理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

53 丸木舟の製作と外洋航行を科学する

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丸木舟の製作は困難を極めた!
 縄文から弥生時代にかけて、丸木舟(刳り舟)は次のように製作されていたと想定されます。
 単材の丸木舟を1艘製作するには、まず石斧で最低でも太さ1メートルくらいの巨木を伐り倒さなければならない。
 その石斧ですが、旧石器時代に使われた打製石器の握り斧に対し、縄文時代の柄をつけた石斧(柄と刃先が平行になっている縦斧)は、打撃力が10倍になると言われています。
 第27回ブログで言及した国立科学博物館の実験では、太さ1メートルの巨木を伐採するのに縦斧を36225回も打ち込んでいます。大勢で交代しながら6日間にわたって打ち込んだらしい。単純計算で6秒に1回打ち込んだことになります。大変な労力!

 巨木は、伐りだしたあとの運搬が大きな課題です。
 普通、土や砂の上では車輪付きの台車は使えません。車輪が地面に接するときに点接触になってしまい、単位接触面積あたりの荷重が過大になってしまうからです。
 もっとも、古代日本に石畳(敷石舗装)の道や車輪はありませんでしたね。

 巨木の運搬には修羅と木製のコロを使うしかありません。したがって深山ではなく、海や川に比較的近い森林を活用し、修羅やコロを敷く道を極力短くし、すぐ下の谷に落とし川に流すような工夫がされました。造船所は丸太の運搬に便利で海や河川に近い場所が選ばれました。

 造船所では、伐り倒した丸太に石製の楔を打ち込み、石ハンマーで叩き割り半分にす叩き割ります。鋸がなかったので、「打ち割り」という方法がとられたのです。

 その次は、年輪のつまった比重の大きい方を船の底と決めて舟のかたちに削り出します。
 半円状丸太の内側にを何回も打ち込んで、塊状の木片を剥ぎ取りながら深く掘り下げます。柄と刃先が直角になっている横斧を使い、深さ50センチ、壁厚5センチになるくらいまで十数万回、斧を振る勘定になります。
 なんという根性!

 また、刳り抜きを容易にするため、あらかじめ燃やしてから刳る方法、つまり焼石を載せて炭になった部分を後から刳る方法もとられたようです。
 やがて、船首を削って今のカヌーのような形状に尖らせ、波切りを改善する工夫もされるようになります。

 丸木舟の製作は、現代の技術を使えば少しも難しいところはない。丸太の内部に縦横にチェーンソーで切り込みを入れたあと、ノミやハンマーで割っていけば容易に丸木舟の形状が得られますよね。
 しかし、当時は鉄器がなかったので、以上のように、丸木舟を1艘製作するには大勢の職人が交代しながら、磨製石斧(横斧)などの石器で、丸太の中央部分をコツコツと刳り抜く骨の折れる作業が必要だったわけです。

 筆者は、2017年4月、勉強会のバス旅行で、若狭から越前をめぐりました。三方五湖レインボーラインから三方五湖を眺めて古代の潟湖(第40回ブログ参照)をイメージし、その後、若狭三方縄文博物館を見学しました。
 同館に展示されている鳥浜貝塚(ユリ遺跡)出土の丸木舟は、保存状態が極めて良く、関係者を驚愕させたといいます。復元品も含めて展示してありました。
 また、舟の表面や底の部分を焦がして削り取った跡もきれいに残っています。火と石器を巧みに利用した証拠です。
 同館では丸木舟製作を再現するビデオが放映されていましたが、製作の困難さを実感するうえで大変参考になります。

 

f:id:SHIGEKISAITO:20200413094226j:plain <ユリ遺跡から出土した丸木舟>

 

 もちろん、鉄器の普及により、これら一連の作業スピードは大幅にアップし、複雑な加工も可能になっていきました。

 紀元後になると、単材刳舟だけでなく高度な刳舟を製作できるようになります。

 長期の航海に対応するため、刳舟を前後に繋いで十数メートルの船長にし、乗員数や積載量を増やした「複材刳舟(縫合船)」登場。これで、乗員数を増やせば漕力が増し、舟を速く進めることが可能になります。

 

 縄文から弥生時代にかけての航海は、主として陸地を見ながら漕ぐ「地乗り航法」です。第40回ブログで詳しく述べました。
 沿岸に沿って、1日に20キロくらいずつ丸木舟を進め、停泊を繰り返しながら進んでいくわけです。沿岸から遠くに離れないので不安定な丸木舟でも比較的安全でした。
 しかし、こうした航法は、波が高く海流・潮流の流れが強い外洋ではなかなか通用するものではありません。

 そこで、外洋をより安全に航行するために、刳船の両側に舷側板を設けて喫水線を深くした「準構造船(縫合船)」もつくられるようになります。複雑な準構造船を建造するには鉄製の斧・手斧・槍鉋などが必須とされます。
 ただし鉄の普及状況から考えて、仮に紀元3世紀以前に準構造船が存在したとしても、実用というよりは権力者の威信財としてつくられた側面が大きかったと思われます。おそらく数年がかりで建造したのではないでしょうか。

