理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

77 神武東征(1)日向からの旅立ち

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 邪馬台国の存在は信じても、神武東征を史実とみなす研究者はさすがに少ないようです。
 筆者も神武東征物語や神武天皇の実在をベースとした古代史には与しません(第76回ブログ)。
 それでもこの物語を無碍に扱わずに紐解いてみれば、さまざまな発見があって面白いですよ。今回からしばらくはそういう観点で「古代史の遊び」を楽しんでみたいと思います。

 『日本書紀』にある「辛酉(かのととり)」を神武紀元1年とし、それが紀元前660年にあたるというのですが、これではお話にならないのでひとまず横に置きます。 

 暦に元嘉暦が使われる安康紀(5世紀半ば)からは、年代の信頼性が高いとされています。それ以前を現実的に遡れば、実在の可能性が高いとされる崇神の全盛期は、3世紀後半頃と推定できます。そこから10代遡る神武は、仮に実在したとすれば、紀元1世紀後半頃(平均在位を15~20年と仮定)の弥生時代の人物と想定できるでしょう(第19回ブログ)。

 そこで、7、8世紀頃の政権中央が、「どのような認識で」弥生時代の東征物語を描いたのか、数回にわたって考察してみます。
 同じく、紀元1~2世紀頃の交通インフラの実態をどの程度認識していたかについても焦点を当ててみます。
 記紀神話の成り立ちにも触れることになりますが、これも客観的な歴史の一側面ではないでしょうか。


神武東征物語の本質は天皇家の祖先神が高天原から葦原中国に降下すること
 「神武東征」は、九州で誕生した神武が日向から瀬戸内海を通り、河内から熊野・吉野・宇陀を経て大和に入るまでの長い遠征の物語です。そして大和の橿原で即位して初代天皇になるわけです。

 前田晴人氏の論を要約すれば、
 <東征伝承というのは、筋書きとしてはアマテラスの子孫が日向から海上と陸路とを大和までやって来るという神の水平来臨の物語となっているが、本質は天皇家の祖先の神が高天原から葦原中国へ降下してくる垂直降臨の神話である>。
 <こうした伝承の本質を見誤ると、一部の研究者の間で今でも行われているように、これを何らかの史実の反映とみて、そこから建国の歴史を探り出そうとするエセ学問的な作業につながりかねない>。

 氏の論考に筆者は大賛成です。

 この東征伝承を歴史的事実の反映として、そこに至るまでの記紀神話の神々が、英雄や生身の人間として登場する古代史をよく見かけます。あるいは、彼らを祖とする天孫族、出雲族、日向族などという名の集団が弥生時代に覇権を争う古代史も多いです
 しかし、こういう捉え方はまったく歴史と神話を峻別しない、学問的には無益な妄想といえましょう(第3回ブログ)。

 神武東征物語は、7、8世紀の政権にとって必要不可欠だった建国の歴史(物語?)に過ぎないことを再認識しておきましょう(第11回ブログ)。


九州が東征の出発地とされるのは神話・伝説の構想に過ぎない
 筆者は、次のような工藤浩氏の論考に共感を持ちます。
 <気をつけなければならないのは、九州が選ばれたことは、あくまで神話・伝説の構想の問題だということ。天皇家の故地を日向に求めるような現実の問題に還元してしまうのは大きな誤り。
 天皇家の出自は大和であり、宮都もはじめから大和に存在していたことは、厳然として動かない>。

 それなのに、エセ古代史が闊歩するのは、宮崎・鹿児島両県の各地に、天孫降臨・日向三代物語・神武の生誕・東征を連想させる多くの史跡や神社が現存し、そのそれぞれにもっともらしい伝承が残されているからです。
 しかし、前回のブログで述べたように、どの伝承も弥生時代には遡らない。むしろどの伝承も近世より以前には遡れないものが大半なのです。次項で具体例をあげて確認してみましょう。


