すでに何度も触れてきましたが、政治勢力統一のプロセスを検討するに際して最大の与件となるのは陸上交通です。
今回から、第23回ブログで予告した「古代の道路」について掘り下げていきます。3、4世紀以前の道路に言及する前に、まずは飛鳥・奈良時代の道路について概括します。
飛鳥時代の道路
日本の文献で、最初に現れた直線道路の記録は『日本書紀』の仁徳紀にあります。
<是年、大道を京の中に作る。南の門より直に指して、丹比邑に到る。>
しかし、仁徳の頃、すなわち5世紀前半に、この河内平野を南北に縦貫する難波大道が実在した可能性は低いでしょう。通説では、この後述べる653年の難波大道修築の話が仁徳の大道啓開に仮託されたのではないかとされています。
日本では、統一国家づくりが完成に近づく段階で、幹線道路網が整備されました。
幹線道路網というネットワーク型インフラを整備することで、大和政権による広大な領土の管理が可能となったのです。中央からの支配が強まると同時に交易も活発となりました。当然ながら有事の際にはこれらの道路が軍用道路にもなり得るわけです。
『記・紀』が編纂された7、8世紀頃の道路事情を確認してみましょう。
本格的な都である藤原京が成立した時(694年)には、すでに大和盆地には南北に上ツ道、中ツ道、下ツ道の3本の直線道路が走り、それに直交する横大路が河内方面へ向かってつくられていました。さらに難波に向けては難波大道が通じていました。
『日本書紀』の613年と653年に、これらの道路工事と思われる記事があります。
<難波から京に到るまで大道を置く>
<処処の大道を修治(つく)る>
これらの道路は隋を真似てつくられ、17~24メートルという非常に広い幅員を持っていたようです。
<千田稔氏監修の書籍から転載>
これらの本格的な道路はどのような時代背景のもとに造られたのでしょうか。
武部健一氏は次のように指摘します。
推古の時代(607年)に小野妹子が隋に派遣されます。これを受け、翌608年には煬帝によって派遣された裴世清が、難波から飛鳥に向けて大和川を遡上します。この時の大和の道路は貧弱で、それを気に病んだ大和朝廷が道路の整備に本腰を入れ、613年の難波から飛鳥に到る大道の啓開に繋がったのではないか、と……。
コロ・車輪の利用と平坦路の開発
重量物の陸上輸送は短距離であっても大変でした。
巨石は丸太をコロにして運ぶが、地面が刈り込まれ整地されていなければ、それはきわめて困難なこと。
車輪が広く使われるようになるには、平坦な道路が必要だった。でこぼこ道では、むしろ人が荷物を背負って運ぶほうが効率的。そのため、平坦な道路がない未開発地域では、20世紀に入るまで車輪を輸送手段に使うことはありませんでした。
飛鳥時代より前の日本の道路は基本的に歩道で、馬車・牛車などが通れる石畳の舗装路はありません。それまでは重いものは船で運んだのです。
人類の歴史の中で、車輪の発明は陸上輸送に画期的な進歩をもたらします。世界的には紀元前4000年頃のシュメール文明の中で実用が始まり、紀元前1600年頃には古代シナに伝わったようです。日本には舗装路の整備と軌を一にして車輪の技術が伝来し、その後、陸上輸送は飛躍的に進歩しました。
奈良県桜井市の磐余遺跡群から木製車輪が出土し、わが国最古の、飛鳥時代後半のものと推定された。現代に伝わる木製車輪の構造と同様の構造が飛鳥時代にすでに完成していたようです。
文献などでは、車輪を使った輸送手段は奈良時代に普及したと考えられており、今回の出土は古代の輸送技術の発展を裏づけるものでしょう。 馬車や牛車が物流革命に寄与し、陸上輸送が飛躍的に進歩するのは、実に飛鳥時代以降のことなのです。
画期的な交通制度といえる「七道駅路」
中央集権を機能させるため、日本では7世紀後半頃になって、中央・地方間の情報伝達システムとして駅路と伝路からなる交通網を構築し、駅伝制を整備しました。
すなわち『日本書紀』646年の詔勅に、
<初めて京師(みさと)を修め、畿内国(うちつくに)の司(みこともち)・郡司(こおりのみやつこ)・関塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人・駅馬(はいま)・伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし)を造り、山河を定めよ。>
とあり、大化の改新に際して、政治・軍事と共に交通制度の全国的整備を行うことを意図したようです。
これを契機として、直線道路網の全国的な整備が始まったのではないかとされています。発掘調査などによれば、少なくとも大化の改新直後には畿内及び山陽道で直線的な駅路の整備が行われ、680年頃までには西海道、そのほか関東地方などの広範囲にわたって整備が進んだようです。
8世紀、律令制として、五畿と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)が定められ、中央である畿内と地方を結ぶため「七道駅路」という幹線道路が敷設されました。
七道駅路は中央と地方との情報連絡を目的とし、各地方を最短経路で結び、約16キロごとに駅家(うまや)が置かれた。都から本州、四国、九州、そして主要な島を含めすべてに通じ、駅家の総駅数は402、その総延長は約6300キロに達する。幅員は最小でも6メートル、最大で30メートル超とする見解もあるが、それは一部であって、大半の幹線道路は2メートルほどではなかったろうか。
