第18回ブログの「政治連合(共立)説」でも言及しましたが、通説では、2世紀後半頃の日本列島で、鉄の入手をめぐる広域戦争が発生したとされています。「鉄資源の獲得」や「鉄の交易路掌握」をめぐる争いです。根拠は、『魏志倭人伝』に記載のある倭国大乱です。
ただ、この広域戦争説には反対論も根強いですよね。筆者も反対です。
『魏志倭人伝』をよく読めば、単に次のように記されているだけで、「広域」を思わせる文言はどこにも見当たりません。
<其の国、本亦、男子を以て王と為す。住まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為せり。>
2~3世紀における日本列島の状況
倭国大乱は、鉄の獲得をめぐる広域戦争とされていますが、弥生時代末期、西暦2世紀頃の九州北部と大和盆地とでは、鉄に対するニーズに明確なズレがあったのではないでしょうか。
ニーズのズレは、当時の交通インフラの状況、つまり技術や情報の伝播に時間がかかったことにもよります。九州北部から出雲、丹後までは鉄の交易ルートが構築されましたが、大和盆地は埒外に置かれていました。平準化に要するタイムラグともいえます。
前回も述べましたが、縄文~弥生前半の人々は生命維持に必須とされる水際の地に居を構えていたことは間違いないでしょう。
水田稲作の開始は広い耕地面積を潤す水が必要なため、単純に水辺のまわりに集住したそれまでの人びととは異なり、ムラやクニは河川の広域管理をめぐって互いに攻防を繰り返すようになります。
集団の生命・生活維持のためには水利権の獲得が集団にとっての最重要施策だったのです。この状況は九州北部でまず起こり、九州北部から列島各地に、次第に東へ、また北へと広がっていきました。鉄よりも前に水が死活的重要性を持っていたわけです。
最近の学説では、水田稲作の始まりが紀元前10世紀頃とされ、鉄器が使われはじめるのは稲作から大きく遅れ、紀元前3世紀頃とされています。この鉄利用は、やはり九州北部からスタートし、東方へと拡散していきます。
また、鍛冶については、紀元前1世紀頃に九州北部で始まり、短期間のうちに瀬戸内では徳島まで、日本海側は丹後まで技術が伝播します。近江にも比較的早く伝播しました。
一方、大和盆地では紀元後3世紀になっても鍛冶の顕著な増加は見られません。
鉄を求めるフェーズの前には水を求めるフェーズがあり、大和盆地では水利権争いから発展した合従連衡が最終局面にありました。鉄に関する情報不足と執着の無さが鉄の出現を遅らせたということです。単純なタイムラグです。
確かに、九州北部は、鉄利用の先進地域で、鉄をめぐる争いが集落の存続の死命を左右するようになっていました。
同時期、大和盆地では水利権をめぐる争いが頻発し、小集落の合従連衡が進行中でした。大和川支流の交通要衝地には、中小のムラが存在していたと考えられます。後に大和地域の県主になる、高市、葛城、十市、磯城、山辺、曾布、磐余のムラ・・・彼らはいずれも大和川支流の水際の要衝の地に構えていた中小豪族です。
おそらく紀元前から3世紀頃までは、九州北部・出雲・丹後などを除く、多くの地域で、集落の死命を制したのは鉄ではなく、水(つまりは水田稲作の展開)だったのではないかと思うのです。農耕は鉄がなくても木や石で可能でした。
その後4世紀初頭までに大和盆地内を制したヤマト王権は、4世紀半ばまでには鉄の利便性・有用性に気づき、その確保に向けて大和盆地の外へと膨張を始めたことでしょう。丹後地方と濃密な関係を構築し、また海の民を取り込み、これを組織化しながら陸と海、双方の交通インフラを掌握していくのです。
同様に各地域国家においても、戦争・国土開発・産業振興における鉄の有用性が広く知れわたり、鉄加工技術が玉成されていきます。
4世紀後半以降には鉄をめぐる争いが激化し、それに勝利することが、地域支配者の生き残りを左右し、さらに列島全体の支配を左右したと考えます。
確かに、3世紀までも、鉄素材や鉄製品の入手に向けた確執はあったでしょうが、広域戦争を引き起こすほど、各地にとって切実な優先課題ではなかったと思うのです。そもそも2~3世紀においては、鉄素材や鉄製品の絶対的な流通量は、クニ・国の死命を制するほど大きなものではありませんでした。
ここで「見えざる鉄器説」について説明することにします。
「見えざる鉄器説」とは?
