理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

23 集住化・集権化の要件

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  前回、ムラやクニが、国になり中央集権国家へと態様を変えながら集約していくプロセスと集住・集権規模に言及しました。ムラから始まり、次々と段階を踏んでいくための要件を考えてみましょう。

水辺の地⇒ 交通インフラの整備⇒ 専門特化層の充実
 集住は、水のあるところに人が移り住むところから始まったと考えられます。最初は十数人から数十人規模で、数家族がまとまるレベルでした。

 縄文、弥生時代前半の人々も、まず生命維持に必須の「水辺の地」に居を構えたことは間違いないでしょう。

 やがて農耕が盛んになるにつれ、広い耕地面積を潤す水が必要になるので、河川の広域管理をめぐって攻防が繰り返されるようになります。水利権をめぐる争いです。このプロセスを通して、有能なリーダーを抱える集落はより大きくなり、ムラが生まれました。ムラ(小規模集落)の規模は数十人から数百人というところでしょう。

 やがて、ムラが集約されて数千人規模のクニ(小国)となり、さらに古墳時代になるとクニが集約されて地域国家が生まれます。地域国家同士は互いの国境線もあいまいな状態で、否、国境という概念もなく、ゆるやかに統治した領域の中にはクニ(小国)が点在しているようなイメージだった思われます。一定の場所に集まって住むという「集住」の文字通りの意味とは違って、域内はスカスカの状態です。

 ムラからクニへ、クニから地域国家へと規模が大きくなっていくための物理的な必要条件は、交通手段が整備されることです。「けものみち」のような微かな痕跡しかない貧弱な交通路から、日常的に人が移動し、モノを運べて、情報伝達も可能な交通インフラが必要になります。
 クニの域内では、ムラとムラを結ぶネットワークが、地域国家であれば、域内のクニとクニを結ぶネットワークがなければ集権の体制を維持できません。

 当ブログでは、この部分をさらに掘り下げて「古代の道路」というタイトルで、筆者の考察を披露する予定です。相当先になりそうですが、いずれ必ず……。

 

 集権化がさらに進むためには、広域を管理・統制するための専門特化層の充実が必要です。
 統治の規模・範囲が一定以上に大きくなると、人的余裕が生まれ、企画・管理・軍事作戦に特化した階層が育ってきます。古代では、いったん専門特化層が生まれると、さらに広域の統治を可能にする正のスパイラルが有効に働きます。少しでも早くこのスパイラルに乗れば圧倒的な競争優位をもたらし、他集団との攻防で優位になり、集住・集権規模はますます大きくなっていきます。
 最初に突出した集団は、先行者利得を享受し、規模においても質においても、幾何級数的に強大化していった考えられるわけです。
 これが、3世紀から4世紀前半にかけてのヤマト国(初期ヤマト王権)の姿ではなかったか……。キーワードはスタートダッシュです。


纒向における集住の謎
 第18回ブログで述べたように、「纒向のクニ」は鉄の獲得に向けた政治連合ではありません。
 今までに、纒向地域からは農耕が行なわれた遺構が見つかっていないので、農耕のために展開された新地とも思えません。古墳を築くために「無主の地」に新地を求めたのでしょうか。この謎解きにチャレンジしてみます。

 

 いずれ詳述しますが、纒向地域には大きな古墳群が存在し、多くの民衆が集住しました。古墳築造労働者を含めた総人口規模は7~8千人に達したと言われています。しかし現在までの発掘調査では、彼らの食を養う農地の存在が認められていません。彼らはどこに、どうやって住んでいたのでしょうか。
 連合政権だの、共立だの、邪馬台国の地だの、宗教都市だの……と、纒向に関する議論は熱を帯びていますが、7~8千人がどうやって暮らしていたのか、その日常に迫る論考はほとんど見当たりません。足元が不透明なのです。

 人が集住するには食、すなわち農業が必要。農耕するには通常、水路の存在が不可欠なのですが……。


 山間部から平地になるところは、川幅が急に広がり流速が遅くなります。するとそこに礫や砂、泥が堆積します。川底が高くなればより低いところを求めて新しい流路が作られ、この繰り返しで扇状の土地が形成されるわけです。そこでは、流路が顔を出していなくても、川の水が浸み込んだ水無川として地表すれすれのところで伏流しています。
 したがって扇状地や緩斜地では、きちんとした水路を人工的に造成しなくても、灌漑は容易なのです。

