理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

119 5世紀の日本を紐解くにあたり……


 「5世紀の日本」を紐解くに当たって、まずは今までのブログで確認できたこと、今後言及したいことについて列挙してみます。

 4世紀半ばに、ヤマト王権は「おおやまと」地域から「さき」地域へ重心を移し、「ふる」「わに」の勢力を前面に立てて金官伽耶との直接交渉を本格化させた。ヤマト王権は、博多を経由せずに直接、金海へと向かう「沖ノ島ルート」を確保する。このため博多湾沿岸の西新町(にしじんまち)は衰退したが、九州北部勢力の対外活動はヤマト王権とは別の独自の動きとして継続する。

 4世紀後半には高句麗が半島南部への攻勢を強める。これを契機に百済はヤマト王権に接近。ヤマト王権・金官伽耶・百済の連携が強化される。

 新羅は高句麗に従属する方向を選択したが、日本とも没交渉ではなく、それなりに通交が存在した。

 5世紀初めになると、ヤマト王権の主力が本格的に河内へ進出し、河内平野の開発が加速する。高句麗の南下政策が本格化し、金官伽耶は大打撃を受けて衰退する。日本は金官伽耶の代わりに大伽耶との通交を活発化させた。

 ヤマト王権だけでなく、九州北部や吉備などの勢力は半島南部と独自にも通交するが、またヤマト王権の外交に参加する場合もあった。

 大和盆地では4世紀末頃から葛城勢力が興隆し、5世紀にはヤマト王権と肩を並べる存在に成長する。
 彼らが隆盛した大きな要因は、朝鮮半島における軍事と外交面での活躍であり、いま一つはヤマト王権の外戚として多くの后を出してきたことにある。
 彼らは葛城山麓から西へ向かい、紀・播磨・吉備とも連携し、瀬戸内海の海人族を活用して筑紫に至り、朝鮮半島にアプローチした。海から離れた大和盆地を拠点としながらも、他勢力と連携することで、水上交通のルートを掌握したことが葛城の発展を支えた。

 ヤマト王権と葛城氏は競合したが、5世紀半ばまでは共存の関係も維持した。

 5世紀のヤマト王権は一本に統合されておらず、「さき」の勢力の他、河内平野に重心を移した王族間でも激しい対立が続いた。この対立に葛城の勢力が絡んでいることが事態を複雑にした。

 5世紀に列島各地の人びとは朝鮮半島からさまざまな先進技術を受け入れ、さかんに生産するようになる。この際、渡来人(帰化人というべきか?)は自由意思からすすんで渡来し、古代日本に先進技術をもたらしたというような極端な見解もありますが、事実は4、5世紀に、日本列島から朝鮮半島へ軍事・外交・物産などのパワーが向かったゆえの所産(交換経済、第23回ブログ)と言えるでしょう。

 先進技術とは、鉄製道具をつくる技術、金・銀・銅を用いてアクセサリーや馬具などの品々をつくる金工技術、馬の飼育ノウハウ、灌漑技術、須恵器の製作技術、暖房・厨房施設(かまど)など。
 こうして「技術革新の5世紀」が展開される。

 5世紀後半になると、新羅が高句麗の影響から抜け出ようとする。百済や大伽耶と歩調を合わせて日本と交渉し始める。

 朝鮮半島情勢は相当に不安定なものになり、半島との交易において、もともと基盤が盤石でなかったヤマト王権は、地域勢力が持つ多様な通交ルートの掌握に走る。
 大きなターゲットは九州北部勢力と吉備だったが、まずは外交方針を巡って対立した葛城勢力を弱体化させ、次いで吉備を押さえ込む。雄略大王は、王権の強化に向けて、葛城・紀・吉備連合の分断に動く。
 葛城の本宗家は5世紀後半には衰微し、ヤマト王権は盤石な体制を築いたかに見えるが、しかし雄略亡き後、5世紀末までの四半世紀ほどの間に、ヤマト王権内部は大混乱に陥ってしまう。

