理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

39 古代日本の気象と縄文海進


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  紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代を俯瞰する場合、縄文時代からの気象と、その気象がもたらした影響を頭に入れておく必要があります。
 現代人の私たちが目にする風景(地形)と明治時代より前の風景(地形)は別物です。

 ましてや6、7世紀より前の地形は縄文海進の影響を強く残しているはずです。現在の平野はその当時どんな状況だったのか、陸上交通はどのようなレベルだったのか、その姿をある程度イメージしておかないと5世紀以前の古代史は語れません。

 

政治経済的大変動の遠因となった気象の激変
 まず、弥生時代の冷暖サイクルを記してみます。
〇 水田稲作が始まった紀元前10~前8世紀頃は冷涼化時期。
〇 紀元前5~前4世紀は温暖となり、水田稲作が日本海沿いに一気に弘前あたりまで拡大したと推測されている。

〇 ピークに達した気温は、その後下降に転じ、3世紀初めにかけては最大の寒冷期。
 この寒冷化は、農耕にとって大きなダメージとなったが、さらに洪水の頻発が追い打ち。

 特に過去2000年間で降水量の一番多かったのが紀元127年で、顕著な洪水が頻発した。その後、洪水・干ばつが数年から数十年という長期で繰り返したのが紀元2世紀の特徴です。

 1、 2年の短期間の異常気象であれば備蓄米などで乗り切れたのでしょうが、2世紀の異常気象はそうは問屋がおろさない。気温の変化は農作や人口、経済活動に深刻な影響を及ぼします。
 2~3世紀には定住地からの移動が頻発し、ムラや社会に変動をもたらしたのは間違いありません。
 食料争奪の戦乱も起きました。倭国大乱といわれる九州北部の争乱(と筆者は考えています)もこの異常気象が遠因となった可能性が高いでしょう。

 

  松木武彦氏は次のように言います。

 <この寒冷化は世界的なもので、ユーラシアの西の端ではいわゆるゲルマン民族大移動をもたらしたと考えられている。また、ユーラシアの東の端でも人口の流出や社会不安を生み、黄巾の乱などの混迷の末、紀元220年に後漢王朝が滅びる要因をつくった。西ではローマ、東では後漢というそれまでの社会体制を崩すもとになった地球規模の環境変動と人の動きの流動化に対して、日本列島も例外ではいられなかったということだ。物や情報を伴う人びとの広域移動は、根本的には、そのような流動化が、日本列島でも3世紀に頂点を迎えたことの反映である>。

 

紀元後まで残った縄文海進の影響
 繰り返しになりますが、紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を語る際、縄文海進の影響を無視するわけにはいきません。

 縄文海進は約1万年~5500年前にあった海進です。
 最終氷期(7万年~1万年前)終了後の世界的に温暖化が進んだ時期(完新世の気候最温暖期)に相当します。

 日本ではちょうど縄文時代前期にあたり、具体的には約6000年前(紀元前4000年)頃に海面がもっとも上昇し、現在に比べて3ないし5メートルほど高く、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入しました。
 沖積層の堆積よりも海面上昇の方が速かったので、最終氷期に侵食された河谷の奥深くまで海が湾入し、日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られたようです。

 

 当時の海岸線にあたる場所に多くの貝塚が存在することが知られています。
 縄文海進は、もともと貝塚の存在から仮説の提唱が始まったようです。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部奥深くに分布することから、関東大震災後に海進説が唱えられたのです。

 

 現在ある多くの沖積平野、例えば関東平野をはじめ濃尾、岡山、広島、福岡などの平野はいずれも、紀元後しばらくの間は、縄文海進の名残でその広域が水没するか、沼地または湿地となっていたとされます。
 したがって、3世紀頃になると多くの平野で海退が進んでいましたが、それでも歩いて通ることは困難でした。
 そのうえ、
平野でないところは海岸線ギリギリまで山林に覆われ、4、5世紀頃になっても踏み分け道ばかり。先進地であったとされる山陽や山陰でさえ、幹線道路はまったくなかったのです。

 

