理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

113 トンデモ古代史


 今まで、4世紀の遠征物語は虚構(第98回ブログ)などと述べてきましたが、過去の事象が書かれた文献を調べる時は慎重であるべきとつくづく思います。

 過去の人が、さらに過去の事象を記録した文献には、過去の人の歴史感覚や価値観にマッチしたものだけが反映されています。過去の人が記録した文献をいくら懸命に紐解いてみても、さらなる過去の事象が明確になるとは限りません(第3回ブログ)。

 理系的視点から古代史をレビューしている筆者が、真っ先に排除すべきと思っているのはトンデモ古代史です。ここでは、今でも多くの人に支持されている事例をいくつか取り上げてみます。

トンデモ古代史の好例、徐福伝説
 紀元前3世紀に、徐福が大勢を引き連れて日本にやって来たという話は、伝承というより、むしろ伝説の類です。古代の史実が伝承されてきたのではなく、江戸時代になって新たにつくられた伝説なのです。

 まず『史記』秦始皇帝本紀には、「徐福らが始皇帝に、海中の三神山に神仙が住み不老長寿の霊薬があるので、斎戒した男女の子供を連れて探しに行かせてもらえるよう具申した。そこで始皇帝は童子童女数千人を与え、徐福を船出させ、霊薬を求めさせた」とあります。

 これが、徐福に関するオリジナルの記事ですが、その後、次々と尾鰭がついていきます。

 始皇帝が天下を統一後、徐福・韓終らの一派に多数の男女の子供を与え、神仙に向けて船出し霊薬を採らせたが、そのまま逃げて戻らず、天下の人々が恨んだ。

 船出した徐福は始皇帝に、海中の大神から言われたとして、名声ある男子と童女に様々な作業をさせれば霊薬を手に入れることができるという嘘をついた。始皇帝は大喜びして、男女の子供3千人、五穀の種や農耕機具を与えて行かせたところ、徐福は平原や広い沼地を手に入れるや、そこにとどまって王となり戻って来なかった
 徐福が王になったという話はここで初めて出てきます。

 さらに後の文献になると、徐福のたどり着いたところは、会稽の沖にある夷洲(東方の野蛮人の住む地)と亶洲(琉球?)だという言い伝えが現れ、ついにはどこにも書かれていないのに、徐福が日本に来たという伝説になります。徐福が日本に来たと記す初見は、10世紀のシナの文献『義楚六帖』です。

 

 以上より判断すれば、徐福が不老長寿の霊薬を求めるべきと始皇帝に具申したのは史実の可能性がないとは言えませんが、実際に船出して日本にまでやって来たというのは、ずっと後の文献になって現れる話で、考古学的証拠はありません。日本の各地に徐福の墓がたくさん出来てしまったのも、この伝説の不確かさを物語っています。

 熊野地方の新宮市には徐福ゆかりの史跡が数多く存在します。平安時代以降の熊野信仰の高まりの延長線で、江戸時代になってから徐福熊野渡来説が広まりました。

 徐福公園に建つ楼門は市のシンボルで、園内には徐福像や1700年代に建立された徐福の墓があります。また徐福が目指したという標高約38メートルの蓬莱山の麓に鎮座する阿須賀神社には徐福を祀った祠があります。

 この他にも、徐福ゆかりの地としては佐賀市、延岡、串木野など全国に散らばっています。

 普通ならそれで終わりですが、日本の徐福伝承はとんでもない方向にエスカレートします。

 稲作や漢字をはじめ数々の先進文化を日本に伝えたのは徐福である。

 日本人は徐福の子孫である。

 しかし日本最古の水田稲作は紀元前10世紀頃に始まっている可能性があり、始皇帝や徐福の時代より700~800年も前のことになります(第60回ブログ)。

 また現在発見されている、4世紀頃までの出土品に見られる漢字には単なる装飾以上の意味はなかったとされています。本格的な文章を書いた最古の遺物は、今のところ4世紀後半のものとされる石上神宮の七支刀の銘文です。
 5世紀後半頃から日本も本格的に漢字を用いる時代になったと考えられています(第9回ブログ)。つまり徐福の時代から800年たっても漢字文化が日本に根付いていなかったわけで、日本の漢字文化の発祥を徐福に求めるのは無理があります。