 5世紀という時代は、王族間の骨肉の争い葛城氏の興亡とともに推移したとも言えるでしょう。

 

 6世紀になると、新羅が伽耶へ攻め入るようになり、532年には金官伽耶が滅亡する。これによって、高句麗の南下政策に対抗するために協調してきた百済・新羅・大伽耶の間でも対立が表面化。

 三者はそれぞれ日本との関係維持を模索した。

 百済は、新羅の伽耶進出を防ぐためにもヤマト王権との関係を維持し、継続的な軍事的支援を求め、見返りとして先進的な学者や技術者を日本へ派遣した。

 大伽耶は、蟾津江(せんしんこう)流域の百済領有をヤマト王権が支持したので、一時疎遠になるが、日本との関係を断ち切るまでは至らず、この時期、大伽耶の周縁には倭系古墳がさかんに造られた。しかし562年、新羅に併合される。

 新羅は、伽耶への進出を達成するため、日本とはつかず離れずのスタンスをとったが、伽耶進出を本格化させると、九州北部の磐井に接近をする。
 新羅と通じる磐井に対し、ヤマト王権を率いることになった継体大王が牙をむく。

 これ以降は、「6世紀までの古代史」で継体・欽明を取りあげる時に言及します。

 

 総じて言えることは、下記の通り。

 ヤマト王権による任那支配論は成立しない
 長い間、論の根拠となってきたのは、『日本書紀』神功摂政紀に記された「神功による伽耶7国平定」と、広開土王碑文に記された「倭が新羅や百済を属国にした」という内容ですね。しかし今や、それらは歴史的事実ではなく誇張されたり、創作されたものであることが明らかになっている。

 ヤマト王権が、3ないし4世紀初めから、日本の外交権や軍事権を完全掌握していたという認識は誤り
 当然、ヤマト王権が朝鮮半島から先進的な文物や技術を一手に受け入れ、地方の首長へ分配したというのも誤り。

 アクセサリーや武器、馬具などは列島の各地に分散していて、ヤマト王権の本拠地である畿内に集中していない。
 したがって、王権による外交だけでなく、地域勢力の首長が主体となった交易・交渉もさかんに行われていたと考えるべき。

〇 さすがに5世紀の後半、雄略の時代は、ヤマト王権が権限を一手に掌握し専制化した画期とみる説が有力だが、筆者は賛成しません(根拠の詳細はいずれ)。雄略の没後に起こる政治的混乱は、専制化が完成したとする説に再考が必要なことを物語っている。

 日本と百済・新羅・伽耶の間では王権による外交だけではなくて、地域社会も主体的に通交していたが、さらには実際の交易や交渉に携わった海民などその他の集団や個人も存在していた。おそらく雑多な交易民たちにとって、5世紀頃までの日本と伽耶諸国の間に「国境」という意識はなく、互いに自由に対馬海峡を往来していたと思われる。

 日本側に先進技術・文化の獲得という目的があったのと同様に、百済・新羅・伽耶にも、遠交近攻の半島情勢をみずからに有利な方向へ動かそうという軍事的・外交的な目的があった。

 これらの観点を基本とするならば、従来のヤマト王権を中心においた一方的な歴史像ではなく、さらには日本を主役とした歴史像ではなく、日本と朝鮮半島を連動させてみるダイナミックな歴史像が描かれるべき。

 

 以上のような青図をもとに、今後「5世紀までの古代史」を綴っていきますが、青図は現時点での筆者の認識がベースになっているので、詳細な検討を始めれば変わってしまう可能性もあります。

118 「倭の五王」は誰のこと?