 このような日本の特異な地形のせいで、明治期まで沿岸部の人口はとても少なかった……。
 第20回のブログでも述べたように、明治維新の時、日本の人口は3300万人に達したが、その90%近くが内陸部に住んで農業を営んでいました。
 その後、昭和60年代には人口は1億2千万人以上となり、人口増加分の90%は臨海部に住むようになったといいます。
 明治から昭和までの100年間に民族大移動があったということになる!
 現代の感覚で古代を眺めると大きな錯誤を犯してしまいます。

 

白砂青松の風景は近世になってから
 
白砂青松の美しい海辺の風景は、古代からずっと存在したわけではなく、その多くが江戸時代になってつくられた新しい原風景です。
 江戸時代の260年間にわたって砂原に松が植えられた。徳川幕府は米本位制をとり、新田開発を奨励した。海岸近くの葦原を開墾し、浅い海を埋め立てて新田を作る。
 その新田が海潮に侵されないように、潮風から守るために防風林・防砂林としての松を植えたのです。

 

 高橋千剱破氏の『花鳥風月の日本史』によれば……。
 古代の日本に松はきわめて少なかった。考古学的にも、土器や須恵器などを焼成した窯跡に残された木炭を分析すると、6世紀以前の窯跡には松の炭が見当たらない。
 松は7世紀以降になって日本人になじみ深い樹木になる。これは農耕文化の発達に伴い、農地周辺の里山から土壌の栄養分となる落葉や柴草などの収奪を繰り返した結果、土壌がやせ、やせ地に育つ代表的な樹木である赤松・黒松のウエイトが高まったためらしい。
 脱線しましたが、日本の原風景かとも思われる白砂青松の海辺は、古代には存在せず、沖積平野はほとんどなかった……

 


 近現代になって、そのような海辺の土地に巨大都市が形成されてきたことは、極めて不自然なことですよね。
 さらに沿岸部には、満潮時に海面より地面の標高が低くなるゼロメートル地帯があります。とくに高度経済成長期以降、東京湾、伊勢湾、大阪湾を中心に、干拓や埋め立てによってゼロメートル地帯は拡大しました。 現在、その面積は約580平方キロにおよび、約400 万人が居住している。
 当然、こうしたところは海面上昇の影響を受け、豪雨や津波によって大きな被害が出ます。縄文海進レベルまでいかなくても、海面が1メートル上昇すると、(もしも堤防がなければ)全国の砂浜の9割以上が失われてしまうのです。

 

 

縄文海進がよくわかる関東平野
 前に述べたように、地形と標高を見ながら貝塚遺跡のある地点を結んでみれば、縄文時代の海岸線を見事なくらいに復元できます。下図(ネットから転載)の小さな「•」は貝塚の分布を示しています。

f:id:SHIGEKISAITO:20200207133450p:plain <関東平野の縄文海進領域(斜線部)>

 

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 関東平野では縄文時代の貝塚が台地周縁ぞいに、かなり内陸まで分布していることが注目されていて、そのような古海岸線を残した海進が縄文海進とよばれるようになったようです。

 最終氷期の後、関東平野では古鬼怒川や、荒川や江戸川の谷に沿って内陸部まで海が浸入し、南北に細長い古東京湾が形成された。
 荒川沿いでは今の埼玉県川越付近、江戸川沿いでは同じく栗橋付近まで海が浸入した。
 大宮台地などは半島となっていた。

 縄文時代の海は、武蔵野台地・下総台地・多摩丘陵などの洪積台地や山地を残して低地を浸したため、今は海のない県である埼玉・栃木・群馬も、縄文人が住みついた頃は海に面していたわけです。その後は沖積層の堆積が追いつき、縄文時代の湾は現在の低地平野となりました
 

 他にもいくつか象徴的な事例をあげると……
 市原市にある上総の国府・国分寺・国分尼寺跡は東京湾に面した高台にある。
 石岡市にある常陸の国府・国分寺・国分尼寺跡も霞ヶ浦に面した高台にある。
 行田市のさきたま古墳群の将軍塚古墳の石室には房洲石が使われているが、その石は(すでに古墳時代には後退していた古東京湾を経由し)河川を遡って行田市まで運ばれたと推測されている。

