理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

57 古代の瀬戸内海航行

f:id:SHIGEKISAITO:20200515143851j:plain
 実に多くの研究者が、瀬戸内海は古代から(研究者によっては縄文時代からとも)「歴史的な物流ハイウエイ」だったと述べています。
 確かに多くの文物が行き来し、文化が伝播したことは間違いありません。
 しかし、5世紀以後ならともかく、それよりも前の時代に、他の交易路よりも抜きんでたイメージを持つ「物流ハイウエイ」という呼び方はまことに不適切!
 大規模物流や政治的な合従連衡に瀬戸内海交通が重要な役割を果たすのは5世紀以降のことです(第40回ブログでさらりと触れました)。

 

瀬戸内海の地形的特徴
 瀬戸内海は、地質学的には中央構造線によって形づくられた気密性のある内海です。中央構造線は、紀ノ川~紀淡海峡~淡路島南部~鳴門海峡~吉野川~佐田岬半島~佐賀関半島と東西に長く延び、特徴的な地形を形成しています。
 それによって瀬戸内海は関門海峡で絞られ、四国側の佐田岬半島と九州側の佐賀関半島が豊予海峡(速吸瀬戸・はやすいのせと)を極端に狭くし、また東部瀬戸内海でも淡路島の存在で紀淡海峡鳴門海峡が狭くなり、全体として気密構造になっているわけです。

 この気密構造は、潮の満ち引きの際に瀬戸内海に大きな干満差と狭隘部での強い潮流を発生させます。

 瀬戸内海の潮汐は、東西の海峡から外洋水が出入りすることによって生じ、1日のうちに2回、東流と西流が入れ替わります。
 東西からの潮流がぶつかり合う塩飽(しわく)諸島や福山付近では、干満差は最大で4メートルに達します。

 海上保安庁提供のサイトで、西暦1年から西暦2100年までの潮流推算値を調べることができます。
 潮流は「毎時ノット」で表示されているが、1ノットを1.9キロとして換算すると、速吸瀬戸で最大時速9キロ、大畠瀬戸(おおばたけのせと)で最大13キロ、関門海峡で15キロ、来島海峡や鳴門海峡では20キロ以上にも達するようです。
 時速20キロは秒速5.5メートルですから、とんでもない速さですね。瀬戸内海の魚がうまいのは、速い潮の流れにあおられて筋肉質になるからですよね。関サバ・関アジ・明石のタイ・しまなみ海道のタコなど。

 一方、手漕ぎの丸木舟は、潮流が時速3~4キロを超えると前進できません。
 当然、強い潮流に向かう時は潮待ちをし、潮流の方向が入れ替わる弱い時に航行するしかありません。満ち潮と引き潮の接点がちょうど吉備にあたるので、舟はここで潮待ちすることが多かった。吉備発展の一つ理由は、まさにこの潮待ちの地であったことによります。

 瀬戸内海は起伏のある土地が沈降してできた多島海です。700から800を超える数の島があります。
 島嶼が多い流路が狭くなりそこに強い潮流が発生します。当然航行の難所となります。
 さらに航行を難しくしたのは、島と定義されない岩が無数に存在することです。

 岩にもいろいろあるんですね。
 常時海上に浮かんでいる岩、高潮時には沈下する干出岩(かんしゅつがん)、低潮時に岩頂を波が洗う洗岩(せんがん)、常に海面下にあるため航行にあたって最も危険な暗岩(あんがん)など。
 手漕ぎの丸木舟で岩に激突すればひとたまりもない。

 海底も複雑で、水深は灘の部分では20~40メートル程度ですが、潮の速い海峡では侵食によって海底が削られ、海釜(かいふ)とよばれる深い窪地となっています。

 安全な航行には航路や潮流などの海域全般を熟知した海の民のサポートが必須でした。仮に準構造船なるものがあったとしても、単に船体が大きいだけでは安全は担保されず、岩礁が多く浅瀬が点在していた4世紀頃までの航行は不可能だったと思われます。

