理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

27 実験航海の大成功に思う 


f:id:SHIGEKISAITO:20190815140027j:plain <与那国島の夕焼け>

 本年7月9日、国立科学博物館の海部陽介氏をリーダーとする「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」が成功裏に終了しました。
 3万年以上前に、私たちの祖先(ホモサピエンス)が海越えの3つのルートで日本列島にやってきたことは確実視されています。痕跡が残されているからです。
 そのうちのひとつ、南西諸島方面から日本列島に到るルートは最難関でした。台湾から与那国島の距離は200キロと長く、しかもそのあいだを黒潮が流れているからです。黒潮の流れは時速4キロで、なんと幅100キロもあります。これに対し、人が漕ぐ当時の舟はせいぜい時速4キロしか出せなかったと想定されています。
 当時の移動手段である舟は発見されておらず、彼らがどうやって渡海できたのか、実態が謎に包まれていました。

 実験考古学の快挙
 プロジェクトチームは、その謎解きをするために、実際に3万年前の技術で製作できる舟を仕立てて困難な航海に挑戦したわけです。実験考古学です。

 この度の快挙は一朝一夕には成就せず、5年以上にわたるプロジェクトチームによる地道な積み上げがありました。
 2016年には「草舟」で、2017~2018年年には「」でチャレンジしましたが、失敗に終わりました。これらの舟では速度が出ず黒潮に流されてしまい、横切るのは難しかったのです。
 海部氏は「失敗ではなく、草舟・筏では渡海できないことが分かったことが大きな収穫だ」と前向きでした。素晴らしい!

 

 そして、2018~2019年に「丸木舟」で挑戦することを決めました。
 3万年前の航海を忠実に再現すべく、当時使われた可能性のある磨製石斧で大木を切り倒し、石器で刳りぬいて全長7.5メートルの舟をつくりました。
 人類の移住を再現しようということで、漕ぎ手はあえて男女混成の5人のチームにしたといいます。
 航海に当たっては地図やコンパス、スマートフォン、時計などの利用もちちろん禁止。しかし丸木舟が狭いため、食料や水の途中補給はせざるを得ず、また海水をかき出す手動式排水ポンプも使用したようです。
 

 丸木舟は日本時間の7月7日14時38分に台湾東岸の烏石鼻(うーしーびー)を出航、9日午前11時30分すぎに、北東200キロにある与那国島に到着しました。45時間の航海です。
実験考古学の快挙!

 丸木舟であれば、黒潮を横切る200キロの渡海が可能であることを立証したのです。まずは偉大なるチャレンジと大成功に拍手喝采です。

f:id:SHIGEKISAITO:20190830093837j:plain <サンケイ新聞 2019-7-10>

 

多くの謎は残る!
 この快挙に水を差すつもりは毛頭ありませんが、祖先である旧石器人のレベルと同じ思考、同じ立ち位置になるには、今後、さらなるチャレンジや次のような謎解きが欠かせません。

  一つ目、
 今回は、6月25日から7月13日までの間で天気や海の状態が良い日を待つことにし、現代科学を動員して、気象が最も安定すると予想された7月7日にスタートしたようです。
 旧石器時代の祖先は、はたして数日後までの安定した気象を予測できたのでしょうか。本来は、現代科学の情報すべてから隔離して、クルーだけの判断で出航の決断をするべきでしょう。

 二つ目、
 今回は、常に伴走船の見守る中での航海という安心感あり。
 挑戦したクルーたちは、「孤独な航海の恐怖」を語っていましたが、それでもどこかで命の保証だけは担保されている、という気持ちがあったに違いありません。伴走船から食料や水の補給も受け、排水ポンプも使用しました。

 しかもベースに、どの方向に目的地があるという確信があっての挑戦です。
 事前のシミュレーションを十分におこなって、あらかじめ決めた方向をひたすら目指したわけです。そのために太陽や星の観測から方角を知る訓練を行ないました。

 台湾の山の上からは条件さえ良ければ与那国島が見えることもあるそうです。したがって彼ら祖先が与那国島の存在を知っていた可能性が絶対にないとは言えません。しかし、いったん海に漕ぎ出すと、50キロ以内に近づかないと島は視認できないので、それまでは太陽や星の位置などを頼りに舵取りをする必要があるわけです。

 5人のチームは、事前のシミュレーションに基づいて、黒潮で北に流されることを考慮して、東の方角に向けて漕ぎ出しました。100キロ付近まで進んだところで疲労からペースが大きく落ちますが、北に向かう(黒潮とは別の)潮流に乗り、偶然のように目的地に辿り着いたようです。
 祖先は、目的地の存在を確認できていたのでしょうか。黒潮のスピード、それとは別の北向きの潮流の存在、そうした海の複雑な流れを熟知していたのでしょうか。
 おそらくそこまでは知らなかったはずです。多分、大勢が海の藻屑となり、運よく辿りついたのはわずかな人だけだったでしょう。

 

 三つ目、これが最大の謎なのです。
 運よく辿りついた人たちがいても、黒潮の流れに逆行するので、彼らは容易には戻ってくることができません。一方通行の渡海です。
 戻れなければ、目的地の方角と航海術は継承されず、毎回、ゼロからの困難な挑戦を繰り返すことになります。先行部隊からのフィードバックがあれば、後続部隊のチャレンジも活発になり大勢が渡海し移住できたことでしょう。
 しかし、おそらくそういうことはなく、毎回ゼロからの挑戦だったとしか考えられません。

 一方、同じ時期に最低でも数組以上の男女が渡って居住していなければ、彼らは永続的に子孫を増やせません。
 ちなみに哺乳類という動物は、ある数の個体がいなければ安定して集団を維持出来ないとされています。一つがい、二つがいという数字ではすぐに近親結婚が起こり、子供に遺伝病が蔓延する危険性が高くなってしまうようです。先行部隊の男女が死滅する前に、否、生殖能力のあるうちに、後続部隊の男女が次々と渡海に成功しないと子孫は存続しません。

 したがって、与那国島にも偶然の漂着だけでなく、小舟が波状的に何度も着岸したのでしょう。
 航海のノウハウも積みあがらないまま、次々とチャレンジャーが未知の島へ旅立ったとしか考えられないわけです。先行部隊が必ずと言っていいほど音信不通となり生還しない中で、彼らを危険な渡海へと突き動かしたモチベーションは、いったい何だったのでしょうか。

 あるいは海流に逆らって戻ってこれるだけの推進力をもった特殊な舟が存在したというのでしょうか。プロジェクトチームの謎解きの挑戦は始まったばかりといえるのかもしれません。