理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

45 重要な交通路だった「河川と湖」

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 自然障壁が邪魔をする古代日本では、陸路だけで遠方の目的地や山深い奥地に到達するのは困難なことでした。
 陸路の代わりに遠隔地を結んだのは地乗りによる沿岸航海であり、そして内陸部へは河口から遡る河川舟運があり、さらにその奥地にも舟越道などが存在し、細い交易路が遠近各地を網目のように繋いでいました。今回はその実態を確認してみます(このうち、航海については稿をあらため言及予定)。

 

内陸との通交を担った河川と湖
 
河川の一方向への連続的な流れは、船に推進力を与える重要な特性ですよね。流れに浮かべるだけで船はおのずから動きます。
 したがって陸路が貧弱だった古代、河川は沿岸地域と内陸部とを結ぶ重要な交通路として機能しました。
 舟運は、川の流れが緩やかなことが必須条件ですが、実際、古代の多くの河川は幅が広く流量も今と比べものにならないくらい豊かでした。

 一方、危険も多く、いったん豪雨に見舞われると、濁流と化した流れが下流地域に襲いかかります。河川の氾濫は日常茶飯事で、出雲のヤマタノオロチのような神話(第28回ブログ参照)も生まれるわけです。

 5、6世紀頃まで、大和・近江・上野・諏訪・津山・筑紫などの盆地は、川沿いの困難な道よりもむしろ、海から直接アクセスできる大きな河川そのものを利用することで発展してきました。河川舟運です。

 川舟は、古代から広く使われた平底船
 そして漕ぐだけでなく、人が岸から曳いて舟を進めた。これが舟曳き
 また舟を修羅に載せれば山道を進み、峠を越すことすら出来た。これが舟越し。平底舟だから可能なんですね。

 舟曳きは、人が荷を担いで運ぶよりも圧倒的に有利です。
 通常、人は30~50キロの荷を運べるが、舟曳きであれば数トンの荷を運べます。人力でなく馬に曳かせれば百トンは可能。
 道路網が整備される前、馬は陸だけでなく川でも活躍したのです。

 曳行シーンが鮮やかに描き出されているのは、文句なく森鴎外の『高瀬舟』の一節でしょう。
 <知恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕に、一隻の高瀬舟が、静かに下っていった。舟には、京都町奉行の同心、羽田庄兵衛と、遠島を申しつけられた罪人善助が乗っていた >。

 これを映画にした工藤榮一監督、前田吟主演の『高瀬舟』は、京都木屋町を流れる高瀬川の風景とともに、大勢の強力が川岸の船曳道から掛け声をそろえて高瀬舟を曳き、船頭が岸と接触しないよう棹で川岸と川底を押しながら操船する映像があって、河川舟運の理解が進みます。

 高瀬川の舟だから高瀬舟ではなく、高瀬(川の浅い瀬)を漕げる平底舟だから高瀬舟と呼ぶわけです。ちなみに出雲にも安曇野にも高瀬川はあります。
 古代の大和川を遡る水運などはこうした平底船が活躍していたのでしょう。 

 そして河川が途切れたさらに奥地へは舟越道を通って交易しました。
 舟越道については、前回のブログで、長野正孝氏の試論を紹介しました。長野氏は「船は、川を上るだけでなく、陸で曳くこともできる」と言っていましたね。

 

 内陸の大きな湖も古代の交通において重要な役割を果たしました。湖はかならず河川につながっています。河川を遡ったその先に大きな湖が存在し、そこが交易の中継地として機能し、さらに奥の各地と繋がります。
 今は存在しない古奈良湖、巨椋池などの存在も、古代の交通を論じる際は欠かせません。諏訪湖も今とは比べ物にならないくらい大きく、周辺には集落がいくつも存在しました。

 しかし、流れが速い河川は、なんとか丸木舟で下れても、手漕ぎで上るのは無理。川岸から手綱で曳こうにも、屏風のように両岸が迫る熊野川のようなところは川舟を曳くスペースがない。瀬が浅く急流の熊野川遡上ルートの神武東征物語は成立しません。

 足立美術館にある横山大観の『曳船』の絵には、山中の急流にある岩場で三人の曳き手が細い綱を曳いている様が描かれていますが、大勢から成る軍隊が急流を遡行することはまったくできなかったでしょう。

 

瀬戸内海側と日本海側を結ぶ河川舟運
 中国山地は標高の低い切れ目が何か所かあり、その低い峠を越える「南北ルート」がたくさん存在しました。瀬戸内海側が日本海側と河川ならびに川沿いの道を介して容易に繋がる例を2、3、示します。

 東部瀬戸内海へそそぐ加古川と、若狭湾に注ぐ由良川は、氷上(ひかみ)の地で山越えすることもなく繋がります。

 また吉備は日本海側と河川と川沿いの道を利用する「南北ルート」で連絡しています。
 瀬戸内海に流れ込む岡山三川を例にとります。
 吉井川を遡れば美作や津山へ、さらに中国山地を越えれば伯耆の湖山池、湯梨浜・東郷池に繋がります。
 同じく旭川は、米子から遡る日野川と繋がります。
 高梁川も出雲から遡る斐伊川と繋がります。