纒向は、鉄の獲得に向けた広域(瀬戸内・大和)連合によって、3世紀半ばに誕生したとする説が優勢のようですが、筆者はそうではないと断言します。
優勢説によると、広域連合の勝利によって大和地域は、木製農具(クワやスキなど)に装着する鉄刃を大量に確保して農業生産力を高め、政治勢力の中心になったと言うのですが……。
しかし、少なくとも紀元3世紀末までの大和地域には、(鉄製武器の副葬は一部の古墳・墳墓に見られるものの)鉄関連製品の際立った量的拡大が見られません。
弥生時代の後期に、九州北部を筆頭に西日本地域で鉄器の出土が多く認められるのに対し、倭国大乱が終わった3世紀になっても畿内での出土は増えていないのです。
「見えざる鉄器説」とは、その現実から目をそらし、実際は近畿中央部にも鉄は豊富に存在したとするいささか身勝手な仮説です。他の鉄器に転用されてしまったとするリサイクル説や、土中で侵食され消滅したとする銹化説などを根拠に出土が少なかったとするもので、プロの学者を中心に、1980年頃から最近まで、当たり前のように唱えられてきた仮説です。
畿内では、実際に出土した量よりも大幅に多い鉄器が保有されていた可能性があるというのですが、九州の鉄のスキは畿内の100倍も出土しています。なぜ九州の出土は多いのか、これにはまともな答えがないわけで、「見えざる鉄器説」は信じられないような幼稚な説でした。鉄は錆びると安定するので、溶けてなくなってしまうことは滅多にないとも言われます。
鉄は空気中の酸素と水分結びつくと赤錆になり次第に内部に進行していきますが、これは酸化鉄という元々の安定した状態なのです。また高温に熱した鉄であれば黒錆が表面をおおって、内部を保護するようになります。いずれにしても元の形を完全に失ってボロボロの粉になるまで錆びてしまうことは滅多にありません。
この説が一世を風靡したのは考古学の一大汚点です。
ちなみに畿内ではスキの鉄製刃先はほとんど出土しないのに、木製の柄は大量に出土しています。
その後、発掘調査が増加した現在でも、畿内での出土量はほとんど増加せず、鍛冶の技術力も劣っていたことが立証され、最近ではこの仮説に対する逆風の方が強くなっているように感じます。
2世紀までの大和盆地は、政治的なピラミッド構造を持つ社会ではなく、2、3の小さな塊がそれぞれ独自に環濠集落を構え、競合はするものの、恵まれた自然環境のもとで共存もできる安定した社会でした。
その延長線上で、纒向が出現した3世紀初頭には、大和盆地東南部の唐子鍵・磐余・纒向・三輪・田原本・柳本が一体化していったのではないでしょうか。そうした中で、3世紀後半になって富(人口と財力・技術力)を蓄積した地域連合体の力で、箸墓古墳が出現したと考えてはどうでしょう。
以上はいまだ仮説の域を出ないのですが、肝心なことは、「倭国大乱」は西日本全域をカバーする広域連合ではないということです。3世紀までは、西日本の広域を巻き込む戦争が起きる必然性はなく、また貧弱な交通インフラからみても広域戦争は不可能だったのです。
ついでに言うと、大和地方は辰砂の埋蔵に恵まれていました。
古代日本の赤色顔料には、水銀朱(辰砂)、ベンガラ(酸化第二鉄)、鉛丹(四酸化三鉛)の3種類がありますが、鉛丹が使われるのは飛鳥時代以降です。弥生墳丘墓や古墳には朱かベンガラが使われ、とりわけ朱が貴重なものでした。
大和地方の辰砂がいつ頃から生産されていたかは定かではありませんが、宇陀地方の辰砂(大和水銀鉱山)は少なくとも4~5世紀には丹生氏が採取していたようです。ただしこの頃は露天掘りで、水銀の本格的な坑道採掘は6世紀後半に始められ秦氏の管轄下におかれたといわれます。宇陀の水銀採取は平安初期には終わり、その後は伊勢水銀にとって代わられたようです。
4世紀以降、鉄の鍛冶、製鉄技術を習得した大和地域は、鉄製品に加え、辰砂、鏡の製作をも武器に他地域との交易に邁進し、さらに富を蓄積していくのです。