今回から数回かけて、日本列島に関する、その特異な地形、大陸からの過不足ない絶妙な距離、縄文海進の名残、点在する潟湖などについて掘り下げてみます。古代史を論じる場合には、これらを避けて通ることはできません。立ちはだかる自然そのものが古代人の活動に大きな枠をはめた事実を確認し、「理系脳」の視点で古代史を俯瞰する出発点とします。
特異な地形が、八百万の神を生み、国の統合を遅らせた
日本の各地は、河川と脊梁山脈によって隔てられ、そこに異なった独自の文化が花開きました。紀元前のはるか昔、各地に数十人規模のムラ共同体が生まれ、やがて現在の市町村のような小国(クニ)に発展していきました。八百万の神が誕生した根っこは、この互いに隔てられた特異な地形によるものです。
崇める対象は山・海・川・滝・岩・巨木・雷などと異なるものの、いずれも「自然」を原初の神々として祀る文化が花開いたのはなぜでしょうか。
人類というものは脳が発達し、ある段階になると、 同時発生的に同じように言葉を発し、理解し、似たような思考を始めるものなのでしょうか。
それはあたかも今西錦司氏によれば、
<水をわかした時に、それはいっせいにわいてくる。一つの分子が湯になって、それが広がってというのとは違う。同時に、わあっとわいてくる>
というものらしい。
あちらこちらで原初の神々が出現する状況はこれと似たところがあるようですね。
人類はみなセレンディピティを持っていて、長い先史時代で見れば、誤差程度の期間に同じようなことが起きるということでしょうか。
第34回ブログでも、民族的なつながりのない異なる文明間で見事に類似する神話について、「偶然の一致は、人というものに内在する普遍的な思考のなせる業なのか」と記したばかり……。
ちなみに、セレンディピティとは「予測していなかった偶然によって、偉大な発見・発明や進歩・成果を得る能力」のことで、人類に与えられた能力の一つと言われています。
日本各地に誕生したムラのような集落共同体は、やがて紀元前後には大規模環濠集落を核としたクニ(小国)に統合されていきました。吉野ヶ里、邪馬台国、奴国などの有名なクニのほかにも、各地に未知の無数のクニが存在したはずです。
3~6世紀にはさらに統合が進み、王(首長)を主体とした地域国家に発展します。
筑紫、吉備、出雲、伯耆、因幡、丹後、大和(ヤマト国)、近江、尾張、毛野のような地域国家と古代豪族の時代です。
その後、7世紀後半に至ってヤマト王権が蘇我氏などの豪族から実権を奪い、統一国家を確立します。大和政権が統治する日本国です。
その大きな流れの始まりは各地に独立的に発生した集落(ムラ)であり、統一に時間がかかったのは、各地が山河で隔てられた特異な地形であったことによります。
自然の障壁が統合化のブレーキとなっていたわけです。
やがて技術が進歩することで、政治権力が影響力を行使できる陸路や海路が整備され、軍船や武器が進化しかつ量産されます。
そのための絶対的な条件は鉄利用の拡大(第28~32回ブログで詳述)でした。
当然、将来、日本列島を統一することになるヤマト国についても、同様の道筋を辿ったと考えるべきでしょう。次の2項は筆者が特に重要と考えている仮説です。
〇 大和政権が4世紀以前から畿内地域を統一・支配していたとする『記・紀』の記事は正しくない。
〇 それどころか、5世紀初めにかけては大和地域でさえも統一された状態ではなく、幾つかの勢力の均衡によって統治されていた。
この2つは、「6世紀頃までの古代史の紐解き」に挑戦する当ブログの骨格をなすテーマで、筆者も独自の見立てを仕込んでいます。
ならば、早くその肝心なところに踏み込んでくれ!
自然の障壁や交通インフラばかりで、古代史の具体的な青図が見えてこない!
まさに隔靴掻痒!
そういう声が聞こえてきます。
もちろん、ここにただちに切り込みたい気持もあるのですが、やはりきちんとお膳立てをしてからの論及としたい。拙速を排し理系的アプローチでエビデンスを積み重ねる!