 

 近世までの関東平野は、複雑に絡み合う原始河川と、点在する沼沢を抱えた巨大三角州だった。海岸線はすでに後退していたが、海だった跡地には土砂が堆積し広大な葦原を形成していた。平野のほぼ全体が低湿地であるため、ひとたび大雨が降れば増水し、洪水が発生し、何か月間も浸水状態が継続したのです。

f:id:SHIGEKISAITO:20200207135045j:plain <大石久和氏の著書から転載>

 

 

実見できる縄文海進の痕跡
 いささかローカルな説明となりますが、筆者の住む首都圏を例に、縄文海進の痕跡を二、三あげてみます。

 

  少年時代の筆者は、大森貝塚近くの大井鹿島町(今の大井6丁目)に住んでいた。貝塚に接して、京浜東北線と東海道本線が南北に走り、その西側は高台になっていて山王と呼ばれる閑静な住宅地で、東側の低地には住宅や工場が広がり、そのずっと先が東京湾だった。
 線路の両側の高低差は、十数メートルは優にあったはず。
 貝塚のあった場所は縄文時代の海辺で、かつて線路の東側はすべて海の中だったのです。
 貝塚のすぐそばには、実業家の臼井米二郎の屋敷があった。広い庭園を持つ豪壮な邸宅(和風建築だったが今はもうない)だったが、どうやらその臼井氏が土地を提供して貝塚碑が建てられたらしい。普通の民家がぎっしり立ち並ぶ中に豪壮な屋敷が残る風景には違和感を覚えたものです。その頃の筆者は、探検と称して庭園の隅に忍び込んだりして遊んでいたような。

 

 学生時代は千葉に通った。その時の懐かしい風景を思い出す……。
 東京から千葉方面に向けて総武線に乗れば、江戸川を越え市川駅に着く直前、車窓から進行方向左側の高台に弘法寺の境内が望めた。その風景が妙に印象に残っている。
 そう、その高台は下総国の国府や国分寺があった国府台(こうのだい)という場所です。

 国府台の辺りには台地の地形がよく残っている。
 その台地の端は江戸川の方へ落ち込む崖となっていて、崖下は江戸川を挟んで平地が対岸の台地の裾まで続いている。この国府台の「へり」は凹凸が複雑に入り組んで谷や入江を形成している。
 ここから北の松戸市にかけては多くの貝塚や縄文遺跡が残っています。

 しかし台地から南には貝塚も遺跡もない。奈良時代までこの台地の南側はすべて海(東京湾)だった。
 総武線の走る現在の平地は人の住める場所ではなかったということです。

 

 先日、さいたま市浦和区の別所から、東の方角にあたる緑区の下山口新田まで所用でドライブ。そのわずか9キロくらいの間に14~15回のアップダウン。
 南北に並行して走る舌状大地の上を次々と乗り越えたのです。古東京湾が大宮、浦和あたりまで湾入していた頃の名残を感じた次第。
 付近には、「浦」の字はもとより、沼、溝、岸、田窪、上谷、大谷、小谷、大崎、舟山、田島などを付した地名がたくさん残っています。江戸時代前期まで水辺や湿地に面していた頃の名残なのでしょう。

  

 関東平野のみならず、このような縄文海進の痕跡は全国のどこでも身の回りで確認することができます。その一例ですが、東日本大震災で再確認出来た以下のような事実もあります(最近読んだ竹村公太郎氏の著作から)。

 岩手県の三陸海岸から茨城県のいわき地方の海岸まで約400キロの範囲には、縄文時代の貝塚集落が約480ヵ所確認されている。この貝塚遺跡について、津波被害の有無を確認したところ、どれも津波の到達範囲よりも高地にあって、ほとんど被害を受けていなかった。
 そして、縄文人が貝塚の形成を始めた比較的早期には、標高15メートル前後の土地に集落を形成したが、海進が進むと標高20~24メートルの土地に居住し、縄文晩期の寒冷時には数メートル低い位置へと移動した。
 しかも、製塩や貝の加工場は海岸に近い低地にあって、居住地は高台を選び、作業が終わると高台の安全な集落へと戻る生活をしていたという……。
 やるなぁ縄文人!

