理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

22 ムラ・クニ・国(地域国家)・中央集権国家

f:id:SHIGEKISAITO:20190725172526j:plain <彼岸花>

倭国という表現
 当然ながら、古代の日本列島には「日本」と称した国はありませんでした。にもかかわらず万世一系の思想のように、紀元前から一貫して今のような枠組みがあったかのような古代史も存在します。しかしそれは意図的に設定された枠組みに過ぎません。
 田中史生氏は「そのことを意識した『日本古代史』と、それに無自覚な『日本古代史』では、その歴史像や今をみる眼差しに相当大きな違いが出る」といいます。
 このことの大切さを十分に認識したうえで、当ブログでは、縄文の昔から現代までほぼ一貫して侵略されることのなかった日本列島に関わる表記は、あえて便宜的に「日本」と表記することにしています。

 古代史研究者が好んで使う「倭」や「倭国」という表記は、古代シナが、当時日本列島にあった政治勢力や国家を指して用いた呼称で、しかもその範囲や実体が明確ではありません。そのうえ侮蔑感もあるので、日本人がこれを好んで使うことはないのではないでしょうか。

  一方、古代の大陸については、近現代の中華人民共和国や中華民国、清国とはまったく国柄が異なるので、通史的呼称である「シナ」と表記します。「シナ」という呼称には抵抗感のある人たちもいるでしょうが、歴史的に見て少しもおかしいことはありません。

 

 また、政治勢力については次のように表記することにします。
 政治勢力は、点在するムラ(小規模集落)から始まり、クニ(小国)国(地域国家)中央集権国家へと次第に大きな纏まりになっていきます。

 これと同様の道筋を辿り、大和地方の一つのクニに過ぎなかったが、後に中央集権国家となる勢力について、その当初から「大和政権」とか「大和朝廷」と呼ぶのはふさわしくありません。もちろん、「倭国」とも呼びません。
 そこで便宜上、次のように表記することにします。

 小さなまとまりの時期を「纒向のクニ」とし、3世紀半ばから7世紀頃までを「ヤマト王権」、律令制が施行されたのちを「大和政権」と表記します。
 しかしヤマト王権といえども、そのはじめは「出雲国」「吉備国」「筑紫国」などと同様に一つの地域国家に過ぎませんでした。むしろ4世紀半ばくらいまでは地域国家の色合いの方が強いので、文脈によっては「ヤマト国」とも表記します。
 それ以降は、王権としての支配力が強まるので「ヤマト王権」と呼んでも違和感はないでしょう。この使い分けは学問的には問題があるかもしれませんが、当ブログでは、今までと同様に今後もすべてこの使い方で統一していきます。


集団規模の呼称と目安
 古代史の研究者の間では、集団の規模をさまざまに表現しています。当ブログでは、以下のようにイメージしています。なお時代区分ですが、縄文時代と古墳時代にはさまれる「弥生」を、(最近優勢な学説にもとづき、九州北部で水田稲作の始まる)紀元前10世紀頃から紀元後3世紀前半と想定しています。

 

ムラ(小規模集落)・・・数十人~数百人で部落のようなイメージ。
 ムラ規模の集住は縄文時代から始まり、多くは台地や丘陵の上に展開されました。
 水田稲作の開始にともない、弥生時代には数百人の集住が認められるようになります。河川流域ごとに水辺に臨む台地か微高地に立地し、竪穴式住居数軒に高床式倉庫1棟の組み合わせがいくつか集まって構成されたようです。
 登呂(静岡県)が代表的。
 大和盆地の東南部では、大和川支流の交通要衝地に、中小のムラが存在していたと考えられます。高市、葛城、十市、磯城、山辺、曾布、磐余のムラなどです。

