神武が実在した人物でないことは、これまで度々論じてきました。
しかし、『記・紀』の編纂時点では神武が日本の始祖とされていた、これは疑いようのない事実です。また7世紀後半に、畝傍山の周辺に初代神武の宮がおかれ、陵が築造されていたのは間違いありません。
神武天皇陵・橿原神宮の歴史
『日本書紀』672年7月の条に次のような記述があります。
<神に着(かか)りて言はく、「吾は、高市社に居る、名は事代主神なり。又、身狭社(むさのやしろ)に居る、名は生霊神なり」といふ。乃ち顕(あらこと)して曰はく、「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)の陵に、馬及び種種の兵器(つはもの)を奉れ」といふ>。
これは、壬申の乱で天武天皇に従って飛鳥で蜂起した大伴吹負(おおとものふけい)が近江朝廷軍と激戦の末、大和を平定するわけですが、その直前に、高市県主の許梅(こめ)が神懸かり状態になって発した言葉とされています。
そこで急いで許梅を遣わして神武天皇陵に参拝させて、高市社・身狭社の神を祀ったとしています。
壬申の乱の時点で、神武天皇陵は明らかに存在していた証しであり、平安時代の『延喜式』にも神武陵は100メートル四方との記載があります。
その後の経緯は、坂靖氏の解説から抜粋すると下記のようになります。
〇 陵墓は江戸時代までの間に荒廃してしまい、所在は不明となってしまった。
〇 江戸時代元禄年間頃から陵墓の探索が始まった。
〇 1697年、橿原の「塚山」が神武天皇陵とされる。
〇 1863年、尊王攘夷思想が高まる中で、新たに、橿原にあった「ミサンザイ」あるいは「神武田(じぶでん)」と呼ばれた小丘に陵墓が造営された。これが現在まで続く神武天皇陵。一帯は5~6世紀に築造された四条古墳群であることがわかっています。
〇 1878年、明治政府によって、「塚山」は綏靖天皇陵とされる。
〇 1888年、畝傍村字タカハタケを橿原宮とすべきとの建言あり。
〇 1890年、橿原神宮創建。
〇 1940年の「紀元2600年祝典」までの間に、畝傍山東側を中心に一大公共事業が行われ、建国の聖地としての整備が進み、大和国史館も開館する。
戦前においても神武の実在が虚構であることはわかっていたはず。にもかかわらず、大和国史館の展示は当時の皇国史観を大きく前面に打ち出したものでした。
近代に入り発見された神武
実際、天皇家の祖として神武が注目されはじめたのは幕末からであり、それ以前の祖先祭祀においては、天智天皇(第38代)と、第49代の光仁・第50代の桓武以後の天皇たちだけを直接の先祖として祀ってきたといいます。
例えば、供物の質・量が勝る「近陵」は天智・光仁と桓武以後であって、神武以下のほとんどの天皇は、「遠陵」とされ、天智が他の天皇より格上にされていた。
内裏の奥にある天皇家歴代の位牌は、天智とその子孫の光仁・桓武以後の天皇たちだけに限られていた。天皇家では天智系の天皇・皇后だけを祖先として仏教形式で供養してきた。
ところが、古代天皇による支配の正当性を語るために編纂された『記・紀』に、初代天皇として載せられながらも長い間ほとんど顧みられなかった神武が、幕末から近代に入って、意図的にクローズアップされてきます。
1868年、王政復古の大号令の中で、王政復古のモデルとして神武が取りあげられます。近世まで重んじられていた天智天皇ではなく……。
明治新政府は、初代神武から途切れることなく連綿と続く万世一系の系譜を国民に示すことによって、天皇の権限強化を図ったのです。
<橿原神宮(外拝殿から内拝殿と斎庭を望む)>
なぜ、橿原の地が選ばれたのか
畝傍山周辺は、3~4世紀以来、後に大伴氏と呼ばれる有力地域集団ゆかりの地です(大伴氏は摂津から和泉の大鳥地方、紀ノ川下流地域にも拠点あり)。
『日本書紀』には、橿原宮で神武が即位した時の記事で、
<初めて、天皇、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖道臣命、大来目部(おおくめら)を帥(ひき)ゐて、蜜(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能(よ)く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃ひ蕩(とらか)せり。倒語の用ゐらるるは、始めて茲に起れり>とあります。
この翌年、神武は大和平定の論功行賞を行ない、大伴氏の遠祖である道臣命(おちのおみ)と大来目部(おおくめ)に橿原の地を与えたとあります。
<天皇、功を定め賞を行ひたまふ。道臣命に宅地を賜ひて、築坂邑に居らしめたまひて、寵異(ことにめぐ)みたまふ。亦大来目をして畝傍山の西の川辺の地に居らしめたまふ>と……。
しかし、神武は実在せず橿原宮での即位も歴史的事実ではありません。
橿原に陵墓が築かれ神宮がおかれたのは後世の事情によると考えるしかありません。
時は下り、天武天皇の時代になります。
