理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

26 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する!

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 前回のブログでは、古代史を俯瞰する場合に「人・モノ・情報の(流れに関する)ネットワーク」という視点が重要であることを確認しました。
 ネットワークが形成されるためには、自然障壁を突破する交通インフラの整備・充実が必須で、それを下支えする技術の進歩が絶対的な必要条件です。

 

古代の交通インフラ
 この命題は当ブログの核心ですが、今回は概要だけ述べることにします。
 古代の日本列島は、山は険しく越えるに難あり、然らば平野部はというと、多くの場所が沼地や湿地、あるいは原生林や藪の繁茂する状態で、人が行き交うにはあまりにも過酷でした。
 これらはすべて伝播・交易・交通・進攻の邪魔をする自然の障壁です。

 このような自然障壁で区切られた閉鎖空間の中で、人々はムラやクニを形成していました。外に出るには自然障壁を突破する必要があります。古代の政治・経済・文化は、自然障壁を突破するための交通インフラの整備に比例して進展した考えられます。

 

 縄文時代は、狩猟・漁撈・採集が主体の自給自足経済なので、生活圏は狭く、近隣への移動はあってもきわめて限定的で、交通というレベルではありませんでした。いずれ詳述しますが、縄文時代であっても、相当な遠距離を人が移動し交易した痕跡が、黒曜石やヒスイ、アスファルトなどの動きから確認されています。しかし、多くの人や集落全体が大きく移動するようなメジャーな動きではなかったと考えて良いでしょう。
 

 弥生時代になると稲作が普及し、集落の規模も大きくなりますが、依然、生活圏が格段に広くなったわけでもありません。相変わらず、多くの交通路は「けものみち」に毛の生えたようなもので、大規模集団が長距離を移動することなどあり得なかったでしょう。
 遠隔地同士のつながりは、陸路ではなく、丸木舟などによる海路・河川がその役割を担いました。朝鮮半島やシナとの交易は、丸木舟の改良版程度のものが往来したと考えられますが、強く速い海流・潮流があり、また暴風に見舞われることもあり、成功する確率は大きくなかったと思われます。
 河川も急流が多く、いったん豪雨に見舞われれば河口部で洪水が発生し、河川舟運も容易なものではありませんでした。


 4、5世紀以降には、交通路の整備が著しく進展し交通手段も進歩しました。鉄製品の利用が拡大し、渡来の技術が人とともに流入したたからです。

 海路においては、丸木舟をベースに、耐波性が高く積載量が大きい準構造船の建造が容易になり、人・モノの大量移動が可能になります。海民集団が組織化されて高度な航海術が広まり、停泊基地を繋ぐ安全な航路が固まったことも大きな要因です。
 また、陸路では、渡来人から道路啓開技術を学んだ地方豪族が、自らの域内の交通路の整備に取り組み始めました。
 これらはいずれも、鉄の鍛冶・製鉄技術の習得が進み、各地に鍛冶工房・製鉄設備が造られ、道具・工具面で大きな革新があったことによるものです。

 

 6世紀後半から7世紀になると、陸路では、ヤマト王権によって七道駅路の原型がつくられ、やがてその後の律令政府の手で、全国幹線道路網が完成します。
 海路でも、難波津をはじめ多くの港津の整備が進み、政治的軍事的拠点の性格を持つ屯倉の配置により、瀬戸内海ハイウエイが機能し始めました。

 

 古代を俯瞰する際は、このような交通の実態を描きながら、論考すべきでしょう。自然障壁を乗り越え広域統治を可能とするためには、技術力を高め交通インフラを整備することが絶対的な要件である、この認識こそが古代史を正しく追究することに繋がります。

 