クニ(小国)・・・1000人~数千人の規模。
 祭祀施設を備えた中核的な大規模環濠集落と、そのまわり広範囲に衛星のように存在する多くのムラから構成されるイメージ。
 吉野ケ里(佐賀県)、原の辻(壱岐)、池上曽根(大阪府)、唐子・鍵(奈良県)などが代表的。吉野ケ里遺跡は、クニの中核的集落の姿を具体的に示しています。
 環濠はないが、大和盆地東南部の纒向遺跡群や中河内の中田遺跡群などの「開放的な」集住地域も、この範疇であると考えられます。

国(地域国家)・・・多くのクニを統合した古墳時代の代表的な政治勢力集合体。
 西から順に、筑紫国、出雲国、伯耆国、因幡国、吉備国、丹後国、ヤマト国、葛城国、近江国、尾張国、若狭国、越前国、毛野国など。

中央集権国家・・・古代日本の場合は、ヤマト王権~大和政権のみが該当する。

 

 
 纒向はムラか、それともクニかという素朴な疑問がありますが、数千人が集住したと言われているので、クニと考えて良いでしょう。
 古代都市か?とも言われますが、都市は集住の規模が大きくなり、周囲の農村とは質的に異なる住民(専業的工人など)が代々住み続ける空間です。これに照らせば集住が一過性で、後代に受け継がれることなく廃絶した纒向を都市と定義するのは、少々無理のような気がします。
 三内丸山はもちろん、纒向や唐子鍵、池上曽根などの環濠集落も都市とはいえないですね。

 

 大石久和氏の著書に興味深い指摘があります。
 <18~19世紀の平均的な村は、村高400~500石、耕地面積50町前後、人口400人くらいだった(中略)。また縄文時代の三内丸山遺跡は縄文時代としてはかなり大きな集落だったが、人口は400~500人程度と推定されている。つまり日本人は縄文時代から江戸時代に至るまでの長い間、ほぼその程度の人数で共同体を構成して暮らしてきた民なのである。狭く小さく分散している平野の、きわめて小さな集落の中で、歴史のほとんどの期間を暮らしてきたことが、われわれを規定している。>

 どんなに統合化が進もうとも、生活の基礎単位であるムラの規模が数百人レベルで継続していたという指摘は、気分が晴れやかになる論考です。

 

6世紀頃までの「国(地域国家)」は、いわゆる国ではなかった!
 当ブログで吉備国や出雲国という場合の「国(地域国家)」は、律令制下の「国」とはまったく異なります。

 8世紀に律令国家が誕生し、五畿七道が定められ、列島各地に明確な形で「国」が定められました。各地には中央から任命された国司が置かれ、地方豪族を任命した郡司が置かれました。

 

 しかし、6世紀頃までの「国(地域国家)」はこれとはまったく異なり、漠然とした統治の範囲に国境はなく、リーダー(首長)のもとに一元化した支配体制が確立していたわけでもなく、その地域一円にゆるやかに影響力があったというくらいのものです。むしろ、「吉備地域」「出雲地域」のように「地域」を用いた方が実態をよく表しているのではないでしょうか。

 松木武彦氏は、磐井戦争後の6世紀半ばから後半にかけても、依然として統一的権力はなく、モザイク状に混み入った支配・被支配の関係が存在したといいます。
 地方豪族は独自に支配できる土地や人びとを確保している一方で、そこに割り込むようにヤマト王権の直轄地や付属民が設けられていたのです。しかもヤマト王権側は、大王・大王一族や王権を支える諸豪族(物部・大伴・蘇我氏など)までが各地域にさまざまに直轄地を設けました。このような錯綜した所属関係が各地域に併存したというのです。筆者もこの見方を支持したいと考えます。

 

 日本の統一をどの時期とみるのか、研究者によって見解はわかれますが、国家の基軸をなす律令制が導入された8世紀初頭が一応の目安でしょう。
 それ以降、8世紀になってからも720年頃までは九州南部の隼人征討、8世紀半ばから平安時代にかけて奥州の蝦夷征討が続くのです。