 3回にわたって古代朝鮮半島の状況を確認してきましたが、三韓やシナの史料には「倭」「倭王」という言葉が頻出します。
 筆者は「倭」という言葉が嫌いなので、「日本」「日本列島」「九州北部」「ヤマト王権」などと適宜置き換えています。そして海外の史書で使われている倭王・倭王権と言う言葉の実態はどのようなものだったのか、文字通り日本を代表するような王権だったのか、常に思案しています。
 この先のブログでその謎を紐解く予定ですが、朝鮮半島やシナとの活発な交渉が始まる5世紀に、日本列島の大半を制した単一の王権が存在しなかったことは恐らく間違いないでしょう。

 一方、5世紀は「倭の五王」の時代とも言われます。ヤマト王権の使者は、百済の支援のもと、九州から朝鮮半島西岸を北上し、黄海を横断してシナ大陸に渡ったのでしょう。
 「倭の五王」については、第113回・114回ブログで「九州王朝説」や「謎の4世紀」に関連して若干言及しましたが、今回は真正面から「倭の五王」の謎に迫ってみます。

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117 5世紀までの朝鮮半島、日本との通交・対峙(3)


 前回からの続きです。

栄山江流域の前方後円墳
 朝鮮半島南西部の栄山江流域(えいさんこう)には、日本の古墳と酷似する前方後円墳が13確認されています。これらの前方後円墳は突然出現して、急速に姿を消しています。5世紀後半から6世紀前半に成立したものとされています。

 この流域は伽耶諸国の一部ではなく、もとから馬韓の領域でしたが、4世紀半ばになっても百済の影響が及びにくく、言うなれば馬韓の小国が分立して残っていたともいえる地域です。

 一方、百済と日本は4世紀末頃から軍事的・政治的同盟関係にありました。

 これらの古墳からは、日本のものと酷似する埴輪や日本固有の直弧文をもつ副葬品が出土しているので、日本国内と同じような祭祀が挙行されていたとみられます。
 なかでも、横穴式石室の形態から、九州北部、特に有明海沿岸地域の前方後円墳との類似性が指摘できるので、筆者は、これらの古墳の被葬者は、たとえ百済領で生活していても、九州北部からの移住者か滞在者であった可能性があると考えます。
 おそらく、前方後円墳築造にかかわる人・モノ・情報のやりとりや築造に当たっては、栄山江流域と有明海沿岸地域の間を往来した日系の渡来人が深くかかわっていたと思われます。
 本件、「古代史本論・6世紀まで」の中で、継体・欽明に言及する時にさらに詳述します。

 都を南方の熊津(ゆうしん)に遷し百済を再興した文周王(在位:475477年)や、その後継の東城王(在位:479501年)は高句麗と戦うために、軍事力をもつ九州北部の豪族が栄山江流域に居住することを許容していた可能性もあるのではないか。しかし伽耶西部を勢力圏に組み込みはじめた武寧王(在位501523年)の時代になると、伽耶地域と関係の深い栄山江流域の日系勢力の動きを懸念し、牽制するようになったと思われます。

 一方、被葬者を馬韓時代からの在地の豪族とみる見解もあるようです。百済に完全に編入されることを嫌い、みずからの主体性を維持するため、あえて日本とのつながりを百済にアピールしたというのですが……。ちょっと無理筋に思えます。

 『日本書紀』によれば、百済は、大伴金村(おおとものかねむら)に対して任那の西半分を譲るよう頼みます。
 それに対して、大伴金村はこの要請を受け入れ、任那の西半分の四県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)は百済のものになります。このことを任那四県割譲事件(512年)と言うわけですが、その際、大伴金村は百済から賄賂を受け取ったとされています。
 ただ、大伴金村は任那割譲の見返りとして、百済から、五経博士(ごきょうはかせ)という当時最先端の知識人を日本に渡来させています。五経博士の来日によって、日本の文化知識レベルが大きく向上したのは間違いありません。

 ところで、この任那四県割譲事件の舞台は、ちょうど日系豪族が居住する栄山江流域とその南方に当たります。その翌年、日本が伴跛(はえ、高霊伽耶国、加羅国とも?)から奪還して百済に与えたとされる己汶(こもん)、帯沙(たさ)は蟾津江(せんしんこう)東岸にあります。

 『日本書紀』では、いずれも日本が主導権を握り、任那四県は日本の領土であったものを百済に割譲し、己汶、帯沙は百済の領土であったものを伴跛国から奪還して百済に与えたと記しています。