672年の壬申の乱において大和での激戦に勝利したのは、大海人皇子(天武)側の将軍、大伴吹負です。
『日本書紀』672年には次のような記事が見られます。
6月29日、大伴吹負は、大海人皇子に呼応して飛鳥で挙兵、飛鳥古京の役人を味方にし、秦造熊(はたのみやっこくま)に「高市皇子がたくさんの軍勢を率いてきた」と叫ばせながら飛鳥寺西にあった朝廷軍の陣営に向かわせた。
これを聞いた兵たちが散り散りになったところを数十騎の兵で攻めた。
小墾田の武器庫にいた近江朝廷側の穂積臣百足を呼び寄せて殺し、武器を手に入れた。こうして飛鳥古京を占領した。
この様子を大海人皇子に知らせると、皇子は大いに喜び大伴吹負を大和の将軍に任命した。
7月4日、大伴吹負は奈良山に進んで駐屯した。
荒田尾直赤麻呂は吹負に「飛鳥はわれわれの本拠地だから固守しなければ」と言った。
しかし近江軍の大野君果安と戦って敗北した。その後、東国から大海人麾下(きか)の本隊の救援をえて勢いをもりかえし、激戦のすえ大和盆地に進攻した近江軍を撃退、大和を完全に平定した。
7月22日、吹負は難波に進んで西国の国司を服従せしめ、24日には近江の大津で諸将軍と会し、26日には揃って美濃の不破宮に至って大海人皇子に戦勝を報告した。
以上の記事からは壬申の乱における大和平定で、大伴吹負の貢献が非常に大きかったことがわかります。
同時に大伴氏の本貫地が飛鳥であったことも読みとれます。
天武の時代には、畝傍山周辺一帯が大伴氏代々にゆかりの土地であると認識されていたということでしょう。
当然、大伴氏にとって橿原宮はみずからの先祖の土地であり、四条古墳群もみずからの先祖の墓と認識していたと思われます。
したがって、天武天皇のもと、橿原宮も神武天皇陵も、大伴氏の介在によりつくりあげられた可能性が考えられます。壬申の乱の勝利があったからこそ橿原に……ということでしょう。
ついでながら、神武という名は、奈良時代後半につけられた漢風諡号(第19回ブログ)ですが、それまでは和風諡号で「神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこ)」と呼ばれていました。「イハレ」は磐余で、今の桜井市中西部から橿原市東南部あたりに相当するわけです。
神武が7~8世紀のヤマト王権によって机上でつくりだされ、神武元年が紀元前660年とされたために、架空の天皇(闕史八代)がつくられることになりました。次項で確認します。
闕史八代とは?
この後のブログで言及する纏向のクニの輪郭は3世紀前半に現れたと考えられますが、3世紀後半の崇神登場までの間は、『記・紀』によれば、ちょうど闕史八代(けっしはちだい)の時期に相当します。
闕史八代は、神武の次の綏靖(すいぜい)から安寧・懿徳(いとく)・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化の八代の王を指し、開化の次は第10代の崇神にあたります。
そもそも神武は、7世紀初め頃、推古天皇の時に、初代天皇として考え出され、その即位を辛酉革命思想などにのっとって紀元前660年としたため、2代から9代までの架空の天皇を創りだし、しかも年代を調整するために5世紀半ば頃までの天皇の多くが長命になったと考えるのが妥当のようです(第19回ブログ)。
『記・紀』には、八代の天皇の宮や陵墓の記載があるので、これを手がかりに初期ヤマト国の姿を描く古代史もありますが、『記・紀』の記述に信憑性があるとは考えられません。
また闕史八代の陵墓にも矛盾があり、前述した綏靖だけでなく、第9代開化以前のものは後世に築造された古墳か自然丘陵であって、弥生時代の墳丘墓とは認められていません。
「葛城王朝説」というものもあります。
闕史八代の王たちを、崇神一族とは別の王朝とし、王朝の所在地を大和盆地南西部の葛城(かづらき)に比定するものですが、無論、彼らの王宮跡は確認されていません。
もっとも、王宮や陵墓といっても、クニやムラという小集落の時代の王であるに過ぎません。
王朝ありやなきやと論議すること自体、ほとんど意味がないでしょう。
また、闕史八代の王は総て父子相続となっています。
父子相続が兄弟相続に取って代わるのはかなり後世になるため、歴史的に逆行する矛盾があり、この面からも闕史八代の天皇たちは後世の創作とみて良いでしょう。
しかし、固有名詞としての八代の天皇の実在は認めないとしても、崇神の先祖筋としての数代が大和盆地東南部の一族長だったことは確かでしょう……。
これを2世紀末から3世紀にかけて、存在したであろうヤマト国の初期段階と考えることもできそうです。
当ブログでは、間もなくヤマト国の発祥について論じますので、そこで詳述します。
第70回から81回ブログまで、邪馬台国と神武東征関連に費やしてしまった。その心は、次回からの論考に先立って、邪馬台国大和説・邪馬台国東遷説・神武東征説がらみのエセ古代史を排除しておきたかったということです。
参考文献
『日本神話はいかに描かれてきたか』及川智早
『ヤマト王権の考古学』坂靖
『欠史八代「史実・虚構」論争』前田晴人
他