九州南部地域の神社・史跡の歴史は浅い!
 天孫降臨・神武生誕・東征の由緒を伝える神社・史跡に、神武の時代(1世紀後半から2世紀頃か?)まで遡る事実を伝えるものはありません。それどころか、『記・紀』編纂後も長い間にわたって当地域は注目されず、近世になってからやっと日本神話の一大聖地としての体裁が整っていったのです。いくつか例示します。

 その名が高天原を連想させる宮崎県高原町(たかはるちょう)の皇子原(おうじばる)には、神武の幼名にちなむ狭野神社があり、生誕の地とされています。また日南市には神武が成長期を過ごしたとされる駒宮神社がありますが、いずれもいつからの伝承なのかはっきりしません。

 今では壮麗な規模の宮崎神宮ですが、『神皇正統記』に神武が「日向の宮崎の宮」から東征したとあることから、中世には宮崎に皇都があったとする説が定着し、それに皇宮屋(こぐや・神武天皇社の前身)を充てるようになった模様。神武を祀る古社とはいえ、江戸時代までは神武天皇社という名の地方の小社に過ぎず、当宮が広く全国的に知られるようになったのは、明治以後のことです。
 明治初めに宮崎神社と改称し、その後、神武の最初の宮地であるとの伝承から特別の待遇を受け、現在の隆盛につながっているわけです。

〇 高千穂神社の夜神楽は天孫降臨神話に材をとっていますが、基本は出雲系の神代神楽に陰陽道がかぶさったもので、幕末の尊王思想が隆盛の頃に取り入れられたものです。

 アマテラスを祀る天岩戸神社は、朝廷による信仰はなく、いつからか全く不明ですが在地住民主体の信仰でした。
 高千穂神社や天岩戸神社は、近年までなんと村社の扱いに過ぎませんでした。

f:id:SHIGEKISAITO:20210116145913j:plain <天安河原と岩戸川>

 

 今では日向三代(ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズ)ゆかりの地とされる宮崎県南部や鹿児島県にも、江戸末期以前に遡る由緒はありません。

 海神の娘トヨタマヒメが、鵜の羽で屋根を葺き終わらないうちに出産が始まったという伝説の地に建っているのが鵜戸神宮で、海に向かった洞窟の中にあります。そこは断崖絶壁の中腹でとても出産できるような場所とは言えません。事実は、この洞窟を中心に「西の高野」とうたわれるほどの修験道の一大道場であったものが、明治維新後に寺院を廃止し、記紀神話の聖地として神社に衣替えし、後に官幣大社に昇格したものです。

f:id:SHIGEKISAITO:20210116145932j:plain  <鵜戸神宮本殿へ向かう断崖沿いの参道>

 

 綿津見宮から帰還したホホデミの宮居跡とされる青島神社は、青島大明神を祀る海洋信仰として島全体が霊域とされ、長い間、一般人の入島は禁止されていました。f:id:SHIGEKISAITO:20210116145953j:plain <青島の鬼の洗濯岩>

 

〇 新田神社は、ニニギを祭神として祀ると同時に、可愛(えの)山陵という陵墓が同居する全国的にも珍しい神社です。
 しかし当社の歴史を紐解いてみても『延喜式神名帳』に当社の名前は見えません。したがって、昔の当社の格は高くなかったし天孫も祀られていなかったのではないかという疑念が生まれます。
 そもそも、ニニギの陵墓は『日本書紀』に「筑紫日向可愛の山陵」とあることから導かれた近世の付会と考えるのが正解です。

 実際、日向三代の陵墓指定は、何と明治7年になってからのことなのです。
明治政府が薩摩国学者に命じて神代三陵を治定し『陵墓要覧』として公布しました。
 その中では、新田神社内の可愛山陵をニニギの墓、霧島市溝辺町の高屋山上陵をヒコホホデミの墓、鹿屋市吾平町の吾平山上陵をウガヤフキアエズの墓と比定しています。すべて鹿児島県内であり、薩摩が支配していた明治政府がかなり強引に比定した感があります。
 言葉は悪いが、天皇を中心とした国づくりを進めるため、神道の強化に邁進した明治政府による捏造といえるのではないでしょうか。
 ニニギの陵墓は他にも宮崎県延岡市の可愛岳が御陵伝承地とされ、西都原古墳群にある男狭穂塚を御陵墓参考地としています。滅茶苦茶です。