 また、徐福が連れて行ったのが「童男童女数千人」であることからも、徐福が移民をもくろんで船出したとは考えられません。子供だけを連れていったのは、清浄な子供を神仙への供物にするという宗教的な意図があったためで、神仙術を使う徐福が不老長寿を願う始皇帝に取り入ったということに尽きるでしょう。行き着いた日本で王になり子孫が日本人になったという伝説は尾鰭も良いとこです。

 このように徐福が日本へ来たという根拠は、『史記』の中から都合のよいところだけを切り取って作り上げられた伝説の類であって、学問ではやってはならない禁じ手です。

 徐福が日本に行ったとか目指したとはどこにも書かれていない上に、徐福が日本にいたという確かな物証は何も出ていないのですから、実際に徐福が日本に来た可能性は極めて低いと判断せざるを得ません。たとえ日本に漂着していたとしても、単なる漂着民で終わり、その後の日本に何らかの影響を与えることもなかったことでしょう。

 徐福来日説を熱心に唱えるこうした人々は、神話や伝説が事実を反映したものと思い込んでしまっているところに問題があります。神話や伝説は史実かどうかに関係なく、人々が心の中で現実だと信じている物語のことです。

 

 多くの古代文献は、神話と歴史がない交ぜになっているのが特徴であり、どこで線を引くかは慎重の上にも慎重を期さなければなりません。この種の話には史料批判の精神がすっぽり抜け落ち、安易な議論ばかりが渦巻いています。

 神話や伝説はそれが語り伝えられた時代の社会や、語り伝えた人々とのかかわりにおいて考えるべきものであって、他の根拠もなくそれ自体を史実と見なすのは極めて危険な行為といえます。

 ただし、神話・伝説が史実でなかったとしても、そのことが、値打ちがないことを意味するものではありません。伝説は伝説のままでも十分楽しめるものです。

 筆者も、熊野三山を訪れた時には、あまりにも立派な徐福顕彰の史跡に触れて徐福伝説が熊野の地にしっかりと根づいていることに驚きを覚え、しばし感慨にふけりました。

 
 <徐福公園の徐福像>


 <徐福公園入口の極彩色の楼門>

 ここでは、日本の徐福伝承の多くは、江戸時代に朱子学がさかんになったことで人々のシナへの関心が高まり、新たにつくられたものだということを確認しておきたいと思います。

 

学者やマスコミが作るトンデモ古代史
 一部の学者とマスコミが一体となってトンデモ古代史を作りあげた代表例として『東日流外三郡誌』と「九州王朝説」を取り上げてみます。
 まずは『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)から。

 『東日流外三郡誌』は、青森県五所川原市在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」古文書として1970年代に登場します。

 三春の領主であった秋田孝季と和田長三郎吉次(喜八郎の祖先と称される人物)が、江戸時代に日本全国、さらには海外まで行脚して収集した資料に基づいて編纂したとされています。この他にも多くの資料が編纂されていて、それらを総称して和田家文書と呼ばれるようです。

 数百冊にのぼるその膨大な文書には、古代の津軽(東日流)にはヤマト王権から弾圧され存在を抹消された東北王朝の文明について書かれているようですが、筆者は読んでいません。その内容を原田実氏や他の研究者の著作から引用して以下に記してみます。

 古代津軽には、岩木山を本拠とするアソベ族が暮らしていた。文化程度の低い未開部族ながらも温厚なアソベは平和に暮らしていたが、岩木山が噴火して絶滅しかかったところにツボケ族というツングース系の好戦的で残虐な種族が海からやって来てアソベ族を虐殺し、津軽はツボケ族の天下となった。