 実際、纒向周辺の大和盆地東南部(東部山地の西側斜面)には、いたるところに扇状地、緩斜地があるため、高度で手間のかかる水路を造作しなくても重力灌漑・地表灌漑が可能でした。大規模な土木工事の必要がないという、水稲にきわめて有利な条件が整っていました。鉄器がなくても木器や石器だけで水稲のための土木工事ができたのです。

 つまり纒向自体に農耕地がなくても、纒向近傍の扇状地・緩斜地には水稲好適地がたくさん存在したので、纒向が大量の人口を抱えることを可能にしたと考えられます。まだ仮説のレベルですが吟味してみる価値はありませんか。


纒向地域の交換経済
 纒向自体は高度な木材加工技術を持っていたようなので、木製品などを製造し、食物と等価交換していたとも考えられます。現に大量のスキ・クワなどの木製農具が出土しています。
 山陰では、鳥取の青谷上寺地遺跡で作られた精巧な木工製品が「青谷ブランド」として日本各地に出回っています。纒向でも近傍地や遠隔地との間で、こういう取引をしていた可能性が考えられます。これもまだ仮説なので、鉄器がなくても磨製石器で大量に木製農具が作れたのか、実証的な確認が必要です。

 纒向自体は非農業区画のようですが、周辺地域に農業区があったのでしょう。すでに纒向が出現した3世紀初頭には磐余・纒向・三輪・田原本・柳本が一体化(地域連合体)していたのだと思われます。ちなみに、纒向の出現は、近傍の環濠集落(田原本の唐子鍵など)が衰退する時期でもあります。

 昭和46年、纒向地域で、2本の巨大水路(纏向大溝)が発見されましたが、これは主に物資運搬用のためのものだったと考えられます。つまり交通インフラですね。ヒノキの矢板で丁寧に護岸されていました。この護岸工事は、鉄製品が十分にそろわなくても、木器や石器で土砂をすくい、打ち割り工法で矢板を造り、磨製石器で仕上げることで十分に対応できたと考えられます。

 

 少々脱線しますが交換経済という観点で三角縁神獣鏡に触れてみます。
 三角縁神獣鏡の出土は遠隔地を含む広域に見られますが、圧倒的に畿内に偏っているため、ヤマト王権が権威を維持し政治的連帯を結ぶために、各豪族に配布したという見方が主流のようです。

 しかし反対給付のない一方通行の配布(財貨の移転)など、あり得るのでしょうか。王権の権威とか政治的連帯と言っても、貧弱な交通インフラしかない時代のことですよ。遠隔地までも含む支配・被支配の関係にどういう意味があるのか、想像できません。筆者には、三角縁神獣鏡は(纒向を発祥とする)4世紀ヤマト国の専売特許のようなもので、経済行為の対象だったのではないかと思われるのです。

 

 古代シナで姿見として登場した鏡は、日常の道具として使われ続ける一方で、やがて実用とは別の性格である呪術性が強調されるようになり、漢代を通じて、皇帝の象徴となっていったと言われます。これらの古鏡が日本列島に伝わり、やがて自ら鏡を製作するようになっていったのでしょう。
 現に大和盆地には鏡づくり集団が関係したと思われる神社が多くみられます。

 ヤマト国は、前方後円墳祭祀の中に「祭祀道具・宝器としての青銅鏡」という仕掛けをつくりました。そして呪術的宗教的に他よりも卓越したいという豪族の願望に乗じて、畿内で大量に製造し何らかの見返り(等価交換)を得ていたに違いありません。

 無償で配布したのではなく、前方後円墳祭祀を取り入れた地方豪族が自ら進んで入手したのだと思います。

 

 黒曜石やヒスイなどの交易をはじめとして、旧石器時代の昔から、人びとは支配の及ばない遠隔地に無償で物品を与えるような非経済的行為はしてこなかったはずです。
 近隣、遠隔地を問わず各豪族は、前方後円墳祭祀に欠かせない青銅鏡を入手するために、農産物や、あるいは他の何らかの非農産物、例えば労働力の提供なども含め、ヤマト国(王権)に対価を払っていたと思われます
 祭祀的側面からスタートした三角縁神獣鏡ですが、その畿内生産は純粋にヤマト王権の経済的行為だった考えたいですね。
 
