理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

52 古代の舟

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 第27回ブログの「実験航海」で触れたように、約3万年前の旧石器人が日本列島にやってきた渡航手段は丸木舟だった可能性が出てきました。この実験航海の成功もあって、古代史愛好家の間で、「古代の舟」に対する関心が非常に高まっているようです。
 交通インフラ・交通手段に関心が集まることは嬉しい限りです。

 一般に、海や河川の上を進む「ふね」は、「船」または「舟」と書かれます。
 当ブログでは、乗員が10人以下の「ふね」に対しては「舟」を、準構造船や構造船などの大きな「ふね」に対しては「船」の字を当てることにしています。
 まず今回は、紀元前から3世紀頃までの「舟」について考えてみます。

 船・舟の歴史
 太古の昔、古代人は、流れる川の水に丸太が浮くのを見て、それに摑まって渡河した。これが、そもそもの船の着想につながったと言われています。

 一般的に丸太はそのまま水に浮かびます(第51回ブログで言及した通り、水に浮かない木もありますが)。
 丸太が水に浮かぶのはなぜか?
 アルキメデスの原理ですね。
 水中の丸太は、その丸太が押しのけた水の重さと同じ大きさの浮力を受けるというわけです。
 したがって、丸太自体が重すぎてもうまく浮かばないし、丸太の上にあまり重いものを載せることもできない。そこで丸太を刳り抜いて余分な重量を取り除くことで積載量を大きくする方法が編み出されます。人類の知恵!

 古代の舟というとすぐに丸木舟が想起されますが、世界的にみても原初の舟は丸木舟ではありません。木材の加工という厄介な作業が伴うからです。

 エジプト・インダスでは材料の調達が容易で、製作に特別の道具を必要としない葦舟が、メソポタミア・黄河では皮袋の筏が原初の水上交通手段だったと言われています。
 葦は1本の浮力は小さくとも大量に用いれば絶対に沈まない舟となる。獣皮の浮き袋も大量に用いれば万が一どれかが破裂しても問題はない。安全性は高い。組み合わせた竹か木に浮き袋を装着するだけで良く、労力もかからず軽いので運搬もし易い。
 これなら、大木を切り倒す事もなく、重い幹を運ぶこともなく、打ち割りする必要もなく、中を刳り抜く磨製石斧も必要がなく、細い竹や細い木片を獣の腱か丈夫な植物の皮や蔓で結べば事足りる。

 シュメールの都市国家ウルでは、10人の労働者が葦束をしばって1日で葦舟をつくり、 防水には瀝青(れきせい)を使ったという。しかし製作は容易でも、暴風に抗することも速い海流を乗り切ることも困難で、沿岸では使われても大海を渡り切るのは偶然に頼るしかなかったでしょう。

 また、丸太や竹を植物の蔓で束ねた筏舟にしても、操船が難しいので、その利用は内海や河川などに限られ、単独で外洋で使われることはなかったと思われます。

 そして、一本の木を刳り抜いた丸木舟やカヌーという「単材刳舟」の出番となります。磨製石器の進歩によります。
 単材の舟はその後、構造が複雑になり大型化し、世界各地で様々に進化していきます。

 海外の海洋国家では、紀元前1500年頃から紀元後にかけて、高度な構造を持ち、数百名が乗り込める大型船が活躍します。
 フェニキアにおける軍船・交易船、ギリシャ・ローマのガレー船(三段櫂船など)などです。
 4、5世紀のローマ帝国では、長さ100メートル超の巨船が造られています。
 船首と船尾を竜骨でつなぎ、肋材に板を貼った構造を持つ複合船です。地中海の航海民族であるフェニキア人が、造船用に堅くて巨大なレバノン杉を確保していたことは広く知られていますよね。

 ひるがえって、古代シナには海洋国家のイメージはありません
 王朝の興亡に関係したのは大半が陸上戦であり、船による戦闘の舞台はもっぱら河川でした。
 古代シナや朝鮮半島(シナの出先機関)では、鉄製工具の使用によって紀元前後から造船技術が高度化します。船団を組み、陸地に沿って海外遠征したという記録も見られます。
 やがて、角形の帆を持つジャンク船が開発される。平底でありながら堅牢な隔壁を設けて船全体を水密構造とした構造船です。
 彼らはこの船で海洋を渡り、各地へ雄飛したという。それでも、平底船で東シナ海などの荒海を渡海するのは非常に困難でした。
 このような経緯からみても、弥生末期より以前の、シナから日本列島への大量渡来(例えば楚の攻撃で敗亡した越人)はあり得なかったと考えられます。

