理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

28 古代の 鍛冶・製鉄(1)

f:id:SHIGEKISAITO:20190820195412j:plain <浅間山の溶岩・鬼押し出し>

 古代史を追究するためには、「鉄の利用」について理解を深めることが欠かせません。今回から3回シリーズで、日本における鍛冶・製鉄の歴史を概括してみます。

 

  製鉄の歴史と技術
 人類はどのようにして鉄の存在を知ったのでしょうか。
 長い人類の歴史の中では、落下した隕鉄から鉄の存在を知ったとも考えられるのですが、隕鉄はそうむやみに落下してくるわけではないので、現在では冶金説の方が有力になっています。
 冶金説とは、露出した鉱脈の上での焚火や山火事などによって、露出部分が自然に溶融し、それを打ったり叩いたりしているうちに徐々に冶金の技術を知ったというもので、イギリスの冶金学者であるウイリアム・ゴーランドらによって唱えられています。 

 銅の溶融点は1100℃なので、鉄よりも容易に溶かすことができます。したがって青銅製品の方が鉄製品よりも容易に製作できそうですね。 しかし銅は溶解しなければ製品を得ることはできません。これに対し、鉄は溶解しなくても、700~800℃の熱で可鍛鉄を得れば、これを熱して鍛造成形できるという利点があります。
 したがって鉄素材さえ入手できれば、ある意味、青銅よりも容易に製品が得られるのです。強靭で利器に向き、しかも成形が容易であれば、青銅器よりも鉄器が優越したのは当然ですね。
 鉄鉱石を炭で囲んで高温に熱すれば、容易に固体の状態で製錬できます。酸化鉄から不純物や酸素が抜けて海綿状の鉄が得られるのです。さらに、これを加熱しながら軟らかい状態で鍛けば、残っていた不純物が抜け、純度の高い鉄ができます。

 製鉄技術は、紀元前1500年頃に中東のヒッタイトで確立したようです。鉄が利器や武器の素材として優れていたので、ヒッタイトは製鉄技術を門外不出としていました。紀元前12世紀頃、そのヒッタイトが滅亡するとともに鉄器の生産技術は周辺に拡散、伝播し、紀元前10世紀にはインド、紀元前9世紀にはシナに伝わったとされています。

 シナでは、すでに春秋時代(紀元前770年~前403年)には鉄の使用が認められ、石、銅、鉄併存の形で普及します。戦国時代(紀元前403年~前221年)には戦乱が各地で勃発したため、鋳造鉄剣・鍛造鉄剣が登場します。広く普及するのは秦(紀元前221年以降)・漢(紀元前202年以降)になってからです。
 秦・漢の確立には、武器の力に負う部分も確かにあるが、鉄利用によって農業を中心とする経済力が隆盛したことの方が大きく影響したようです。漢は技術的に世界でもっとも進んだ製鉄国として鉄器文化を享受しました。

 日本へ鉄器文化を伝えた経由地は、楽浪郡(紀元前108年~後313年)です。楽浪郡は漢の武帝によって設置され、高句麗によって滅ぼされるまでの420年間にわたって漢の植民地として存在しました。
 古代シナの出先機関である楽浪郡が日本の鉄利用に果たした役割は実に大きかったといえます。

 

ヤマタノオロチ神話は弥生時代の製鉄を反映?
 製鉄の歴史には、必ずといってよいほどヤマタノオロチ神話が登場します。しかし、出雲の製鉄はスサノオノミコトが活躍する弥生時代(?)から存在したとし、出雲こそ日本の製鉄発祥の地と断定してしまって良いのでしょうか。

 ヤマタノオロチ神話は、高天原から出雲に追放されたスサノオが、ヤマタノオロチを退治する物語ですね。
 スサノオは斐伊川上流で、クシナダヒメと老夫婦のアシナヅチ、テナヅチを発見します。毎年娘たちを一人ずつ食べていくオロチが今年もまたやってきて、娘のクシナダヒメが食い殺されてしまうと老夫婦から聞かされたスサノオが、策を弄してオロチを退治します。出雲の地が気に入ったスサノオは、ここにクシナダヒメと住むための宮殿を造った、というものです。端折り過ぎましたが……。

 ロマンあふれる物語なのですが、これをいくら読み解いてみても鉄の存在を示唆する場面は皆無で、ヤマタノオロチ神話は製鉄と直接的には結びつきません。それが結びついてしまうのは、後世の解釈において想像が過ぎたためでしょう

 それはだいたい次のようなもので、いずれもスサノオを鉄神とみなすベクトルが働いています。

 

〇 ヤマタノオロチはこの地域を流れる斐伊川のこととする説。
 多くの支流を持ち、氾濫を繰り返していた暴れ川を八つの頭の大蛇に見立て、それをスサノオが退治した治水の話とするものです。
 「たたら製鉄」に必要な木を大量に伐採したために川の氾濫が起き、砂鉄を取る時に川が赤く濁ったために斐伊川の下流周辺が被害を受けたというわけです。クシナダヒメは田んぼを象徴し、老夫婦は農民、洪水で氾濫する斐伊川が毎年田んぼを破壊したというのです。オロチは鉄と水を支配する砂鉄業者を、またクシナダヒメを稲田と見做したのでしょう。
 これから派生した異説は数多く、オロチは斐伊川の砂鉄そのもので、「たたら製鉄」を支配したのがスサノオとする説もあります。
 ただし、「たたら製鉄」が盛んになり斐伊川下流が荒れるのは中世以降であって、スサノオの時代(神代か弥生)ではありません。

