理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

56 古代の帆船

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古代日本で帆船は実用に供されたのだろうか
 外洋を手漕ぎで進むのは体力的に厳しい。でも外洋をまたいで往来した証拠はあまりにも多い。こうしたことから、古代日本においても、外洋は帆船で航行したという説を唱える研究者が大勢います。しかし日本では、中世より前に帆を立てて風に頼る航海が安定的にできたとは考えられません。

 現代のヨットは、風上に向かって斜め45度くらいの方向に進むことが可能です。しかし古代船では、平底という構造上の特徴から横流れを防止できず、いかに適帆をしても逆風帆走は困難。つまり順風の時しか帆走できないのです。
 帆走はこの順風が吹くわずかな機会を待って行なうしかなく、実用にならなかったわけです。

 横帆(おうはん)は、船の中心線と交差する方向に帆を張ることです。西洋帆船ではその形状から角帆とも呼ばれます。人類が発明した最初の帆のスタイルが横帆で、追い風の力を船の動力に使うことを目的としたいわゆる帆掛船が代表的。

 横帆は、追い風だけでなく、帆の向きを風の向きに交差する方向に変えれば、ある程度まで対応できます。したがって風の方向が一定している遠洋での帆走では横帆が有利です。

 一方で、横帆は進行方向前方からの風を受けると、風上側の帆の縁がはためいてしまい、帆の張りを維持するのが難しい。このため横帆による帆走は風上に対しては不向きです。また風の向きが変化しやすい沿岸部や島嶼部の帆走にも不適です。

 縦帆(じゅうはん)は、船の中心線に沿った方向に帆を張ることです。横帆に比べて、風力を推進力に変換する効率の面では劣る一方、風上方向への推進が容易。しかも帆の向きを変えることで船に旋回力を与えることも容易です。

 船の技術史によれば人の海洋進出にとって画期的な発明は、順風に適した横帆ではなく、マストを軸に回転が容易な縦帆の登場だったとされます。


 帆船で対馬海峡を往復するには、どの方向からの風にも対応可能な縦帆が必要となります。
 縦帆船(じゅうはんせん)は水中に横流れ防止板を設け、横風でも転覆しないように喫水線から下を深く取り、船底を重くし復元力を大きくする必要があります。そのような船はこの時期には存在しません。
 日本で古来使われている丸木舟は平底で、横からの力を受けた時の安定性に欠けます。
 第55・56回ブログで言及した準構造船にしても船底部に丸木舟を使っている限り、安定性はありません。

 日本では、帆船が描かれた弥生時代の考古物も出土していますが、これはシナの湖、河川、運河などの比較的静かなところで実用された平底帆船を実見したか、伝聞を絵柄にとどめたものではないだろうか。日本の内海や河川であれば、実際に横帆が使われた可能性まで否定はできません。後に帆掛け船が出現しますからね。
 実際、実用的な帆船で対馬海峡を往復できるようになったのは、江戸時代からのことです。

 

 紀貫之の『土佐日記』に登場する船は、当然、帆船でしょう。
 土佐国から出て、四国の南岸を進み、淀川を遡って京都の南まで向かったわけですが、風の吹く具合や暴風・時化の有無などで、船旅には1か月半を要しました。
 室戸岬は、当時の船にとっては、たいへんな難所で、潮の流れも早く、風向きも、室戸岬の西側と東側では全く違います。
 その室津では11日ほど滞在を余儀なくされました。時化に会い大いに難渋しますが、下船した様子がありません。船がそこそこ大きかったので、砂浜に引き上げることもできず、係留できる場所も限られたのでしょう。船の中で過ごしたと思われます。
 大阪湾では淀川の河口から漕ぎ上ります。船を曳きながら上るが、水量が少ないので膝行するように船底をこすりながら進む様子が描かれています。つまり小舟に乗り換えた節がない。喫水の浅い船で海岸沿いを進むだけでなく、淀川を奥へと遡上したことが読み取れる、と読み解くのは宮本常一氏です。

 蛇足ですが、この点、大和川の遡上は違いますね。河内湖から漕ぎ上るのは途中までで、勾配が急になると小舟に乗り換えて船曳きをしたり、それでもきつい時は舟から降りてボッカをしなければならなかったようです。


カヌー帆船による人類拡散「グレートジャーニー」
 第36回ブログで、南太平洋の島々(ポリネシアントライアングル)に新人が拡散した歴史に触れました。
 「グレートジャーニー」として東南アジアから分かれた一派は、紀元後になると、南太平洋の小さな島々に至り、タヒチには紀元後3世紀、ハワイには紀元後5世紀頃に、そして最後、9世紀から12世紀頃、ニュージーランドに定住してグレートジャーニーは終わる……。