 再度繰り返します。
 人・モノ・情報の移動は、少量・近距離であれば、あるいは遠距離でも長い時間をかけるのであれば、可能でした。しかし、政治勢力の集団移動のように、多量で長距離の移動ともなると、ことは簡単ではなかったのです。
 ヤマト王権にしても、地方豪族にしても、統治を確実なものにするためには、域内の交通を至便にすることと、軍の派遣が迅速にできること、情報の授受が間断なく出来ることがとりわけ重要でした。交通路が貧弱では盤石な支配は不可能だったのです。


 古代の交通路や交通手段は、次のような8つの固有技術があって、はじめて大きく進歩・進化したと考えられます。

 

1 船・舟の製作技術
 丸木舟は縄文時代からありました。長さは、材料となる樹木で制限されるため、多くは5メートルくらいで、3~5人が乗船し、進行方向に向かって座り櫂で漕いで進みました。この「単材刳舟」と呼ばれる丸木舟だけで古代人はあちこちに雄飛し、大陸との危険な航海もやってのけたようです。

 当時は鉄器がなかったので、丸木舟を作るには、まず、巨木に石製の楔を打ち込み、石ハンマーで叩き割り半分にしました。「打ち割り」です。その後は、大勢の職人が磨製石斧などで、半割丸太の内面部分を刳り抜く骨の折れる作業が必要でした。1艘作るだけでも大変な労力と膨大な時間を要するため、丸木舟の量産などとても考えられない状況でした。

 

 紀元後になると、鉄製工具の登場により、単材刳舟だけでなく複雑で高度な刳舟を製作できるようになりました。外洋を航行するために、刳船の両側に舷側板を設け、刳り抜き部材を前後に繋いで十数メートルの船長にし、乗員数や積載量を増やした「複材刳舟・縫合船」も考案されました。
 また、安全性を高めながら積載量を増す工夫として、2艘を横に繋いで双胴船(ダブルカヌー)のようにするとか、船体の横にアウトリガーをつけて浮きやすくする工夫などもあったようです。

 舟釘がなかったので、部材の接合・固定には、穴をあけて縄や蔓で縛る、あるいは木釘を用いる、あるいは鉄板で繋ぐ、などの方法がとられました。
 継ぎ目からの水漏れを防ぐため、接合面を叩いて柔らかくして合わせる「木ごろし」、ヒノキの皮の埋め木を間に埋め込む「巻ハダ」、コケや水草のパッキング、漆やアスファルトの塗布などの技法がとられました。当然、このような水漏れ対策を施してもなおかつ、古代船の航行には淦(あか)の汲み出しという大きな負担が伴いました。

 このような丸木舟は「準構造船」の先駆けで、製作するには鉄製の斧・手斧・槍鉋などが必須とされます。鉄の普及状況から考えて、仮に準構造船が3世紀以前に存在したとしても、少量しかつくられず、威信財的な位置づけだったと考えられます。

 準構造船のフルスケールの出土例はまだなく、準構造船の形状や存在そのものは謎に包まれています。ただし、「棚板造りの構造船」は中世になるまで存在しないので、古墳時代以降、外洋での大量輸送が可能な船体として、丸木舟よりも高度な「準構造船」の存在そのものを否定することはできないでしょう。

 準構造船が大量に建造されるには膨大な鉄製工具が必要で、建造数は5世紀以降の鍛冶技術、6世紀以降の製鉄技術の普及に比例したものと考えられます。
 しかし、このような準構造船であっても、強度が大幅に不足していたことは言うまでもありません。


2 航海技術
 古代の航海は海の民が担っていました。
 おそらく当初は、漁撈者が沿岸から沖合へ漕ぎだし、やがて好奇心やフロンティア精神から遠地まで航海するようになったのでしょう。
 次第に漁撈者は航海者を兼ねるようになり、交易や通行の担い手となっていったものと考えられます。さらに、自らのテリトリーを知り尽くした専門航海者が出現し、そこに古代豪族がスポンサーとして登場します。あるいは、航海者自身が交易者となった例、さらには古代豪族にまでなった例も多く見られます。
 広域を移動できる航海術は他者と差別化できる有用な武器で、航海者の間で代々、蓄積され受け継がれていきました。

