理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

47 塩の道

 f:id:SHIGEKISAITO:20200113110458j:plain <三室戸寺のしゃくなげ>

 第44回ブログで予告した「塩の道」について言及します。
 弥生時代、いや縄文時代の昔から、海を持たない地域には、どんな山奥であっても「塩の道」が通っていた可能性があります。その多くは今や役目を終えて消失し確認すら困難な状況です。
 痕跡を残している塩の道としては、信州を南北に走る「千国街道」が有名です。
 「千国街道」には塩だけでなく、山側と海側でさまざまなものが行き交っていたことが分かっています。物々交換の道でもあったわけです。
 もちろんその姿は今とは異なり、当時は刈り込まれた平地がほとんどなく、集落間を結ぶ道路は、草木生い茂る原野や、山間ないしは尾根筋を踏み固めただけの「けものみち」のようなものでした。
 ひと一人がやっと通行できるくらいの細々とした貧弱な道でしたが、古代人にとっては欠くべからざる「生活の道」であり「交易の道」だったといえるでしょう。

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46 古代人の移動速度(歩行)

 f:id:SHIGEKISAITO:20200113110100j:plain <勧修寺庭園のすいれん>

 人はいったいどれくらいの速度で移動できるのでしょうか。
 ここで論じるのは、弥生時代後期から4世紀頃まで、いわゆる「道」がほとんど整備されていなかった時代の移動速度についてです。
 当時、馬はありませんでした。したがって移動速度とは人の歩行速度を意味します。
 特に集団の移動速度については、古代史を論じる場合、きわめて重要な与件となります。

 本論に入る前に、いろいろな歩行速度をレビューしてみましょう。

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45 重要な交通路だった「河川と湖」

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 自然障壁が邪魔をする古代日本では、陸路だけで遠方の目的地や山深い奥地に到達するのは困難なことでした。
 陸路の代わりに遠隔地を結んだのは地乗りによる沿岸航海であり、そして内陸部へは河口から遡る河川舟運があり、さらにその奥地にも舟越道などが存在し、細い交易路が遠近各地を網目のように繋いでいました。今回はその実態を確認してみます(このうち、航海については稿をあらため言及予定)。

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44 3、4世紀頃までの古代道

f:id:SHIGEKISAITO:20200106160044j:plain      <山越えの径>

 『記・紀』を読むと、弥生時代から5世紀初めまでの日本列島で、軍隊や権力集団が遠征したり広域移動する記事が頻出します。難所に遭遇したかのような描写もありますが、その詳細には触れておらず、大集団にしては大した困難もなくスムーズに移動できたようにも受け取れます。
 実態はどのようなものだったのでしょうか。

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43 飛鳥、奈良時代の道路

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 すでに何度も触れてきましたが、政治勢力統一のプロセスを検討するに際して最大の与件となるのは陸上交通です。
 今回から、第23回ブログで予告した「古代の道路」について掘り下げていきます。3、4世紀以前の道路に言及する前に、まずは飛鳥・奈良時代の道路について概括します。

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