 それにしても、太平洋の島々は孤島ばかりです。大型船や海図、羅針盤もない時代に、どのように遠洋航海をしたのだろうか。

 これら域内にある無数の島々は互いが数百キロも離れているため、人が漕ぐだけでは不可能でしょう。一度に大勢の人が移住することも不可能。おそらく推進力に優れた外洋性カヌーを帆走させて少数の集団が波状的に渡ったのでしょう。

 

 船体が細長く速度の速いカヌーは、原初的な航海手段です。舵や竜骨がなく丸太を刳り抜いてつくった原始的な構造です。
 ポリネシアントライアングルで使われたカヌーは、船底、左右の舷側、舳先、艫という5つの部材からなるのが基本。本体と舷側板はさらに数カ所に肋材を入れて補強するが、最も簡単なカヌーでは肋材を用いず、幅50センチの舷側板を2枚つなぐ程度のものになります。
 外板の継合せや、力材と力材、あるいは力材と板材を結合するためには、部材に穴をあけ、きわめて強い蔦で縫い合わせた
 当然、古代日本の丸木舟と同様に、淦(あか)の汲み出しという大きな負担が伴いました。

 この細長いカヌーの船底はV字型にして、なるべく水中に船足が深く入るようにします。この船底が平らだと、横揺れがひどくて帆走に耐えられない。つまりヨットのセンターボードのはたらきに相当するわけです。

 

 アウトリガーカヌーは、細長いカヌーの横揺れ安定性を向上させるため、船体から張り出した腕木の先端に縦方向の浮木を取りつけたものです。
 アウトリガーカヌーの分布域は、アウストロネージア語族の分布と完全に一致しており、ポリネシア人がこれだけの広い地域に拡散していったのは、安定性がありかつスピードもあるアウトリガーカヌーを航海に使ったからだと思われます。パドルで漕ぎますが長距離ではセイルをつけて帆走しました。

 船体の特徴は、アウトリガー側は丸いふくらみを持たせて外板を張り、反対側はほとんどふくらみを持たせず左右非対称になっていること。こうすることで、アウトリガーにかかる水の抵抗に打ち勝って船体はまっすぐに進めるわけです。

 帆走で特徴的なのは、アウトリガーは常に風上にあるようにして操船することです。この場合の浮木は浮力を補充するためよりは錘として、カヌーが風下側へ傾斜または転覆することを防止する役割を果たします。

f:id:SHIGEKISAITO:20200421105244j:plain <アウトリガーカヌーの一例>

 

 その後、さらに距離の長い遠洋航海では、2つのカヌーの間に板を張って連結し、そこに居室を乗せた双胴船(ダブルカヌー)が活躍します。大きなものは全長30メートルに達し、新天地開拓のため、食料や園芸植物、飼育する家畜などを載せて航海したと言われています。

f:id:SHIGEKISAITO:20200421104427j:plain<帆をつけたダブルカヌー(ネットから転載)>
 

 ヨーロッパ人が初めてポリネシアにやってきた18世紀後半にも、まだこの大型カヌーが残っていた模様。
 記録によると、何十人もの人間が乗船し、かなりのスピードで帆走するカヌーだったらしい。速度は時速15キロぐらいで、一日に160キロ程度の航行が可能だったようです。

 ダブルカヌーにより、ニュージーランドやイースター島へのはるか4000キロの航行が実現したのでしょう。また、このカヌーには人や食料だけでなく、家畜も積んで運びました。

 彼らは安定性のあるダブル・カヌーに帆をつけ、風の凪いだときにはオールで漕いで太平洋の島々を航海した。彼らは、海図、磁気コンパス、六分儀などを用いないで、潮流、波、風、星、太陽など自然現象をたくみに応用した独自の航海術をたよりに海への雄飛したのです。

 外洋航海用カヌーの建造には、多くの工程があるが、基本的には、竜骨部、船首、船尾、舷側板の部材を削り出し、それらに孔をあけ、合せ面にはヤシの繊維とパンノキの樹液を充填し、ヤシ紐で縛って組み立てた。舷側板の板張りは、どれも平張り方式で、鎧張りは見られない。

 建造の基本的な道具は斧と手斧だけで、常時7〜8人の働き手で、少なくとも6か月の日数がかかる。実際には、用材の乾燥の度合などを考慮して作業を進めるので、一艘の大型帆走カヌーを建造するには、1年半〜2年を要する。
 形状は異なるものの日本の古代の丸木舟を作るのと同様に、大変に工数がかかるようです。

 

参考文献
『ミクロネシアのカヌーの構造と建造』須藤健一
『オセアニアのカヌー研究再考』後藤明
『古代日本の航海術』茂在寅男