 舟釘がない時代、縫合船における船材の接合・固定は、第51回ブログで述べた通り、穴をあけて縄や蔓で縛る、木釘を用いる、舟釘の代わりに鉄板で繋などの方法がとられました。
 継ぎ目の水漏れを防ぐには、接合面を叩いて柔らかくして合わせる「木ごろし」、ヒノキの皮の埋め木を間に埋め込む「巻ハダ」、コケや水草のパッキング、漆の塗布などの技法がとられました。
 こうした水漏れ対策を施してもなおかつ、古代舟の航行には淦(船底にたまる汚水)の汲み出しという大きな負担が伴ったはずです。


手漕ぎの小舟による外洋航行は不可能に思えるが?
 海流の強い外洋を、手漕ぎの小舟で航行することの難しさを実感できる映像が、テレビでたびたび放映されています。国立科学博物館の海部陽介氏が率いるチームによる実験航海です。
 一つは2016年7月に、ヒメガマの草で作られた草舟(7人乗り)2艘で、与那国島から75キロ離れた西表島までの航海。
 もう一つは2019年7月に、古代の技術で製作した丸木舟で、台湾の東岸から与那国島までの航海(第27回ブログ)。
 強い潮に流されて方向を失い、漕ぎ手の体力も消耗していく様子が何とも凄まじい。非力な小舟で外洋を渡りきることの困難さを実感できる。現代の鋼鉄製大型船舶の航海しか知らない筆者には、物凄いインパクト……。

 これらの航海は、現代の科学的知見のもとで実験され、いざという時は伴走船が助けてくれるが、古代人にとっては一発勝負。
 僥倖に恵まれて目的地に行き着いた海の民もいただろうが、漂流すればそれは多くの場合、死を意味しました。

 流れのきつい外洋での航海に向けて、古代人は、安全性を高めながら積載量を増す工夫として、丸木舟を横に繋ぎ双胴船(ダブルカヌー)のようにして使うなどの知識を持ち、それを活かしていたとも考えられます。
 それにしても、科学的知見の蓄積がない中で、古代人は強い海流をどのようにして乗り切ったのでしょうか。


対馬海峡表層海況監視海洋レーダーシステム
 準構造船のない縄文時代から、九州北部と朝鮮半島のあいだで交流・交易のあったことは考古学的事実です。200キロもの距離がある対馬海峡を、間違いなく手漕ぎの丸木舟などで横断していたわけです。

 対馬海峡は冬季の大荒れは有名で、他の季節でもしばしば大荒れします。対馬海流の速度は速く、時速3キロ程度の手漕ぎ舟が航行するのは実に難儀。
 ただ、経験によりあらかじめどう流されるか分かっていれば、はじめからそれを想定して、船首をその方角に向けておけばよい。 
 片道切符なら海流や風に乗って運よく行き着くことはあったでしょう。しかし戻って来なければ交易にはならない。海流の流れに逆らう場合は一体どのようにしたのだろうか。何しろ手漕ぎの丸木舟での外洋航行ですからね。

 小舟による航行の可能性を傍証できるレポートがあります。
 九州大学応用力学研究所の「対馬海峡表層海況監視海洋レーダーシステム」のシミュレーションです。概略は以下の通り。

 対馬海流はおおむね南西から北東へと流れている。したがって、朝鮮半島南西の最先端から漕ぎ出せば自然と対馬に行き着きます。しかし逆向きはどうであろうか。工夫もなく漕ぎ出せば、流れに逆らうことになってしまいますね。

 実は対馬海峡には隠された秘密、複雑に変化する潮流があります。
 対馬海流は一方向だけに単純に流れるのではなく、対馬や壱岐が存在することで、順流と反流の渦が絡み合い、潮流は刻々と変化するのです。
 刻々と変化する中に、横断に都合の良い潮流が発生するタイミングがあります。この潮流は最大5.6キロくらいの速度になることもあるので、潮流を利用する場合、タイミングの読みはまさに航行の成否を支配することになります。

 参考までに、「九州大学応用力学研究所 対馬海峡表層海況監視 海洋レーダーシステム」から、任意に選んだ4つの日平均の流況図を転載しました。少々見にくいですが潮流の向きと強さが刻々変化している状況が読みとれます。

 

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 例えば、対馬と朝鮮半島の間の西水道に反時計回りの巨大な潮流が発生した時は、北行潮流に乗れば自然と半島南部に至り、南行潮流に乗れば自然に対馬に流れ着くという具合です。
 このレポートによれば、潮流と海流の関係を熟知していれば、長さ7~10メートルくらいの丸木舟であっても、耐波性さえ細工すれば、横断は決して不可能でなかったと想定できるわけです。


対馬海峡航行の最適時期・時刻
 外洋で船の位置を把握する場合、南北の緯度は太陽や星の位置から割り出せます。しかし東西の経度は、出発地と現在地で太陽が南中する時間の差を計る必要があり、これは実に困難なことで、正確な機械式時計が発明されるまでの長いあいだ、海人族の腕の振るいどころでした。

