理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

47 塩の道

 f:id:SHIGEKISAITO:20200113110458j:plain <三室戸寺のしゃくなげ>

 第44回ブログで予告した「塩の道」について言及します。
 弥生時代、いや縄文時代の昔から、海を持たない地域には、どんな山奥であっても「塩の道」が通っていた可能性があります。その多くは今や役目を終えて消失し確認すら困難な状況です。
 痕跡を残している塩の道としては、信州を南北に走る「千国街道」が有名です。
 「千国街道」には塩だけでなく、山側と海側でさまざまなものが行き交っていたことが分かっています。物々交換の道でもあったわけです。
 もちろんその姿は今とは異なり、当時は刈り込まれた平地がほとんどなく、集落間を結ぶ道路は、草木生い茂る原野や、山間ないしは尾根筋を踏み固めただけの「けものみち」のようなものでした。
 ひと一人がやっと通行できるくらいの細々とした貧弱な道でしたが、古代人にとっては欠くべからざる「生活の道」であり「交易の道」だったといえるでしょう。

 

農耕生活への移行とともに始まった塩づくり
 
塩分は、細胞と体液の間の浸透圧を調整する、神経伝達や心筋の働きを活性化する、消化吸収を促進するなどの役割があり、塩分不足は深刻な体調不良を招きます。長期に不足すれば致命的です。
 人は本能的・生理的に塩分を欲し、体内で作れない塩分を食物として摂取するわけです。

  日本の塩づくりの始まりはいつ頃からでしょうか。
 おもに高橋英一氏の論文からまとめてみます。
 弥生時代より前、古代人の食生活は狩猟、採集、漁労によって支えられていました。古代人は捕獲した獣の、肉や臓物だけでなく骨の髄も食べていました。食べられるところはすべて食べていました。また貝類も好んで食べていました。
 そのほかクルミ、ドングリ、クリ、トチの実などのタンパク質や脂質に富んだ堅果を採集したり、自生するクズ、カタクリなどの根茎を水にさらしてデンプンを採取することもやっていました。
 このような雑食の時代には、本能にもとづく選択ながら、栄養のバランスは結構よくとれて必要な塩分も鳥獣、魚介の類からとれていたようです。

 魚貝類には塩味がついていますし、動物の肉にも塩分が含まれています。狩りをして暮らしていた頃は塩分を特別に摂る必要はなかったのです。
 つまり狩猟生活をおくっている限り、人の体の塩分濃度は0.85~0.9%に維持され、特別に塩分を必要としなかったのです。

 なぜ0.85~0.9%なのか。
 現在の海水濃度は約3.4%と高いが、これは地球の長い歴史のなかで少しずつ濃度を増してきたもので、生命が海から陸上に生活圏を広げた時代の海水濃度は0.85~0.9%に近かったと言われています。

  縄文時代の終わり頃から農耕生活に変わり始め、穀類主体の食生活に変化たためカリウムの摂取が多くなり、バランス上、ナトリウム(食塩)の要求量が高くなってきます。穀類の摂取がふえてくると、狩猟採集時代の臓物などを食べる習慣もしだいになくなってきます。
 このようにして自然の食物から摂る塩分だけでは足りなくなってきたため、必要な塩分を塩そのものから摂るようになったと考えられています。

  こうして、不足する塩分を補うために塩づくり始まりました。

 塩分を欲するのは人だけではありません。同様な理由から、牛、馬、羊などの草食動物も塩を欲します

 宮本常一氏の『塩の道』に、次のような興味深い内容が紹介されています。

 <塩を運ぶとき、夜になると野宿をしたわけですが、そのときに必ず火を焚かなければならなかったということです。それはどういうことかというと、牛にしろ馬にしろ、また、そのほかの動物にしても、やはりみな塩を必要とするのです。
 そこで塩のあるところへは必ず野獣がやってきます。とくに江戸時代にいちばん恐れられたのはオオカミで、これも塩を求めるものの一つであった。たとえば山の中で働いている人たちが小便をするのに、壺の中へしてはいけないといわれていたのは、壺へ小便が溜まると必ずオオカミが舐めにくるといわれていたからで、小便は必ず底の抜けたものへしなければならなかったのです。
 それでは立小便はというと、これも許されなかった。というのは、立小便が木の葉へかかっていると、それを食べにオオカミが来るといわれていたからです。底の抜けたものに立小便をしておけば、それはずっと流れていって海へいき、また塩になるじゃないかというように、山の中で働いている人は、自分の小便の始末すらたいへん重大なこととして考えていたのです。>

 

日本列島における塩づくり
 考古遺物・遺構からも、日本で塩が使われるようになったのは、縄文時代後期から弥生時代にかけてといわれています。

 四方を海に囲まれた日本では簡単に塩がとれると思いがちですが、岩塩として塩が得られる国と比べ、海水を煮詰め精製する必要があるため、塩づくりは時間も手間もかかる困難な作業でした。
 日本は湿度が高く、しかも平地面積が小さいため、海外のように塩田で1~2年もかけて塩を結晶させるという方法は採れず、塩をつくるために様々な工夫をしてきました。