〇 そこに春秋の動乱を逃れて古代シナの晋からやってきた郡公子の一族と、神武東征で追われたナガスネヒコの一族が混交し、アラハバキ族という新しい民族が生まれた。

 アラハバキは彼らが奉じる神の名で、遮光器土偶はアラハバキ神のご神体である。その王家の祖はナガスネヒコの兄の安日彦(あびひこ)である。

 アラハバキ族はヤマト王権と争い、しばしば大和を征服してアラハバキ族出身の天皇を立てた。神武崩御の後、アラハバキ系の手研耳命(たぎしみみのみこと)は大和を支配すること3年。懿徳(いとく)天皇崩御の後、アラハバキ軍が南下し空位ならしめた。その後、アラハバキ系の孝元天皇を擁立して大和を間接支配した頃、不老長寿の秘薬を求める秦の始皇帝の使いとして徐福が津軽を訪れた。津軽の文化がシナに似ているので驚いたという。

 アラハバキ族はやがて衰え、蝦夷という蔑称で呼ばれた。

 アビヒコの子孫の阿倍氏から安東氏が出て、十三湊を拠点に水軍として栄え、安東水軍の足跡は朝鮮やシナだけでなく、インド、アラビア、エジプトまで及んだ。十三湊は、安東氏政権(安東国)が蝦夷地に存在していた時の事実上の首都と捉えられ、欧州人向けのカトリック教会があり、シナ人、インド人、アラビア人、欧州人などが多数の異人館を営んでいた。

 安東水軍は1340年の大津波で壊滅した。

 以上のように、『東日流外三郡誌』には、古代の津軽を拠点にヤマト王権と敵対し続けたアラハバキ族の歴史が綴られており、その記述は『記・紀』にも記されていない独自のもので、事実なら大発見と言う代物です。

 しかし、考古学的調査との矛盾、史料に登場する用語の新しさ、発見状況の不自然さなどから、現在は偽書との評価で確定しています。

 おおむね、このような荒唐無稽の内容で終始しているのですが、1980年代にはオカルト雑誌のみならず、NHKや歴史雑誌などでしばしば取り上げられるようになり、古田武彦氏が和田家文書を支持すると宣言するや、バブル人気を迎えます。しかしその後、各方面からの偽書であるとの指摘に対して、有効な反証ができなかったため、一時の熱狂は冷めてしまっています。

 『東日流外三郡誌』は、東北地方の伝承に大きな傷跡を残したようです。郷土史や観光案内などで『東日流外三郡誌』に基づいて地元の歴史や伝承を書いてしまった例は多く、さらにそれが孫引きされるあいだに『東日流外三郡誌』が出典であることが忘れられて古くからの伝承として定着してしまった例もあるようです。

 このような偽書がなぜ多くの人の支持を得、今も少数とはいえ信奉者を保ち続けているのでしょうか。

 原田氏は、マスコミが自治体と連携して『東日流外三郡誌』を大きく取り上げたことが大きいとし、杜撰な偽書でもマスコミの力を借りれば大きな影響力を持ち得るとしています。

 

無理のある九州王朝説
 シナの正史『宋書』倭国伝には、5世紀に日本から遣使した5人の大王の名が記されています。賛・珍・済・興・武と呼ばれる5人です。

 これを『日本書紀』に登場する古代の天皇にあてはめる試みは多くの研究者によっておこなわれてきましたが、在位時期や系譜がきちんと対応する組み合わせは成立せず、多くの解釈が存在します。

 1973年に古田武彦氏が著した『失われた九州王朝』は、正面からこの疑問に答えるもので、倭の五王は皇室の祖先ではなく、九州王朝の大王だったというセンセーショナルな内容です。

 筆者は、4~5世紀のヤマト王権はすでに近畿中心に大きな勢力に成長していたが、それとは全く別に、九州の一部の地域国家を「倭」と呼んでいたとすれば、ひょっとしたら古田説もあり得るかな……とも考えてみるわけです。

 しかし、この九州王朝説はこのあとに、もの凄い続きがあります。

 九州王朝は、3世紀ないしはそれ以前から7世紀まで一貫して日本列島を代表する権力だったと……。そして九州王朝は663年の白村江の戦いで唐に敗れて勢力を失い、672年の壬申の乱で天武天皇によって滅ぼされたと言うのです。これにはさすがに仰天してしまいます。

