理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

48 馬の利用

f:id:SHIGEKISAITO:20200113171655j:plain <勧修寺の菖蒲>

 急遽思いつきました。陸上交通といえば馬を欠かすわけにはいきませんね。今回は馬について言及します(第44回ブログで予告)。

 『日本書紀』には、スサノオ(神代だけど、あえて言えば弥生時代かな?)が、いろいろな乱暴狼藉をする場面で、まだら毛の馬を放して田の中を荒らし、まだら毛の馬の皮を剥いで斎服殿(いみはたどの)の屋根に穴をあけて投げ入れた、とあります。

 一方、『魏志倭人伝』には、3世紀頃の日本(九州のことか?)に馬はいなかったと書いてあります。
 <其の地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)無し>。
 さて、その真偽のほどは?

 実際のところ、縄文・弥生時代の日本には馬はいなかったのです。そればかりでなく5、6世紀頃までの古代日本では、交通に占める馬のウエイトは高くありませんでした。

 

馬の利用は5世紀頃から
 
馬の骨や歯は、時期は古墳時代から、地域的には九州・関東で多く出土しています。また、古墳時代中期には馬具が出土し始め、さらに関東では埴輪馬が多く出土するようになります。
 こうした事実からは、古墳時代の5世紀頃になって、馬の飼育という新しい文化が朝鮮半島から持ち込まれ、馬の活用が広がっていった想定されます。しかも急激に。

 『日本書紀』応神15年に、
 <百済の王、阿直伎を遺して、良馬二匹を貢る>とあり、応神の在位を4世紀後半から5世紀初めまでとすれば、文献面の記述ともほぼ合致するようです。

 

 4世紀以降の朝鮮半島情勢を見てみると、騎馬戦力に優れた高句麗が強大化し、新羅・百済などの半島南部の諸国を圧迫、それに対し新羅は高句麗に従属して成長する戦略をとります。危機感を抱いた百済は、加耶諸国や日本と同盟関係を結びます。
 軍事的支援を求められた日本は遠征するが、400年と404年の対高句麗戦で完敗します。騎馬民族との戦いで完膚なきまでに叩かれました。

 ヤマト王権は、高句麗の軍事力を強く意識し、軍事における馬の重要性を痛感、以後、国策として馬産地を各地に展開するなど軍事国家の色彩を強めていくのです。
 この間、百済や加耶諸国は日本に専門家を派遣するなどして、大規模な馬産地づくりに協力し、馬具の生産技術などを教えます。

 5世紀頃から馬具などの出土が著増することから、大東亜戦争直後の一時期、「騎馬民族征服説」が一世を風靡しました。
 弥生時代や古墳時代前期までの農耕民族的な日本人が、5世紀になってそれまでなかった騎馬という異質な文化を受容し、しかも急激に普及できるはずがない、というわけです。
 この「征服説」は、朝鮮半島からやって来た騎馬民族が日本を征服して新王朝を樹立、これが現在の天皇家につながるという「画期的な?」ものですが、具体的に騎馬民族が日本列島を統治した証拠はどこにもありません。

 しかしいまだに「騎馬民族征服説」に執着したり、この延長線上の論考も見かけますが、もちろんその珍妙な説は明確に否定されています。
 正確に言えば、騎馬民族が大挙して流入し日本を征服したということではなくて、騎馬戦術や騎馬民族の文化が流入し急速に広がったということですよね。

 当初は軍事的インパクトから始まったわけですが、この5世紀を境に、多方面に及ぶ馬そのものの利用や馬の文化が古代日本のあり様を大きく変えていきました。

 5、6世紀以降、品部の制が整っていく中で、渡来人が主導する専門集団(後の馬飼部のような組織)が置かれていきました。彼らによって馬は飼育・調教され、労力の代替、飾馬として儀式化、そして乗用馬としても利用されていきます。

 

乗用馬の世界史
 日本の馬の原郷はモンゴル高原とされていますが、ここで馬の歴史を確認しておきましょう。
 馬の家畜化は後期新石器時代とされ、伴侶動物としての歴史はおよそ紀元前4000年までさかのぼるといわれます。ヤギ・羊・牛よりも遅いようです。
 乗用馬には草原馬と高原馬がありますが、日本列島に持ち込まれたのは草原馬の方です。
 裸馬をそのまま乗りこなすのは難しいため、実用的な轡や手綱が発明されるまで、騎乗よりも馬車の普及の方が先行しました。

 馬車の使用は紀元前2000 年頃で、ヒッタイト人が戦闘馬車で周辺地域を征服してヒッタイト帝国をつくり上げています。

 紀元前1700年代にアッシリア帝国を築いたアッシリア人は、轡も手綱もつけた馬に乗る史上初の騎兵隊を組織します。その後、オリエントや小アジアでも馬戦車から騎兵に代わっており、紀元前1000年頃にはアジア内陸の騎馬民族が周辺の農耕民族を侵略していきました。

