理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

35 テレビ番組でのたったひと言にがっかり! 

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 NHK・BSプレミアムの人気テレビ番組「英雄たちの選択」を見ていて、少々気になったことを記します。
 放映されたのは昨年4月24日で、タイトルは『追跡! 土偶を愛した弥生人たち』でした。

 全般的にはうまく構成されていて面白かったと思います。
 縄文から弥生への移り変わりを一本の線できっちりと区切れるのか、その境目にはいろいろなことが起きていてグラデュエーションになっているのではないかという問題提起で番組はスタート。

 弥生の代表指標は稲と鉄とされているが、稲に遅れること500年で鉄が登場する。したがって、鉄のない稲だけの弥生時代が500年あったことになる。
 その稲ですら、稲作の開始には東西で時間差があるので、西の方は弥生で東の方は縄文という両者併存の状態も存在したという、まずは基本的な事実確認。

 

 ここからが興味深い展開です。
 稲作は西から東へと数百年をかけて伝わったし、様々な文化やモノも西から東へと伝わったのは考古学的事実だが、今や西高東低とばかりは言えなくなってきた、というのです。

 『文明に抗した弥生の人びと』を著した寺前直人氏らが出演して、次のような自説を展開していました。
 型式学は、モノのデザインや製作技法が、時間の経過とともに系統的に変化していくことをとらえる方法で、例として、妊婦が出産する姿を表している屈折像土偶(合掌土偶)の形式が徐々に変化していく様子を取りあげていました。
 各地で出土した屈折像土偶を、その脚部が徐々に省略されていくという観点で並びかえてみると、東北地方の土偶がデザインを変化させつつ近畿地方へと伝わっていく様が読み取れるというのです。
 文明の流れが西から東への一方通行ではなく、東から西への流れもあったということになります。
 これについて、近畿地方の人たちは、縄文の屈折像土偶を出産シーンをモチーフにしたものととらえ、普遍的な祈りである安産の願いを託したのではないか、と解説。新たな切り口で面白く視聴しました。

 大阪の八尾市にある田井中遺跡では、縄文集落と弥生集落が接近して暮らす「共生」の時期があったといいます。この事実から、近畿で発見される殺傷痕のある人骨からイメージする大規模戦争の可能性を否定しています。
 典型的な縄文の象徴でもある石棒が、縄文遺跡と弥生遺跡の双方から発掘され、弥生遺跡でも縄文の祈りが重んじられていた証左で、双方にかなりの交流があったはずとしています。
 北九州では弥生の文化が流入して戦乱が起きた。なぜなら森林を切り開き、狭い土地に人口が集まり確執が生まれたから。一方、近畿は広いので共生できたともいいます。

 他にも、縄文土器の文様が畿内の弥生の象徴である銅鐸に引き継がれているなど、いろいろな例が挙げられました。面白い……。


 ただし、次のような中野信子氏と松木武彦氏のやり取りには、期待が膨らんだだけに少々がっかり。
 福岡の弥生時代の雀居遺跡から出土した壺形土器の胴部の一部に描かれた模様が、青森の亀ヶ岡遺跡から出土した壺型土器に描かれた雲形文に近似。
 雲形文は縄文晩期の東北地方北部を代表する文化の象徴
 これについては、考古学者の設楽博己氏が、東北の縄文人が稲作の新しい文化を情報収集するために土器を携えて九州までやってきたという仮説を述べました。

 それを聞いた脳科学者の中野信子氏(考古学は専門外)が、すかさず「東北の人が九州で稲作が行なわれていることをどのようにして知ったのだろうか、おそらく交通手段は舟だったと思われるが、当時の造船技術がどの程度のものだったのか、長距離を航海できるものが作れたのか」と問題提起。さすが頭脳明晰の氏はポイントを捉えています。
 考古学の専門家がどう答えるのか、期待の一瞬、固唾を飲んで見入る……。

 

 独自の新鮮な論考が多く、筆者も注目している考古学者の松木武彦氏が即座に反応しました。
 「考古学をやっていると、そういうことはあり得るのかな思ってしまう。モノが移動するというのは2万年前の旧石器時代からあった。東北の石器が岡山の山間部で見つかった例もある。人の移動に乗って情報は伝わるので、人が移動するネットワークが私たちの想像する以上に発達していたのだろう」と安易な回答。まさに期待外れ……。
 高まった緊張感が一挙に緩んでしまう。

 はるか昔から、モノが移動し情報が伝播していたのは考古学的事実ですが、その移動方法・移動手段が考古学者の間でも明確になっていません。交易や伝播のありようはどうだったのか、交通インフラのレベルはどの程度だったのか、核心に触れるところが、今まで専門家の口から少しも語られていません。今回もそうでした!
 考古学者が答えを出しきれていない現状が浮かび上がってしまいました。こういうところを解明することこそが、活きた古代史と言えるのでしょう。