 また、熊襲は九州王朝そのものであるとも言い切っています。

 江戸時代にも倭の五王は熊襲だという説がありましたが、これは皇室がシナに朝貢などするはずがないという思想から生まれたものですが、古田氏はこれを逆手にとってシナへの朝貢を行なったなら、熊襲こそが正当性を保証された日本の王権と言えるとしています。そして天皇家は当時の一豪族に過ぎなかったと言うのです。

 この九州王朝説は、極めて多くの支持を集めることになります。古田氏の著書の多くはロングセラーになり、今なお多くの熱狂的ファンが存在します。

 それは、古田氏が『邪馬台国はなかった』をはじめとして、邪馬台国論争の一方の旗頭として、すでに多くの古代史愛好家の人気を集めているからでしょう。

 古田氏は、近畿で見つかった七支刀や隅田八幡神社(すだはちまん)の人物画像について、九州王朝の遺物に認定するという無茶をやっていますが、九州王朝説から50年以上たっても、肝腎の九州の地からは九州王朝の実在を証明するような遺物は見つかっていません。

 4、5世紀における近畿地方への富の集中は決定的で、考古学的にも近畿こそが当時の日本列島の権力の中心であったことは裏づけられており、古田説はファンタジーが過ぎるというものです。

 倭の五王と『記・紀』の天皇の関係については、興味があるので、当ブログでも論考してみるつもりです。いつになるか……。

 

 古田氏については、過去に、縄文土器の文様が南米エクアドルのバルディビア遺跡の土器と同じであるとして、「倭人南米交流説」を打ち出し、エクアドル付近は『魏志倭人伝』に記された「裸国・黒歯国」であるとして注目を浴びました(第34回ブログ)。

 結局、日本の縄文考古学者が現地で土器の文様を調べた結果、バルディビア土器と縄文土器の文様は、偶然としてもあり得る程度の類似を示しているにすぎないとして同説は顧みられなくなりました。さらにバルディビア遺跡が南米最初期の土器文化だという想定そのものも調査の進展で破綻してしまっています。

 古田氏は目立つためには何でもありという考古学者です。

 著名な考古学者が、なぜこういう過ちを犯してしまうのでしょうか。

 原田氏は、「日本列島の縄文文化と、その同時代の古代南米文化は、直接の交流なしにそれぞれ独自の発展を遂げたものと見なすべきだろう。だからこそ、両者に部分的な共通性があるとすれば、そこに人類の普遍的な思考を読み取ることもできる」と言います。

 このような過ちは、偶然かもしれない考古遺物の外形的一致(完全ではなく、ほぼ一致)だけで、センセーショナルな方向へと引っ張っていくいささかジャーナリスティックな考古学者の姿勢にあるのでしょう。
 纒向でベニバナの花粉や桃の種が見つかれば、大した検証もなく邪馬台国や卑弥呼の鬼道に結びつけてしまうことも同根でしょう。このような考古学者たちには理系的な視点が欠落しているとしか考えられません。

 古田氏の膨大な著作は、『古代史コレクション』などにまとめられているので、筆者も図書館から何度かに分けて借りてみましたが、精緻な割に突飛な言説が目につき、そのことが邪魔をしてとても読み切れるものではありませんでした。
 エッセンシャルな部分には独自の思い込みがあり、ほとんどトリビアの事象を繋ぎ合わせているだけのような気がします。
 理系的視点で記された著作でないことだけは確かです。

 

学界ですら組織的に真の古代史を捻じ曲げる!
 筆者はこれまで学界のピラミッド構造を批判してきましたが、その学界においてもトンデモ古代史と思しき事例は多く見受けられます。

 ここでは、学界で定説化しているかのようで、実はトンデモ古代史の片棒を担いでいるのではないかと筆者が考えている事例を4つだけ並べてみます。今まで詳述しているので内容は繰り返しませんが、筆者の考えを記したブログのナンバーだけ記しておきます。

1 前方後円墳体制説( 第18回ブログ)。

2 邪馬台国は纒向の地で決まり!(第70・71・73回ブログ)