 3、4世紀以降、航海者の専業化が進み、舟の高度化とともに航海術が洗練され、そこに目をつけたヤマト王権が5世紀半ばには海人(あま)として、6世紀半ばには海部(あまべ)として組織化し、王権の内部に取り込みました。
 
 古代の海の民が用いた航海術の一端を以下に示しておきます。

〇 海流の存在、季節風の存在、台風に襲われる時期などに目配りし、潮待ち・風待ちを厭わなかった。海が荒れるときは舟を陸に上げた。
〇 みずからのテリトリーについては、暗礁、潮の干満、潮流や反流とその季節変動などを経験的に熟知していて、列島近海はもちろん、外洋についてもなんとか航行できた。
〇 ほとんど2日ごとに水と食料を積む必要があり、調達手段に通じていた。
〇 外洋で船の位置を把握する場合には、南北の緯度は太陽や星の位置から割り出せた。東西は、経験則で把握するしかなく、長いあいだにわたって、海人族の腕の振るいどころだった。
〇 星を観察し、星の位置を確認しながら進む夜間航海もできたが、空が明るいうちに渡り切ることが優先された。
〇 風上方向に陸がある場合は、陸のにおいを感じとった。
〇 鳥の飛ぶ方向、戻る方向を見て陸地を予測した。
〇 目視できない遠方の島の存在は、雲の有無と形で予測できた。例えば笠雲やV字雲などが見えたら、その下には島があると考えて船の進行方向を定めた。
〇 海面のうねりを観察し、反射うねりの面に直角に針路を定め、島に達することができた。
〇 海面の色を見て水深を予測し、紐に結んだ錘を垂らして水深を測った。

 文献も残されていないのに、古代の航海術がこのように想定できるのは、島嶼国などで今なお行われている原始的な航海術からの類推が可能だからです。

 

 ちょうど、本年7月に、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」が成功裏に終了したので、次回のブログでコメントすることにします。


3 交通路の啓開・開削技術
 古代の陸路は「けものみち」から始まりました。人の通行が続けば、踏みしめられて一丁前の道「踏み分け道」となります。おそらく紀元3、4世紀前半くらいまでの道はこのようなものが大半だったのでしょう。

 道が積極的に人為的に開削され造成されていくのは、鉄製工具が出回り、渡来の造成技術がもたらされる5世紀頃からです
 5世紀の道路建設は、鋤などの木製作業具の先端に鉄製のU字刃を取り付けるだけで、工事の効率が飛躍的に高まりました(鉄製U字刃は当然、農耕の効率化にも寄与)。軟弱地盤の箇所は、土の入れ替えや路面に砂を入れたりして、崩れにくくぬかるみにくい道路としました。
 専門家の分析によると、葛城地方で見つかった5世紀の道路は、7世紀半ば以降の官道と同じような工法でつくられた頑丈な道路だったようです。

 海路に関しては、港津の整備が必須です。はじめは自然の潟湖などが利用されていましたが、やがて港の深さを切り下げる改造が始まります。鉄製の刃先を持つ土木用具が大量供給される4、5世紀以降に整備が進みました
 これによって、積載量の大きな準構造船が停泊可能となり、人とモノの流れは飛躍的に進展しました。

 瀬戸内海航路は、港湾を整備し、障害となる岩を避け安全なルートを啓開しても、なお海の民が瀬戸内海一帯を押さえていたため、彼らの協力なく、横断するのは難しかったようです。瀬戸内海航路は彼らが掌握していたと言っても過言ではありません。

 河川や水路については、「打ち割り」によって舟材が確保できた紀元前から、丸木舟による舟運がありました。陸路が未整備な4、5世紀より前は舟運が主要な内陸交通路の役割を担いました。

 河内平野の灌漑用の池、巨大古墳の築造などは、多くの労働者や大量の物量が移動するため、交通路の整備を抜きには考えられません。

 

