理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

88 ヤマト国の発祥(4)特産品による交換経済と経済的優位

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 「古墳時代」という時代区分と名称そのものには、いろいろと問題が多いと筆者は考えます。
 多くの考古学者は、3、4世紀の古代を説明する際に「古墳のありよう」に集中し過ぎです。これまでの考古学が生き生きとした古代史に結びつかない主要な原因が、古墳至上主義だと思います。
 古墳はあくまでも権力者を葬った墓であって、権力を行使した場でもなく、生産活動をおこなった場でもありません。
 ともすれば古墳時代というと「古墳づくり」にばかり目が向いてしまうが、それでは古代史として片手落ちです。
 むしろ4世紀以降は、特産品の生産や交易を通して多様で旺盛な経済活動が行われた側面を取り上げるべきでしょう。5世紀になればなおさらです。「技術革新の5世紀」ですから……。

 今回は、第23回ブログで予告した「交換経済」について掘り下げてみます。
 「纒向のクニ」発祥の後、「初期ヤマト国」として版図を拡大する中で、技術者集団が育ち、特産品の交換によって経済基盤が強化され、周辺に対し優越していった様子について考えてみます。

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87 ヤマト国の発祥(3)先進的祭祀の発明と巨大古墳の築造力

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 初めての巨大古墳とされる箸墓古墳の存在は、初期ヤマト国の勢力を物語る象徴的な存在です。前方後円墳祭祀は、三方向交通路(第86回ブログ)の要の位置にあった纒向ならではの発明です。
 考古学界主流の論調では、弥生時代の畿内や大和盆地には、先進的祭祀を発明し、巨大古墳を造りあげるだけの政治権力や強力な王権は存在しない、とされているようです。そこで、畿外勢力の関与説が登場するわけですね。

 しかし筆者は次のように考えます。
 紀元後まもなく大和盆地東南部に存在した「ムラ」が統合、発展して、3世紀半ばには「纒向のクニ」となり、4世紀になると自ら巨大古墳を造ることが可能な「ヤマト国」になったと……。

 各地から人々の集積が続く中で、纒向の王は、西日本各地に伝わる墳墓の形状・埋葬文化を組み合わせ、主として東海地域から確保した労働力を使って、巨大前方後円墳と新たな祭祀を生み出しました。
 これら巨大前方後円墳と新たな祭祀がヤマト国の勢力拡大に寄与したプロセスを確認してみます。

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86 ヤマト国の発祥(2)地勢上の優位、交通・交易面での優位

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 なぜ大和盆地が、なかでも纒向の地(それに続く続くヤマト国)が広域的な地域関係の中心として大きく飛躍する起点になったのでしょうか。

 地勢面に関しては、次の3項が飛躍の要因になったと考えられます。
1. 広大な平地の存在
2. 海・川・湖を結ぶ多方面交通路の存在
3. 東日本の労働力・軍事力を活用できる絶妙な地政学的位置

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85 ヤマト国の発祥(1)無主の地に忽然と出現?

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 第70回から75回のブログで、邪馬台国がヤマト国に連続しないことを確認しました。よって纒向集落はヤマト国(ヤマト王権の初期状態)の前段階のクニの姿と位置づけられそうです。
 考古遺跡・遺物の存在から、(仮に崇神が3世紀末に実在したとすれば)崇神以前のムラやクニの姿をおぼろげながらもイメージすることは可能と思われます。
 ではヤマト国は、いったいどのようにしてつくられたのでしょうか。

纒向誕生に関する諸説
 3世紀初めまでは無主の地だった(?)纒向に、突如として280メートル近い巨大な箸墓古墳(前方後円墳)が出現したのは驚異であるとされています。

 あまりにも桁外れの出来事なので、次のようにいろいろな説が登場します。これら諸説については、今までのブログでも言及してきました。

 代表的な説は、政治連合説(第18回ブログ)や邪馬台国東遷説(第70回ブログ)。倭国大乱後の平和都市説や祭祀都市説、見えざる鉄器説なども……。
 そして、3世紀半ばの箸墓古墳の出現をもって「古墳時代の始まり」とするのは今や考古学界における有力説となっています。

 しかし、どの説も外的要因がドラマチックすぎて、纒向が誕生した説明としては今一歩の感が拭えません。直感的に無理筋と感じてしまうのです。

 交通インフラが未整備で、情報の授受もままならない大和盆地の中に、遠隔地の政治権力が介在する形で、短期間のうちに新たな大集落が誕生し、しかも巨大古墳が築造されたとはとても考えられません。

 古代の歴史の歩みはもっと緩やかだったのではないか……。

 筆者は、纒向集落の誕生とヤマト国への発展は、文化・宗教・技術などの外的要因が作用したこともなくはないが、3世紀半ば頃までに大陸文化の影響がほとんど見られないことなどから、一次的には大和盆地内部にその要因を求めるべきと考えます。
 それは纒向の特異性です。

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84 箸墓古墳の築造は4世紀?

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3世紀の大和盆地に邪馬台国の存在を思わせるものは皆無
 第82回ブログで言及した通り、近畿の主要な遺跡を確認してみると、やはり邪馬台国近畿説は否定せざるを得ません。中でも大和盆地の唐古鍵や纒向には邪馬台国につながるような証拠(3世紀半ば頃までの、シナや朝鮮半島、九州北部地域との積極的なつながり)がほとんどないので、大和説はあり得ないと断言できます。

 今月、考古学者でありながら、邪馬台国大和説に疑問符をつけた関川尚功氏の著作『考古学から見た邪馬台国大和説』(2020年9月発行)を読みました。筆者の拙い論理を補強してくれる素晴らしい論考です。

 氏はもともと橿原考古学研究所で纒向遺跡の発掘調査に深く関与した考古学者です。
 日本の考古学界の人たちは自らの専門領域に閉じこもり、また今までの蓄積に縛られがちで、自由な論考ができない傾向が見られます。
 学界自体がピラミッド構造なので仕方ないのかもしれませんが、新たな視点で見直すとか、異論をたたかわすということが出来にくいのです。
 氏は2011年に退職後、研究の集大成という視点で、(邪馬台国大和説に固執する学界にとって)驚きの論考を発表したことになります。

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