3 三角縁神獣鏡は卑弥呼に下賜された魏鏡である(第74回ブログ)。

4 箸墓古墳は3世紀半ばの築造である(第84・87・90回ブログ)。

 

 さらに、筆者にとっては常識の範疇ですが、次の2つもトンデモ古代史のネタとして使われています。

〇 4世紀以前から瀬戸内海は九州と近畿を結ぶ物流の大動脈だった。これは、技術や文化が西から東へ伝播した証拠があるので、瀬戸内海の大規模船団航行も可能だったという早とちりに過ぎない(第57回ブログなど)。

〇 5世紀以前にも遠地への征服戦争はあったし、朝鮮半島にも大軍が渡海した(第38回~58回、第109回~112回ブログ)。

 これら2つに関連して、播田安弘氏の興味深い論文を見つけたので、今回のブログの最後で言及します。

 

 学問においては、思いつきのような仮説が幾つかの証拠の積み重ねを経て定説に至ることは当然のプロセスと言えますが、このことが考古学界では必ずしも当てはまらないようです。

 工学博士の新井宏氏は、次のように言っています。

〇 有力な仮説があるとみんなで引用する。みんなが引用するから、おそらく正しいのだろうと次の研究者もそれを引用している内に仮説がいつのまにか定説になる。それに異を唱えるアマチュアがいると冷笑を浴びせる。かくして定説が肥大化する。

 考古学界は必ずしも開かれてはいないように見受けられる。旧説を守ろうとする力が最も強いのが考古学界で、新学説を無視しては、在野のアマチュアに大きな業績を持っていかれている。他人の「持ち歌」は歌わぬ風習があるので、必要がなければ他人の研究に口を出さない。特に特殊知識を持つ専門家は、一般考古学者からの厳しい批判に晒されることが少なく、過去の間違いを修正できずにいる場合がある。

 

 前述の4つの事例は、学界でも白黒が完全には定まっていませんが、遠くない将来、九州王朝説や徐福伝説のように嘲笑を浴びる結末が待っているのではないでしょうか。
 特に邪馬台国イコール纒向説は、その影響力からみて、旧石器遺跡捏造事件(2000年に発覚)に匹敵するような問題をはらんでいると考えます。

 

炭素14年代測定法は科学的だが、恣意的な解釈に問題あり!
 「炭素14年代測定法」は、文字や暦のない時代に存在した遺跡や遺物の年代を調べるのに威力を発揮すると言われています。

 炭化物のうち「炭素14」は、約5700年で半分が放射線を出しながら窒素に変化する二酸化炭素同位体です。

 生物は生きていくために外界から炭素14を取り入れているので、空気中と体内の炭素14濃度は変わりません。しかし、生物が死ぬと外界からの取入れが止まるので、体内に残っている炭素14濃度を調べると、いつ頃死んだのか分かるというわけです。

 考古学では、土器に付着したススなどの炭化物や、遺跡から発見された動物の骨や焼け焦げた木片(炭)などを「炭素14年代測定法」で調べれば、それらが死んだ年代が推定できるわけです。

 原理はそれほど難しくありませんが、測定された数字をそのまま使って良いのかというと、炭素14年代は年によって生成される炭素14の量が大きく変動するので、実際にはズレを較正する必要があります。

 考古学者は、前方後円墳の築造時期を前倒ししたがる傾向があります。
 100年くらいの誤差は容易に出てしまうので、例えば箸墓古墳が3世紀半ばに造られたと言ってみても、実際には4世紀前半に築造された可能性の検証をすっ飛ばしているだけの砂上の楼閣みたいなものでもあります。測定誤差100年の部分をどうハンドリングするかは考古学者の手の内にあります。

 

 炭素14年代測定法はおおむね科学的な年代測定法といえますが、現実にはいろいろ問題があります。

 例えば古墳の年代を推定するために、古墳で見つかった木片の測定試料が実際には、かなり古い時期に伐採されて焼かれたものであったりすると、古墳の推定年代は古くなってしまいます。また、周濠から出土する土器を古墳推定年代の根拠にするのも無理があります(第84回、第92回ブログ)。

