<菜の花>
第38回ブログで言及した潟湖について、もう少し掘り下げてみます。
潟湖は砂州によって外海との出口をふさがれた湾のことで、海跡湖またはラグーンとも呼ばれます。
交通の要衝地であった潟湖の周辺は、比較的広い平野が形成されているため、古くから生活の場としても発展してきました。
夏場の日本海は古代の舟でも比較的安全に地乗り航行できた
筆者は11年前の9月に、能登国一宮の氣多大社に参拝。そのついでに足をのばし、アップダウンや急カーブの連続する能登西海岸沿いをドライブしました。
日本海に面して間垣が立ち並ぶ風景は叙情豊かですが、異境のようでもあり、冬場の「たば風」の凄まじさを感じたものです。
冬の日本海といえば、松本清張の『ゼロの焦点』に出てくるヤセの断崖のイメージが代表的。そこは能登金剛で、険しい断崖と荒波が作り出した奇岩が連続する絶景です。
当地には「雲たれてひとりたけれる荒波を恋しと思えり能登の初旅」と書かれた歌碑も建っていたりするので、余計に強い印象が刻まれる……。
<禎子は、それを見つめた。重なりあった重い雲と、ささくれ立った沖との、その間に、黒いものが、ようやく一点、見つけられた。黒い点は揺れていた。その周囲に、目をむく白さで、波が立っている。>
こうした清張の描写からは、どんよりと暗く荒れ狂う能登の海が脳裏に浮かび、冬の日本海はさぞや厳しいだろうという感を強くします。
しかし実際の日本海は、波が高く航海に困難なのは冬場に限られ、春から秋は穏やかであることが多いのです。
しかも日本海沿岸は海流の流れがさほど速くなく、また潮の干満差も小さいため古代舟の航行には有利でした。
蛇足ですが、潮の干満差が小さいので、日本海側は潮干狩りの場所が少なく、また波打ち際に建つ伊根の舟屋も成立するわけです。
さらに都合の良いことに、山陰から北陸にかけては、陸岸の一部が湾入した自然の潟湖が発達していたため、これらをつないでいくことで、陸地に沿って、地形や山を目視しながら航行することができました。これは「地乗り航法」または「山立て航法」と呼ばれています。
このように古代の航行は目視がベースとなっているので、夜間に航海することはさすがに少なかったようです。
日本海沿岸航行における潟湖の役割
海岸近くの地形は風や沿岸流の影響を大きく受けます。沿岸流は海岸のすぐ近くにある流れで、基本的に海岸にほぼ平行に流れ、この方向に砂や土砂を運びます。
海が陸岸に入り込んだ「入り江」の付近では、沿岸流が一定方向に流れているため、運ばれた砂や土砂は同じ所に堆積し、沿岸流が(反流のように)回り込んで鳥のくちばし状に砂嘴が形成されていきます。
いったん砂嘴が形成されると砂が次々と運ばれ、砂嘴の先端は延びていき、入り江が塞がれた形になります。入り江がほとんど塞がった地形は砂州と呼ばれ、砂州によって外側の海から切り離されてしまった部分が潟湖と呼ばれるわけです。
潟湖の湾内は波も穏やかで、舟を停泊させるには絶好の条件をそなえています。荒天を避けて停泊できることは当然として、潟湖には海流とは別の小反流が発生するため、小舟が近づくと自然に吸い込まれやすくなる利点があります。
<茂在寅男氏の著作から転載>
水深が浅く湿地帯のようになっていることも多いので、喫水の深い大型船では座礁してしまう。しかし、古代日本では喫水の浅い丸木舟や準構造船が主体だったので、大規模に掘り下げる必要がない潟湖の活用が進んだわけです。喫水の深い大型船が導入されるようになると、深い港になり得る地形が新たに選ばれるようになり、水深の浅い潟湖は次第に廃れていきました。
下図は、船の構造による喫水の違いを表しています。
<石村智氏の著作から転載>
日本海側の潟湖は、西から順に唐津、博多、温泉津(ゆのつ)、出雲の神西湖、東郷池、湖山池、久美浜湾、浅茂川湖、竹野湖、三方五湖、敦賀、河北潟、羽咋の邑智潟(おうちがた)……などで、手漕ぎの舟が一日に進める限界のほぼ20キロごとに存在しました。
低速で航行する古代の舟にとって、潟湖の存在は神のみがなせる造化の業ですね。
<レインボーラインから三方五湖の眺め>
一貫して通れる陸路が存在しなかった紀元前から3、4世紀にかけて、潟湖は、日本海側を尺取虫のように伝って移動できる貴重な交通路を形成した。
このような条件が整っていることで、日本海は先史時代から列島のハイウエイとして、鉄材料・鉄製品、ヒスイなどの交易に貢献し、また文化や技術の伝播経路の役割も果たしました。
そして、第38回ブログでも述べたように、広範囲にわたる潟湖の存在は、朝鮮半島との南北交易を地域間の東西交易に転換でき、古代の日本海文明において重要な結節点の役割を担ってきました。