4 木材の加工・組立技術
 古代史を技術面から掘り下げるとき、縦挽きの大鋸(おが)が中世まで存在しなかった事実は重要な視点です。
 したがって、古代における木材加工の基本は、もっぱら「打ち割り」によって板材・角材を得るという方法でした。
 「打ち割り」とは、巨木をハンマー(石製、やがて鉄製)で伐り倒した後、木に楔を打ち込み、木筋に沿って割ることです。
 船体の部材、水路や溜池の護岸に使う矢板などは、こうして作られました。そのために打ち割りのし易い(木目が通直な)スギ・クスなどの比較的柔らかな材が多用されたのです。


 組立技術の面では、多くの木の部材をつなぎ合わせる複雑な舟は、当初、部材に穴をあけて縄や蔓で縛る、木釘を用いる、鉄板で繋ぐ、などの方法がとられました。
 舟の部材を強固に連結できる舟釘は中世になるまで登場しません。そのため、多くの材から成る準構造船は、強度不足のため、外洋において実用に耐えるものが少なかったといえそうです。外洋を無事に渡りきるには勘と運によるところが大きかったのです。


 木材を直角に連結するには、ほぞ穴にほぞを通す「ほぞ継ぎ」が使われます。簡易だが比較的強固な結合が得られる方法で、すでに縄文時代末期には実用されていた模様です(真脇遺跡など)。
 纒向で出土した護岸工事に使われる部材には、直径15センチくらいの柱に四角いホゾ穴をあけ、貫を通して柱を連結した様子が見られます。
 「ほぞ継ぎ」は、「貫」をつくる板材加工技術と、「ほぞ穴」をつくる穴加工技術のうえに成り立つ組立技術ということです。

 家の壁材は釘を用いずに、細い丸材を簀子状に並べ、蔓で結んで壁にするなどの方法がとられました。

 しかし、静的構造物には良くても、ほぞ継ぎで組み立てられた構造船で大海を横断するのはやはり非常に困難でした。中世まで舟釘が存在しなかった事実を無視することは決してできません。

 

5 工具・道具の進化
 鉄器時代の前は青銅器、さらにその前は骨器を含む石器時代といわれますが、実は木材こそが最も古くから使われてきた道具でした。木材の道具では簡単な穴掘りや、叩いて折ったり、潰したりするなどの簡単な作業しかできませんでした。
 しかし、木材と植物の蔓、黒曜石の刃物さえあれば、簡易な住居、葦船、筏くらいはつくることができたようです。
 
 石器は木材とともに最も古くから使われてきました。金属が使われる前には実に長い石器の時代がありました。打製、続いて磨製の石器が登場し、戦争、狩猟、農耕・生産用具など様々な分野で使われました。土木工事には石製の鋤、鍬、斧が使われました。

 ところで、石器はどうやってつくられたのでしょうか。一般的には、道具を使って被加工物を加工する場合、道具は被加工物より硬いことが求められます。
 石よりも硬い材がなければ石器がつくれないのでしょうか。
 しかし石のような鉱物の場合は、道具が被加工物よりも硬い必要はありません。それは岩や石の成分や硬さは均一ではなく、同じ種類の鉱物でも硬い部分と柔らかい部分が存在するためです。
 たとえばダイヤモンドより硬い物質は存在しません。加工する道具に被加工物より硬い材が要求されるのであれば、ダイヤモンドの加工はできません。実際には、ダイヤモンドはダイヤモンドで加工するわけですよね。

 さまざまな機能の石器が開発されたことで、丸木舟の製作が可能になりました。しかし石器が工具とされた段階では、簡素な形の丸木舟の製作までで、複雑な準構造船の建造や本格的な道路建設は不可能でした。
 道具・工具の面から見ても、縄文から弥生時代にかけては丸木舟が交易の中心を担っていたといえるでしょう。