よって、「自然障壁の実態と、これを突破する交通インフラの整備」に今しばらく触れ、しっかりと外堀を埋めてから本丸に切り込んでいくことにします。
世界有数の強い海流・潮流が障壁となり、他国からの侵略を受けなかった
日本の近海は世界でもっとも厳しい荒海の一つとされ、造船技術(つまりは鍛冶・製鉄技術)が未熟な5世紀よりも前は、簡単に渡海できるものではありませんでした。
対馬海流の時速は、後で述べる黒潮とは異なり、やや遅い1.9~2.8キロですが、対馬海峡には潮流というやっかいで複雑な流れもあります。
潮流は海流と異なり、陸地や島の複雑な地形があると、これよりもはるかに速い流れを生じます。
私たちが普通に歩く速度は時速4キロ、手漕ぎの丸木舟は時速3キロくらいですから、速い潮流は実に手ごわいことになります。強風と荒波にのまれることも多く、古代はもちろん、現代でさえも海難事故は多く発生しているのです。
大石久和氏は対馬海峡とドーバー海峡を比較して、「対馬海峡では、大昔から人の往来があり文化の交流があったものの、大軍が越えるには海峡幅が大きすぎた」といいます。
対馬海峡の幅は約200キロもありますが、対するドーバー海峡は約30キロに過ぎず、紀元前のローマ時代ですら、大軍が越えることができました。
日本列島は紛争影響圏の外にあり、侵略を受けず外部権力の影響下に置かれることはありませんでした。
しかし、海の民の冒険心が困難な渡海をものともせず、交易や文化・技術の伝播に大きな貢献をしてきまた。こうして長い時をかけて異風を取り入れつつも日本独自の文化を育むこととなったわけです。
日本列島は、大軍は越えてくることはできないが、文化は何とか入ってくるという実に微妙な距離に位置していたのです。サミュエル・P・ハンチントンが言うように、イギリスは西欧文明に含まれるが、日本は中華文明の一部でなく独立した文明(一国一文明)とされる所以ですね。
地政学的な位置と潟湖の存在が日本海側を古代日本の表玄関にした
日本列島は、文化の進んでいたシナ大陸や朝鮮半島の近くに立地します。この地政学的位置は絶妙です。
あいだを対馬海流が流れていますが、勇気ある海人族によって交易が行われてきました。たとえ意図に反して海流に流されても出雲や北陸に漂着できました。実際、大陸側からは、リマン海流(対馬海流の反流)に乗って南下し、対馬海流に流されると出雲から丹後、さらに若狭、越前、能登に行き着いたわけです。
このため古くから大陸や朝鮮半島のさまざまな文物が流入しました。
日本海側を古代日本の表玄関にしたのです。
<茂在寅男氏の著作から転載>
日本海沿岸には、山陰から北陸にかけて、陸岸の一部が湾入した自然の潟湖(せきこ)が発達していました。
潟湖は手漕ぎの舟が一日に進める限界のほぼ20キロごとに存在したため、低速で航行する古代の舟にとって実に好都合でした。陸地に沿って地形や山を目視しながら航行できたのです。
スムーズに通行できる陸路が存在しなかった紀元前から3、4世紀にかけて、潟湖の存在する日本海側は、尺取虫のように伝って移動できる交通の動脈となり、鉄材料・鉄製品の輸入、ヒスイの輸出や、地域間の相互交易に貢献しました。さらに、朝鮮半島との南北交易を地域間の東西交易に転換するという結節点の役割も果たしたのです。
交易によって、潟湖のまわりの集落は大いに賑わいました。
潟湖を見下ろせる位置に古墳や有名古社が立地しています。
例えば、竹野川に沿って湾入した竹野湖には神明山古墳、丹後網野町の浅茂川湖には網野銚子山古墳、 神西湖(出雲神門水海)には出雲大社、久美浜湾には多様な遺跡群が存在します。いずれも海上交易の担い手だった海人族の手になるものでしょう。
非常に困難な太平洋側の渡海
一方、太平洋側にも潟湖やリアス式海岸は存在しましたが、黒潮の流れが速いため、推進力の大きい準構造船が登場するまで、遠距離を結ぶ活発な交易は困難でした。旧石器時代の神津島産の黒曜石が本州で見つかるなどの事例もありますが、先史時代からの膨大な時間の経過の中で、海人族のチャレンジ精神と僥倖の積み重ねが現代に伝わっているのだと思います。
海上保安庁のデータによれば、黒潮は時速3.7キロ~5.6キロ(最高毎秒2メートル超)と世界のトップレベルです。これは沿岸部から遠く離れた海流中央部の速度です。
古代の舟にとって黒潮の流れる日向灘(九州南部)から遠州灘(静岡沖)にかけての列島南岸は、すこぶる恐ろしい海域だったと思われます。
例えば、紀伊半島の潮岬のように、突出した岬の付近は黒潮の流れをより強く受けるため、古代の丸木舟での渡海は大変な困難を伴うものでした。
正確に言えば、幅100キロメートル以上もの黒潮本流は南西から北東へ直線的に流れているわけではなく、大きな蛇行を繰り返しています。蛇行して潮岬に近づいた後、列島から大きく離れて八丈島方面へ向かい、再び房総半島へ近づき銚子沖で南に向かう親潮とぶつかります。ぶつかった黒潮は房総半島から離れるように太平洋へと流れ去っていくわけです。
黒潮本流が近寄る潮岬付近は複雑な潮流が起きるため、岸へと向かう弱い沿岸流(反流ないし補充流)にうまく乗れた時は、速度の出ない小舟でも接岸できます。
つまり紀伊半島南端部では、うまく操船して岸にたどり着けばハッピーだが、ミスして沖に流されれば太平洋の藻屑となってしまう……。しかも大半はミスをする。そういう構図です。
推進力の大きい準構造船が登場するまで、黒潮本流から離れた極々沿岸の航海を除き、遠隔地を結ぶ太平洋側の通交・交易は困難だったといえます。
参考文献
『国土が日本人の謎を解く』大石久和
他