とことん直線にこだわったため、多少の谷は埋め、低い丘は切通しとするなど、壮大な道路啓開工事がなされた。これは現代の高速道路敷設と非常に似たコンセプトといえます。このような道路網建設を可能にした背景には、鉄器の普及や渡来人がもたらした土木技術の革新があったことは言うまでもありません。
ただし、例えば山陽道といっても、現在の国道2号線ルートとは大きく異なる。古代は沖積平野が形成されておらず、古山陽道は現在の岡山平野や広島平野のあたりでは、海辺からかなり奥まった内陸を通っていたのです。古山陰道も同様で、急峻な山塊が海に迫っていたため、今の国道9号線のような海沿いのルートはとれませんでした。
七道駅路はさらに交通の要衝地で支路や連絡路などとつながり、列島の一大ネットワークを形成した。ただし、中央から離れた所は「けものみち」の域を出ないものも多かったと思われます。
七道駅路は、基本的に馬と人とによるものなので、直前の6、7世紀頃の交通手段と大差なかったが、制度としては革命的ともいえるものでした。
世界的にみても、統一国家は広域を統治するために同様の交通制度を採用しました。ペルシャ、続いてローマで発達し、シナでは秦・漢で始まり、隋・唐で完成したようです。
第34回ブログでは、ほぼ2000年前という同時期に、互いに何の関連のない世界の2ヵ所で道路交通網が広がった(最初に指摘したのは英国の歴史家ジョセフ・ニーダム)ことに言及しました。古代ローマのアッピア街道と秦の始皇帝の道路網でしたね。そこには大きな政治の力を見ることができます。
古代日本においては、「山は隔て、海は結ぶ」ということばがあるように、山という自然障壁で隔てられた各地域には異なる文化・慣習・言語・自然神が色濃く育まれ、ムラやクニは独立的な色彩が強かった。
交易のための海上交通は早くから存在したが、隣接地域への政治的支配を強固なものにするには、陸上交通路の整備が不可欠でした。
事実、道路網の拡充に比例するように、ムラからクニへ、そして地域国家、中央集権国家へと集合体の単位が大きくなっていったのです。
陸上交通を押さえなければ地方の支配はできず、中央集権は完成しません。このことは古代史を俯瞰する場合に大変に重要です。日本は隋・唐の交通制度を取り入れて、律令国家における国家統治の重要政策としたわけです。
少々脱線しますが、武部健一氏が「戦国時代の道」の中で、政治の中で道路政策が大きなウエイトを占めている例をまとめています。面白い……。
大略以下の通り。
戦国時代は新しい秩序を求めて群雄の争う時代だが、その間にも道路は多様な姿を見せた。これを各地の支配者の対処のあり方から見ると、弱者・強者・覇者の三区分に分けられる。
〇 弱者・・・それぞれの領国の支配者は、軍事あるいは民生のための交通を確保するために道路を維持したが、いざ合戦になったとき弱小の立場にあるものは橋や道路を自ら破壊して、敵の進入を防いだ。
〇 強者・・・他国へ攻め込むために専用の軍事道路を造った(武田信玄の棒道)。
〇 覇者・・・天下平定時の一般交通を視野に入れ、民衆の利用を意識した道路や橋の整備に注力(信長・秀吉・家康)。
8世紀における道路啓開の実態
東山道は美濃・信濃両国に険阻な山路が多く、冬季の風雪は交通の大きな障害です。それでも東山道は障害が比較的少ない方でした。東山道の通行が多かったのは、東海道がさらに多くの障害を抱えていたからです。
東海道はおおむね温暖で、海岸に近いという好条件を持ちながらも、木曽・大井・天龍・安倍・富士・酒匂・馬入・多摩・隅田・江戸などの諸河川を河口付近で渡河しなければならないという決定的な悪条件がありました。
その東山道ですが、『続日本紀』702年には、
<はじめて美濃の国に岐蘇の山道を開く>
とあり、中津川市の坂本あたりから標高1595メートルの神坂峠を越えて伊那谷に至るコースだったようです。
その11年後、『続日本紀』713年には、
<美濃信濃二国の堺、径道険隘にして往還艱難なり。仍て吉蘇路(きそじ)を通す>
とあり、神坂峠越えとは別に、木曽谷を経由する後の木曽路に近いルートが新たに開かれたようです。
五畿七道の一つ、東山道といえども、難工事の末に敷設されたことが分かります。
時代は下るが、『続日本紀』737年には、蝦夷征討のために宮城県色麻(しかま)の柵から山形県の比羅保許山(ひらほこやま)までの奥州山脈横断の160里を啓開し、1か月強かけて行軍した記事がある。
総勢は6584人で、将軍東人(あずまひと)が自ら指導して、石を砕いたり樹を切ったり、谷を埋め、峰を越えて進軍したという。
当時の1里を500メートルとすれば、80キロ超の行軍をするにも、険阻な道の啓開で大変な労力を要したことになる。 ましてや、4世紀以前に思いを巡らすと、道路の敷設は行軍そのもので、しかも土木用具が不十分な中にあっては大勢の重労働を伴ったにちがいない。
これは、8世紀までの道路工事の様子を記録した唯一の記録です。
『記・紀』は、このような道路建設・整備が進行する中でつくられたのでしょう。しかし、それ以前の陸上交通は困難を極めたのです。
『記・紀』がつくられた頃のイメージから4世紀以前の古代道路を類推するのは大きな過ちです。
『記・紀』の編纂者自身も4世紀以前の技術や道路事情に疎かったのでしょう。行軍の困難さに何ら触れずに、神武東征の熊野以降の行軍、四道将軍の派遣、景行・ヤマトタケルなどの東征・征西を描いていて、どうみても無理がありますよね。
参考文献
『日本交通史』児玉幸多
『道路の日本史』武部健一