理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

114 謎の4世紀 ヤマト王権 vs 九州王権

 4世紀と言えば、古代天皇の在位(第19回ブログに準拠)でみれば垂仁から応神までに相当しますよね。
 この間、『記・紀』では、景行の西征、ヤマトタケルの征討、朝鮮出兵、応神による政権奪取などが記されていますが、どうして「謎の4世紀」と呼ばれるのでしょうか。

なぜ、「謎の4世紀」と呼ばれるのか?
 「謎の4世紀」は、古代シナの史書で日本列島の記録が266年から413年まで(崇神から仁徳までに相当?)すっぽり抜け落ちているために、生まれたフレーズです。

 古代シナの文献では、3世紀の邪馬台国や卑弥呼については『魏志倭人伝』に紹介され、『宋書』には5世紀に朝貢した「倭の五王」のことが記されています。しかしその間の4世紀についてはシナの史書に日本の記事がないのです。

 当時のシナは、魏・蜀・呉の三国時代が終わり、265年から続いた西晋も異民族の侵入で滅び、南下して江南の地で東晋を建てます。その江南では、東晋のあと420年にが建ちますが、華北では5種類の民族が16の国を建てて相争う五胡十六国という動乱期が続きます。その後、華北では鮮卑が北魏を建てて強大化、次第に南朝を圧迫していきます。すなわち、4世紀のシナは南北朝の対立が激化する時期であったため、江南にあった宋が日本に目を向ける余裕がなかったという事情も考えられます。

 日本国内でも、ヤマト王権内部で権力闘争が続き、一国を代表する王を建てられず、遣使が出来ないという事情があったのかもしれません。

 いずれにしても、日本側の史書である『日本書紀』には、年代を修正してみれば、4世紀の出来事がきちんと記されているので、「謎の4世紀」というのは少々おかしなことになります。

 大東亜戦争後、古代史学界がそれまでの皇国史観への反動から雪崩を打って左傾化し、『記・紀』を史料として使えないものとしてしまいました。『記・紀』に書かれた多くの事象は史実ではなく創作だとされてしまったのです。

 当ブログでも、4世紀頃の『記・紀』の記載内容については、史実でない部分が相当あると考えています。第3回ブログでも述べた通り、確かに『記・紀』が編纂された7世紀末から8世紀は、国家の仕組みが整いつつある時期で、古代からの数多くの伝承のうち、当時の政権中央の歴史感覚にマッチするものだけが受け入れられたというバックグラウンドを無視するわけにはいきません。

 しかし『記・紀』には、どこまでが史実であるかという懸念はあるものの、4世紀の出来事はきちんと書かれているのです。シナの歴史書に出てこないから、即ち「謎」と言い切ってしまうのは実におかしな論法です。

 このおかしな論法は、シナの文献を金科玉条の如く崇め、他の古文献には目もくれない片寄った研究者たちが唱えたものです。

 

「謎の4世紀」を紐解くには?
 しからば『記・紀』の4世紀の記事に信頼がおけず、さらにシナの史書にも記載がないから、「謎の4世紀」は永遠に謎かといえば、そんなことはありません。

 4世紀の日本列島については、朝鮮の史書『三国史記』や「広開土王碑」に記載があり、しかも、『三国史記』は12世紀の資料ですが、「広開土王碑」の方は414年に建てられた同時代史料です。

 そして、ここが重要なのですが、8世紀に成立した『記・紀』と、『三国史記』、「広開土王碑」碑文の3つの史料は、4世紀末から5世紀初めにかけて、日本が朝鮮半島に軍事的進攻をしたという歴史的事実を一致して伝えているのです。

 荒山徹氏は、来歴を異にする3つの史料は共観的であるとして、「謎の4世紀」は正しくは「謎の『謎の4世紀』」と言うべきだと皮肉を込めています。

  「謎の4世紀」は実は日本が朝鮮半島に活発に軍事進出し、また交渉した時代であったと言えそうです。

 ただし、4世紀の前半までは、ヤマト王権にしても、半島南部の伽耶地域諸国や百済にしても、広大な版図をもつ強国ではありません。

 日本各地に盤踞していた筑紫、出雲、吉備などが、半島南部の諸国と思い思いに通交していたと考えられます。物流上からも地域勢力の実力上からもヤマト王権を介在させる必要はなかったのです。

 この時期、ヤマト王権も、「ふる」「わに」地域の王を介在させて百済・新羅・伽耶諸国との通交を開始したと考えられます(第91回ブログ)。

 これら半島南部との通交に使われたのは博多湾沿岸に位置する西新町遺跡で、博多湾交易と呼ばれています(第64回ブログ)。

 しかし4世紀後半になると、この構図が明確に変化し、西新町遺跡が急速に衰退します。
 それまで間接的に朝鮮半島に関与していたヤマト王権が、九州北部の交易機構を介さずに直接、半島南部、とりわけ伽耶との交易に乗り出したのです(「さき」の王権、第95回ブログ)。
 伊都国・奴国を介在しない新たな「海北道中ルート」(響灘、沖ノ島、壱岐、対馬を結ぶ)が機能し始めたと見られます(第64回ブログ)。
 そして、響灘から対馬や朝鮮半島へ向かうルート上に浮かぶ沖ノ島で祭祀を行なうようになります。