 金属加工技術としての青銅技術は 製鉄よりもわずかに早い紀元前1世紀頃に列島に伝わりました。当初は武器として使われたこともありましたが、鏃(やじり)などは青銅製に劣らず石製が有効であったため、武器としての青銅活用は広がらなかったようです。
 また、鉄器と青銅器がほぼ同時期に伝播したため、日本においては本格的な青銅器時代はありませんでした。青銅器は次第に実用から離れ祭祀用へと特化していったのです。

 工具・道具は鉄を使用することで、機能を飛躍的に高めました。その実用化の様相は次項で述べましょう。


6 鉄の鍛冶技術
 1~4世紀頃、各地に鍛冶工房が築かれます。
 鉄製の斧・丸鑿・槍鉋などが流通し、それまで石器に頼っていた丸木舟の製作が容易になります。したがってこの時期、権力の象徴として準構造船の初期のものが、少量であればつくられた可能性があります。
 5世紀は鉄の鍛冶における一大画期です。そして、6世紀にかけて大規模な鍛冶工房が列島の各地に展開していくのです。鉄器の工具が大増産され、鏃などの武器や鎧短甲などの武具も高度化しました。
 次回以降のブログで詳述します。


7 製鉄技術
 地上には、自然の状態で存在する自然金や自然銅と異なり、自然鉄は存在しません。存在するのは酸化鉄なので、鉄素材をつくるためには、鉄鉱石や砂鉄に含まれる酸化鉄から酸素を除去する必要があります。これが製鉄(製錬)で、長時間にわたって千数百度を保つ技術が必要になります。
 3、4世紀頃でも、小規模の製鉄技術はあったとも言われますが、それは、天候の良い日に自然通風に依存して何日も薪を燃やし続ける原始的な方法で、量産に寄与するものではありませんでした。
 遅くとも6世紀には初期の製鉄が始まっていたことが確実視されています。やがて送風を改善することで、たたら炉内の温度は1600度にも上るようになります。その高温の中で砂鉄が溶け、還元剤である木炭の炭素と融合して高純度の鉄や鋼が生まれるわけです。
 鉄を融解するためには木炭が必要で、古くは炭焼き人も鉱山師を兼ね、冶金と深く関わっていたと思われます。彼らは鉄を掘りつくし、炭用の木を伐りつくすと新たな土地を求めて移動を繰り返したようです。

 

 5世紀の鍛冶工房の飛躍的拡大、5世紀末~6世紀頃の製鉄の開始で鉄の供給が一気に増え、鉄製工具が大増産され、武器の高度化、準構造船の建造、山野の開削・高度利用、港の建設、地域間をつなぐ幹線道路の建設などが飛躍的に進みました。これにより、列島のネットワークは急速に充実するのです。


8 文字の使用による情報伝達技術
 広い意味での技術として、情報伝達技術の革新を担ったのは「文字の使用」です。これにより、広域に、しかも時を越えて、文化、固有技術や統治に関わる情報が正確に伝えられるようになりました。

 古代史を紐解く際の「言葉」や「体系的な文字」の重要性については、すでに第8回、第9回のブログで詳述しました。
 再掲しますが、三浦佑之氏の言では、日本で「シナから導入した制度として具体的には、法としての律令、根拠としての歴史書、経済としての貨幣、中核としての王都であり、それらの諸制度を統括し、横(役所と役所)や縦(都と地方)を自在につなぐのが漢字という伝達手段」であり、以後、日本は律令国家として大きく発展していくわけです。


 「技術と交通インフラ」については、この後のブログで順次詳述していきます。
 とりあえず初回は技術革新の中核をなし、ヤマト王権の覇権に大きく寄与することになる「製鉄技術」について深掘りします。

 


参考文献
『日本交通史』児玉幸多編
『古代日本の交通』坂本太郎
『大工道具の文明史』渡邉晶
『古代日本の超技術』志村史夫
他多数