理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

25 自然障壁と人・モノ・情報の流れ(ネットワーク)

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 第20回のブログでは、2~3世紀頃の日本列島の人口状況についてレビューしました。
 一言でいえば、とんでもない過疎だったということに尽きますね。
 その頃の日本列島では、人はどのようにして移動し、モノはどうやって運ばれ、情報はどのくらいのスピードで伝わりどれくらいの正確さだったのでしょうか。古代の人・モノ・情報のネットワークについては、今までも触れてきましたが、今回はもう少し掘り下げて考えてみます。

 人・モノ・情報のネットワーク
 紀元前から3、4世紀頃までの古代史を論じる場合、人・モノ・情報の(流れに関する)ネットワークがどの程度出来上がっていたのか、どれくらい未整備だったのかをイメージしておかないと、以後の論考が思いもよらない方向へ脱線していってしまいます。この視点は、当ブログの核心ともいえる部分なので、今後も機会を捉え触れていきます。

 

 縄文の昔から、つまり数千年もの昔から、いや、旧石器時代の3万年以上もの昔から、日本列島では、さまざまなものが行き交い、膨大な数の人が移動していました。そして生活様式や、文化、技術情報、神のイメージなどの宗教的なこと、それらがそこかしこに伝播しました。
 急峻な山や流れの速い河川などの自然障壁が立ちはだかっても、考えられないほどの遠距離でも、想像を絶する僻地であっても、人が住んでいさえすれば、人・モノは移動し、情報は伝播しました。考古学的な証拠があります。黒曜石、ヒスイなどの特定物質の出土状況が広域にわたる交易の存在を物語っています(これについてはいずれ詳述する予定)。

 今までに膨大な物量の移動があったので、どんな大集団であっても長距離を移動出来たかのように思いがちですが、それは錯覚に過ぎません。
 それらの膨大な人・モノの移動や情報の伝播は、太古の昔から連綿と続くきわめて長い時間軸の中で、数百年から数千年単位の時間の集積の中でもたらされたものです。
 その長い時間軸の中で、一度に移動した人は、せいぜい数人からどんなに多くても10人程度の規模だったのではないでしょうか。

 3、4世紀頃までの日本列島は大海と流れの速い海流に囲まれ、列島内には山河の自然障壁が厳然と存在しました。少人数であればともかくも、大集団が移動可能なルート(陸路・海路)は未整備で、移動手段(船・舟・馬)もないか貧弱だったため、大集団の移動はきわめて困難だったのです。

 

 この点、欧州やシナの古代における長距離遠征を含む広域戦争や「民族大移動」などと同じようなことを日本の古代に当てはめてしまうと、大きな過誤を犯してしまいます。彼の地には延々と続く大平原があり、移動には馬が使われました。食料としての家畜もたくさん帯同していたわけです。
 「民族大移動」と言っても、実際には一度に何千人もの大集団が移動したことは少なかったようです。小規模の集団が波状的に繰り返し移動し、数十年もの長い時間の経過で、結果として「民族大移動」のような歴史的な事象として、後世に伝わっているのだと思います。

 

貧弱な古代の交通インフラを無視する古代史
 以上のように、3、4世紀頃までの列島内は、少人数であっても人の移動は容易ではありませんでした。ましてや大集団の長距離移動は大変困難であったといえるでしょう。

 2~3世紀頃に、九州北部にあった邪馬台国が、近畿地方の大和に移動したとする「邪馬台国東遷説」なるものがありますが、いったい彼らはどうやって移動したのでしょう。
 数人から数十人なら苦難の末に大和の地にたどり着くことも出来たでしょうが、国単位あるいはクニ単位の大集団が600~700kmもの長距離を移動することはあり得なかったと思います。
 その時代、大集団が瀬戸内沿岸の陸路を通ることは出来ません。船はわずかな量の丸木舟しかありません。港(津)が未整備の瀬戸内海を滞留することなくスムーズに回航する図は想像すら出来ません。
 数十年もかけて尺取虫のように少しずつ前進するなら、長距離移動も可能でしょうが、その場合は、大集団がキャンプするか定住するためのインフラが必要です。生活するための小屋、道具、食料を大量に調達する必要があります。それは途中で、国またはクニを順次、建国しながら移動することを意味します。
 
 九州邪馬台国の中の数人から数十人が分派して移動するのであれば、技術的にも可能ですが、その場合は国やクニの移動とは言えず、東遷ではありません。

 人々は誰しもはるか祖先をたどれば、代々繰り返しどこからか移動してきて現在地に住みついているわけです。ファミリーレベルならそういう理解で良いですよね。しかし「国やクニ単位の移動」は、やはり交通路の開発や交通手段の進歩がないと、不可能だということを大前提に古代史と向き合いたいと思います。