 5世紀前半にはヤマト王権に一定の影響力を持っていた葛城と吉備の勢力が、5世紀半ば頃から外交方針をめぐって王権と対立するようになります。ヤマト王権は沖ノ島祭祀の発展とともに岡(遠賀川河口域)で海神信仰を奉じていた宗像と強力に結びつき、これがヤマト王権に一層の隆盛をもたらすことになります。

 

 ヤマト王権は、当時、南下政策を取り始めた高句麗が百済や新羅を倒せば大きな脅威となるので、それを阻止するために朝鮮半島への介入は必要と考えたのでしょうが、半島を占領するまでの意図はなかったと思われます。

 鉄の産地である朝鮮半島南部の権益を維持することはもちろん、百済や伽耶などの勢力との関係を維持することで、高句麗やシナが日本へ侵攻することを防ぐことが狙いだったと考えられます。

 次項で、「九州王権」の存在とその盛衰について言及しますが、これも朝鮮半島との関係を離れては語れません。

 4世紀の朝鮮半島との関係ついては、この先のブログ(5世紀以降)でも必須の情報となるので、出来れば次回のブログで、朝鮮半島の歴史と日本列島との関りを5世紀頃までを見通して通史的に確認してみたいと考えています。

 

九州王権
 というわけで、「謎の4世紀」には、ヤマト王権の九州北部への進出という歴史的出来事があるわけですね。

 景行、ヤマトタケル、仲哀、神功が九州に遠征したという伝承はあるのですが、どれも寓話的で怪しい。しかし沖ノ島祭祀に大和地域の影響が見られることや、朝鮮半島で倭系遺物(第97回ブログ)が出土していることから、4世紀後半にはヤマト王権が九州北部に足掛かりを設けたことは間違いないと言えるでしょう。

 当然、それまでの九州北部にはヤマト王権とは関係しない「九州王権」とでも言うべき権力が存在していたかもしれないので、少々そちら方面の事情を探ってみたいと思います。

 ここで言及する「九州王権」は、前回のブログで言及した古田武彦氏の「九州王朝」とはまったく異なります。

 邪馬台国が九州北部に存在したことが前提となりますが、「九州王権」は、その邪馬台国の王権があったと思われる2世紀頃から、ヤマト王権が九州北部に橋頭保を設ける4世紀半ばまでの間に存在した勢力のことです。これはなかなか古文献からは読み解くことが困難なのですが……。

 筑紫地域の政治勢力については、第111回ブログでも言及しましたが、今回は、筆者が虚構であると断じた『日本書紀』における景行、仲哀・神功の遠征物語の記述から、4世紀頃の九州の勢力図を読み取れないか、無理を承知でチャレンジしてみようというわけです。各地の首長名についても、当時、本当にそのような名前が存在したのか分かりませんが、各勢力間の確執についてある程度のイメージは汲み取れそうです。

 参考にしたのは若井敏明氏の『謎の九州王権』です。

 『日本書紀』の景行、仲哀・神功による九州遠征から読み取れることは、4世紀の九州北部は、卑弥呼が共立された邪馬台国連合・伊都国連合の時代(第63回・72回ブログ)とは様変わりで、いくつもの小国家に分裂していたという実態です。

 豊前では、ヤマト王権に帰順した神夏磯媛(かみなつそひめ)と、内陸部の要害の地に住む鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という4人の賊が対立していた。

 豊後では、帰順した速津媛(はやつひめ)と、内陸部の直入・大野に蟠踞した5人の土蜘蛛とが対立していた。

 九州中部の熊の国は狗奴国があった地域と考えられるが、熊津彦という兄弟がいて、兄は帰順し弟は抵抗し殺されている。ここから何を汲み取るかですが、狗奴国自体が内部対立を抱えていたと考えることもできる。

 仲哀・神功の遠征では、九州北部の遠賀川河口部を本拠とした岡県主の祖が帰順し、次いでかつての伊都国につながる伊覩県主の祖、五十迹手(いとで)が帰順している。つまり、九州北部の沿岸地域では東に岡の勢力、西に伊都の勢力があって二分される状態にあったと考えられ、九州北部全体を統括する王権の存在は認められないと解釈できる。

 また、羽白熊鷲(はしろくまわし)に率いられた有明海沿岸地域は、仲哀に抵抗し続けたが、その後を継いだ神功によって討たれる。残る山門(やまと)では神功の軍が土蜘蛛・田油津媛(たぶらつひめ)を誅し、兄の夏羽軍は逃亡したとされる。

