<菜の花>
第38回ブログで言及した潟湖について、もう少し掘り下げてみます。
潟湖は砂州によって外海との出口をふさがれた湾のことで、海跡湖またはラグーンとも呼ばれます。
交通の要衝地であった潟湖の周辺は、比較的広い平野が形成されているため、古くから生活の場としても発展してきました。
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<菜の花>
第38回ブログで言及した潟湖について、もう少し掘り下げてみます。
潟湖は砂州によって外海との出口をふさがれた湾のことで、海跡湖またはラグーンとも呼ばれます。
交通の要衝地であった潟湖の周辺は、比較的広い平野が形成されているため、古くから生活の場としても発展してきました。
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紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代を俯瞰する場合、縄文時代からの気象と、その気象がもたらした影響を頭に入れておく必要があります。
現代人の私たちが目にする風景(地形)と明治時代より前の風景(地形)は別物です。
ましてや6、7世紀より前の地形は縄文海進の影響を強く残しているはずです。現在の平野はその当時どんな状況だったのか、陸上交通はどのようなレベルだったのか、その姿をある程度イメージしておかないと5世紀以前の古代史は語れません。
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今回から数回かけて、日本列島に関する、その特異な地形、大陸からの過不足ない絶妙な距離、縄文海進の名残、点在する潟湖などについて掘り下げてみます。古代史を論じる場合には、これらを避けて通ることはできません。立ちはだかる自然そのものが古代人の活動に大きな枠をはめた事実を確認し、「理系脳」の視点で古代史を俯瞰する出発点とします。
<荒れる海>
前回のブログからの続きで、日本列島人の来歴を民族、人種の観点から紐解いてみます。
縄文から弥生への移行は平和裏に進んだ
最近の学説では、紀元前10世紀頃、水田稲作の技術が長江下流域の江南から九州北部と朝鮮半島南部に伝わり、日本ではこれを弥生時代の開始としています。
この時代に生きた人たちを弥生人というわけですが、ここで復習……。
はたして、縄文人だけだった日本列島に突如、弥生人が大勢やってきて弥生文化に染めあげたというのでしょうか。
第27回のブログでは、3万年前の航海を再現する実験考古学について言及しました。ホモサピエンスが南西諸島方面から日本列島へと航海した謎を解くためのプロジェクトでしたね。
ここであらためて、日本人の祖先はいつ頃どこからやってきたのか、その歴史を、2回に分けて概観してみたいと思います。
当ブログは「紀元前2世紀頃から紀元後6世紀頃まで」を対象にしているのですが、大和政権成立までのプロセスにおいて、弥生人による縄文人駆逐説、騎馬民族征服説、徐福渡来説、古代朝鮮優位説などがいまだに語られることも多く、弥生時代以前からのひと模様に言及することを避けて通れないと思うからです。