 こうした状況を熟知する水先案内があったとしても、丸木舟が数十艘もの船団を組んで航行することは不可能でした。
 航路をはみ出す舟、潮の変化に追随できずコントロールを誤る舟で、座礁ないしは船体同士の衝突が多発したはず。5世紀より前には、とうてい考えられないことです。


瀬戸内海は技術や文化の渡廊だった!
 古代の瀬戸内沿岸は縄文海進の名残で、まとまった平地は多くありませんでした。
 しかし安定した気候や豊富な海産物の存在などにより、縄文の昔から、海との関わりを生業とした人たちが住みついています。

 彼らは瀬戸内の海運を担う存在でもありました。もともとは北九州沿岸を本拠とした宗像系や安曇・住吉系の海の民でしたが、製塩・漁労・造船の技術に秀でていたため、次第に活動範囲を広げ瀬戸内一帯に植民し、やがて製塩技術も獲得していきます。
 他にも、海の民として九州南部に勢力のあった隼人族が、九州北部や瀬戸内の海の民と交易を行なった可能性もあります。

 土器による製塩(第47回ブログ参照)は、東日本では縄文時代から始まっていますが、西日本でも弥生時代中頃から瀬戸内海の備讃瀬戸及び紀淡海峡付近で始まりました。これを担ったのは漁労専業で海上漂泊し、ほとんど陸に依存しなかった海の民です。
 その後、畿内や吉備などに塩を必要とする人が大勢住むようになり、藻塩焼きをするために海の民も次第に定住するようになったと言われています。
 備讃瀬戸の海岸部には、製塩遺跡が多数存在したが、なかでも「師楽(しらく)式土器」を出土した備讃諸島の製塩遺跡が有名。


 弥生時代には3世紀にかけて、瀬戸内海の海面から数十メートル高い丘陵の上や島の山頂には「高地性集落」がたくさん存在しました。
 なかでも、備讃諸島や塩飽諸島の島々が点在する地域、芸予諸島の島々が点在する地域、言うなれば瀬戸内海航路の関所となるような地域に集中しています。

 考古学者は、山頂や尾根に設けた防衛的ないしは畑作農耕のための集落で、近隣との戦いに備えて、低地から逃げて生活できる軍事的性格の強い集落だと言います。人やモノの動きを見張るには絶好の場所で、まるで山城か砦のような……。

 2世紀末頃の倭国大乱と関連づけて語られることが多いですね。
 しかし、仮に軍事的な意味があるとしても、日常的に生活するには水の便が悪い。水汲みに下まで降りなくてはならない。自給自足はとても無理でしょう。

 森浩一氏は、防御的な逃げ城的な性格だけでは説明がつかず、聖地的な非常に重要なところだったのではないか、としています。
 実際に発掘しても鏃や土器は出土するが、わずかな住居のほかには集落跡を示すようなものはなく、狼煙場程度のもの見られるだけのようです。

 司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で、白村江の敗戦後、危急の時に対馬や壱岐から太宰府経由で、瀬戸内海の山の中腹や山頂に設けた狼煙を次々に焚き、奈良の都までを狼煙リレーで伝達した可能性に触れています。面白い発想だけど……。

 しかし、長野正孝氏は、狼煙は晴れていても10キロ以上の距離になると視認できないといいます。となると、軍事的な狼煙場だったとも考えにくいですね。
 その代わりに、狼煙場は、航行に際し悪天候や薄暮ないしは夜中であっても、海の民を安全に導くための常夜灯のようなものだった可能性を指摘しています。その方が素直に理解できますね。
 長野氏の著書『古代の技術を知れば「日本書紀」の謎が解ける』は、技術オリエンテッドを標榜する割には、古代史の組み立てにおいて、読むに堪えない酷い推論で固められています。でも、このように時たま良いヒントを得ることもできます。