 以上から、九州北部沿岸地域では、岡と伊都の二大勢力があり、有明海・筑後平野地域では、夜須の羽白熊鷲と山門の田油津媛・夏羽の二大勢力にまとまっていたことが汲み取れるのではないか......。

 3世紀の九州王権は卑弥呼や壱与の勢力だったという前提ではありますが、彼らは共立されているので、強力な中央集権の権力ではなく、もともと独立色の強い勢力の集まりだったと考えられます。

 そして、ヤマト王権が九州北部に足掛かりを設けた4世紀半ば頃になると、いくつもの小国家に分裂したブロック化状態となっており、その弱体化した隙間をヤマト王権につかれたということでしょう。もっとも、ヤマト王権がアプローチしたのは当初、宗像・岡という狭い領域に過ぎなかったわけですが......。

 九州王権と言っても、単一の強力な王権が九州北部全域を支配していたわけではなく、独自色の強い幾つもの首長勢力が、「もやーっ」と纏まっていた、そこをつかれたわけですね。

 以上、かなり想像を交えた九州王権の姿となりますが、こうした4世紀頃の豪族(首長)割拠の状況が7、8世紀頃の政権中央にまで伝わり、『日本書紀』の物語として描かれた可能性を否定することはできないでしょう。

 

新羅との断交が招いた九州王権の弱体化?
 『三国史記』新羅本紀には、「倭国と交聘す」と書かれた300年から新羅と倭国(九州北部と考えたい)との間に友好関係が続いていたが、345年に新羅と倭国が断交する記事があります。

 この記事を是認するとすれば、4世紀初頭に新羅から遠く離れ、しかも畿内近隣の足固めに急を要していたヤマト王権が新羅と友好関係にあったとはとても考えられないので、ここで言う「倭国」は九州北部地域のクニを指すと考えた方が合理的とも言えます。

 4世紀初頭はまだ西新町遺跡が隆盛していた時期です。筑紫をはじめとして、出雲、吉備など各地に割拠した勢力が、西新町遺跡を結節点として、思い思いに百済・新羅・伽耶諸国と通交していたと考えられます。物流上からもヤマト王権を介在させる必要はないのですが、そのヤマト王権も、「ふる」「わに」地域の王を介在させて通交を開始した時期と考えられます。

 筆者は邪馬台国九州説ですが、3世紀を通して玄界灘諸国と有明海沿岸諸国が卑弥呼・壱与(いよ)を共立し、シナの史書には登場しませんが、その後もしばらくその勢力が続いていたとすれば、彼らは新羅をメインに半島南部と交易を続けていた可能性が高いとも考えられます。

 4世紀半ば、九州北部勢力と新羅の友好関係が崩れたことで、玄界灘沿岸連合と有明海沿岸連合との結束にもひびが入り、4世紀半ばのヤマト王権につけ入る隙を与えてしまったとも考えられます。
 朝鮮半島との通交に際し、有明海沿岸勢力は、玄海灘経由よりもむしろ、有明海から島原半島と天草の間を抜け、五島列島と松浦半島の間を北上して対馬に至る独自のルートを利用していたと思われます。
 そして有明海沿岸勢力には、5世紀後半以降、朝鮮半島西南端部の勢力との濃密な関係がみられるので、この先のどこかで言及してみたいと考えます。

 4世紀半ば以降は、ヤマト王権と百済の親密な関係(第91回・112回ブログ)がクローズアップされますが、それ以前は、ヤマト王権と新羅の関係はむしろ疎遠で、九州北部勢力と新羅との親密な関係が続いていたと考えることは決して不自然ではないと思います。この見立ては無理筋でしょうか?いかが?

 

 次回から5世紀を中心に紐解いていきます。主としてヤマト王権の河内進出と技術革新に焦点を当てますが、同時代の地方の勢力(地方国家の首長、王、地方豪族)についても可能な限り確認していきたいと思います。

 今までのブログで確認してきたように、4世紀から5世紀前半の交通インフラを考えると、通説とは異なりますが、どうしても日本海側を軸にした古代史とならざるを得ません。俎板に載せられる瀬戸内海は、せいぜい東部に限られるでしょう。瀬戸内海側の攻防が意味を持ってくるのは、5世紀後半の雄略以降のことになります。
 

 5世紀の古代史を語るには、朝鮮半島との交渉を正しく認識することが欠かせないので、まずは、そこから。
 次回以降、ドラマチックで面白くなりますよ。

 

参考文献
『秘伝・日本史解読術』荒山徹
『倭国の古代学』坂靖
『ヤマト政権と朝鮮半島 謎の古代外交史』武光誠
『捏造の日本史』原田実
『国際交易の古代列島』田中史生
『謎の九州王権』若井敏明
『海の向こうから見た倭国』高田貫太
他多数