 技術の伝播が遅れた日本では、邪馬台国があったとされる弥生時代末期までの主力は丸木舟だった。
 ちなみに、5000~7500年ほど昔の丸木舟が、市川市雷下遺跡、福井県若狭の鳥浜貝塚ユリ遺跡、舞鶴市浦入遺跡などで見つかっており、丸木舟が古くからずっと使われていたことが判明している。 

f:id:SHIGEKISAITO:20200413094226j:plain <ユリ遺跡から出土した丸木舟>

 

 丸木舟は一本の大木を刳り抜いてつくった船です。モノコック構造のため壊れず、転覆しても沈むこともない。乗員は海中に放り出されるが、舟体に摑まっていれば漂流できた。即死ではなく漂流生還が可能で、現代人の常識に反して意外と安全性は高かったのです。
 したがって、日本では、中世に構造船などの高度な船が登場した後も、沿岸や内海、そして河川では丸木舟が一定の役割を担い続けます。

 

海の民の活躍と丸木舟
 「山は隔て、海は結ぶ」という言葉がある。
 国内では、「津々浦々」が象徴するように、山が多く道路を通せる平地が少なかったので、陸地を確認しながら沿岸近くを進む地乗り航行河川舟運が重要な交通手段だった。
 シナ大陸が陸運の文明だとすれば、日本は水運の文明だったともいえる。
 古代日本はまさに海洋民族国家であったと言えるでしょう。

 丸木舟は筏や葦舟よりも製作がはるかに困難だが、重いものを運ぶことができ舵取りも容易だった。耐波性がよくないので浸水した淦水(かんすい)を常に汲み出しながら航行した。

 古代人は、日本列島のいたる所で丸木舟を用いて互いに交流・交易を行い、さらに海外や離島にも足をのばしていたことが判明している。黒曜石やヒスイの広域分布は、縄文時代から葦舟や筏、カヤック、丸木舟など何らかの手段を使い活発な航海が行われていた証拠です(第49・50回ブログ参照)。

 使われた丸木舟の長さは、材料となる木で制限されるため、多くは5~7メートルくらいで、3~5人が乗船できたようです。
 丸木舟は漕ぎ手が進行方向に向かって座り、櫂で漕ぐペーロン漕法で進みますが、一般的に安定性が悪く、積載量も限られるので、長距離で気象条件が厳しい外洋の航海には不適でした。

 通常の航海は、沿岸付近を地形や山を目視しながら、停泊地として潟湖や河口を繋いでいく「地乗り航法」なので、夜間に航海することは少なかったようです。

 しかし、海の民は、暗礁、潮の干満、潮流や反流とその季節変動などを経験的に熟知していて、沿岸航海のほか、自らがテリトリーとする外洋についてもなんとか航行できたようです(海の民の活躍については稿を改めて言及予定)。
 一度の渡海で運べる人や荷物が限られても、漂流や遭難の憂き目にあっても、先史時代から連綿と続く極めて長い時間のあいだに、膨大な人とモノが行き来したことは間違いありません。

 古代史関連の論考や絵図には、朝鮮半島との交易や派兵の場面に、必ずといっていいほど積載能力に優れた「準構造船」という謎の船が登場します。論者によっては弥生時代から存在したとしています。
 しかし大した検証もなく、論旨を展開するのに都合が良いというだけで安易に扱われているとしか思えません。
 当ブログでは、この風潮に警鐘を鳴らします。その扱い如何で古代史の流れそのものが天と地ほどに変わってしまうからです。

 

 なお、石井謙治氏は技術の発展段階により、船を次の7段階に分類しています。
① 単材刳舟
② 複材刳舟
③ 準構造船
④ 箱型構造船
⑤ 日本型構造船
⑥ 中国型構造船
⑦ 西洋型構造船
に分類し、さらに①②を刳舟、②③を縫合船、④⑤⑥⑦を構造船とも分類しています。
 技術の発展段階に、ミッシングリンクともされる謎の多い準構造船の存在を想定しているわけです。
 次回は、準構造船・構造船について言及したいところですが、その前に「丸木舟の製作と航海の実態」をもう少し詳しく追ってみたいと思います。

 

参考文献
『ものと人間の文化史 和船1』石井謙治
『文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ』小林登志子