<一支国博物館の準構造船復元模型>
実は謎の多い準構造船
弥生時代後期、ないしは3世紀頃から現われたとされる準構造船について、実態はどのようなものだったのか考察してみます。
技術の発展段階による船の7分類(第52回ブログで言及)を再掲します。
船体の特徴から、
① 単材刳舟
② 複材刳舟
③ 準構造船
④ 箱型構造船
⑤ 日本型構造船
⑥ 中国型構造船
⑦ 西洋型構造船
に分類し、さらに①②を刳舟、②③を縫合船、④⑤⑥⑦を構造船と大括りしています。
『日本書紀』にはスサノオノミコトが杉と樟を造船用と定めた記事が載っている(第51・52回ブログ)。その樟は幹が太いため幅広の船体をつくるのに都合が良い反面、低いところで枝分かれするため長い材が取れない。
そこで刳舟(丸木舟)部材を前後につないだ複材刳舟が生まれたとも言われます。
準構造船は、その複材刳舟に舷側板を付加して深さを増し耐航性を高めた船体のことを指します。
準構造船には2種類の形式があります(とされています)。
刳舟の上に舷側板部が二階建てのように乗り、両端を竪板で閉じ、あたかもワニの口のように見える二股構造形式と、一体となった船底と舷側板が大きく反り上がり、両端の飾板に2本の貫を通すゴンドラ形式です。
準構造船の一部とされる断片は、各地で出土しています。大半は古墳時代のものとされています。しかし、これらの断片からは直接、準構造船の全体像に迫ることはできません。
もっぱら、銅鐸や弥生土器の絵画、そして古墳時代の舟形埴輪から準構造船の存在が推定され、その全体像が論じられてきたわけです。
今や2種類の形式が通説となっていますが、その根拠は、古墳(大半のものが4世紀末から5世紀前半)に副葬された舟形埴輪の形状です。5世紀以降の埴輪では、ゴンドラ形式が主流になるようです。
弥生時代からの準構造船の存在を主張する研究者もいますが、このような複雑な形状の船体が、3世紀頃までの間に実在し、しかも実用に耐えたのでしょうか。
<高廻り2号古墳から出土した二股構造形式の準構造船>
<ゴンドラ形式の準構造船>
二股構造形式にしてもゴンドラ形式にしても、埴輪の形状そのままの準構造船を建造するには、複材刳舟の製作をはるかに上回る技術レベルが必要です。3世紀頃までの技術レベルでは建造が困難だったのではないでしょうか。
清水潤三氏は、『ものと人間の文化史 船』の中で、
<銅鐸や弥生式土器に見える船の図を見ると、極端なゴンドラ形のものがあらわされており、現実に発掘された丸木舟とは似ても似つかぬもののようである>
と苦しい見解を表明しています。
事実、3世紀以前の遺跡からは準構造船と思われる船体も、その断片も見つかっていません。古墳時代のものとされる断片が出土しているだけです。
木材なので朽ちてしまうとか、他の建築部材に転用された可能性はあるものの、準構造船の存在について不確かな側面が残っていることは間違いありません。
埴輪型の準構造船では航行できなかった!
準構造船の実験航海としては、平成元年に行われた「なみはや号」プロジェクトが有名です。
5世紀前半の舟形埴輪(前述した大阪の長原高廻り2号古墳から出土)をもとに、10倍の大きさに復元した船体が「なみはや号」。
直径2メートルの丸太から造られたのは、全長12メートル、幅2メートル弱、8人漕ぎの古代の準構造船です。
その復元船で、大阪から韓国釜山まで700キロの航海に挑んだ。しかし、それは現代の船体構造設計者によると、構造的にとても船とは言えない代物だったといいます。
実際に海に浮かべて漕いでみると、非常に安定が悪く、そのうえ、なかなか進まない。50センチの高さの波がきただけでもバランスを失う有様だった。また喫水が浅く少しの風でも倒れそうになるので、出土した埴輪にあるような帆を立てるのは無理なことも判明した。
<横幅と喫水の深さ(石村智氏の著作から)>
さらに、船底に丸木舟を使っているため、非常に重く(丸木舟部分だけで約5トン)、漕ぐことがほとんどできなかった。こんな重い船を使って人力だけで何日もかけて外洋を航海できるわけがないでしょう。
古代船を復元し、「倭の五王時代の航海を再現する」という触れ込みだったが、航海は成功しなかった。「なみはや号」プロジェクトを、古代船の復元という意味で評価する向きもあるが、重要なことは航海できなかったという事実です。