〇 朝鮮半島から渡来したオロチョンとか高志族とかいう製鉄民族(ヤマタノオロチ)に、砂鉄の鉱区を奪われそうになった製鉄人のアシナヅチ、テナヅチの老夫婦が、スサノオに依頼して侵略者を倒したという説。出雲の古代製鉄の説明としてよく登場する説です。

 これと真逆ですが、新羅から渡来した韓鍛冶集団がスサノオを祖神として斎き、鉄器文化を背景に意宇郡に進出して杵築の勢力を駆逐したという見立てもあります。
 いずれにしても、出雲の製鉄が弥生時代から存在した事実は、技術史上はまったくありません。

 

 筆者は、やや下世話的ですが、次のような窪田蔵郎氏の解説に、妙なくらい真実味を感じています。
 <八俣遠呂智の神話と製鉄が結びつくとしたらどういう点であろうか。(中略)山の中に集団をつくって住んだ金屋は、(中略)粗衣粗食にあまんじ、女を入れず、バクチなどにふける、殺伐とした荒くれ男の集団生活であった。(中略)長年のあいだに風俗習慣が違ってきて、農民層から嫌がられ、のけものあつかいされるようになり、またみずからも世を狭くして、金屋という特殊な集団をつくり、社会的にしだいに離れていった。(中略)こうした集団の中では、鉄山の首長は経済的にある程度の力をもち、小集落国家の首領のような形になっていたであろう。したがって、立場上、夜這いや略奪婚はしなかったであろうが、そのかわりに周囲の住民に対して公然と娘の要求ぐらいはしたのではなかろうか。中央政府ですら律令の形(賦役令第百三)で全国から采女と称して美しい娘を強制的に差し出させているのである。治安の十分でない山中でなら、勢力者にとってこれは当然のことであったであろう。そして、こうしたことが八俣遠呂智伝説のオリジナルとなったのではなかろうか。(中略)こういった鉄山にまつわる話が、農民の側から恐怖をもって語られ、それが年代を経過するうちに鉄山とは関係ない神話としてまとまり、原形を知らないままに鉄山に逆もどりし、金属集団が放浪しているうちに、各地に伝承として残していったのではなかろうか>。

 つまり、ヤマタノオロチ神話は、おそらく当初は素朴な出雲の神話であったものが、後世になって鉄器文化の発生譚を結びつけて考えられるようになってしまったということでしょうか……。

 

 もう一点記します。
〇 ヤマタノオロチの正体は出雲国そのものとする説。
 出雲国は大和に対抗しうるほどの勢力を持ち、やっかいな存在。その地域を高天原からやってきたスサノオが征服した。退治されたオロチの尾からは草薙の剣が出てきて、スサノオはこの鉄剣を天のアマテラスに献上しますが、このエピソードからは出雲の服属を読み取ることができます。ここには製鉄は登場しませんが、6、7世紀頃につくられた神話として、これは十分あり得る話です。

 

 技術的観点からみた「日本における鉄の歴史」は次回以降のブログで言及していきます。

 

製鉄関連のテクニカルターム
 ご存知の方が大半でしょうが、重要なことなので、ここで製鉄とは何かについて復習しておきます。
 製鉄は、鉄鉱石や砂鉄を高温で熱し、還元剤である木炭の炭素と融合させて鉄を作りだすことで、これを製錬ともいいます。
 鉄は炭素量の違いで性質が大きく変わります。炭素量が2%以上含まれる銑鉄は硬いがもろいので利器には向きません。銑鉄を鋳型に流し込んで作られた鉄器を鋳造鉄器と呼びます。
 さらに海綿状の鉄を熱しながら何度も鍛いて、炭素・ケイ素・マンガンなどの不純物を取り除くと、高純度(炭素量2%以下)のが得られます。これを精錬といいます。
 鋼を曲げたり鍛いたり(鍛冶)して作られた鉄器を鍛造鉄器と呼び、柔らかいが腰があって粘りがあるので、武器や農工具、土木工具などの利器に向いています。

 

 

政治勢力の礎を築いた鉄とのかかわり
 
日本における鉄とのかかわりは、鉄器の輸入(舶来)から始まり、次に鉄器や鉄素材に熱を加えて好みの形に鍛冶する段階があり、古墳時代中頃になって自ら鉄素材を作りだす製鉄(製錬)に到りました。
 鉄製品の完形・スクラップの輸入が紀元前3世紀頃から始まった事実、鍛冶が紀元前後に九州北部から始まり次第に東へと伝播し5世紀頃に一大画期を迎えた事実、5世紀末頃から6世紀に製鉄が始まることで朝鮮南部依存から脱し、やがて自給に到る事実は、それぞれの段階の時期も含めて、いずれも考古学的な知見によるものです

 これは古代史の組みたてにとって欠かすことのできない重要な事実です。
 昭和の時代、戦後の高度成長期まで、「鉄は国家なり」「鉄こそ国家なり」という言葉が国力を表すキャッチフレーズとして使われましたが、5世紀以降の古代日本列島においても、まさに鉄は政治勢力の礎を築く上での基盤でありました。
 鉄の自給が増えていくことで、鉄製工具道具の大増産、武器武具の高度化、船・舟の量産・高度化、港の建設、山野の開削・幹線道路の建設、農耕の高度化、治水などが進み、集権化へのベクトルが加速していくからです。

 このプロセスを次回以降のブログで詳述します。

 


参考文献
『鉄から読む日本の歴史』窪田蔵郎
『たたら製鉄の歴史』角田徳幸