 鹿児島県にある海幸山幸神話の舞台とされる笠沙町は、近代の地名は西加世田村で、大正時代になってから笠沙と命名されたようです。『古事記』神話からの逆採用です。

 『記・紀』で九州南部を天孫降臨と神武東征の出発地として描いたなら、その後の平安時代から江戸末期までの当地域に対するこの扱いは何だったのでしょうか。
 実際、奈良時代において、日向(九州南部)が天皇家祭祀との関わりで重視された形跡はほとんど認められません。天皇家の故地が日向であり、日向から東征してきたことなど、どれほど信じられていたのでしょうか。誰も信じていなかったからこそ、日向にあるとされる神代三陵はどうでもよい扱いをされてきたのでしょう。日向神話が『記・紀』編纂時の創作であることは明々白々です。

 

 『記・紀』に記された4世紀頃と思われる熊襲征伐は横に置くとしても、そもそも7世紀末の頃の九州中南部は隼人などの在地勢力が優勢で極めて不安定でした。このような状態では本来、天孫系の神話や神社が成り立つ素地は大きくなかったでしょう。

 八幡和郎氏は、その著書の中で次のように述べています。
 <もっとも権威ある郷土史である『宮崎県の歴史』(山川出版社)は、「始祖降臨の地として日向を特別視することは、奈良・平安時代にはほとんどなかった」としています>。

 <日向については、奈良時代か平安時代あたりから記紀に書かれている物語の舞台の比定地ができはじめ、国学が盛んになった江戸末期からその動きがより強まって高千穂神楽などが創造された。明治になってからはそれらが国家的承認を受け、その保護もあってしだいに神社が立派になり、それなりの景観や行事が整備されていった。だから、日向で現在われわれが見る風景はほとんどテーマパークの世界だといってよい>。


「日向」というアピール効果
 せっかく国譲りを実現した出雲ではなく、天皇家の故地である大和の地でもなく、はるか離れた日向の地に天孫が降臨したのも、あくまで神話・伝説の構想の問題だということです。神話においては、天孫が降臨する前の世界を出雲と呼び、後は日向と呼ぶというくらいの緩やかな理解で良いのではないでしょうか。
 それにしても、なぜ記紀神話における日向(ひむか)が九州と解釈されたのでしょうか。

 それは第12回ブログでも言及したように、シナや朝鮮半島に近く、文明の先進地といえる「筑紫の日向」に降りたった祖先が、日の昇る東の方向へ移動しフロンティアを切り開いた、というアピール効果の大きい伝承を天皇家が大切にしていたからでしょう。

 5世紀初頭の対高句麗戦で、日本は高句麗の政治思想や文化・技術・軍事力を強く意識するようになります。当時のヤマト王権はいまだ権力基盤は盤石ではなく、なかでも必要とされたのは、新しい政治思想であって、それは王の出自を天に求める(東征までを含む)降臨神話の導入でした(第14回ブログ)。

 日の御子として、「日に向かう名を持つ地」から、「日出ずる東の方角」を目指して東征するという筋書きなので、北の越や東の常陸から降臨したのでは、現実に皇都の置かれる大和の神聖性が台無しになってしまいますよね。
 人類には日が昇る東へ向かうという情報がDNAとして埋め込まれているのかもしれないという研究者もいます。
 ちなみに「日向」という言葉も、日の当たる場所を賛美する言い方です。

 それでもなお、「天孫降臨と東征の出発地が九州」であることをしみじみと納得するには、どうしても記紀神話の作られ方に踏み込まなくてはなりません。宗教学からの紐解きが必要になります。