 

 「高地性集落」という言葉には、どうしても一定規模の人数が日常生活を営むイメージがあり、なじめないですね。むしろ「高地性遺跡」の方が適切では......。

 戦争の防御・避難場所としては中世の山城地中海の高地集落が思い当たりますが、そこからの連想で「高地性集落」の存在が倭国大乱のあった証拠だと説明されても説得力がありません。その時期には、高地性遺跡の他にも海浜や低地の遺跡も継続して併存していたわけですから。

 高地性遺跡は、弥生時代後期、瀬戸内海沿岸の各地に陣取った海の民が、内海航路の情報収集や、自らの拠点の高台に目印としての灯台を設けた、というくらいの解釈でいいような気もしますが、でも決定打でもないような……。

 いずれにしても、瀬戸内海各地に「狼煙場のようなもの」が存在するということは、瀬戸内海沿岸各地に海の民を中心とした人たちが住み、丸木舟を操りながら活発な交易をしていたという証拠でもあります。
 このような海の民の存在からみても、九州北部から畿内へは「瀬戸内を渡廊として」さまざまな技術や文化が伝播していたことは認めてよいでしょう。

 

 しかし、5、6世紀より前は、以下の2つの理由で、海況や海中地形を熟知した海の民が主導しても、瀬戸内海の大船団航行は不可能でした。

 1つ目の理由は前の節で述べた複雑な地形です。数艘の小舟を操るのも困難ですが、ましてや大船団ではとてもとても。
 2つ目は、古代の瀬戸内沿岸には、船体を補修し、人が休み、水・食物の補給ができる場所や、潮待ちのために停泊する場所が極めて少なかった。
 数艘であればともかく、大船団が停泊できる港津はありませんでした。
 また、「古代航海は潮に乗り、風に乗り」といわれるが、瀬戸内海では島が多く、海岸線も入り組んでいるため、小刻みの潮乗りに帆は役立たず、手漕ぎで操船しなければならなかった。手漕ぎであれば、20キロほど進むたびに、消耗を回復するための停泊は必須です。

 それともう一つ、ヤマト王権が瀬戸内海の重要性を意識し、喫水の深い大型船が停泊可能となる難波津の工事を始めたのは5世紀からで、6世紀になって完成したという事実です。難波津がなければ、瀬戸内海は物流ハイウエイになり得なかったでしょう。

 現代のかなり整備された瀬戸内海であっても、有名な「大王の棺実験航海」では水と食料の補給問題が顕在化したといいます。
 「大王の棺実験航海」について次節で確認してみましょう。

 

大王の棺航海実験
 実験考古学の貴重な試みとして、「大王の棺航海実験」がある。 6~7トンもの重さの巨大な石棺を、遙か1000キロも離れた地まで運ぶことが可能なのか、実験を試みた。
 6世紀前半の継体の陵墓とされる大阪の今城塚古墳などから、熊本県宇土地方にしか存在しない馬門石(まかどいし、阿蘇ピンク石)の巨大な石棺が見つかった。
 このような遠地の石棺を使うという政治的な意味合いは必ずしも明確になっていないが、6世紀頃に古代のブランド品であるピンク石の流通システムがあったことは間違いない。
 実際に宇土市で切り出した馬門石で7トンの石棺をつくり、有明海から関門海峡を通って瀬戸内海へ、さらに大阪湾へと運び込む実験航海が敢行された。
 古代船は、全長約12メートルで丸木舟の船底に、舷側板を組み合わせた(舟形埴輪と相似形の)準構造船である。石棺は、巨大筏の台船に載せられて曳かれ、43日後に大阪南港に無事到着することができた。

 舟形埴輪と相似形の準構造船「なみはや号」による対馬海峡横断実験(第54回ブログ)は失敗だったが、同じ準構造船が、瀬戸内海であれば1000キロもの航海に何とか成功したということになります。

