理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

36 日本列島人はどこからやって来たのか(1)

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 第27回のブログでは、3万年前の航海を再現する実験考古学について言及しました。ホモサピエンスが南西諸島方面から日本列島へと航海した謎を解くためのプロジェクトでしたね。

 ここであらためて、日本人の祖先いつ頃どこからやってきたのか、その歴史を、2回に分けて概観してみたいと思います。
 当ブログは「紀元前2世紀頃から紀元後6世紀頃まで」を対象にしているのですが、大和政権成立までのプロセスにおいて、弥生人による縄文人駆逐説、騎馬民族征服説、徐福渡来説、古代朝鮮優位説などがいまだに語られることも多く、弥生時代以前からのひと模様に言及することを避けて通れないと思うからです。

 

「縄文時代」「縄文人」というあいまいな概念
 私たちは、日常的に弥生時代・縄文時代という言葉を使いますが、実は大変に曖昧な側面があるようです。縄文時代・縄文文化という言葉は、考古学者によって大東亜戦争後につくり出された日本独自のもの、世界史的にはまったく意味をなさない概念なのです。世界史的区分では、縄文時代は新石器時代に対応します。

 

 弥生や縄文という言葉が学界で認知されるのは1960年代初めのことで、しかも縄文時代がいつ始まり、いつ終わるのかも定説がありません。通常は1万5千年前から1万年前頃に始まり、(最新の学説では)紀元前1000年頃までを縄文時代としているようですが、極めてあいまいな側面を持っているのです。

 

 縄文時代の概念として私たちが抱いているのは、狩猟採集、貧しくとも平等な世界、日本人の起源というような感じでしょう。しかしこれらは、大東亜戦争後の発展段階史観により政治的につくられた歴史概念だったといえそうです。

 

 古代社会は決して楽園ではなく、生き抜くに極めて困難な世界でした。個人の自由や平等などということは、経済が好転した現代でこそ言えるのであって、当時の個人は集団の中で埋没していました。その時代は集団の制約力こそが至上命題でした。厳しい統制のもとですべての人がそれに従わなければ生きていけなかったわけです。とどのつまり、政治の問題に帰着するわけで、狩猟や漁労、農耕栽培なども、リーダーの号令一下、全員で取り組まなければ生き残れなかったのです。

 縄文時代にあっても、序列意識と支配欲、勇者に対する崇敬や心服という感情がありました。これらは人間の性(さが)で、狩猟というはけ口を通しても実現されていました。


 弥生時代になって定住農耕が主体になると、狩猟というエネルギーのはけ口がなくなり、その矛先は戦闘に向かうエネルギーとなっていきました。戦争が狩猟の心理的な代替行為になっていったわけです。確かに道具も動作も、狩猟と戦争はきわめてよく似ていますよね。


 縄文から弥生への変化はオーバーラップしていると捉えるべきでしょう。

 縄文人も弥生人も、単に縄文時代や弥生時代に生きた人びとの集団と考えるべきで、弥生人の中にも縄文人的形質を持った人びとが大勢いるのです。旧石器時代に日本にやって来た新人(ホモサピエンス)にはさまざまな人々がいて、混血を繰り返しながら、日本において縄文人になり、弥生人になったということです。

 

日本列島人を人類史の中に位置づけてみる
 最新の学説では、アフリカは人類揺籃の地とされ、200万年前以降、アフリカを旅立った先行人類は旧大陸各地に分布したといわれています。その後、これらの先行人類はすべて絶滅してしまいます。

 私たちの直接の祖先となる人類は、新人(ホモ・サピエンス)と分類されますが、猿人から原人を経て新人になるという従来の進化説は、最新の分子生物学では否定されてしまいました。

 

 新人はアフリカで誕生し、約10万年前にグレートジャーニーが始まりました。
 彼らは、約6万年前にはヨーロッパに、5万年前には東南アジアに、4万7000年前にはオーストラリアに、1万5000年前~1万2000年前には北米・南米へと拡散します。
 東南アジアから分かれた一派は、南太平洋の小さな島々からなる地域に至り、タヒチには紀元後3世紀、ハワイには紀元後5世紀頃に、そして最後、9世紀から12世紀頃、ニュージーランドに定住してグレートジャーニーは終わりとなります。