 これに対し、古代の一般的な航海術は、昼間に陸地の地形を頼りにして沿岸を航海する地乗り航法であり、夜間や、陸岸が見えない海上で天文航法又は推測航法で航海する沖乗り航法はほとんどなかったと思われます。沖乗り航法が一般化するのは江戸中期になってからです。

 夜間航海よりも、空が明るいうちに渡り切る方がリーズナブルなのは言うまでもありません。したがって夜間の航海はしないということを念頭において考えてみます。

 対馬海峡付近の年間の日照時間は、もっとも長くて14時間30分、短いときは9時間50分です。つまり日照時間の短い10月から3月の間は航行に適さないことになりますね。第一、季節風が強く海の荒れる時期でもありますし……。
 日照時間の長い5月から9月頃であれば、15~17時間くらいの航行が何とか成立したと考えられます。
 また梅雨の時期となる6月も、当然ながら不適でした。
 海人族は、対馬海峡の海流・潮流の傾向、天候の安定する時期を知っていたはずで、危険と判断した時は「潮待ち」をしたのでしょう。


実験考古学による検証
 距離が200キロに及ぶ対馬海峡を横断するには、いったいどのくらいの時間を要するのでしょうか。
 朝鮮半島南部から対馬までの西水道は50キロ、対馬から壱岐の東水道は68キロ、壱岐から博多までは76キロもあるが、唐津までなら42キロです。晴天であれば相互に視認可能な距離です。地乗り航法の可能な距離です。

 東大考古学研究室による実験航海のデータがあります。
 長さ6メートル弱、重量170キロの丸木舟で、積載量が100キロ程度の場合、5キロを航行する所要時間は1時間40分。これは時速3キロに相当する。したがって対馬海峡では、渦のような潮流をうまく捉えれば、さらに速い4~5キロくらいで進めたと想定できます。

 68キロから76キロは、屈強な男たちが交代で、夜のうちから漕ぎ続ければ13~15時間くらいで何とか進める距離だったことになります。

 以上により、高度な船体を建造する技術がなかった当時でも、日照時間が長く、天候が良く、潮流がベストの時に適切なルートを選択すれば、手漕ぎの丸木舟でも対馬海峡を渡れた可能性のあることが理解できます。

 卑弥呼の時代、紀元238年、朝鮮半島西岸を経由する遣シナ使の船は、献上品として生口10人と織物2匹2丈(24メートル分)を積んで向い、シナからの答礼品を積んで帰路についたとされています。よくぞ遭難しなかった!

 筆者は、この遣使船の船団は巷間伝えられるほど立派なものではなかったと考えています。それでもひょっとしたら、船首と船尾に波除けをつけ、船体の側面に板を立てた複材丸木舟くらいは建造できたのかもしれません。生口の数や献上品からみて、3艘程度の船団だったのかな。

 しかし断じて帆船ではありません。それにしても献上品には布が含まれている。濡らさずに航行するのはさぞや難儀だったことでしょう。

 

実験考古学について
 最近盛んになった「実験考古学」について若干補足します。
 これまでの考古学は、遺跡や出土したモノを観察して、技術や文化の違いなどを整理することに留まり、観察による類型研究の域を出ませんでした。しかし最近は、理工系の様々な分野の技術を活用して科学的に研究する方向へ進んでいます。
 山田昌久氏らは、例えば、石斧を使ってどのくらいの時間で木を切れるのか、その木材で家を建て、丸木舟をつくってみて、どのくらい手間がかかるのかを実際に把握して、それを数値情報にする研究に取り組んでいます。
 前述した東大による実験航海や、国立科学博物館による草舟や丸木舟の航海も実験考古学です。その丸木舟の製作(3万年前の道具で丸木舟を作る)では山田昌久氏が実験リーダーを務めました。 

 古代史の研究者は、このような実験の成果をみずからの研究に積極的に取り入れるべきでしょう。


意味深長、ルイス・フロイスの描写
 沿岸を航行する地乗り航法なら、古代であっても丸木舟で十分可能だった。日本海沿岸では、潟湖を結ぶ地乗り航行が盛んだったが、16世紀に布教活動をしていたルイス・フロイスの『日欧文化比較』の記述は面白い。 
 沿岸航行について、
 <われわれの船は昼も夜も航行する。日本の船は港に留まり、昼間航行する>

 <われわれの船はしばしば雨を気にかけず航行する。日本の船は天気が晴朗でなければ航行しない>
 <我々の船には長期に堪える水をいつも積んでいる。日本の船はほとんど二日毎に水を積む>
と記している。
 16世紀の頃でこんな塩梅なのだから、丸木舟時代の沿岸航行の実態は推して知るべし、でしょう。

 

 

参考文献
『よみがえる古代の港』石村智
『九州大学応用力学研究所 対馬海峡表層海況監視 海洋レーダーシステム』
『ものと人間の文化史 丸木舟』出口晶子
『日欧文化比較』ルイス・フロイス
『古代日本の航海術』茂在寅男
他多数