 第18回ブログで指摘したように、3世紀後半から国家権力としてのヤマト政権が成立していたとする「前方後円墳体制」は虚構です。
 3世紀後半とみられる箸墓古墳以後、「これを祖型とする同じ表現が各地の酋長墓につぎつぎと採用されるようになるのは、その情報が遠距離交易網を行き来する人びとを通じて伝えられ、模倣された結果と考えられる」とする松木武彦氏の論調に賛成です。


6世紀以降のヤマト王権による統治システム
 磐井戦争(527~528年)の終結後、ヤマト王権は糟屋屯倉をはじめ九州北部各地に屯倉を置き、統括機関として那津官家(大宰府の前身)を設置しました。また(欽明と並立だったともいわれる)安閑期には全国に数多くの屯倉が設けられました。534年には武蔵国にも4か所の屯倉を置いています。
 これら屯倉の配置を主導したのはヤマト王権内で重職にあった蘇我氏です。蘇我氏は葛城の本宗家が5世紀末に滅んだあとを受けて急成長したのです 。
 欽明期に、白猪屯倉・児島屯倉を設置して吉備を政治的に抑え込んだヤマト王権は、さらに筑紫国を制圧したことで、大和と百済を結ぶ瀬戸内海ルートを確実に掌握します。そして蘇我氏は、残る地域国家である出雲の完全支配に力を注ぎました。

 政治的軍事的拠点の性格をもつ屯倉の配置に加えて、6世紀にとられた新しい統治機構は、部民制に基づく統治、国造制を軸とする在地の有力者の再編成でした。
 『古事記』の序文では、天皇五人の業績が称えられています。このうち神武・崇神・仁徳については素直に理解できるが、成務・允恭の業績については首を傾げてしまいます。
 吉村武彦氏の指摘ですが、ここには古代豪族の国家形成史観が明示されているといいます。


 『日本書紀』本文には、4世紀前半の成務について、
 <国郡に造長(みやつこおさ)を立て、県邑(あがたむら)に稲城を置(た)つ>、

 5世紀半ばの允恭については、
 <盟神探湯(くがたち)の後、氏姓自ら定まりて、更に詐(いつわ)る人無し>
とあります。

 

 『日本書紀』の編纂を主導した7、8世紀の指導層は、国家の形成にとってこれらの政治システムがきわめて重要であると認識していたに違いありません。

 しかし事実は、成務・允恭の時代ではなく、6世紀になってからの国造制・部民制による政治システムこそが、ヤマト王権による統治の劇的進展を可能にしたのです。
 国造制は、ヤマト王権に服属した地方豪族に一定範囲(国・クニ)の支配を委ねる制度です。
 この国造制導入で、それまでヤマト王権から一定の距離を置いていた出雲も完全にヤマト王権に組み込まれていきます。

 地方統治だけでなく、中央における官位・官職制度も整備し、豪族支配を強力に進めました。
 部民制は、ヤマト王権への従属と王権内における職務分掌を明確にした体制です。部民制成立の前段階として、5世紀後半頃の人制がありました。これらは王権内の組織整備を指向したものです。

 人制は、地方の人が特定の職務をもって中央に上番し、王権に奉仕する体制でしたが、必ずしも絶対的な制度ではなく流動的だったので、磐井戦争後の西日本諸地域への支配を強める中で、部民制への改組が行なわれたのです。

 一例を挙げます。
 もともと九州北部で発祥した海の民は、やがて海人(あま)とか海部(あまべ)と呼ばれるようになります。 ヤマト王権が人制を導入して海人として組織化したのは5世紀後半の頃です。部制成立の6世紀以降、海人は海部に改組され、ヤマト王権の直属組織となって政権に取り込まれていったのです。

 7、8世紀のヤマト王権は、それまでの大王による独断政治を排して、大王みずからを神の祭祀者として権威づけたうえで、有力豪族の合議による政治を志向していきます。
 この権威づけのひとつとして、アマテラスを頂点とする古代神祇信仰の成立がありますが、その経緯については第14回から第16回のブログで述べた通りです

 

参考文献
『列島の古代史3 社会集団と政治組織』
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎
他多数