想や文化・技術・軍事力を強く意識するようになります。
 溝口睦子氏によれば、5世紀の日本はそれまでなかった馬の文化や新しい武器・武具を取り入れ、金属加工・土器・織物・建築などの先進技術や文字文化の導入を行なったが、国家体制の変革という面で何よりも必要とされたのは、新しい政治思想であって、それは王の出自を天に求める降臨神話の導入でした。

 おそらく、4世紀頃までのヤマト国(ヤマト王権の前身)は、地域豪族が祭る神(国魂)と同格の神を祭っていたので、突出するシンボルを必要としたのでしょう(3世紀末頃の崇神がオオタタネコにオオモノヌシを祭らせたという説話、およびヤマト国と三輪山の神との深い関わりについてはいずれ詳述します)。

 ヤマト王権は、列島内で勢力を拡大するも、いまだ権力基盤は盤石ではなく、専制的な統一政権へと突き進むためには、唯一絶対の権威を持つ至高神の存在が必要でした。天孫降臨神話が外来の思想と考えられるのは、高句麗の建国神話(始祖王朱蒙の出自が天に由来)と日本の神武東征を含む建国神話との細部にわたるまでの類似によります。
 事実、天に由来する王権思想は、高句麗経由で、百済・新羅・加羅など半島諸国が軒並み取り入れた当時流行の普遍的思想でした。

 松村武雄氏は、天からの降臨神話は北方騎馬民族系の神話で、降臨を命令する神をタカミムスヒとする伝承が原初的で、それをアマテラスが演じるのは後期的なもの、共演している伝承は過度期のものである、としています。
 ただ、タカミムスヒの素性は何なのか、どのようにしてタカミムスヒという名の神が生まれたのか、これには諸説あって真相にたどり着くのはなかなか困難なことです。

 

タカミムスヒが最高神であったという傍証
 4世紀以前の日本には、「天」という概念はなかったし、「天の至高神」もありませんでした。八百万神の世界ですよね。
 3世紀半ばから始まったとされる古墳文化についても4世紀代までは弥生から繋がる独自色が強く、5世紀以降に朝鮮半島の影響が色濃く反映された騎馬戦向きの文化へと劇的に変化しています。

 5世紀になり最高神の位置についたのはタカミムスヒで、7世紀末にアマテラスがその地位を占めるまで、その状況が続いたと考えられます。


 そのことを傍証するのが、次の「月次祭(つきなみのまつり)」です。

 朝廷の中で最重要の祭りの一つとされる「月次祭」は、天皇みずからがタカミムスヒを祭ってきた天皇親祭です。6月、12月の年2回行われ、8世紀以降は神祇令にも記されています。
 タカミムスヒは、宮中の神祇官西院の八神殿で「宮中八神」の第一として祭られ、皇孫である天皇が皇祖神であるムスヒの神に感謝のことばを述べるのです。
 ちなみに八神は、タカミムスヒ・カミムスヒ・タマツメムスヒ・イクムスヒ・タルムスヒ・オオミヤノメ・ミケツカミ・コトシロヌシで、最初の5神はすべて「ムスヒ」の神として八神の中心的な位置づけになっています。
 一方、歴史上、天皇みずからがアマテラスを先祖神として祭ったことはありません。

 また、出雲国造が天皇に奏上した『出雲国造神賀詞』では、「高天の神王タカミムスヒ・カミムスヒ」の二神が皇孫ニニギを地上に遣わすというストーリーになっていて、タカミムスヒを高天の神王とする一方で、ここにもアマテラスの名は現れません。

 さらに『日本書紀』には、東征途上の神武が宇陀で苦戦する場面で、神武自らがタカミムスヒを顕斎する説話が描かれています。危機に際して、受動ではなく能動的に救いを求めた神は、アマテラスではなくタカミムスヒだったのです。説話ではありますが、7世紀頃の政権中央の認識を垣間見ることが出来ます。

 

 以上のような塩梅にもかかわらず、依然、アマテラスこそが古くからの一貫した皇祖神であり最高神であると信じる人も多いわけですが、これは本居宣長の『古事記伝』以降、近現代人が身近に感じてきた『古事記』の中で、「水穂国はアメノオシホミミの知らす国である」として、最初に天降りを命令したのがアマテラスであったことが影響しているのでしょう。

