理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

147 出雲大社と熊野大社

<左、宍道湖の夕日 右、宍道湖北岸の佐陀付近>

 今回は出雲国で大社と称される2社について言及します。
 出雲国には、東部の意宇地方に熊野大社西部の杵築地方に出雲大社と、一宮が2社鎮座しています。
 2011年、出雲大社は60年に一度の遷宮が、伊勢神宮の20年に一度の遷宮と重なり、神社めぐりの国民的一大ブームを招来したのは記憶に新しいところです。遷宮の費用は、「伊勢神宮」の550億円よりは少ないものの、80億円を要したというから、大変な額ですよね。新装なった本殿の千木や破風の「ちゃん塗り」、厚さ1メートルの檜皮葺も実に見事。
 現在の出雲では、遷宮も終えて蘇った出雲大社の方がはるかに有名で有力ですが、かつては熊野大社の勢力がはるかに高かった歴史があります。勢力の変遷は政治勢力の移動に伴なうものです。
 この勢力の移動は出雲の国譲りと連動していると思われ、すでに第145回ブログで言及しましたが、多少の補足もしてみたいと思います。

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146 伊勢神宮と志摩国一宮

 <左、伊勢神宮内宮の神楽殿、右、瀧原宮の参道>             

 アマテラスと言えば伊勢神宮というくらい、両者は密接なつながりがあります。その伊勢神宮に筆者は3回、参拝しています。

 2008年8月10日
 2010年12月1日(御垣内参拝)
 2013年8月1日(御白石持行事)

 今回は、これらの体験の際に得た知見も思い起こしながら伊勢神宮ならびに同じ志摩国に鎮座する一宮2社について、その創始の事情や歴史について深掘りしてみます。

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145 古代出雲の実像と出雲神話


   <青蓮院門跡跡>

 古代出雲については、第65回・第98回ブログで少しばかり言及しました。
 今回、5世紀の状況を中心に、1世紀頃から7世紀頃までを通史的に深掘りしてみます。
 過去のブログで言及した出雲関連記事の一部について、その後の検討の結果、不具合部分が判明したので、あわせて訂正したい。

 『記・紀』の出雲神話は、ヤマト王権の手で構想された出雲国の服属の経緯を記した物語ですが、『出雲国風土記』の神話は、出雲の視点で描かれた出雲の国づくりの物語といえます。

 双方を見比べ、古代史として汲み取れる部分がないか、また史実は如何様であったのか、考古学の知見を参考にしながら纏めてみたいと思います。

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144 大仙古墳の築造

<大仙陵の完成時の姿(『よみがえる古代 大建設時代』から転載)>

 以前のブログで、大仙古墳(仁徳天皇陵)については「5世紀のヤマト王権」に言及する時に詳しく触れると予告しました。また、第107回ブログでも築造技術については少々触れました。
 今回は、5世紀における大規模土木工事の象徴とされる大仙古墳の築造について、大成建設のプロジェクトチームが想定したスタディをベースに、一部他の情報を加えながら纏めてみました。

 大仙古墳は実見したことがありますが、ただ木々の生い茂る広大な丘のようで、撮影した写真には何の面白みもなかった。そこでアイキャッチ画像には完成時の姿を掲げてみました。

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143 古代国家は専制君主制が継続したのだろうか?


 <近江八幡堀>

 第135回・136回・138回ブログを振り返ると、ヤマト王権は雄略の時代に専制化したかのように思えます。しかし前回のブログでは、雄略以後の王権内は大混迷であったと綴りました。混迷の後、7、8世紀にかけてヤマト王権(大和政権)の政治体制はどのように推移していったのでしょうか。

 

マルキシズムに毒された古代史?
 大東亜戦争後、一世を風靡したマルクス主義史学では、資本制生産に先行する土地所有形態として、アジアでは共同体的土地所有を基礎にした専制君主制が必然的に成立するとされていました。東洋的専制君主制と呼ぶらしい。そのため、専制的な古代国家をイメージする傾向はマルキシズムに毒された学者に多く見られます。

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