 ニュージーランドといえば、ラグビーのハカで有名なマオリ族がいますが、彼らこそイギリス人が入植(18世紀)する前から先住していた初代の新人です。
 新人がニュージーランドに定住してグレートジャーニーは終わったわけですが、そのニュージーランドは、2300万年前にはジーランディアという広大な大陸の山の頂上であったといいます。それが海中に没して、今は、山の頂上だったニュージーランドだけが海面に顔を出しているわけです。
 地球史規模で見ると、きわめて古い歴史を持つと思われるニュージーランドが、人類拡散の最終到達点であることに意外な感がありますよね。

 

 従来から、ホモサピエンスは東アフリカで誕生したとされていましたが、英科学誌ネイチャーに掲載された最新の論文によれば、約20万年前、ホモサピエンスが出現した正確な場所がアフリカ南部のボツワナ北部に特定されたようです。ミトコンドリアDNA分析で遺伝子を調べた結果です。遺伝子工学の進歩に脱帽!

 

 ちなみに哺乳類という動物は、ある数の個体がいなければ安定して集団を維持出来ないといわれます。一つがい、二つがいという数字ではすぐに近親結婚が起こり、子供に遺伝病が蔓延する危険性が高くなってしまうのです。
 したがって、南太平洋の多くの小さな島々にも偶然の漂着だけでなく、小舟が何度も波状的に往来したのでしょう。このことは第27回のブログでも言及しました。

 いずれ、「古代の舟」について論じるときに述べたいと思いますが、南太平洋の島々における頻繁な往来には、カヌーのような推進力のある舟の果たした役割が大きかったと思います。

 

 日本列島への新人の定着は相当に古く、3~4万年前にやって来たようです。
 国立科学博物館によれば、3万年前には日本列島は大陸と陸続きないしは近接していて、渡来は比較的容易でした。最終氷期にあたり海面が現在よりも100メートルほど低かった時期です。

 樺太から北海道に至るルート、北方アジアから朝鮮半島経由で九州に至るルート、南方からは朝鮮半島沿岸経由か南西諸島を経由するルートでやってきました。これらの渡来の文化が長い時間をかけて少しずつ混じりあい、日本列島の文化が形成されていったわけです。縄文の豊かな文化が育まれる前には大変長い前史があったのです。

 

 

南方海洋文化の影響 
 弥生時代の日本文化に朝鮮や北方アジア系の影響があると論じる向きが多いようですが、筆者は、紀元前の日本列島の文化を論じる場合、シナ江南地方の照葉樹林文化や南方海洋文化の影響をもっと大きく評価するべきだと思います。

 鉄・稲・墳墓などにまつわる先進文化を除けば、言語・宗教・習俗などの文化は南方海洋文化に負うとことが大きいのではないでしょうか。

 

 南方系の影響をもっと子細に検討すべきであることを提唱したのは、『古代日本の航海術』を著わした茂在寅男氏です。
 茂在氏は、『記・紀』に記述される船・航海・海に関する言葉の相当数が、ポリネシア系の言葉の音を漢字で当てたのではないかといいます。
 意味に力点のある漢字はもちろん多いわけですが、発音の方に本当の力点があって、文字の方はその発音を示すだけの当て字、あるいは発音の一致しない意味表示だけの漢字が相当に多いのも事実です。
 茂在氏は例えば、古代舟を指す『古事記』仁徳記の「枯野」や、『日本書紀』応神紀の「軽野」が、「カヌー」「カノー」という音に近似する事実にも言及しています。

 

 ポリネシア語やアウストロネージア語といえば、ハワイ、イースター島、ニュージーランドを結ぶ三角形の内側の大変広い海域(ポリネシアントライアングル)で使われる言語です。彼らの影響が本当にあったとすれば、彼らは黒潮の流れに乗り、意図的であるか漂流したかは別として、カヌーのような舟で気の遠くなるような航海をして列島に渡来したことを意味します。しかし、同じ舟で一気に日本列島に達することは考えられませんよね。

 

 茂在氏の理屈は興味深いですが、ポリネシアントライアングルに新人が定住するのが紀元後3~9世紀頃のことですから、彼らの言語が7、8世紀編纂の『記・紀』に反映されるというのもやや無理筋に思えます。
 しかし、ポリネシアントライアングルに住みついた新人も、もとはといえば、東南アジアからの分派ですから、フィリピンなどの東南アジアやマリアナ諸島も含めた南方海洋文化の言語が日本列島へ影響を与えたと考えることは可能です。
 その意味で、次のような布施克彦氏の見立ては注目すべきではないでしょうか。

