理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

95 ヤマト国の伸張(4)「さき」地域に重心を移したヤマト国

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 第91回ブログで予告した「さき」地域について言及します。
 和珥氏(およびその前身集団)の勢力圏は、和爾からその北の帯解、大宅、春日一帯まで伸びていますが、その西側に隣接する「さき」地域には、数多くの巨大古墳から成る佐紀盾列古墳群があります。
 それらは、古代史に登場する著名な人物の墳墓に比定されていますが、はたして……?

治定されている埋葬者は考古学の知見と合致せず!
 当地域で、現在、天皇一族の陵に治定されている主な古墳は以下の通りです。

〇 日葉酢媛命陵⇒ 佐紀陵山古墳(さきみささぎやま)
〇 成務天皇陵⇒ 佐紀石塚山古墳
〇 称徳天皇陵⇒ 佐紀高塚古墳
〇 神功皇后陵⇒ 五社神古墳(ごさし)
〇 平城天皇陵⇒ 市庭古墳
〇 磐之媛命陵⇒ ヒシアゲ古墳
〇 垂仁天皇陵⇒ 宝来山古墳
〇 安康天皇陵⇒ 菅原伏見西陵


 『日本書紀』には、「さき」地域に成務天皇神功皇后の陵があったと記されているので、当時、そういう認識があったことは間違いありませんが、奈良時代のあいだに混乱し、江戸時代には陵の存在が不明確になってしまったようです。

 また、文献では、平安時代には「さき」地域に垂仁の陵、安康天皇の陵があったとされています。
 その後、明治になって、垂仁の皇后である日葉酢媛、仁徳の皇后である磐之媛などの陵を「さき」地域に強引に該当させたという経緯があります。
 佐紀陵山古墳については、幕末まで神功皇后陵とされていたが、明治初めに日葉酢媛命陵に治定替えされました。

 「さき」地域には、称徳天皇平城天皇といった奈良時代や平安時代天皇の陵もありますが、治定されている古墳は4~5世紀のものなので、時代がまったく合いません。

 

垂仁天皇陵と宝来山古墳・菅原・土師氏
 
『古事記』には、
 <垂仁の御陵は菅原の御立野の中にあり>と記され、

 『日本書紀』にも
 <菅原伏見陵に葬りまつる>と記されていることから、垂仁を祀った陵墓は宝来山古墳の所在地(菅原東遺跡のすぐ南)とはほぼ一致します。

 また、『日本書紀』垂仁32年に、日葉酢媛命が亡くなった際、古墳に生きた人を埋める殉死を避けるため、野見宿禰が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬などの埴輪をつくらせ、生きた人の代わりに埋めることを垂仁に奏上したので、垂仁は大いに喜びその功績を称えて「土師」の姓を野見宿禰に与えたとも記されています。

 したがって、宝来山古墳は、埴輪の起源説話に関わる垂仁の陵墓に比定され、菅原は土師氏(はじし)と関わりの深い土地だったことが想定されるわけです。

 実際、菅原の地には、かつて古墳造りに関わり、天皇の葬祭関係の諸事を司った土師氏が住んでいたようです。

 それを裏づけるように、菅原東遺跡では6基の埴輪窯が見つかっています。しかし、これらの埴輪窯は6世紀前半のもので、宝来山古墳の築造はこれを大きく遡る4世紀後半なので、時代がまったく合いません。

 そもそも考古学的には、埴輪の起源は特殊器台とされています。埴輪の生産はしていたでしょうが、埴輪の発明に土師氏が関与したという史実はなく、天皇の葬祭にかかわった土師氏による祖先顕彰の物語と考えた方が良さそうです。
 土師氏の後裔には菅原氏があり、菅原道真を輩出しています。

 

 垂仁や日葉酢媛(丹後出身で垂仁の皇后)の陵が、丹後と大和を結ぶ重要地域である「さき」地域に存在するのは、『記・紀』に記されたような大和地域と丹後地域との濃密な関係(婚姻関係など)から考えて、さもありなんという比定ですが、肝心要の彼らの存在そのものに確証がないんですね。

 神功皇后陵については、そもそも彼女をめぐる物語そのものが史実とは考えられないので、彼女の墳墓とすることもできません。

 以上から、「さき」地域にある4世紀の遺跡や古墳は、これら固有名詞を持つ大王・天皇や皇后ものとは認定できません。
 それらの多くは、後世、大和政権が佐紀古墳群をみずからの祖先の天皇・皇后陵にあてはめたものですが、明治になってからも『記・紀』の記述をもとにした比定が続いていたわけです。
 これらの古墳の被埋葬者は、もともと曖昧模糊としていた伝承をもとにした強引な後づけ比定だったということですね。 

 ただし、ヤマト国が大和盆地の外や海外にアプローチを始める時期に存在した遺跡や古墳であることは間違いなさそうです。古代史ではこれが重要!