 


7世紀後半から8世紀はじめにアマテラスを最高神に
 最高神は、その後、外来の色彩を帯びたタカミムスヒから、縄文・弥生の色合いを残す土着の太陽神アマテルを昇華させたアマテラスへ替えられました。

 アマテラスは、そのはじめからアマテラスの名で存在したわけではありません。『日本書紀』本文の三貴神誕生の場面にある通り、アマテラスの原初的な神名はオオヒルメムチ(大日靈貴)だったと想定されます。ヒルメムチとは「日の妻」の意味で、太陽神に仕える巫女のことです。祭られる神というよりは祭りをする神の性格を表していますね。
 上田正昭氏は「タカミムスヒに仕えるオオヒルメムチが、タカミムスヒと合一化しながら、のちにアマテラスとして、皇祖神の首座を占め、高天原を主宰する神に昇華した。日の神に奉仕する女神が、のちには皇祖神アマテラスへと変貌した」と述べています。
 アマテラスが最高神になるプロセスについては識者の間でさまざまな見解がありますが、上記はその一例です。一方、次のような松前健氏らの論考もあります。

 古代の日本各地には男性の太陽神アマテルが祭られていました。その多くはホアカリ(火明命)を祭神としています。おそらく、そのホアカリがオオヒルメに合祀されることによって、より格の高いアマテラスが生まれたのだろうというのです。


 いずれにしても、最高神がタカミムスヒからアマテラスに替えられたことは大方の研究者の一致するところ、疑う余地はありません。

 最高神が替えられた時期はというと……
 雄略の頃にタカミムスヒを王権の最高神に位置づけ、継体から欽明の時代にかけてオオヒルメムチ(ないしはアマテラス)が登場し、欽明の時代に王権神話の原形が完成したと考えられます。そして天武の時代以降、王権神話に磨きがかけられて、「記紀神話」に集約されていったわけです。


 記紀神話を子細に見れば、イザナキ・イザナミの国生みからオオクニヌシに到るまでの神話(大まかに括ると南方系神話)と、タカミムスヒを主神とする天孫降臨から神武東征に到るまでの神話(北方系神話)という二元構造になっています。
 前半部分は、古くからの日本土着の神話・伝説をベースにアマテラス神話も含めて集成されたもの、後半部分は5世紀なって新しく取り込まれた北方系の支配者起源に基づく建国神話で、それぞれ、それを奉じる氏族が存在しました。

 タカミムスヒをはじめとするムスヒの神は、特定の氏(うじ)グループが奉じた党派的・派閥的な色彩の強い神であったので、天武は、すべての人々に馴染みのある土着の太陽神アマテラスを神々の中心に据えることによって、人心の一新を図ろうとしたのでしょう。

 

 門脇禎二氏は、「いくら強大な国家や民族の王室であっても、膨大な土地をもち、強力な軍隊をもっても、世俗的権勢を主にした王室はみんな滅んでいる」と言います。ヤマト王権はアマテラスを頂点とする皇祖神信仰を整備し、権力というよりは宗教的権威をもって、以降もずっと存続し続けていくのです。


 以上をまとめると……
 4世紀以前は弥生から続く八百万神が横並びで共存する状態でした。その後、最高神が作られ、ヤマト王権の時代(5世紀~7世紀)はタカミムスヒでしたが、律令国家成立(8世紀)以降にアマテラスに置きかわったということになります。卑弥呼がいたとされる2世紀後半に、アマテラスは出現すらしてないなかったわけです。

  多くの文献史学者が自説を唱え百家争鳴の中、今回の結論もその中の一つに過ぎませんが、おおむね正鵠を射ていると確信します。

 

 今回のアマテラスに限らず、記紀神話に登場する神々は古代史と濃密な関係を持っています。イザナキ・イザナミ、スサノオ、オオクニヌシ、オオモノヌシなどの来歴についても、一筋縄ではいきませんが、機会を捉え理系的視点から見た解釈を今後、開陳したいと思います。

 

 次回は、アマテラスを語る際に、避けて通れない伊勢神宮の創建事情などについて言及します。伊勢神宮は7世紀までは地方神を祭る神社に過ぎなかったのです。

 

参考文献
『日本の神話』松前健
『アマテラスの誕生』溝口睦子
『新版 日本神話』上田正昭