  

 布施氏によれば、二地点の標高にもよるが、100キロメートル程度離れた陸地なら、居ながらにしてその存在を、肉眼で確認できる。さらには居住する陸地から船を漕ぎ出し、船出した陸地がまだ見えている範囲で、行く手水平線上に別の陸地が見えたとする。その場合、約200キロメートル離れた陸地の存在も確認できる理屈になる。古代の人々はそのような方法で、飛び石となる島伝いに居住地を広げ、南方から日本列島に到達したのではないか、と言います。

 オーストラリアの北端から、距離200キロ以内の陸地を次々に辿って、ニューギニア、ジャワ、スマトラ、マレー半島、ボルネオ、スル諸島、ミンダナオ、ルソン、台湾、南西諸島を経由して日本列島まで到達できる、と言います。

 ただ一つの例外が290キロ離れた沖縄本島と宮古島の間だが、この両島の間には黒潮の本流があるので、古代の航海者たちはその助けを借りたのではないか、としています。当然、シナ江南地方からも到達可能ですよね。

 

 以上のように、日本列島と南方地域との、原初の交流や文化の伝播は、古代の舟や交通インフラから考えても、十分にあり得ることになります。

 

 

 第34回ブログでも言及したように、黒潮の強い流れを考えると、縄文から弥生時代の日本列島の文化は、シナ江南地方や東南アジアなどの南方系の影響をより濃厚に受けているように思えてなりません。
 朝鮮や北方アジア系文化が色濃く投影されるのは紀元後からではないでしょうか。

 

 

原初の縄文人に混じりあう渡来人
 
縄文人は、顔つき、体つきともにユニークな形質を持ち、アジアの中でも特異な、まさにジャパンオリジナルとされています。日本の文化は、縄文的要素を強く受け継いだ文化であることは間違いありません。しかし、縄文人がそのまま現在の日本人になったとまでは言い切れません。
 そのヒントの一つはお酒を飲んだ時のアセトアルデヒドを分解する酵素の有無にあります。

 アルコールはもともと動物にとって親和性が高いとされています。つまりアルコールは栄養そのもので、人類にも摂取したアルコールを分解し栄養として摂取する機能が具わっていました。
 しかし現実にはお酒に強い人と弱い人が明らかに存在しますよね。
 お酒に強い弱いということは、悪酔い物質のアセトアルデヒドを分解する能力の大小のことです。この酵素が突然変異して分解能力の低い遺伝子を持つとお酒に弱くなります。
 この変異型遺伝子と正常型の分布を調べると、正常型の割合が多いのは東北と南九州、四国の太平洋側、逆に変異型は近畿、中部地方で多いのです。お酒に強い人は日本の北と南に多いという、まさに地域による有意差が存在するのです。

 

 一方、世界に目を転じると、ヨーロッパやアフリカの人は大半が正常型で、変異型の遺伝子を持っているのは極東アジアに多いということがわかっています。
 同じシナ大陸でも北京のような北部ではアルコール度数の多い蒸留酒が好まれますが、南部の上海などでは紹興酒のような醸造酒が多いのも、この遺伝子の分布と一致しているようです。

 おそらく2万年ほど前にシナ大陸南部で突然変異が起こり、その人達が移動しながら長い時を経て広がっていったのでしょう。

 

 これを日本の歴史に当てはめてみると、日本も大昔は正常型の人ばかりで、原初の日本人つまり縄文人はとても酒に強かった。そこへ変異型を持った人たちが海を渡ってやってきて近畿、中部に移り住んだ。こうして渡来人によって、酒に弱い変異型遺伝子がもたらされた。
 このような経緯で地域差ができたのではないでしょうか。

 アセトアルデヒドの分解能力の地域差は、縄文人のなかにシナ江南地方からの渡来人の血が極めて長い時間をかけてゆっくりと浸透していったことを示しているようにも思えます。

 

 この続きとして、次回は民族、人種の観点から眺めてみたいと思います。

 

 参考文献
『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』松木武彦
『古代日本の航海術』茂在寅男
『日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造』篠田謙一
『幻の古代交易者を追って 海の古代史』布施克彦
他多数