 そのことに言及せずに、ドラマチックな事象を描く古代史の何と多いことでしょうか。
 邪馬台国東遷説の他にも、ヤマト王権に敗れた出雲王国とか、敗れ去った出雲が九州宮崎に下野したとか、崇神が九州から東征してヤマト王権を打ち立てたという東征説などもあります。いまだに神武東征にこだわる古代史もあります。また倭国大乱を西日本全体の広域戦争ととらえるような説もあります。
 これらはいずれも交通インフラの整っていない弥生時代に起きた事象として語られています。

 また、3世紀半ばの大和の政権(初期王権)は、広域戦争に勝利した豪族連合によって建てられたといいますが、彼ら豪族はどうやって正確な情報を授受し、信頼関係を築いたというのでしょうか。

 これらの説はいずれも、政治勢力の拡大・移動・合従連衡について「〇〇勢力が△△へ移動して✕✕した」というような簡単な表現で済ませています。数人の移動ならともかく、軍隊を含む大勢の政治勢力がどうやって日本列島を縦横に移動できたのか、その移動途中の描写がまったくないという不思議。これは『記・紀』にあっても同じです。

 何しろ、海洋や山野の自然障壁が厳然と存在し、兵站もままならない時代のことです。途中の障壁は魔法の絨毯に乗って飛び越えたかのようですね。論者は疑問を感じないのでしょうか。それともあえて避けているのでしょうか。とても古代史とは呼べないこの種の物語は、日々、新説が提案され拡散する一方です。日本古代史はまるでファンタジーの世界のようです。

 古代の交通事情(今後のブログでさらに詳述予定)を冷静に考えると、以上のような政治勢力の大集団が列島の広範囲を縦横無尽に移動するような古代史は成立しないでしょう。
 これらの態様がどういうものだったのか、これを解き明かさない限り、政治勢力の離合集散を本旨とする古代史は語れないのではないでしょうか。


 往々にして、土器などの考古物が西から東へ移動していることが、九州から畿内へ政権が移動した何よりの証拠だとも言われますが、それはモノの移動すなわち物流の領域の話、つまり長い年月をかけて行われた交易や技術の伝播の結果であって、直ちには政治勢力の移動を意味しません。おそらく「地乗り」で尺取り虫のように移動したり伝播したのでしょう。
 ましてやそこに邪馬台国や卑弥呼の存在をはめ込むのはいささか無茶だと筆者は考えます。


古代の情報伝播
 交易によって人が行き来すれば、遠隔地同士であっても、何らかの情報は伝わります。しかし、質の高い情報を遠隔地に伝えるとなると「文字」の存在が必要不可欠です。

 『日本書紀』には、日向の地でシオツチノオジが即位前の神武に向かって、
 <東(ひがしのかた)に美(よ)き地(くに)有り。青山(あおやま)四周(よもにめぐ)れり。其の中に亦、天磐船に乗りて飛び降る者有り>、
 <その飛び降るといふ者は、是饒速日と謂ふか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざむ>
とわざわざ言及する場面があります。

 しかし2世紀前半の時期、九州の地からはるか離れた大和の確かな状況がわかるはずがないから、これは後世の創作と考えてよいのですが、8世紀初めの『日本書紀』にわざわざ記されたこのシオツチノオジの言葉は重いですね。
 『記・紀』編纂当時の認識では、大和にニギハヤヒを奉じた先住者がいたと考えられていたか、そう考えざるを得ない政治的状況があったと捉えるべきでしょう。

 

 古代でも、交易は行われていたので、モノや物産の情報、生活情報は遠方まで伝わっていた可能性があります。しかし交易からもたらされる断片的な情報だけで、政治勢力が理想の地を求めて本拠を遷ことなど出来ようはずがありません。政権を構えるに足る確実な情報入手が必要不可欠です。
 したがって、はるか東の、しかも海から離れ山に囲まれた大和盆地の正確な情報を入手することは、体系的な文字のなかった時代には考えられません。

 シオツチノオジの説話は、5世紀以降の、おそらくは、ヤマト王権と日向(諸県君一族)の関係が出来あがった後の状況が投影された「神話の上での話」と解釈しましょう。


安定的な広域統治には「質の高い」情報授受が絶対条件
 伝播という現象は、時間をかけて尺取虫のように伝わっていくものです。時間軸の上では自然体です。しかし、統治・管理となると、短時間での質の高い情報の授受、積極的な情報の授受が必要となります。
 古代史を紐解く際、目に見える人やモノなどが移動する交通、交易のネットワークに注目することは大切ですが、実はそれ以上に重要なのが、第23回ブログでも述べたように、「情報のネットワーク」です。


