前回の黒曜石に続いて、遠隔地交易の存在を裏づける考古遺物として、ヒスイを取りあげます。ヒスイは、「空飛ぶ宝石」と言われるカワセミ(別名、翡翠とも)の羽毛の色に似ていることから命名されました。もともとカワセミの雄は「翡」、雌は「翠」と呼んでいたようです。
列島各地で出土した硬玉ヒスイはすべて姫川産
ヒスイは半透明の深緑色をした鉱物で、硬玉(ヒスイ輝石)と軟玉(ネフライト)の2種があります。両者は見た目が類似しているものの、まったくの別物で、軟玉は宝石ではありません。古来、ヒスイ加工が盛んだったシナでは軟玉しか産出しません。
硬玉の世界的産地は、ミャンマー北部、マヤ文明のグアテマラ以外には、日本の糸魚川市一帯(姫川・青海川流域)、富山県のヒスイ海岸などに限られ、非常に珍しい鉱物です。
宝石となる硬玉ヒスイは、縄文時代から弥生・古墳時代にかけて、祭祀・儀礼に欠くことのできない呪的な装身具として勾玉・丸玉・管玉などに加工されて珍重され、威信財としても重用されてきました。
硬玉ヒスイのなかでも、5センチから10センチほどの大きさのものは大珠(たいしゅ)と呼ばれ、中央やや上寄りに穿孔されているのが特徴で、初期のものは転石・漂石に多少手を加えただけのものが多く、のちには鰹節型に整形されたものが目立つようになります。
<長者ヶ原遺跡から出土したヒスイの大珠>
考古学上最古の大珠は山梨県の天神遺跡(約5000~6000年前)から出土したもので、最大のものは約16センチ、重さ470グラムで、富山県の朝日貝塚から発見されています。
これまでに発掘された硬玉大珠は200余におよび、北海道から九州にいたるまで全国で出土していますが、そのうち北陸・中部山岳地帯で全体の40%、関東地方まで含めると70%になる一方、北近畿・中国・四国地方からの出土例はありません。
西日本での出土が少ないのは縄文時代には北九州を除いて文明拠点がほとんどなく、人口も少なかったからでしょう。5000~4000年前のものがもっとも多く75%、4000~3000年前は20%くらい、その後の弥生時代のものはパラパラと出土するくらいです。
ただ、この2000年間の出土数が200余というのは少なすぎ、今後発掘が進むと様相が変わる可能性もあるのではないでしょうか。
以上のように硬玉ヒスイは日本列島各地で出土しているわけですが、蛍光X線分析で調べた結果、なんとそのすべてが糸魚川一帯(姫川・青海川流域)の原産と確認されました。すべてが姫川・青海川流域から海路・陸路を通じて全国に運ばれていたわけです。
実は、奈良時代以降、一転して需要がなくなったため国内産地が不明となり、現代の研究者たちは、原石は日本では産出されず海外から持ち込まれたものと考えていたようです。
長いあいだ原産地は謎でしたが、1939年に姫川上流の小滝川ヒスイ峡で原石が確認され、原産地問題は解決しました。偶然の発見だったようです。
硬玉翡翠出土の広域分布は、古代の交易・流通の実態を物語っています。縄文時代から広範囲で交易が行なわれていたことが立証できるわけです。
長野正孝氏は、那の津(博多)から新潟付近までの海上に、潟湖や河口を繋いでゆく「ヒスイの道」と「鉄の道」がかなり早い時代からでき上がっていたと説いています。
フオッサマグナとヒスイの生成
ヒスイはヒスイ輝石(NaAlSi2O6)から成る鉱物ですが、特殊な条件でのみ生成されるため、世界的にも産地が限られています。
繰り返しになりますが、日本でヒスイが産出されるのは糸魚川周辺だけです。
姫川上流にはヒスイ峡と言われる場所があり、ここでは自然な状態の大きなヒスイ原石が見られるようです。
なかなか豪壮な景色が展開しているらしい。もちろんヒスイの採取は厳禁。
ここの原石が風化等で砕けて流れだしたものが、姫川下流やヒスイ海岸で採取できる小さなヒスイということです。
筆者が属している勉強会で2018年春、大型バスをチャーターして糸魚川から諏訪まで古代探訪の旅行をしました。ヒスイの関連では、長者ヶ原遺跡や考古館、フォッサマグナミュージアムなどを見学。
プランニング段階では姫川上流のヒスイ峡を検討したが、バスが渓谷まで入れず断念。誠に残念。
その代わり、フォッサマグナミュージアムにはヒスイ峡で採集した巨大な原石が展示してあり、ヒスイ峡の映像も流れていて、辛うじて豪壮なスケール感は味わえた。
糸魚川から松本にかけては雨と曇りの連続だったが、雲が切れる一瞬に恵まれ、当地の縄文人が眺めたであろう、白馬三山や雨飾山の秀麗な姿を間近に拝むことができた。喜びもまたあり……。
<糸魚川から雨飾山を望む>
ヒスイの生成は1万気圧以上の高圧と低温が条件となるため、地中深くの高温高圧のような場所では生成されません。