 この実験では、古代の航海に関する貴重なデータが得られました。
 波が1メートルを超えるだけで櫂が空転して漕ぐことが困難になり、船体も細いため横揺れが大きく転覆の心配があったという。実験の当事者は、古代船が安全に航海できるのは波の高さが0.5メートル以下の時に限られるといいます。
 玄界灘であれば夏期で波の静かなわずかな機会を狙うしかないので、やはり「埴輪型の」準構造船では対馬海峡を渡海できないことを傍証したとも言えるでしょう。

 実際には、5、6世紀以降の瀬戸内海の航海や対馬海峡などの外洋航行には、「薄板を多用した準構造船」か「初期構造船」(第55回ブログで言及)が使われたのでしょう。


5世紀末以後に可能となった瀬戸内海の大船団航行
 邪魔な岩礁を除いて浅い海底を掘り下げる、いわゆる啓開をして瀬戸内海航路がつくられたのは、ヤマト王権が吉備を攻略した雄略の時代からと言われています。整備された航路には今の澪標のようなものが並んでいたのだろうか。
 第45回ブログでは岡山三川を利用する「南北ルート」に言及しました。吉備の地政学的重要性とヤマト王権による攻略については、「古代史本論」の中で、「吉備国」として詳述する予定。

 瀬戸内海航路の起点となる難波津は、先ほど述べたように、ヤマト王権が4世紀後半以降に河内に進出した後、5世紀以降、6世紀にかけて造られた。
 磐井戦争後、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)が糟屋屯倉(かすやのみやけ)をヤマト王権に献上し、その後も継体から欽明・敏達にかけて瀬戸内沿岸に続々と屯倉が設けられたのは、6世紀になってからのこと。
 これにより、瀬戸内各地に多くの船舶が停泊できる港津が整備されます。
 屯倉はヤマト王権による政治経済的な拠点ですが、物資流通の管理機能も有していたので、 港津の整備と一体で瀬戸内海流通ネットワークの構築に寄与したというわけです。
 したがって、5世紀末より前の時代と考えられる神武東征や邪馬台国の東遷、神功皇后の難波への凱旋など、クニ単位の大集団の移動や相当規模の軍船による瀬戸内海横断はあり得ないと考えてよいでしょう。これは古代史検討の際のOB杭となります。
 もちろん、瀬戸内海を航行する大船団に向かって高地性集落から攻撃を仕掛けるなどという痛快な物語はあり得ません。

 瀬戸内海航行は紀元3世紀頃までは丸木舟が主体だったため、一度に運べる人やモノは限られた。しかし丸木舟による航海は頻繁に行われたので、長い時間経過のなかで交易や伝播の総量はそれなりにあったということは考古学的事実。ここは混同せずにしっかりと確認しておきたいところです。

 やがて、瀬戸内海航路は、大和・河内と九州方面を直接つないで文字通り「物流ハイウエイ」となり、代わりに日本海航路は勢いを失い、出雲も没落することになるのです。


海流・潮流の速度(まとめ)
 第46回ブログで陸上歩行の移動速度をまとめてみましたが、同様に、舟の速度と海水の速度についてまとめてみます。いずれも時速の数値です。

〇 対馬海流……1.9~2.8キロ 潮流は最大5.6キロ(毎秒2メートル)
〇 黒潮……3.7~5.6キロ (黒潮本流の最大は7.4キロ)
〇 瀬戸内海
  来島海峡……20キロ以上
  鳴門海峡……20キロ以上
  関門海峡……15キロ

〇 これに対して手漕ぎの丸木舟は時速3キロ
  準構造船であれば、漕ぎ手が増えるので倍くらいの速度は出せる。


 次回、『記・紀』の中では「船・舟」をどのように扱っているのか確認してみます。 


参考文献
『よみがえる古代の港』石村智
『古代の技術を知れば「日本書紀」の謎が解ける』長野正孝