降臨神話に次々と加上された記紀神話
 松前健氏によれば、最初に王権の権威および皇位の絶対的神聖性を象徴する天孫降臨と神武東征の物語が生まれると、さらにその「日の御子」の出自を神秘化するため、天の岩戸神話が加上される。その原因としてスサノオの天上荒らしや誓約の物語が語られる。さらにアマテラスを含む三貴子の出生および分治の物語が加上され、三貴子の両親としてイザナキ・イザナミの国生み神話が持ってこられる、というわけです。

 次々と説話が加上され、結びつけられていって、記紀神話の体系が成立したというのです。
 結局、最後にできた説話を、最古のできごととして、冒頭に置くことになるが、もちろん史実とは無関係です。
 この際、次々と加上された説話は、新しく創作された場合もあるが、多くは古くから列島各地で信じられていた神話や民間伝承、各氏族に伝わる神話などが素材として使われた場合が多いのです(第11回ブログ)。

 

 例えばイザナキ・イザナミ神話は、もともと淡路の海人族が奉じた創造神で、その国生みも淡路島を中心とする地方神話だった。この二柱の神は古くは宮廷に祀られていなかったし、皇祖神アマテラスの親神でもなかった。
 松前健氏によれば、アマテラスは淡路島には祀られておらず、またイザナキも宮廷に祀られていなかったといいます。
 最も素朴な形としては、国生みもイザナミの死と黄泉の国下りも、黄泉の国から帰ったイザナキが禊をする説話も、みな淡路島付近を舞台として語られていた。ここにいろいろな要素が入り込んで、出雲とか日向のような遠隔地が登場することになる。ヤマト王権の版図拡大に伴って……。

 記紀神話の中に筑紫とか出雲とか日向とかの地名が出てくると、常識的にはその土地の風土的伝承が採り上げられたものと思いがちだが、むしろ中央でそうした物語が先につくられ、その後に地方の適当な地名が割りふられたというケースが多いようです。

 この淡路地方の民間神話が最初にヤマト王権の目にとまったのは、安曇族が関与する淡路が、御食国(みけつくに)として、河内に進出した王権の指揮下に入った時期からでしょう(第67回ブログ)。
 その後、6世紀半ばには、津守氏が奉斎する住吉三神が誕生した故地が「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」であるとする説話が伝わり、これが後にイザナキが禊をした海岸であると考えられるようになり、いつしか九州の日向にある海岸に比定されるようになった。

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<イザナキが禊をした御池(江田神社の隣接地)>

  ちなみに、アマテラスが最高神とされるのは7世紀後半から8世紀初め(第11回・14回ブログ)であって、イザナキ・イザナミがアマテラスの親神や創造神として中央の神話に組み込まれたのは、それよりも遅い『記・紀』編纂の頃のことです。

 

『記・紀』に日向神話があるのは隼人対策のせいか?
 もともと天孫降臨と神武東征はひと続きのもので、筑紫の日向に天降った天孫がよき地を求めて東征し大和で建国するという建国神話のはずです。
 本来は、高天原から一気に大和の地まで皇孫を天降りさせても良かったはずなのに、『記・紀』編纂者はわざわざ筑紫に降臨させ、しかも降臨と神武東征の間に、コノハナサクヤヒメの物語、海幸山幸神話、ウガヤフキアエズの出生譚などを含む、いわゆる日向神話を挟みました。

 降臨したニニギからホホデミ(古事記ではホオリ)、ウガヤフキアエズまでを日向三代と呼び、ウガヤフキアエズの子が神武となるわけです。本来はニニギが神武でもよかったのに、なんという冗長!