佐紀盾列古墳群
 以上のように、大和盆地北部の「さき」の地には、佐紀盾列古墳群(さきたてなみ)と呼ばれる前方後円墳が多数存在します。
 東南部にあるおおやまと古墳群、葛城北部の馬見古墳群と並び、大和盆地の三大古墳群のひとつとされています。

 佐紀盾列古墳群は西群と東群から構成され、時期的には西群の築造が早く、遅れて東に移ります。

〇 西群(4世紀後半中心)・・・佐紀陵山古墳・佐紀石塚山古墳・五社神古墳、少し離れた場所に宝来山古墳
〇 東群(5世紀中心)・・・市庭古墳・ウワナベ古墳・ヒシアゲ古墳

 

 この大王クラスないしそれに準じる巨大古墳を築造順に並べてみると、次のようになります。

〇 佐紀陵山古墳(4世紀半ば頃、全長207m)
〇 宝来山古墳(4世紀半ば過ぎ。全長は227mで、西殿塚古墳、桜井茶臼山古墳、行燈山古墳、メスリ山古墳とほぼ同等)
〇 佐紀石塚山古墳(4世紀半ば~後半、全長218m)
〇 五社神古墳(4世紀後半~末、全長は267mで、佐紀盾列古墳群の中で最大規模)

〇 市庭古墳(5世紀前半、全長250メートル)
〇 ウワナベ古墳(5世紀中頃、全長255メートル)
〇 ヒシアゲ古墳(5世紀後半、全長219メートル)

 

 このように並べてみると、第90回ブログで列挙した「おおやまと古墳群」の規模と比べても遜色はなく、しかも築造時期の一部が重なっています。佐紀盾列古墳群のある「さき」地域には、「おおやまと」地域と同様の大王クラスの勢力があったのではないか、と思えてきます。この後の節で言及します。


菅原東遺跡・西大寺東遺跡
 平城宮の西から北西にかけて、西大寺と宝来山古墳の間には菅原東遺跡があり、近鉄線大和西大寺駅のすぐ北には西大寺東遺跡があります。
 これらの集落は4世紀前半から5世紀にかけて隆盛し、纒向遺跡の最盛期に並び立つ大集落でした。

 「さき」地域には、2世紀頃までは平城宮跡に重なるように弥生時代の佐紀遺跡が存在し、ムラが点在していましたが、その後、衰亡してしまい、3世紀末からの菅原東遺跡には連続せず、集団が異なるものと考えられます。

 菅原東遺跡や西大寺東遺跡からは、王の居館と思しき遺構が出土したことや、遺跡の大きさから、「おおやまと」地域以外に、ヤマト国(ヤマト王権)の王ないしは大王クラスの人物がいたと考えるのが自然です。いずれこの後のブログで、ヤマト王権内の複数の王の存在論について言及します。

 

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 <3~4世紀頃の「さき」地域>

 

 「おおやまと」地域にある古墳群の副葬品には、古代シナの影響のもと、ヤマト国が原型をアレンジしたと思える遺品が見られます。 
 また、大型鉄製品もすべてシナや朝鮮半島で製作された舶載品と考えられます。
 したがって3世紀末のヤマト国は、古代シナと交渉をしていた可能性が高いと思われますが、当時の勢力範囲は狭く、通交も限られていたため、この交渉には、介在した集団が存在したと考えざるを得ません。
 地勢的な立地や遺物の出土状況から、4世紀半ば頃までのヤマト国は、「ふる」地域や「わに」地域の勢力が介在することで、朝鮮半島の百済や伽耶を通じシナとの交渉を展開していたと思われます。

 4世紀後半になると、ヤマト国は大和盆地の外へと影響力を行使していきます。
 考古学の知見から、この際に主導権を握ったのは、大和盆地東南部の「おおやまと」地域ではなく、北部の「さき」地域を拠点とした王であると想定できます。

 4世紀後半、大和盆地の王権の主導権は、盆地東南部の勢力から、佐紀古墳群を築いた勢力へと移行したと考えるのが合理的です。

 それは、両地域に副葬された武器の様相からもうかがえます。
 佐紀古墳群の中小規模の古墳、例えばマエ塚古墳などから、おびただしい数の武器が出土しています。調査されていない巨大古墳ではさらに多くの武器の副葬が想定でき、盆地東南部の「おおやまと古墳群」の段階から武器の保有という点で、格段の進捗があったと考えられます。
 