 しかし、実際に栄山江流域が日本の支配下にあったことはありません
 史実は、百済が南下して小国が分立していたこの地域に支配権を及ぼしたということです。武寧王の百済が日本に対し、日系勢力の色濃い栄山江流域へ干渉しないよう求め、金村がそれを受け入れ、武寧王と良好な関係にあった継体大王が黙認した可能性はあります。
 このことを、後の『日本書紀』では任那四県が日本領であったという架空の話に仕立て上げたと思われます。

 翌年以降の己汶、帯沙の奪還についても、日本が援軍したかどうかは定かでなく、南進した百済武寧王の勢力が、在地勢力(百済に包含されなかった馬韓諸国の残余勢力)や、西進してきた高霊伽耶(加羅・伴跛など)と激突したというのが史実です。
 つまり、蟾津江(せんしんこう)の交通アクセスをめぐる争いだったと考えるべきですね。

 

任那四県の割譲と大伴金村の失脚
 532年には新羅が金官伽耶を併合する事件があります。百済の聖名王と任那復興についてやりとりしていた欽明大王が諸臣を集め、新羅を攻撃するかどうか諮った場で、金村は物部尾輿から外交政策の失敗(512年の任那四県割譲と、その際、百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚してしまいます。四県割譲の要請にたやすく応じたことが新羅の積年の反感を買っているとして批判されたのです。
 失脚は、なんと四県割譲から28年後、継体崩御後の540年のことになります。

 継体の時代に権勢を誇った大伴金村ですが、宣化から欽明の時代に入る頃、蘇我稲目が台頭するにつれ、金村の権勢は衰え始めます。金村失脚の直後、蘇我稲目は欽明に娘の堅塩媛(きたしひめ)を嫁がせるなどして、欽明の時代をリードしていきます。

 これ以後、大伴氏は衰退していくのです。
 大伴氏は、5世紀半ばに葛城氏が没落してから約100年間にわたって活躍しましたが、6世紀半ばに蘇我氏が興隆することで頭を押さえられてしまうのです。
 しかし、その後、壬申の乱672年)で大伴吹負が大活躍する(第81回ブログ)などして、一族として復権し、平安時代には伴大納言も現れています(第81回・102回ブログ)。

 それにしても、任那四県割譲から28年も経ってから金村が失脚するというのは解せません。
 その間、金村は、失脚はおろか、新羅にも出兵しているし磐井戦争にも参戦しているのです。
 実際は、「任那四県割譲と賄賂」の一件は、権勢の衰えた大伴金村を追い落とすための決定打として大義名分に使われ、『日本書紀』の上で、百済が高霊伽耶国から己汶、帯沙を奪い併合した年の前年に置かれだけのことと言えそうです。

 偉そうに金村の失策をなじった物部尾輿だって、先代の物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の不名誉な(?)過去を抱えているのです。任那四県割譲を百済の使者に伝達する勅使として、麁鹿火が難波の館に向かおうとした時に、妻に強烈に諫められて、やっとのことで思いとどまったというのですから。

 今となっては、任那四県割譲事件が単なる収賄事件だったのか、それとも政治的な思惑があったのかは分かりませんが、欽明元年(540年)に金村が失脚したことだけは事実でしょう。

 

任那日本府について
 任那日本府という言葉は、『日本書紀』の雄略紀464年に初めて登場します。
 この他、『日本書紀』には、比自㶱・南加羅など7国の平定(369年)、任那四県割譲(512年)、己汶・帯沙の奪還(513年)などの記事もあり、ヤマト王権が4世紀半ば頃から朝鮮半島に進出し、5世紀半ばから6世紀にかけて「任那日本府」なる直轄地を設けたかのように読みとれます。

 しかし、「任那日本府」という存在はあり得ません。「任那」を朝鮮半島南部の広域を指す呼称として使用しているのは『日本書紀』だけです。
 6世紀までのあいだ、この地域に存在したのは、小地域を支配した部族国家群です。 シナの史書や金石文では「任那」は小さな金官国を指す呼称として使われています。

