<脊梁山脈>
魔法の絨毯に乗って移動?
筆者は声を大にして言いたい!
3、4世紀頃までの自然の姿を考慮しない古代史は、すべて真の古代史ではないと……。
研究者が提示する多くの古代史は、当時の自然の姿に無頓着か、それにはあえて目をつむっているようです。もちろん『記・紀』においても同様です。
例えば、「西日本全域を支配していた出雲政権が、東征してきた大和族に敗北して下野した」とか「崇神天皇が四道将軍を派遣して東北南部から北陸や岡山あたりまでを平定した」といくら念仏のように唱えてみても、これらの集団はどうやって縦横無尽に動きまわれたのでしょうか。
弥生時代、せいぜい3世紀の頃の話ですよ!
はたして、当時の日本列島には、支配・被支配の関係が成立するような地理的接触空間があったのでしょうか。
朝鮮半島やシナ大陸から、渡来人が大勢やってきて古代日本の礎を築いたと言ってみても、どのような手段で大海を渡って来たのでしょうか。
多くの奇説(トンデモ古代史など)はもちろんですが、通説や定説でさえも、集団の移動について、あたかも巨大な魔法の絨毯にでも乗っていたかのようなタッチでしか触れていません。
日本の古代史を論じる場合、当時の交通インフラの実態をしっかりと把握することが大切です。これは避けて通ることのできない与件です。なかでも重要なのは5世紀より前の陸上交通です。インフラが貧弱だったと想定されるからです。
日本列島は、中央に脊梁山脈が走り、河川と海峡、山々に遮られた狭隘な地域に細分化されていました。自然の障壁です。まして積雪の多い時期が長く続くことや、台風、強い季節風などの気象を考えれば、そう簡単には大規模な移動、移住は出来なかったはずです。
通説になっているおかしな例をひとつ示します。
『記・紀』を鏡とする古代史研究家の多くが、「3世紀末までにヤマト王権は、北は東北南部から、西は岡山あたりまでの広域を平定した」と声を揃えますが……。
『日本書紀』によれば、四道将軍が崇神の命を受けて出発するのは10月22日(現在の11月下旬)、地方を平定して帰還するのは翌年4月28日です。陸路も定かでないなか、しかも積雪の多い時期に北陸道や丹波を行軍しているわけです。「四道」という表現からして、6世紀頃の言葉ですからね。何某かの伝承やもととなるモデルはあったのでしょうが、四道将軍の派遣は、明らかに7~8世紀につくられた物語ですね。
「海岸沿いの陸上通行」がいかに困難であったかについては、第39回ブログで言及しました。
今回から、山、河川などの自然障壁について順次取りあげ、これらを克服する技術(内陸の交通インフラ)について確認していきます。その後、古代の道路がどんな状況だったのか、具体的に掘り下げてみます。
まずは「山」です。
列島の中央に走る脊梁山脈の凄み
日本列島を特徴づけるものは何と言っても脊梁山脈の存在です。
大石久和氏は、日本列島の自然条件の厳しさを10項目ほど挙げていますが、そのうち「古代日本にも通じる項目」は次の5つでしょう。
1. 複雑で長い海岸線と細長い弓状列島
2. 主要部分が四島に分かれた国土
3. 脊梁山脈の縦貫で国土が分断
4. 土砂・土石流が襲う不安定な地質
5. 狭く少ない平野で可住地が分散
なかでも脊梁山脈の縦貫は、古代日本の統一を遅らせた最大の自然障壁と考えられます。
グーグルマップの航空写真を見ると、日本列島は分水界でもある背骨のような脊梁山脈(中央分水嶺)と、そこから枝分かれする山脈、さらに孫のように枝分かれする山脈が網目のように絡み合い、尾根筋の間に極めて狭い空間が点在していることが読みとれます。
したがって国土面積の70%以上を山岳地帯が占め、27%の可住地域が分散的にしか存在していないのです。
<ネットから転載>
ほとんどの河川は脊梁山脈から発しているため、きわめて短く、急流になっています。増水すると暴れ川に変貌します。これらが各地域を道路で結ぶことをきわめて困難にしてきました。