 邪馬台国大和説を取りあげると、邪馬台国が畿内にあっては九州北部の前線基地(一大卒)の管理など出来ようはずがありません。何となれば、2~3世紀頃の交通インフラの貧弱な時期に、大和と九州北部のあいだを600~700kmも移動しなければならないわけですよ。
 陸路は通過できない難所が多く、海路でも瀬戸内海の潮待ち・風待ちを強いられることが多く、短期間での安定した長距離移動は不可能でした。危急の時に数日で指示・報告ができない遠隔地は、安定的に統治することはできません。


 口頭や記号による情報伝達も多々あったでしょうが、質的には文字の有無が大きな意味を持つと思います。文字なくして広域の統治・管理は叶わなかったに違いありません。
 仮に「断片としての文字」があったとしても、少なくとも「文字の体系」が出来あがっていなかった時代に、広域の統治・管理は不可能だったでしょう。

 

NHKニュース
 「断片としての文字」に関連して、少々旧聞になりますが、8月10日夜9時のニュースで、NHKが「日本列島で文字が使われ始めた時期が大きく遡るかもしれない」といささかセンセーショナルな伝え方をしたのを思い起こします。
 筆者も興味津々、耳を澄まし、目を凝らしてTV画面に見入りました。

 朝倉市にある弥生時代の下原(しもばる)遺跡から最古級の硯が出土し、柳田康雄氏によれば、紀元前1世紀ごろに作られた硯の一部で、「国内で紀元前から文字が使われた可能性を示す、最古級史料」というのです。

 しかしその硯で書かれた文字は見つかっていません。可能性なしとは言いませんが、いささかフライング気味ですね。

 第9回ブログでも言及しましたが、すでに三雲・井原遺跡(糸島市)などでも相次いで弥生時代のものとみられる硯の破片が見つかっています。NHKニュースは今さらという感じです。

 柳田氏は九州北部では紀元前から硯を使って文字を書いていた可能性があるとして、「弥生時代は原始時代ではなく、文字を持った高度な文化や文明があったと言ってもいい」と指摘しているようですが、これは飛躍し過ぎでしょう。

 それ以前にも土器に刻まれた文字資料らしきものなどがありますが、1文字だけの場合が多く、何が書かれているのか、何のために書かれたのか、明確になっていないのが現状です。

 こういうことを掘り下げるのも、「文字の歴史」を追究する言語学者にとっては意味があるのでしょう。

 今後、研究が進めば、「長距離を結ぶ交易のネットワークに関わる人たちが、交易の記録や品物の名前や数などを記録することに文字を使っていたと考えられる」可能性もあり得ますが、今回のNHKの伝え方はいかにも「古代史狂騒曲」的な報道ではありました。

 

好奇心とチャレンジ精神がネットワークを形成
 人と人との関係は、偶然の出会い、血縁、友情、対立、敵対、交易、非経済的な交換、政治的な協力、さらには軍事的な競争など、さまざまな形をとりますが、これらすべてにおいて人びとは情報をやりとりして、それを自分たちの将来の行動に利用してきたわけです。

 この情報によって、人びとはあらゆる文化、文明のよいものを吸収することが出来ました。まずムラと周辺のネットワークの基本単位が出来ます。さらにムラとムラを結ぶネットワークが生まれ、またさらに様々なムラを束ねるクニが生まれ、そのクニの一つが発展して王の統率のもとに官僚機構を持つ(古代の)地域国家が生まれます。
 さらにネットワークが発展すると、地域国家間の相互関係が生まれます。いくつもの隣り合う地域の中で、最も魅力的な文化や知識、技術を持つ国に注目が集まるようになります。すると、広域の中心となるような国が生まれ、周りの国々その中心の国の様々なスタイルを真似するようになります。情報の移動です。

 歴史は人間が持つ尽きない好奇心とチャレンジ精神によって作られてきました。その好奇心とチャレンジ精神が、見知らぬ土地に住む人々を思い、その人々とつながるために自然の障壁を乗り越える様々なネットワークを形作ってきたと言えそうです。

 

 次回は、自然の障壁を突破する手段として、古代の交通インフラはどのような状況であったのか、それを下支えする古代の技術はどのようなものだったのか、掘り下げてみます。