 ただし、任那日本府の存否にかかわらず、4~6世紀に、大和盆地の「ふる」「わに」「かづらき」などの勢力や、「紀」「吉備」など日本各地の王や新興勢力が朝鮮半島南部で積極的な活動を行ったことだけは事実です。

 

 6、7世紀の話になりますが、589年、シナで南北朝時代が終焉した後、高句麗は隋・唐から繰り返し攻撃を受けるようになります。高句麗は、長年これに耐えたが、660年には百済が唐に併合されたことで、唐、新羅と南北から挟まれることになり、国内の内紛もあって668年に唐の高宗によって併合されてしまいます。その後、併合地の大半を新羅領とすることで決着し、統一新羅が誕生するわけです(676年)。

 6世紀以降の朝鮮半島との交渉・通交については、継体・欽明を取りあげる時に言及したいと思います。

 

 

朝鮮半島の各国割拠の変遷(イメージ図)
 3回シリーズの最後に、3世紀末頃から6世紀末頃までの朝鮮半島について、勢力分布がどのように変遷したのか、分かりやすい模式図をネットで見つけたので転載します。

 前回のブログに掲載した武光誠氏の図とも微妙に異なっていますが、クニの境界線や呼び名については、研究者によってさまざまな捉え方があるので、これはイメージ図としてみればよいのでは。

 3世紀末には、紀元前108年に興ったシナの植民地、楽浪郡と帯方郡が存在している。半島南部には弁韓・辰韓・馬韓の三韓、東部には濊が存在し、南端部には倭人が居住していた。

 4世紀に入り、シナの西晋が弱体化すると、高句麗が南下して、313年に楽浪郡を、314年に帯方郡を滅ぼす。高句麗は朝鮮半島北部の支配を確立。

 高句麗の南下に対抗すべく、346年に馬韓を統一して百済が建国、356年に辰韓を統一して新羅が建国。

 370年頃、百済の近肖古王が高句麗から帯方郡のあった地域を奪う(故国原王は戦死)。百済が有力な国家の一つとして台頭すると同時に日本との通交も始まる。この頃、新羅と伽耶は弱小であった。

 5世紀になると、広開土王を擁する高句麗が勢力を拡大、子の長寿王が427年に平壌に遷都、475年に百済の漢城を落城させたため、百済は熊津に遷都する。この時期、高句麗の版図は最大になる。

 6世紀になると、百済は南下し、新羅は西進して、それぞれ伽耶諸国を侵食することになります。

 

 

参考文献
『ヤマト政権と朝鮮半島』武光誠
『海の向こうから見た倭国』高田貫太
『倭国の古代学』坂靖

 

 

 

116 5世紀までの朝鮮半島、日本との通交・対峙(2)


 前回ブログの続きです。

高句麗・三韓の合従連衡
 391年に高句麗では広開土王(好太王とも、在位391~412年)が即位し、百済に占領(371年)された領土の回復を図り、396年には漢江以北の地を奪回します。そこに至る高句麗変貌の歴史を確認してみます。

 4世紀初め、シナ大陸は激しい動乱の時期に入り、「五胡十六国」の時代が幕を開けます。北方ユーラシアの遊牧民が大量に侵入して引き起こされた動乱は、5世紀半ばまで続きますが、遊牧民フン族が引き金となったヨーロッパの民族大移動と連動しているようです。この動乱の余波は、すでに当時の先進国だった高句麗にも大きな影響を及ぼしました。

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115 5世紀までの朝鮮半島、日本との通交・対峙(1)

 第97回ブログで朝鮮半島の古代史を概括しました。
 また、4世紀における日本と百済・伽耶の関係については第111回ブログでやや詳しく言及しました。しかし、それでもまだ足りません。

 今後、5、6世紀までの日本の古代史に触れるには、遠交近攻が渦巻く朝鮮半島情勢、特に高句麗との確執、ならびに伽耶諸国の隆盛から衰亡まで、それらを一貫した通史として、さらに詳しく知っておく必要があります。

 同時に、日本がどのように絡んでいたのか、出来る限り確認してみます。

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