他にも同様な試みとして、ゴンドラ形式を採用した「野生号」の実験があるが、こちらも失敗。
筆者は、舟形埴輪と相似形の準構造船は、実際には存在しなかったと考えます。
いまだに、テレビの古代史関連番組や古代史本の中で、舟形埴輪を基にした準構造船の画像が頻繁に登場しています。各地の博物館では舟形埴輪と相似形の復元模型が堂々と展示され、弥生時代から交易で使われていたと説明されています。何とかならないものでしょうか。
準構造船のイメージに潜む危惧
私たちが、土器に描かれた図柄や舟形埴輪を見て、準構造船のイメージをつくり上げてしまうのは危険です。
技術屋とか理系とかに関係なく、一見しただけで転覆しそうな感じとか、いかにも重くて推進力に欠けるというようなことは、平均的な感性を持っていれば誰にでも分かることです。
壱岐の一支国博物館に、復元された準構造船が展示してあったが、あんなに不恰好で重心が高くてはとても対馬海峡は渡れないと、誰でも直観するのではないでしょうか。
祭祀用なのか、あるいは何かの容器かも知れない舟形埴輪の美的なフォルムに引きずられて、古代船の姿をイメージすることはやめにしたいですね。
2006年に、馬見古墳群の一つである巣山古墳(4世紀後半)から、大型船の木製部材が出土し大きな話題となりました。部材から復元された全体フォルムは全長8メートル超のまさしく二股構造形式の準構造船のよう。
ただ、魔除けを意味すると思われる直弧文が刻まれていたため、海上で使われたものではなく、遺体や魂を天に運ぶ「喪舟(もふね)」だった可能性を指摘されています。
『隋書倭人伝(現代語訳)』にも、
<貴人の場合には三年間外に置いて殯(もがり)し、庶民の場合は日を卜(うらな)って埋葬する。葬送のときには遺骸を船の上に置いて、陸地から引いていくか、または小さな輿に載せて運ぶ>
とあり、出土品は葬送で使われた船と推定された模様。「お船入り」という言葉も今に残っています。
宝塚1号墳(5世紀初頭)から出土し復元されたゴンドラ形式の舟形埴輪は、全長が140センチもあり国内最大です。この舟形埴輪は大刀や蓋(きぬがさ)などで飾られ、船体中央付近には大小2本の威杖が並んでいます。やはり、葬送儀式に使われたようで、船と葬送儀礼が深く結びついていることを裏づけるものとされています。
陸地や内海・池で曳かれるだけの「喪舟」であれば、奇抜で安定感のないフォルムも納得できますね。
抵抗の大きい海上でなければ、鋸や舟釘がなかった時代でも複雑な船体の建造は可能だし、実用上も何ら問題はなかったといえます。
埴輪形の準構造船は、人が乗るためのものではなく祭祀用だった可能性は捨てきれません。
『古事記』の垂仁記に見られる「二俣小舟」という表現も、ひょっとすると船首がワニ口のように開いた準構造船のフォルムを暗示しているのかもしれません。その二俣小舟を大和の市師池・軽池に浮かべて御子を連れて遊んだというのですから、遊興用の船体だった可能性は大ですよ。
履中が池に浮かべて遊興した両枝船も同じものだろうか。荒れる海ではなく、池に浮かべるだけならこのフォルムは素晴らしい演出だったことでしょう。
何はともあれ、鋸や舟釘のない時代、鉄の供給量が不十分だった時代に、外洋を航海できる複雑なフォルムの準構造船が建造できたはずがありません。
多くの古代史研究者は、弥生土器や銅鐸に描かれているから、そして舟形埴輪の出土量が多いから、同じようなフォルムの準構造船が3世紀以前から大量に使われ交易に供していたはずと推定しているようです。
筆者はこの風潮をいささか短絡的ではないかと危惧しています。
次回、もう少し掘り下げてみます。
参考文献
『ものと人間の文化史 船』須藤利一・清水潤三
『ものと人間の文化史 和船1』石井謙治
『日本海で交錯する南と北の伝統造船技術』赤羽正春
『組み合わせ式船体の船・・・古墳時代の構造船』横田洋三
『昔の日本の船事情』岩本才次
『よみがえる古代の港』石村智
『海に生きる人びと』宮本常一
『古代史の謎は海路で解ける』長野正孝
『古代日本の航海術』茂在寅男
『1000キロの海を渡った「大王の棺」』澤宮優
他多数