このことを実感するのに適した図が、大石久和著『国土が日本人の謎を解く』の中にあったので、以下に転載します。
<大石久和氏の著作から転載>
上段の「日本列島一級水系分布図」からは、一級河川の全長が短く急流であること、平地が少ないこと、河川同士が接していない空白部分は、脊梁山脈や枝分かれした子・孫・ひ孫の山脈の尾根筋でびっしりと埋まっていること、などが読みとれます。
日本の河川図を、縮尺を合わせたフランスの河川図(下段)と比べれば、日本の脊梁山脈の存在が際立った存在であることがわかります。
フランスの国土は日本列島の1.4倍であるにもかかわらず、山脈や河川による自然障壁が極端に少ないことが読み取れます。
もっとも欧州全体で見れば、アルプス山脈やピレネー山脈などの縦貫が、フランス、イタリア、ドイツ、スペインという現在の各国を分け隔ててはいるのですが……。
ヤマト王権の地方支配は、欧州やシナの国家統合・地方支配のあり方とは大きく異なります。
欧州大陸やシナ大陸は平地が多く道路網が早くから発達していたため、紀元前の古代の戦闘においても、戦車や騎馬が主役でした。また幅広くゆるやかに流れる河川は軍船が利用可能でした。
『三国志』の戦闘風景から、3、4世紀頃(古墳時代初期)までの日本の戦闘を連想してはいけません。彼の地の国家統合のプロセスとスピードは、日本とは大きく異なり、紀元前のはるか昔から合従連衡が盛んでした。
対する日本列島は急峻な山々に隔てられた狭隘な各地に、それぞれちんまりとムラやクニが陣取り、それぞれが八百万神を奉じていたわけです。
キーワードは「大集団」!
人類は、何千年、いや何万年もかけてどんな厳しい自然条件も乗り越えて遠隔地に拡散していきました。
もちろん、日本列島の内部でも、先史時代から人の遠距離移動はあったことでしょう。幾世代も重ねて少しずつ移動したと……。
しかし、日本の統一を論じる場合は、そういう人類拡散のプロセスではなく、政治集団や軍隊の移動、大量の物流、情報の速やかな授受、などがメインテーマですよね。
旧石器時代や縄文時代が対象ならいざ知らず、「紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史」では、民衆一人ひとりのあり様を解き明かすというよりも(それはそれで大切なことですが)、政治権力の変遷を扱うことに力点があるでしょう。
ならば、政治権力たる大集団が拠点を移動し、また拡大していくプロセス(合従連衡、相互の戦闘など)を明確にすべきです。
大集団が内陸の厳しい山野を踏破するには、それなりの「道」の整備が必須です。
しかも、古代の山野を何日もかけて通る場合には、水、食料の補給がネックになります。
兵頭二十八氏は言います。
<海路遠征が距離をほとんど無視できるのに対し、陸路遠征は距離こそが死活的に重大な意味をもつ。わかりやすく言うと、三日分の食料しか携行していない歩兵を十日間強行軍させることは不可能なのだ。>
当ブログでも今後、古代の道路に言及するつもりですが、道路というインフラが整わない3、4世紀頃までの物語、すなわち神武天皇の熊野北上、四道将軍の遠征、ヤマトタケルの東征・征西のような『記・紀』の物語は、いずれも6、7世紀頃の後世の知見で描いたと考えるべきです。
武漢ウイルス
世の中、武漢発のウイルスで大変なことになってきました。すでに現役をリタイアしている筆者は、多くの皆さんの苦労とは比べ物になりませんが、それでも勉強会・講演会・月例定期コンサート・いくつかの懇親会や居酒屋探訪、そのどれもが中止になり外へ出かける機会がめっきり減りました。4月に予定していた近江方面への旅も取りやめに……。
調べごとをしようにも図書館は閉館中。仕方なく溜めこんでいだ資料を引っ張り出し、あらためて蔵書をひっくり返し、ネットサーフィンをしながら、ブログを執筆しています。
参考文献
『国土が日本人の謎を解く』大石久和
他多数