交易を担ったのは勇気ある海人族ですが、さすがに悪天候の続く冬季の日本海はお手上げで、実際の交易は海況の落ち着いた時期が選ばれたことでしょう。
そういう意味では、『日本書記』に記される神功皇后の三韓征伐は疑問です。
秋9月10日には船舶を集め、兵を練り、10月3日(今の暦では11月上旬頃)には対馬の鰐浦から朝鮮半島に出発。帰還後、12月14日には宇美で応神を産んでいます。
これは、もっとも日本海の荒れる厳冬期、しかも玄界灘から対馬海峡を越えての遠征です。
時期に大きな疑問あり。
後世、机上で作られた物語としか思えません。
やがて技術革新の5世紀になると、航続距離の長い準構造船による沖乗りや、海外の大型船の来航で、丹後は中継基地としての役割が薄れ、越前・越中・能登が隆盛します。
ヤマト王権も敦賀(越前)の重要性に気づき、交易地として重用したことで、敦賀は6世紀以降に大発展するのです。
日本海交流文化圏の形成
潟湖の存在は、古代の列島ハイウエイを担うという重要な役割を果たしてきた……。このため東西にモノが流通し、広域に共通的な文化圏が形成されてきたといえそうです。以下に、いくつかの例をあげてみます。
縄文時代には、ヒスイを加工した玉類は装飾品として珍重され、糸魚川産出のものが、日本海を介して九州北部から北海道南部まで達し、特に中部高地への集中が多くみられます。
石村智氏は、「少し想像をたくましくするなら、縄文時代の糸魚川の翡翠採掘者たちは、波の荒い冬場に翡翠を玉類に加工し、波の穏やかな夏場にその製品を船に積んで交易に出かけていったのかもしれない」と興味深いコメント。
また、大分の姫島産出の黒曜石が東へ流通するなどの例もみられます。
このように日本海側における地域相互交流の基盤はすでに縄文時代からみられ、遠距離交易に潟湖の果たした役割は大きかったということでしょう。
真脇遺跡(能登半島先端部)やチカモリ遺跡(金沢市)をはじめ、縄文時代の巨木文化が日本海側に広く見られるのも、潟湖の存在によると考えられます。その延長線上に諏訪の御柱祭りや出雲大社の高層神殿があると考えるのも決して的外れではないのではないでしょうか。
弥生時代の終わり、紀元後には四隅突出型墳丘墓が日本海沿岸に点在するようになります。
出雲地方にもっとも多くみられますが、伯耆や安芸にも分布し、丹後を通り越して遠く北陸地方(福井・石川・富山の各県)にも分布しているので、日本海を経由して伝播したと考えられます。
さらに鉄器に関しては、出土量では九州北部が圧倒的だが、丹後地域をはじめとする日本海沿岸地域でも(畿内をはるかに上回る)相当数の鉄器が出土しています。日本海側での鉄器の直接入手や東西流通が考えられます。
また、朝鮮半島系土器の出土状況からは、紀元前1世紀頃から紀元4世紀にかけての日本海側のクニグニの興亡が見えてきます。出雲地域が中心的な役割を担っていたことや、やがて九州北部と出雲が衰亡に向かうと、これに代わって大和が参入してくる様子などが見て取れますが、これは日本列島の政治統合プロセスを検討する中で、いずれ言及したいと思います。
以上の考古学的事実から、紀元前1世紀頃から紀元後3世紀頃にかけて存在した、出雲を中心とする日本海広域交流文化圏という姿が浮かび上がってきます。
大切なことは、これら文化的なつながりが広域に見られることをもって、日本海側に出雲政権などの広域政治連合や政治的連携があったとみなすことは出来ないということです。それを機能させるにはあまりにも交通インフラが脆弱だったからです。列島ハイウエイといっても、この頃の海路は、政治統合が可能となるような確固とした太い動脈ではありません。
「王国」という言葉遣いが適切かどうかは置くにしても、出雲王国・伯耆王国・丹後王国などという「クニ」が独立的に割拠していたと捉えるべきでしょう。
あくまでも日本海側の広域交流文化圏という捉え方をしたいですね。
日本海ルートから大和地域の発展を考える
以上から得られるもう一つ重要な事実は、神武東征物語などに影響されてか、3、4世紀の大和地域の成長が瀬戸内海ルートの掌握という観点から語られることが多いが、それは虚構に過ぎないということ。
瀬戸内海の航行については、いずれ詳しく言及しますが、古代舟にとって、東西を横断するのはまことに難儀。
3、4世紀に瀬戸内海ルートを掌握したヤマト国(ヤマト王権の前身)が、鉄をはじめとする先進文物を取り入れ大きく成長・発展したという見解は、多くの研究者が述べ通説(今や定説か)になっていますが、それはあり得ません。