 おそらく、大和地域で多く産出した辰砂や、(4世紀半ば過ぎになると)鍛冶製品なども、交換経済の主要なメニューとして機能したのでしょう。このような交換経済も専門特化層によって仕組まれ推進されたものと思われます。
 そう考えないと、3世紀後半から4世紀にかけて突出していく大和地域の富の蓄積、人口増加の理由が見つかりません。前方後円墳祭祀という宗教的権威だけでは財は蓄積できなかったでしょうから。
 以上はまだ粗い検討につき、今後の熟考を要します。「古墳」について語るときまでに煮詰めたいと思います。

 

 もとに戻ります。
 以上のように、大和盆地東南部全体が交換経済で潤い、大和盆地の広さ大きな人口を抱える(出生率増大と人口流入)ことを可能にし、成長に向けてのスタートダッシュを切れたのだと思うのですが……。

 富が蓄積されると、次の段階は外縁・域外への膨張です。
 大和盆地は、扇状地から流れ出る多くの支流が大和川を介して河内方面と直結し、北部では木津川を介して琵琶湖・淀川と直結します。纒向のクニを発祥とする地域連合体は、この利点に目をつけ、3世紀末までには大和盆地の交易ネットワークを押さえ、他の地域を大きくリードするようになるのです。

 そのような経緯の中で、広義の富(人口・財力・技術力)を蓄積した地域連合体(大和盆地東南部の中小豪族層を中核とした初期ヤマト国)が核となって箸墓古墳を築造したのでしょう。

 箸墓古墳の出現を3世紀後半のエポックメイクな事象と捉えない方が良いと思います。冷静に列島全体を見渡せば、同時期にさまざまな形の古墳が存在し、前方後円墳の原型まで含めれば、箸墓が先頭バッターではなかったのです(古墳についてはいずれ筆者の見解をまとめて連載する予定です)。
 規模が桁外れに大きいのは事実ですが、大きさに惑わされて、もっと底流にある大きな動きを見失ってはいけません。規模の大きさは単に大和地域の富の蓄積の結果です。

 

より広域の集住・集権には幹線交通路の整備が必須の要件
 初期ヤマト国が享受する大和川・木津川ネットワークは局地的交通インフラといえますが、それをはるかに超えて広範囲を統治する(6世紀以降の中央集権化)となると、遠隔地の国々と中央とを結びつける幹線交通路の整備が必要です。それも海路・河川だけでなく陸路を含めた交通インフラの面的整備が必要になります。

  

 列島単位での集権ともなると、人・モノ・情報のネットワークのうち、特に「情報」が格別の意味を持ってきます。
 集権規模が大きくなるにつれて情報の重要性は幾何級数的に大きくなります。中央集権の維持には情報統括がきわめて重要で、場合によっては情報伝達こそが死命を決するとも言えます。
 現代のように通信網がない時代は早馬を使いました、それもない時代は人が走って知らせました。そのためには「けものみち」のような貧弱な道ではなく、走れる道路が必要です。「いざ鎌倉!」の時には軍隊を急派できる広い道路が必要です。情報が素早く伝わり素早くフィードバックされ、クイックアクションをするためには、交通インフラの整備・特に幹線交通路の充実が不可欠なのです。

 

 ウイリアム・H・マクニールが、集住・集権規模を表わすキーワードを分かりやすく述べているので、彼の言葉を借りて整理してみます。

〇集住・集権規模が小さいうちのキーワード
 近距離
 生活道路
 自衛
 自給自足
 物々交換
〇大規模統治のキーワード
 統治対象に遠隔地を含む
 幹線道路
 専門化された軍隊
 危急の時の軍隊派遣
 交換経済
 商流物流機能
 官僚組織
 統治を正当化する歴史書
 税金徴収


 しかるに、古代日本の人・モノ・情報のネットワークはどんな状況にあったのか、次回以降に「古代日本おけるネットワーク」という視点で掘り下げてみます。

 


参考文献
『日本史の謎は地政学で解ける』兵頭二十八
『古鏡のひみつ』新井悟
他多数