 他にも専門的な問題がさまざま提起されています。私たちは、ひょっとしたら都合よく発表された一見科学的な年代推定に騙されているのかもしれません。

 箸墓古墳は最古の前方後円墳と位置づけられている現実があります。もしかしたら、箸墓古墳が古墳時代の幕開けを告げるエポックメイクとして位置づけられているのは、そうありたいという考古学界の願望から出てきたものであって、真に科学的な意味での合理性はないのかもしれません。実際、纒向遺跡内にある古墳は築造年代が明確でないものが大半なのです。箸墓古墳だけが明確に?……。

 私たちは、大和盆地から生まれた勢力が8世紀に律令国家を築くという後世の歴史を知っているから、4~5世紀にかけて、前方後円墳を巨大化させてシンボリックなモニュメントに仕立て上げたヤマト王権が、3世紀の時点からイニシアチブを握っていたと考えたいバイアスが働いているのではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、「炭素14年代測定法」には測定誤差があるため、箸墓古墳の築造が3世紀半ばであるというのは、もっとも古い時期を採ればそうなるというだけの軽薄で強引な解釈に過ぎません。
 箸墓古墳の年代を3世紀末から4世紀前半とする妥当性は必ずしも否定されていないのです。

 先般、『椿井文書』という新書版の本を読みました。かつてない規模の偽書で、つい最近まで、いや今でも近畿一円の広範囲に、この古文書に基づく歴史が定着しているというのですから、ここで取り上げてみたい衝動がありますが、中世が対象なのでやめることにしました。

 

追記 播田安弘氏の興味深い論考
 播田安弘氏の著作に「蒙古軍はなぜ一夜で撤退したのか」という論考があります。興味深く読みましたが、その中に、停泊中の船は風や波によって大きく動くため、通常は船首から投錨した錨を中心にして360度の触れ回りが可能になるようにする、とありました。
 軍船がすべて同じ方向に向くと仮定して、蒙古軍船の大きさ(28メートル)では1隻について200メートル四方の面積がほしいが、それが無理でも100メートル四方は必要と言います。

 これを基に、4、5世紀頃、準構造船が登場する前の日本船の大きさを12メートルで10人乗りと仮定して試算してみましょう。
 瀬戸内海や朝鮮海峡を進軍する大軍を仮に1000人程度とした場合、船団の規模は100隻となってしまいます。
 この場合、そこそこの大きさの船体が船団を組んでいるので、3、4世紀まで当たり前だった浜に引き上げて停泊することも出来ず、岸辺から沖に停泊することになります。

 そこで、錨(木製または石製なので碇?)を投下して停泊するわけですが、蒙古軍船の例に倣えば、1隻につきほぼ50メートル四方の停泊面積を要します。

 投錨のため、海岸に平行に20隻並べれば奥行きは5列となり、海岸に平行に幅1キロメートル、奥行250メートルの停泊面積となります。また海岸に平行に10隻並べれば奥行き10列となります。しかしこれだけの船団が一度に寄港できる広い港津は、当時は存在しません(第57回ブログ)。

 しからば、海岸に平行に5隻だけ並べれば250メートルの幅で済みますが、奥行きは20列となり、海岸から1キロメートル先の停泊になってしまってはそもそも停泊の意味をなさず、また外洋の影響を回避できません。

 こうしたことからも、港津の整備が整う前の大規模船団の航行は考えられないと言えそうです。播田氏による蒙古船での試算がそのまま援用出来るのかという懸念は残るのですが......。

 

参考文献
『誤りと偽りの考古学・纒向』安本美典
『偽書が揺るがせた日本史』原田実
『捏造の日本史』原田実
『理系の視点からみた考古学の論争点』新井宏
『天孫降臨の夢』大山誠一
『古事記神話の謎を解く』西條勉
『陰謀の日本中世史』呉座勇一
『海洋の日本古代史』関裕二
『日中韓の古代史』武光誠
『日本史サイエンス』播田安弘