瀬戸内海が列島の動脈となるのは5世紀以降です。
弥生時代から紀元後3、4世紀にかけての主たる動脈は、広域交流文化圏を作りあげた日本海側にあったということです。
筆者は、3、4世紀頃のヤマト国は、日本海交易の要所であった丹後あたりからの引き込みルートで、文物を取引し成長してきたと考えています。その詳細については当ブログでもいずれ触れることになります。
太平洋側の交易
太平洋側では、黒潮の流れが速い(最大流速は時速7キロ)ため、推進力の大きい準構造船が登場するまで遠距離交易は困難でした。
ただ、小舟の避難・補給に好都合な潟湖やリアス式海岸は存在するので、黒潮本流を直接的に受けない沿岸部での細々とした交易があったことまでは否定できませんが……。
一方、たとえ長距離移動を伴うモノの交易は困難であっても、古代からの伝承や『記・紀』に、南方世界との濃密なつながりを感じさせる説話がたくさん見られるのは事実です。
例えば、『古事記』のコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの物語、因幡の素兎とワニの物語、初児生みそこない型のヒルコの物語などは明らかに南方からの伝播ではないでしょうか。
また、『魏志倭人伝』に描かれた古代日本人の習俗が、シナ江南地方の越人の習俗と殆ど一致していること。即ち、海人、鵜飼、文身、蛇や竜に対する信仰、断髪、貫頭衣、ヒメヒコ制等……。
これらの事実から、江南地方から列島への伝播が指摘されるわけですが、もっと南の島々、ボルネオ島、セレベス島などからの流れもあったのではないかと考える研究者もいます。
例えば、末子相続慣行も、南島の海洋民族などから、遥かな昔に伝わってきた文化的慣行だったのではないかと……。
第34回ブログでも言及しましたが、日本神話にギリシャ神話と酷似する場面があることもよく指摘されます。しかし、これは伝播ではなく偶然の一致(独立発達)だといえましょう。
例えば『古事記』に記されている、イザナキがイザナミの朽ち果てた姿を見てしまう黄泉の国の神話は、ギリシャのオルフェウス神話のように見てはいけないものを見てしまうこと、禁じられたら破ってみたくなるということで、どの地域、どの民族にも共通する普遍的な人間の心理と考えれば、同時発生(独立発達)と言えます。
このように遠く離れた地域で民族的なつながりのない異なる文明間で見事に類似する神話は、人種を問わず、同じように思考するという、人類に与えられた能力を物語っています。偶然の一致です。
人類はおそらく何千年いやそれ以前から、人が飽きない話を意識しながら類型的な話を楽しんできたと思われます。これはもう人間の性(さが)ですね。
ひるがえって、たとえ交通手段が極めて貧弱であっても、地域間に何らかの交通インフラが認められる場合は、形而上的な文化(宗教・風習・説話など)が伝言ゲームのようにして伝わっていく……。
日本列島と南方地域の間を結ぶ黒潮がその交通インフラの役割を担ったと考えられます。
第36回ブログでも言及したように、モノではなく文化であれば、「南方から、飛び石となる島伝いに次々と伝播し、ついには日本列島に到達した」と考えるのが自然でしょう。
頭に入れておかなければならないのは、この種の伝播というものは、数千年単位の長い無文字時代を伝播してきたという事実です。伝播には、私たちの想像をはるかに超えた力があるわけです。
下図でいえば、北赤道海流①から、黒潮②の流れに乗って南方文化の宗教・風習・説話などが日本列島までやってきたことになります。 <茂在寅男氏の著作から転載>
少々脱線しますが、この世界海流図で確認すると、①の北赤道海流は赤道に向かって北東から吹く貿易風の影響を受けて定常的に西方向に流れています。
同様に、⑤の南赤道海流は赤道に向かって南東から吹く貿易風の影響を受けているわけです。
ついでながら、「貿易風」という言葉からは「風向きが行ったり来たりする」イメージが連想されますが、原語はTrade Windで、本来は「恒常風」が正しい訳でしょうか。
Tradeには「恒常的」と「貿易」の二つの意味があるのに、最初の訳者が間違えてしまったようです。
季節風とは違って、決まったコースを常に一定方向に吹く恒常風には上記の貿易風のほか偏西風なども含まれるんですね。恥ずかしながら今回のブログを執筆していて知りました。
参考文献
『よみがえる古代の港』石村智
『出雲と日本海交流』池淵俊一
『日本神話の源流』吉田敦彦
『古事記神話の謎を解く』西條勉
他