糸魚川のヒスイは、フォッサマグナと呼ばれる東-西日本を分ける大断層によってつくられた高圧だが比較的浅い低温の場所でできたとされています。
ヒスイの産出には蛇紋岩が関係します。地下数十キロという地殻の深部から上昇してきた蛇紋岩が、ヒスイの岩塊を取り込んで地表に現れたものとされています。
ヒスイ大珠加工の謎解き
原産地は判明した。
残る謎は、鉄器のない時代にどのような方法で、非常に硬いヒスイにかくも見事な孔をあけることができたのか、この解明に研究者たちは血道をあげたが、現在でもはっきりとは分かっていません。
もっとも可能性が高いのは、その直線的な綺麗な円筒状の孔形状から、管キリを使った回転孔あけ法とされているようです。
縄文人は、石英を含む砂や翡翠自体の粉を研磨剤として、細い(中空の)竹を押し付けながら回転させてヒスイに見事な孔をあけていたのでしょう。偶然見つかった加工途中の半製品からの推定だそうです。
第26回ブログでは「岩や石は、成分や硬さが均一ではなく、同じ種類の鉱物でも硬い部分と柔らかい部分が存在するため、鉱物の場合、工具が被加工物よりも硬い必要はない」として、ダイヤモンドより硬い物質は存在しないのにダイヤモンド加工が可能であることに言及しました。これと同じ原理です。
筆者は2018年春の旅行で、糸魚川にある長者ヶ原遺跡と考古館を見学しましたが、そこで穴あけ工具や穴あけの様子を確認することができました。また、隣接するフォッサマグナミュージアムでも、フォッサマグナの表面近くで硬玉ヒスイがつくられていく様子がパネルになっていて、理解が深まりました。
<長者ヶ原遺跡>
<フォッサマグナミュージアムの掲示から>
なぜ特定地域が生まれるのか
弥生・古墳時代に代表的な呪物は勾玉ですが、縄文時代からの製作伝統をもつヒスイ製勾玉のリバイバルが弥生時代に生じます。
弥生・古墳時代のヒスイ勾玉の素材は、基本的に糸魚川産とされているが、製作形状の違いから製作地は「九州北部」と「北陸」の2グループに分けられるようです。
九州北部では製作場の遺跡が見つかっていないが、完成品の出土が集中しているため、原石が日本海を経由して九州北部に運ばれ、そこで加工されたと推定されています。
一方、原産地を擁する北陸では多くの管玉製作遺跡でヒスイ勾玉が製作されており、九州北部から北海道南部まで広く運ばれて分布し、なかでも中部高地への集中が目立っています。
このような事実からは、原石素材の流通ネットワークとともに、専門的に特化した製作(加工・仕上げ)地が存在したことが想定されます。
千田稔氏によれば、黒曜石・ヒスイなどの特定物質が遠隔地にまでもたらされている理由として、人びとの定住が進んだことをあげています。
<人びとが特定の場所に住み着くと、現地の特産品の採集方法や加工技術が進化し、専門化する。これにより効率的に産物を獲得し、また質の高い「製品」に仕上げることが可能となる。一方で、定住により行動範囲が狭まれば、自分の生活圏でまかなえないものを、他所から手に入れる必要が生じるが、それぞれの地域には、その土地の人びとによって生産された質の高い製品が用意されている。このようにして、各地の製品がさかんに交易されていったのである。定住化の進展は、結果として縄文時代の列島物流ネットワークを発展させていったのである>。
ちょっと逆説的!でもこの見立て、説得力があると思います。
第23回ブログでも言及しましたが、集住(定住)規模が一定以上になると、余剰人員の中から専門特化層が生まれ、企画・管理・軍事作戦に特化した階層や専門的なものづくり集団が生まれます。
そして質の高い特産物が生み出されると、その情報を得た遠隔地との間で交易が活発化します。このようにして物流ネットワークが発展すれば特産物の交易量はさらに増え、質も高まり、特化が一気に進むという正のスパイラルが働きます。
この代表例として、因幡で一定の勢力を誇った青谷上寺地遺跡の木工製品が挙げられます。磨製石器(後には簡単な鍛冶鉄製工具でも)などで作られた精巧な製品は「青谷ブランド」として日本海側の各地に広く運ばれています。
このように逸早く特産品を育てた集団が特定地域として富を蓄積し規模を拡大していくのです。
前回と今回のブログで、旧石器時代から縄文時代という交通インフラの貧弱な時期であっても、黒曜石とヒスイが広範囲に移動していた事実に言及しました。次回からは海の交通インフラ(舟と海路)について、詳しく掘り下げていきます。
当ブログをスタートしてから既に1年以上が経過しました。いまだに外堀(第38回ブログの中で言及)を埋めている感じで愕然としますが、いよいよ当ブログの核心に入っていくことになります。
乞うご期待!
参考文献
『古代日本の超技術』志村史夫
「玉から弥生・古墳時代を考える」谷澤亜里
他