 

有名古社の立地から見えてくること
 今は都会の真ん中や陸地の奥深くに鎮座する有名古社の立地をレビューしてみるのも面白いですね。貝塚と同様に、昔の海、沼、川を避けるように鎮座していたことが確認できます。

 まず筆者の地元の一宮、埼玉県さいたま市の氷川神社です。
 スサノオを祀る氷川神社は、内陸の大市街地の一角にありますが、そこは昔、古東京湾が大きく湾入した水際の地でした。
 そこから産業道路を南に走ると、「見沼田んぼ」に突き出した舌状台地の先端部分にイナダヒメを祀る氷川女體神社が鎮座しています。
 「見沼」は古くは「 神沼」「 御沼」とも呼ばれていました。

 縄文時代、大宮東部から浦和東部を通り、東浦和の南部に至る大宮台地には、 古代の川に沿って古東京湾が湾入していた。やがて海が後退し広大な沼沢池「 見沼」が生まれた。前述したように、江戸時代に入る頃から関東平野の湿地を乾燥地に変える一大事業が本格化し、当地も灌漑用水池に改造された。さらに享保の改革で新田開発が奨励され、灌漑用水池は田んぼへと変化していった。
 このような経緯を経て、 現在の見沼田んぼは存在しているわけです。

 この見沼の水辺に2社は鎮座していたわけですが、2社のほぼ中間にあって、見沼の対岸に鎮座する「 中山神社」は 、スサノオとイナダヒメの子とされるオオナムチを祀っています。つまり昔の広大な見沼のまわりに鎮座する男體社・女體社・子社は、 夫婦・親子という家族関係だという面白い説もありますが、これはまた次の機会に述べましょう。

 

 鹿島神宮・香取神宮は古香取海を挟んで相対するように鎮座していました。ここにも興味深い伝承がありますが、次の機会に!

 

 同様に、大阪の枚岡神社や住吉大社、岡山平野の吉備津神社、福津平野の宗像大社、福岡平野の住吉神社も海に面していました。これら有名古社は、交易に都合のよい海辺や水辺に面した集落の紐帯として創始されたといえるでしょう。

 例えば、古代の岡山平野は、今よりもはるか内陸まで海が入り込んでいました。岡山市の市街地にある児島湖は海につながる内海ですが、かつては「吉備の穴海」と呼ばれ、今よりも海が内陸まで入り込んでいた名残です。吉備津神社は瀬戸内海の海岸から遠く離れたところに鎮座していますが、かつては境内の際まで海が入り込んでいました。

 また、河内平野の大部分は、かつて河内湖と呼ばれる広い内海となっていて、その奥まった水際に枚岡神社は鎮座していました。そこは『古事記』の神武東征物語に登場する白肩津で、今は現在の海岸線から十数キロも離れた東大阪市の日下にあたります。

 

 神社に言及するのはこれくらいにとどめますが、有名古社の創始事情、立地、由緒や古代史における位置づけについては(相当先ですが)いずれ綴ってみたいと思っています。

 

 今回のブログでは、古墳時代初期まで、海岸沿いの陸路は脆弱でほとんど機能しなかったこと、物資の運搬にすら適さなかったこと確認しておきましょう。
 ましてや離れた地域に軍隊や大集団が進める陸上ルートはほとんど存在しなかったということを……。 
 陸路は地域国家によって次第に整備されていくが、本格的に主要な幹線道路網が出来上がるのは、ヤマト王権が国家事業として整備し始めた7世紀からのことになる。そしてそれは8世紀の官道の整備につながっていくのです。

 

 

参考文献
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎
『古代の地形から記紀の謎を解く』嶋恵
『よみがえる古代の港』石村智
『花鳥風月の日本史』高橋千剱破
『地形と水脈で読み解く! 新しい日本史』竹村公太郎
ネット情報も含め、その他多数