 日本におけるもっとも古い塩作りの方法は、干した海草を焼いて、塩の混ざった灰をそのまま塩味として使う方法です。

 弥生時代には、海草を焼かず天日で乾燥し、そこに海水をかけることにより濃い塩水を取り出して、土器で煮詰める藻塩焼きが発達しました。
 この藻塩焼きに使われた土器は、全国各地の海辺に近い遺跡から多数見つかっており、製塩土器と呼ばれています。製塩土器を使った塩づくりは、東日本では約3500年前に始まり、西日本では約2000年前に始まったようです。その塩は褐色を帯びていたらしい。
 この藻塩焼きを起源として、日本の製塩が始まりました。入浜塩田が現れるのはずっと時代が下ってからです。
 当時の技術では多量の塩を得ることは難しく、しかも貴重だったので、塩分の高い食品をつくりだし、これによってナトリウムの補給をはかるようになります。
 醤(ひしお)の発明です。これが後代の味噌・醤油・漬物・しおからなどにつながり、食物の保存と調味料を兼ねた食品となって現在に伝わっているわけです。

  製塩土器は古墳時代後期にはなくなり、7世紀以降は製塩用鉄釜に置き換わります。

 小さな土器に入れた塩を海辺で焼き、土器ごと内陸に運んだ例も見られます。
 『今昔物語』には、平安京のなかで源融(みなもとのとおる)が松島や塩釜の景色に見立てた河原院の庭で、難波から海水を運んできて塩を焼いた話が出ています。
 森浩一氏は、確かに土器ごと塩を運んだこともあるけれど、時には濃縮した海水を樽かなんかでもってきて塩を作ることもあったのではないか、としています。

 

列島に張りめぐらされた塩の道
 海に囲まれた日本では、塩は昔から多く流通していた様なイメージがありますが、実は大変貴重なものでした。
 その証拠に、日本全国には、塩にまつわる物語や地名がたくさん残っています。
 有名な塩尻市をはじめ、上田市塩尻、その他にも各地に残っています。
 また、塩の産地としては瀬戸内が圧倒的に有名ですが、関東地方にも製塩を連想する地名が数多く見受けられます。東京湾周辺に多くある塩浜という地名がその1つで、「塩浜」とは塩づくりに使う砂浜(塩田)のことで、江戸時代には生活必需品として塩が盛んに生産されていました。

 弥生時代には、日本各地に「塩の道」が通っていました。
 本来、「塩の道」というのは岩塩のない日本では海でとれた塩を内陸に運ぶための道のことを言い、海岸から内陸にむかって多くの「塩の道」がありました。
 塩の道は同時に、海の産物と山の産物を結ぶ暮らしの道でもありました。

  塩はどうやって海から内陸の奥地まで運ばれたのか?
 人が塩をかついでボッカで運ぶしかないですね。牛馬が使われるようになると、主として牛が使われたと言います。

 馬は長距離には使わずもっぱら短距離用。日本の馬はもともと小さくてヨタヨタしていて、重量物を運ぶには向いていない。馬は野宿ができず道草を食わない。一方、牛はすぐ横になって寝てくれるし、脚力も強い、道草を食べてくれるという長所があります。

 塩は、最初に述べたように生理的に必要なものですが、キヨメにも使われ呪術的な意味も持っていたようです。伊勢神宮の「御塩殿」の製塩はまさしくキヨメに関わるものでしょう。

 次に、塩にまつわる故事として、「鹽竈(しおがま)神社」と「千国(ちくに)街道」を取りあげてみます。


陸奥国一宮「鹽竈神社」
 2013年10月、「一宮めぐり」の一環で、宮城県の「鹽竈神社」を訪れました。
 当社は名実ともに東北一の大社として多くの崇敬を集めており、全国の「塩竈神社」または「塩釜神社」百数十社の総本社でもあります。
 本殿は左右2殿構成で、それぞれ軍神のタケミカヅチとフツヌシを祀っていますが、相神の位置づけです。主祭神シオツチノオジは一体どこに?
 あろうことか、本殿ではなく「別宮」に祀られていました。主祭神が「別宮」に祀られているのは不思議の一語に尽きますが、東方向にある海を背にしているので、海と親和するシオツチノオジに相応しいと言えますね。

 塩釜の地は縄文時代末期から製塩が行われていたようで、それを裏づける考古遺物も発見されています。したがって塩釜では古くから土着の製塩の神が祀られていたと思われます。後世、その原初の神がシオツチノオジに代えられてしまったのでしょう。

 3祭神の合祀について……。
 蝦夷征討の際、タケミカヅチとフツヌシの2神を先導したシオツチノオジが、平定後にこの地にとどまり製塩を教えたと伝わり、これが当社創始の由緒とされています。
 創建は奈良時代の可能性が高いのですが、その後、祭神がはっきりしないまま時が経過し、伊達氏が江戸時代に「鹽竈社縁起」を作ってから、ようやく今のような3祭神が確定されたようです。伝承とか由緒はそういうものです。