 瀬戸内海に面した吉備の繁栄は、瀬戸内海の交通を押さえたことに加え、「南北ルート」によって出雲方面とも通交できたことによります。5世紀のヤマト王権が吉備に目をつけたのは至極当然です。

 

 横道にそれますが、「南北ルート」といえば、印象に残る場所があります。
 筆者は旅に出る際、山と渓谷社発行の『日本の町100選 小さな町 小さな旅』(写真紀行全集6巻)をヒントにして行程を組みます。急速に発展した大都会や有名観光地ではなく、地方の歴史を刻んできた魅力的な小都市を100か所ほど載せているからです。
 主たる目的地の他に必ずそのような小都市を2、3か所選んで組み込みます。

 全集の写真を眺めていて、なぜか瀬戸内海と日本海側を結ぶ交通路に心を惹かれ、10年ほど前からその辺りの小都市を辿り始めました。古代の交通路に関心があったせいかな。
 それらの小都市は、室津、龍野、平福、智頭、竹田、佐用、津山、足守、備中高梁、勝山、生野、三次、温泉津などです。

 その中に上下」という妙なネーミングの小都市があり、過日、訪ねてみました。
 「上下」という名の由来は「日本海へ向かう江の川水系と瀬戸内海へ向かう芦田川水系の分水嶺の峠の町」ということらしい。
 なんと今回のブログにピッタリのネーミングだつたのです。

 上下町(じょうげまち)は広島県府中市の一部で、500~700メートルの山々に囲まれた標高500メートル超の盆地です。古くは石見銀山の銀の輸送路として栄え、近世になって石州路の宿場として栄えました。白壁、黒壁の家並が途切れなくつづき、レトロ調の街灯が彩りを添えてくれる、何ともほっとする町です。

f:id:SHIGEKISAITO:20200428171313j:plain <旧石州街道に沿って町並みが続く上下町>

 

 もう一つ、津山について記します。
 吉井川を遡れば津山に到ることは前述しました。そこは、瀬戸内海・日本海の双方から60キロも離れた山間の盆地で、古代から吉井川に育まれた水辺の地でした。
 昔の津山盆地は雨が降れば湖になってしまうほどの湿地帯で、舟運が発達していました。山奥にあって、港を意味する「津」の字がつくのも道理です。

 また古代は、出雲街道(出雲~松江~米子~新庄~勝山~津山~佐用~姫路)の拠点として、近世になると津山藩の城下町としても発展しました。
 筆者は2012年5月、中山神社(美作国の一宮)に参拝した折、津山の城東地区と津山城界隈を散策しました。
 中山神社には、原初の地主神と大和朝廷側の神が交錯する興味深い由緒が伝わるのですが、長くなるので今回は割愛。いつか必ず言及したい。
 津山は美しい町です。吉井川のほとりの宿から眺めた川霧は幻想的でした。

f:id:SHIGEKISAITO:20200428154452j:plain<川霧が垂れ込める朝の津山盆地と吉井川>

  これらの小都市を観光しても、6世紀以前の姿を感じさせるものは何もないわけですが、筆者は当時の地形や交通路を思い浮かべて理系脳を刺激することを大切にしています。
 興味深いのは、「南北ルート」の要衝地である上下も津山も、徳川幕府が抜け目なく「天領」としたことです。交易に利するルートは時代が大きく離れても変わらないでしょう。
 おそらく古墳時代の頃から、これらの場所を通る「南北ルート」と要衝地としての集落が存在したとの思いを強くします。

  海と川と湖の利用で隆盛した事例としては、大和盆地があまりにも有名です。次の節であらためて確認してみます。

 

内陸部発展の好例、大和盆地
 
地政学的に見ると、日本海から遠く離れた大和の地が先行することは考えにくいのですが、 実際は河川や湖の存在が大和地域の急速な発展を可能にしました
 大和盆地には軟弱地盤が存在するので、その部分に古奈良湖があったと推定されています。
 その後、金剛山地と生駒山地に挟まれた大和川の狭窄部(亀の瀬峡谷)で、数十メートルの高さの閉塞土が長い時間をかけて徐々に流失し、湖が干上がって小規模化ないしは湿地となったらしい。
 したがって、弥生末期の大和盆地には、縮小した古奈良湖と湿地が広がっていたはず。山の辺の道はその湿地帯の縁を縫うように走っていたことになります。

 古代の豪族勢力図を見ても、大和盆地の中心部は空白域となっていますね。この地域には豪族が居住していなかった証拠です。おそらく中心部付近(今の広瀬大社が鎮座するあたり)は活用できる土地ではなかったのでしょう。