 日向三代の神話は付け足しのよう思えます。

 日向三代のストーリーを大雑把に記せば、ニニギは降臨後、コノハナサクヤヒメに一目惚れし、海幸彦(ホノスソリ)・山幸彦(ホホデミ)の兄弟を生む。
 兄弟の諍いから、ホホデミは綿津見宮に行きトヨタマヒメと結ばれる。
 帰還したホホデミは兄のホノスソリ(隼人の祖)を服従させる
 トヨタマヒメは浜辺でホホデミの子を生むが、ホホデミが出産場面を覗くとトヨタマヒメは実はワニの姿だった。
 見られたヒメは海の彼方に去り、子はウガヤフキアエズと名づけられ、妹のタマヨリヒメが養育した。
……というもので、記紀神話の中でももっともファンタジックで奇妙な物語の連続です。南方起源を感じさせる神話です。
 実際のところは、隼人服属の起源を説く綿津見宮訪問譚は、梁の武帝が編纂させた仏教説話集『経律異相』の説話とそっくりで、『古事記』編纂にあたってこれを参考にしたようでもあります。

 前述したように文脈からはまったく余分な日向三代物語は、実は、記紀神話にとって必須事項だった、というのは松本直樹氏です。ほかにも多くの研究者が同様な紐解きをしています。
 『記・紀』編纂当時、九州南部は大和政権の影響力が最も及びにくい地域で、薩摩半島の大部分は阿多隼人族が支配し叛乱を重ねていた。こういう土地だからこそ、皇祖が降臨し隼人の祖が永遠の服従を誓うという「日向神話」が必要だったというのです。

 当時の大和政権にとって隼人を服属させることは重要な政治課題で、720年になって、大伴旅人によってやっと平定されました。まさに『日本書紀』が完成されたときです。
 隼人の祖が永遠の服従を誓うという由緒が織り込まれた日向神話は、当地が昔から王権の支配すべき土地であったことを高らかに宣言したかのようでもあります。

 4世紀頃の景行による熊襲征討物語やヤマトタケル、仲哀の遠征物語も、すでにヤマト王権によって征服された過去の存在として創作されたものです。
 しかし、隼人に先立って九州南部に熊襲が存在したという史実も実際にはないようだし、隼人が具体的に登場するのも7世紀後期以降で、それ以前に登場する隼人は後世の潤色と考えられるようです。
 まさにこの期間に進行中だった『記・紀』編纂作業の過程で、九州南部に住むとされた熊襲や隼人が王権に服属すべき由緒が形成されていったようです。

 

 しかしそう説明されても、筆者は素直に首を縦に振れません。
 なぜならば、既に先進的文化圏が成立していた九州北部ならいざ知らず、現に隼人というまつろわぬ勢力が跋扈し、どちらかと言えば未開の地ともいえる九州南部が「天孫降臨と神武東征の出発地」に選ばれたということに、どうしても釈然としないものが残ります。
 天孫降臨神話のつくられ方からしても、隼人対策が主目的で九州南部が選ばれたとは素直に考えにくいですね。


編纂者が意図した降臨の地、東征の出発地は九州北部だったのでは?
 もともと「筑紫」の原義は九州北部ですから、「筑紫の日向」はひょっとすると、九州北部の日向(ひなた)ではなかったのか。
 九州南部には弥生時代後期からの墳墓・古墳などの遺跡がありません。これに対し、九州北部は文明の先進地域であり、弥生時代からの墳墓や古墳などの史跡多く残されています。当地には国生み、天孫降臨、禊、日向三代に関係する伝承も数多く伝わっています。どう考えても未開の地である九州南部よりもヤマト王権の故地としてふさわしく思えますが……。

 それに『古事記』では、ニニギが天降りした場所を「此地は韓国(からくに)に向ひ」としていますが、韓国に向かうのはどう考えても九州北部でしょう。
 次回のブログでさらに深掘りしてみたいと思います。


参考文献
『神武東征「伝説」論争』前田晴人
『倭人伝、古事記の正体』足立倫行
『隼人の古代史』中村明蔵
『海の古代史』布施克彦
『日本の神々』松前健
『神話で読み解く古代史』松本直樹
『最終回答 日本古代史』八幡和郎
『アマテラスの誕生』溝口睦子
『古事記神話の謎を解く』西條勉
『なぜ、神武東遷は九州から出発するのか』工藤浩
『西都原古墳群』北郷泰道
『大和と出雲』森田喜久男
『クマソ・隼人服属の起源』永山修一
『日向神話の隼人像』原口耕一郎
他多数