 実際は、シオツチノオジとは全く無関係に、国府の守護と蝦夷平定の精神的支えとして、タケミカヅチとフツヌシの2神を鹿島、香取の両神宮から勧請したものと思われます。

f:id:SHIGEKISAITO:20200525135637j:plain <鹽竈神社の銅鐵合成灯籠と別宮の拝殿>

 

 末社である「御釜神社」にも参拝しました。
 祭神は本社と同じシオツチノオジ。
 「鹽竈神社」の例祭に神饌を調進する御釜神社の「藻塩焼神事」古代製塩の名残を残しています。
 神竈奉置所の中に安置されているる4つの「神竈」を見学しましたが、これは製塩土器ではなく製塩用鉄釜でした。塩釜の名はこの釜に由来するらしい。
 平安時代につくられたもののようです。

 写真は神竈奉置所ですが、扉が開けられた時は大勢が覗きこみ、良い写真が撮れなかった。残念!

f:id:SHIGEKISAITO:20200525135703j:plain  <御釜神社神竈奉置所>

 筆者は、能のお稽古をしていたので、謡曲を通して古代の姿に触れることが多々あります。
 謡曲『松風』は「熊野(ゆや)松風に米の飯」といわれるほどの人気曲ですが、その中にも「陸奥のその名や千賀の塩釜」という詞章がありました。
 その他、平安期の和歌にも塩釜の地は数多く詠み込まれています。
 遠く離れた製塩地の塩釜が、奈良時代以降の都にも歌に詠まれるほどの名所として伝わっていたことが分かります。

 

 千国街道
 塩の道として有名な千国街道」は、新潟県糸魚川から長野県松本まで(約130キロ)の旧道です。現在は国道147・148号線、そして鉄道ではJR大糸線がその役目を引き継いでいます。
 千国街道の歴史は、無土器時代にまでさかのぼるといわれています。塩が運ばれる以前から海と山を結ぶ交易の道でした。
 長野県和田峠で採掘された(鏃の先に使われた)黒曜石が日本海側の遺跡で発見されたり、新潟県糸魚川市の姫川流域でとれるヒスイが長野県の遺跡で発見されますが、これは石器時代から日本海側と長野県を通じる道があって運ばれたからにほかなりません。
 また中間の長野県大町市からヒスイを加工する工房跡が発見されたことからも、この「千国街道」によって物資が流通していたことがわかります。

 『古事記』にある、オオクニヌシとヌナカワヒメの子、タケミナカタ(諏訪大社の祭神)が出雲国から州羽(現在の諏訪)に逃げたという神話も、この道の存在を物語っていると考えられます。
 これは7、8世紀に作られた神話ではありますが、昔から稲作・金属文化の出雲とヒスイ産地の姫川との間で交易・交流があり、さらに新潟県と諏訪がこの塩の道によって結ばれていたことを物語っています。
 また、安曇野地方に稲作をもたらしたと言われる安曇族は、もともと北九州を根拠地とした海の民で、『古事記』にその名が見えます。この一族のうち一部は、日本海を北上して糸魚川から姫川を遡り、塩の道を通り、高瀬川流域を開拓して安曇野としました。彼らは遅くとも6世紀までには当地に入ったと考えられています。
 穂高神社(峰宮は奥穂高岳頂上)は彼らの末裔が祀った神社です。

 信州では、太平洋側から入る塩のことを「上塩」とか「南塩」と言い、岩淵(富士川)、吉田(豊橋)、名古屋、江戸から運ばれました。
 日本海側から入る塩のことは「下塩」とか「北塩」と呼ばれ、富山(針ノ木峠経由)、糸魚川、直江津、新潟から運ばれました。
 そして、上塩と下塩との移入路のターミナルには「塩尻」という地名がつけられたと言われています。山間部では手に入らない塩の流通の尻(太平洋側の塩と日本海側の塩が出会う終着点)として名づけられた名前です。

 「塩の道」は全国各地に存在しましたが、千国街道はもっとも代表的な海辺と内陸部を結ぶ街道であり、幾多の歴史を残しています。川中島の合戦のときに「上杉謙信が敵である甲斐の武田信玄に塩を送った」という逸話の舞台でもあるから有名となり、「塩の道・千国街道」と呼ばれているのです。この逸話、上杉家の美談として語られたものであって史実ではないようですが……。

 海辺と内陸奥地を結ぶ「塩の道」は、4、5世紀までは大集団が進めるような道ではなく、少人数が行き交う交易のためや、文化・技術が伝播する道であったと言えそうです。

 今回で、陸上の交通インフラに関する論考をひとまず終えて、次回から「舟と海路」について論究していきます。

 

参考文献 
『生命にとって塩とは何か 生物と塩との関係史10』高橋英一
『塩の道』宮本常一
『馬・船・常民』網野善彦・森浩一