 その代わり交通面では、古奈良湖まわりの扇状地に河川が四通八達していたため、盆地内各地から河内湖はもちろんのこと、巨椋池、琵琶湖までも比較的容易に、水運と一部山道越えでアクセスできました。大和盆地が、標高30~100メートルと海面からさほど高くないことも水運が有効に機能した理由です。
 もちろん、大和川の河口からそのまま大和盆地まで漕ぎ上ったわけではなく、勾配のきつくなるところは小舟に換えて曳舟をしたり、難所はボッカでクリアしたはずです。馬が輸入されてからは「駄載」もおりまぜて……。

 

 ヤマト国がこの地で発祥し、後発グループから脱して先頭に立った理由の一つが、「①河内~大和川~大和盆地」ルートと「②丹後山城~木津川~大和盆地」ルートを押さえたことによります。
 しかし、3世紀の段階では、この2つのルートは排他的に利用できるほど万全のものではありませんでした。4世紀以降のヤマト国は、このルートの完全掌握に向けて軍事行動を起こし、ヤマト王権へと移行していくのです。

 この時点では淀川水系中流部は大変な暴れ川だったため、多くの人口を養えるようになるのは、鉄器が普及する4世紀後半以降です。少々遅れて6世紀までには「③若狭~琵琶湖~淀川~河内」ルートもヤマト王権の支配下に入ります。
 これらの海・川・湖を結ぶ多方面交通路(①②③)がヤマト王権発展の原動力になったと言えましょう。

 ヤマト国がヤマト王権として大きく変容していく過程で、最初にアプローチした地域は近江、続いて丹後と推定します。その後、東部瀬戸内海から河川や川沿いの道を利用して伯耆、出雲方面と通交したと考えます。瀬戸内海と日本海を結ぶ「南北ルート」の利用です。いずれも、先進的な文化の吸収、文物の入手に有利な「海に出る」ことが狙いです。
 吉備に介入して瀬戸内海航行を掌握するのは5世紀後半から6世紀になる頃です。

 交通インフラの観点から以上のように推定したわけですが、王権の版図拡大について古代史本論」としていずれ詳述します。

 大和盆地は海には面していないが、川・湖を介して濃密に海とつながっていたわけです。

 

地形が支えた江戸の封建社会
 古代史の範疇からは外れますが、竹村公太郎氏の論考の中に自然障壁としての河川の性格が垣間見られたので、以下にまとめてみます。

 その前に、まず、流域とは何ぞや?ということですが……。

 日常的には、〇〇川の周辺という意味で、〇〇川流域という言葉が使われますが、ここでいう河川流域とは、雨水が流水となって〇〇川の水系に集まってくる範囲の土地全体のことです。つまり〇〇川のもととなる雨水の降下範囲を流域(集水域)というわけです。ある流域と他の流域との境界線は流域界または分水界と呼びます。分水界(分水嶺)は第41回ブログでも図示しました。

 地形図を子細に眺めれば尾根筋と谷筋が分かります。すると尾根筋から谷筋に向かって等高線に直交する方向に水が流れることが読みとれます(流線)。この流線が谷線に収束する範囲の尾根線を結ぶと流域界になるわけです。

 

 下図は流域界を表した「一級水系流域図」です。 

 f:id:SHIGEKISAITO:20200326173616j:plain<ネットから転載した一級水系流域図>

 少々、見にくいと思いますが、上図で、28は利根川水系、29は荒川水系、30は多摩川水系、35は信濃川水系、54は木曽川水系、59は由良川水系、60は淀川水系、63は加古川水系、72は斐伊川水系、73は江の川水系、75は吉井川水系、76は旭川水系、77は高梁川水系、78は芦田川水系というように、どの水系流域も頭でイメージするよりも広大です。
 水系同士の境目は分水界(分水嶺)ということになりますね。

 

 さて、その竹村氏の論考ですが、節タイトル「地形が支えた江戸の封建社会」の中の一文です。
 
 <世界史の中でも珍しい、確たる封建社会が日本で登場した。
 江戸の封建社会の形成と継続は、江戸幕府による参勤交代やお手伝い普請や藩の移封や藩取り潰しなどの政治的、社会的側面で論じられる。しかし、それ以上に、江戸幕府は巧妙な工夫をこらしていた。
 江戸幕府は、日本列島の地形を利用したのだ。山々と海と川で分断された地形に即して、各大名の領地を配分した(中略)。
 全国諸大名はこの河川流域の中に収まるよう配置された。
 大名たちは与えられた領地で、川から水を引き、洪水を防ぎ、農地を開発していった。領地はうまく流域で分けられていたので、領地を開発しても隣国と衝突することはなかった。
 流域で分けられた土地に封じられた大名たちは、安定した地方権力を確立していった。
 日本列島の流域地形が、権力を地方に封じ込んだ確たる封建社会を構築していった。しかし、この強固な封建社会こそが、次の近代化の幕開けにおいて最大の障害となっていった>。

 自然障壁を克服して盤石な集権体制を築いた武家社会においてすら、河川の自然障壁が地方の統治に利用されていたわけです

 

参考文献
『日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇』竹村公太郎