 こうしたことから、おそらく「さき」地域の王権の性格は、「おおやまと」地域の王権に比べて、軍事・交易・先進文化に強い志向があったと考えられます。

 「さき」の勢力(もう一つの王権)が海外と交渉するにあたっては、木津川一帯にあった勢力との関係が見逃せません。


木津川水系の地域集団
 「さき」地域の北部、西流してきた木津川が淀川に向け大きく北へ湾曲するあたりに、椿井大塚山古墳があります。副葬品の分析から「おおやまと」地域の黒塚古墳とほぼ同時期、4世紀前半の築造です。
 ちなみに椿井大塚山古墳のそばの平尾城山古墳も「おおやまと」地域の行燈山古墳とほぼ同時期(330年頃)の築造です。
 こうしたことから、木津川地域の勢力と「おおやまと」地域との政治的つながりが想定できますが、いかんせん遠すぎます。
 これらの古墳は、「おおやまと」地域とつながりのある「さき」地域の有力者の墳墓とする説も存在します。

 このように椿井大塚山古墳の一帯は「さき」地域や「おおやまと」地域とのつながりが指摘されるわけですが、その後、4世紀後半から5世紀に、木津川水系の勢力の中心が、宇治市南方の久津川古墳群や桂川西岸の西山古墳群、さらに淀川右岸の三島野古墳群に移っていくことから、木津川や淀川中流域には「おおやまと」地域とは別の政治勢力を想定せざるを得ないという見立てもあります。 

 なかでも三島野古墳群は淀川右岸地域(大阪府高槻市・茨木市)に広がる古墳群で、4世紀から5、6世紀の大規模古墳など500基以上の古墳が確認されています。独立した大きな勢力の存在を想定せざるを得ません。

 木津川一帯は、交通の要衝地です。
 そのまま淀川まで下り、左へ向えば河内へ、右へ向かえば近江へと通じるわけですから。
 なかでも、木津川左岸ルートは、山城盆地、亀岡盆地を経由して丹後にも通じており、大和盆地の勢力にとって、みずからが発展するために死活的に重要な交通路でした。


大和盆地北部と南山城の政治勢力
 佐紀盾列古墳群と菅原東遺跡の存在について、以下、塚口義信氏などの論考からまとめてみます。

 4世紀後半の大王墓と考えられる古墳が「さき」地域に所在するのは、墳墓地だけを未開の原野に選定したに過ぎず、中核勢力の基盤は一貫して大和盆地東南部にあったという見方には根強いものがあります。
 しかし、墓地は被葬者にとって、最も関係の深い地域に営まれるのが普通です。それは墓域が最も伝統を重んずべき性格のものと認識されているからでしょう。
 ならば、佐紀西群の政治集団の基盤は大和盆地北部にあったと考えざるを得ません(菅原東遺跡・西大寺東遺跡が該当)。

 なぜ大和盆地北部という狭隘な地域を基盤とする政治集団が王権を掌握できるほどの集団に成長できたのかといえば、南山城の存在に行き当たります。
 平城山(ならやま)をひとつ越えれば、南山城(木津)です(第86回ブログ)。
 南山城は水陸交通上の要衝にあたり、ヤマト王権にとってはすこぶる重要な地域だったため、盆地北部の王が木津川水系の確保に向けて南山城に進出したのは間違いないでしょう。

 このことを象徴的に物語るのは、『古事記』の日子坐王(ひこいますのきみ)の系譜に、大和盆地北部と南山城の地名に由来する人名が集中的にみられることです(塚口義信氏の論考より)。
 また、同系譜には、大和盆地東北部の和珥氏、南山城の一族、丹波の一族の祖先名も散見されます。

 要するに、佐紀西群の勢力基盤ないしは影響力が大和盆地北部だけでなく、南山城から近江南部、丹波の各地にまで広がっていたと考えられるわけです。

 