 ギリシャには紀元前2000年頃に馬が入り、その後は戦闘馬車が使われ、紀元前1300年頃には馬に騎乗していたようです。紀元前4世紀のアレキサンダー大王の遠征では騎兵が活躍しています。

 シナ大陸でも古くから蒙古馬が飼育されていたと考えられ、殷代出土の馬骨や馬具から高度な馬文化の存在が知られています。
 日本の弥生時代後半にあたる時期に、済州島などで馬の利用が始まっています。当時の日本と朝鮮半島の間には人の往来があったため、紀元後の日本列島人は馬の存在を知っていた可能性があります。
 しかし、実際の馬の輸入は、考古学上の出土からは5世紀頃からとされているわけです。

 

馬はどうやって運ばれてきたのだろうか
 馬を何世代にもわたって牧で飼うためには10頭、20頭だけを連れてきても意味がない。100頭、1000頭の単位で連れてきて、はじめて近親交配を起こさずに繁殖させられる、というのが動物学研究者の指摘です。
 つまり、短期間に馬の大規模な渡来があったと考えざるを得ないわけです。

 馬を小さな丸木舟で運ぶことは絶対にできません。5世紀といえば大型の準構造船が登場している可能性が高いですが、はたして準構造船に馬を乗せてどの程度の頭数を運べたのでしょうか

 最後の節で言及しますが、『日本書紀』欽明15年(6世紀半ば頃)に、船のタイプは不明だが40隻に馬100頭を乗せて、日本から朝鮮に運ぶ記事があります。これでは焼け石に水という感じ。
 いったいどうやって大量の馬を運んだのだろうか。大きな謎です。

 何よりもまず馬は神経質で臆病です。日本海の荒波を越えてくる……。
 準構造船の上でじっとしていられるのだろうか。眠ることができるのだろうか。馬は立ったまま寝ても、四肢の各部の関節は靱帯で固定され、深い眠りに引き込まれても安全とは言いますが。

 この謎に答える文献を、筆者は今まで見たことがありません。『騎馬民族征服説』も読んでみましたが、馬とともに来襲するという征服の肝となる部分なのに全く言及はありませんでした。

 出土した舟形埴輪などをもとに復元した準構造船は、全長15メートル、幅3メートル、8人以上で操船し、乗員数十人と馬を乗せられると試算されています。でもこの程度の準構造船では、1隻に馬1、2頭くらいの積載が精一杯。
 いくら技術革新の5世紀でも、準構造船だけで馬を大量輸入したとは考えにくいですね。
 当時は板材を組み合わせた大きな構造船を造る技術はありません。

 残る可能性としては、5~7世紀頃に使われた百済船(くだらぶね)か、シナ系の大型ジャンク船(の亜流?)が九州北部にやってきたということでしょうか。
 百済は、シナ流の馬の海上運搬技術をつぶさに学び、実用化していた可能性があります。
 ジャンク船は、構造材である竜骨(キール)が無く、船体が多数の水密隔壁で区切られており、喫水の浅い海での航行には便利で速度も速いと言われます。 船倉が深くできないため、大型化とともに横に平べったくなっていきましたが、馬の大量積載には好都合かも。
 このような船が馬の流通で朝鮮半島と九州北部・山陰のあいだを往復していたのでしょうか。謎です。

 

馬を使う陸上交通は飛鳥時代以後
 シナ大陸には古来「南船北馬」という言葉があり、黄河の北から東北地方にかけての平坦な砂漠地帯では騎馬が機能する素地がありました。
 これと異なり日本の地形は、起伏の多い山や谷で分断され、騎馬で軍隊を進められる地形ではありません。雨がふればぬかるみ増水する河川と湿地帯が多い日本の国土では、国内を統一できる強力な騎馬軍団を有効に機能させられません。
 当然、大陸の騎馬軍団が日本を席巻するという珍説もあり得ません。

 国内に入ってきた馬は牧で増やす政策がとられましたが、そのまま軍事に利用することは出来ず、輸送面における船・舟の補完的な役割を担った可能性が考えられます。

 飛鳥時代より前の日本の道路は基本的に歩道で、馬車・牛車などが通る車道はありませんでした。飛鳥時代以降に石畳による舗装路が出現したが、それまでは重いものは、船・舟で運んでいたわけです。飛鳥時代より前の陸上移動は基本的に馬の利用はなく、人の足がすべてだったと考えられます。