忍熊王の反乱伝承
 以上のことは、香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟による反乱伝承を分析することによって、よりいっそう確かなものとなります。
 三韓征伐後に応神が生まれ、神功・応神が瀬戸内海を東へ航行したとする難波帰還伝説があります。
 『記・紀』によると、香坂王・忍熊王は帰還する神功・応神に謀反を企てたが、強力な軍事力に抵抗できず、反乱は失敗したと伝えられます。
 しかし、『記・紀』が伝えるような1、2艘の喪舟のレベルであれば、瀬戸内海横断も可能でしょうが、兄弟王の反乱軍を鎮圧できるような大規模な掃討軍の横断であれば、それは不可能です(第57回ブログ)。6世紀以降の物語ならともかく、そもそも4世紀後半の難波帰還説は成立しない……。

 しかし、こうした兄弟王の反逆者としてのイメージは、後代に作為されたものであり、実は二人の王のほうこそ本来、王権の正統な後継者であったとも考えられます。

 兄弟王の母は大中津姫(おおなかつひめ)ですが、『記・紀』をきちんと読めば、仲哀の二人の后のうち、景行の娘であるオオナカツヒメの方が神功よりも正統と言えるでしょう。
 その子が香坂・忍熊の兄弟なのです。
 伝承とはいえ、神功は王統を簒奪したとしか思えません。

 そのことは、兄弟王のほうが応神よりも出自のうえで、はるかに上位に位置づけられていることのみならず、忍熊王の名が佐紀西群に接して存在した「忍熊里」(奈良市押熊町)の地名に由来していることからすると、それは4世紀後半にヤマト王権を掌握していた佐紀西群集団の後継王を象徴化した名であった可能性が大きいこと、などの諸点からも考えられます。 

 要するに、この伝承は、王権の正統な後継者である佐紀西群のヒツギノミコに対し、神功・応神の名で語られている政治集団が反乱を起こして王権を奪取したという形にして、4世紀末の抗争を象徴的に語っているとも考えられるわけです。
 それについてはいずれ筆者の見立てを示すこととし、ここで押さえておきたいのは、忍熊王側の軍勢が大和北部だけでなく南山城、摂津、近江とも深いかかわりをもっているとともに、戦闘の場面もまた上記の地域に設定されていることです。

 忍熊王と対立した神功は、息長氏の系譜にあって同じ山城に根拠地があり、対立する両者は同じ勢力圏の内部勢力の対立であった可能性もあります。

 どこまでが史実かという問題は残りますが、忍熊王の反乱は、4世紀後半以降の淀川中流域をめぐる抗争であって、正統に対して神功・応神が起こした反乱(か?)と捉えることもできるのです。

 何よりも神功皇后の三韓征伐と難波への帰還については史実と考えるには謎が多く、これをもって「さき」地域の王権が滅び、応神を始祖とする新たな王朝が開かれたとする説には大きな問題があります。いずれ言及する予定です。

 

 また河内平野への王権進出については、「さき」地域に本拠をもっていた王族が、忍熊王の反乱伝承のように王位継承をめぐる内乱を経て、応神を始祖とする新たな王権が成立し、古市・百舌鳥古墳群への巨大古墳群の移動はその結果生まれたとする興味深い論考もあります。
 この論考は筆者の見立てとは異なりますが、百済から渡来した応神が東征して河内政権の始祖となったという荒唐無稽な説よりははるかに現実味があります。

 

「さき」地域の王権の捉え方 
 佐紀西群の政治集団からヤマト王権の最高首長が推戴されたのは、この政治勢力の核が、大和北部だけでなく、南山城、摂津、河内北部に至る木津川・淀川水系の広域政治集団であったからとも考えられます。しかもその影響力は丹波まで及び、他の畿内の政治集団のそれに比べ、はるかに抜きんでていたからに他なりません。

 「佐紀の王」が出現した4世紀後半という時期は、朝鮮半島への出兵が開始された時期に当たります。木津川・淀川水系のもつ意味がいちだんと重要性を帯びたことは間違いありません。 

 4世紀半ば、王権の重心を「さき」地域に移したヤマト国は大和盆地全域に影響力を行使し、やがて盆地の外へ積極的に打って出るようになります。ヤマト王権への変質です。

 さらにこの先、4世紀末から5世紀にかけて、河内へ進出することになるヤマト王権(『記・紀』では応神に相当)は、鉄素材や先進的な文物を一元的に獲得するため、さらに積極的に朝鮮半島に乗り出し、和珥の勢力のみならず、葛城勢力や吉備氏の前身集団にまで連携の輪を広げ、いっそう軍事的色彩の強い王権に変貌していきます。

 

 

参考文献
『佐紀盾列古墳群の謎をさぐる』塚口義信
『古代豪族と大王の謎』水谷千秋
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『古墳解読』武光誠
『倭王の軍団』西川寿勝・田中晋作
他多数