 興味深い事実を記しておきます。
 人は、徒歩で30~50キロの荷を担いで運べると、第45回ブログで述べました。馬の背に載せて人が引っぱれば100キロ強くらいまで運べます。
 米俵は1俵が60キロですから、振り分けで120キロは運べるわけです。ちなみに駱駝なら600~700キロは運べるようです。
 次に川舟に荷を載せて岸から引く場合は1人で数トンは運べます。それが馬に岸から引かせれば100トンまで運べることになります。


 馬で世の中を動かし政治を動かしてゆくのは、道路のインフラが整い始める平安時代末期以降の武士の世になってからです。

 宮本常一氏によれば、古代日本では馬が通れるような道が整備されても、武士以外は馬は乗るものではなく、荷をつけて、しかもその口取りした馬を人が引っぱっていくというような使い方をしていたようです。

 

朝鮮半島南部への馬の輸出
 馬は5世紀頃に日本列島にやって来たわけですが、その後、馬は日本から輸出されるようになります。
 馬の繁殖に必要なのは、餌が豊富な草原の存在です。日本列島は草原の国ともいえるくらい草原の地は豊富、かたや朝鮮半島は草原に恵まれませんでした。
 その違いを蒲池明弘氏は、火山の有無としています。

  日本列島においては、火山活動に由来する「火山性草原」や「シラス台地」が、牧にふさわしい草原環境を作ってきたといいます。
 朝鮮半島の火山は、済州島などを除けば北朝鮮の白頭山くらいに過ぎず、肝心の草原が乏しかったので、大きな馬産地は成立しなかったようです。
 高句麗だけは、現在の中国東北部にも領土を広げていたので、モンゴルから続く草原が存在し、また騎馬遊牧民の社会と国境を接していたため騎馬文化や馬そのものの入手でも有利でした。
 逆に半島南部は質・量ともに馬が乏しいため、日本に馬の専門家を派遣し日本で育てた馬を輸入することも行われたようです。

 5世紀から6世紀に隆盛した牧としては、河内の牧摂津の牧が有名。四条畷付近の讃良の馬牧はその一つです。
 これらは「近都牧」と呼ばれるようですが、大和川が何本もの川筋になって河内湖に流れ込み、さらに瀬戸内海に流れ出るそれらの川の両側、湖のほとりのような低湿地に集中していました。
 この一帯の河内馬飼は、馬の文化が入ってから半世紀後の継体の時期に重要な役割を担うことになります。

 最初の節で言及した、百済の王が良馬2匹を貢いだ件ですが、『日本書紀』では、その馬飼いをした場所を厩坂としています。そこは第44回ブログで述べた厩坂道とおそらく関係するのでしょうね。

 牧は急速に広がり、九州・関東でも5~6世紀には牧が広範囲に営まれます。
 牧原・牧野・大牧・小牧・牧島・牧村など、牧にちなむ地名や苗字は、古代以来の牧に何らかのかかわりのある地名であり苗字といえるでしょう。


 6世紀の前半には、馬の輸入国から輸出国に転じていることが『日本書紀』から読みとれます。

〇 継体6年に40頭 
 <穂積臣押山を遣して、百済に使せしむ。仍りて筑紫国の馬四十匹を賜ふ。>

〇 欽明7年に70頭 
 <百済の使人中部奈率己連等罷り帰る。仍りて良馬七十匹・船一十隻を賜れり。>
〇 欽明15年に100頭
 <即ち助の軍の数一千・馬一百匹・船四十隻を遣らしめむ。>

 やがて663年の白村江の戦いで、日本は大敗北を喫し、朝鮮半島の政治・軍事から完全に手を引くことになります。同時に輸出志向の馬の飼育が終わりをつげ、蝦夷対策のために、中心的な馬産地が東日本の関東に移動していったようです。

 

 日本では、縄文時代や弥生時代の遺跡から馬骨や歯の化石が出土したことから、馬の渡来はこの頃からと推定もされていましたが、最近の年代測定法などの研究結果から、後代の骨が混入したものとされ、日本在来馬は4、5世紀の古墳時代に朝鮮半島から渡来して各地に広がったと考えるのが妥当とされ、今ではこれが定説になっています。
 結局、最近の研究は『魏志倭人伝』の記載を裏づけるものになっているわけです。


 今回の結論。
 筆者が対象とする紀元6世紀頃までの陸上交通においては、馬を利用する交易や軍事のウエイトは小さかったと言えそうです。偏に、道路というインフラが貧弱だったことによります。しかし、遠距離移動を伴わない農耕・土木工事・古墳築造などの労働代替としての馬の役割については、さらに研究する価値がありそうです。

 

参考文献
『発見・検証 日本の古代Ⅱ 騎馬文化と古代のイノベーション』
『馬が動かした日本史』蒲池明弘
『騎馬民族による征服説』江上波夫
『馬・船・常民』網野善彦・森浩一
他多数